第10章 二学期 第337話 剣王試験編ー終章 空を翔ける箒星⑧ 奈落に落ちた姫君
《フレーチェル 視点》
「あれ? 私……」
目が覚めると、そこは、知らない部屋の中だった。
何だか……変な臭いがする。嗅いだことがない臭い。
起き上がり、周囲を確認してみる。
そこは、平民が住む部屋……よりも、グレードが落ちる、簡素な木造のお部屋だった。
あまり物は置いてなくて、かかっている毛布もかなり使い古された薄いもの。
いったいここは、どこなんですの……?
「そういえば、私、ジュリアンお兄様にエステリアルの暗殺はできないと報告しに行って――――それで……ゾーランドが……グリウスも……」
そう。私はジュリアンお兄様に殺されそうになって、それで、近衛である二人に逃がされた。その途中で私は、橋の上から落ちたんだ。
ボロボロと涙が零れ落ちる。
どうして私は、こんなにも無力なのだろう。
改めて、思い知りましたわ。
私は……何も知らない、力もない、ただの箱入り王女だったのだと。
ゾーランドやグリウスに守られているだけで、私本人には、戦う力も、覚悟も、何もない。
オフィアーヌ家先代当主は、きっと、そのことが分かっていたから……私の陣営に付かなかったんですわね。
私には……ジュリアンお兄様やエステリアルのような、王を目指す理由がない。
だから、ジュリアンお兄様の夢の手助けができれば良いと思っていましたけれど、結局、お兄様の求める理想を、私は拒絶した。
ずっと守ってくれていたゾーランドやグリウスにお礼を言うこともできずに……私……ひとりになっちゃったんだ……。
「あら? 目、覚めたのかしら?」
その時。部屋の中に、タオルが入った桶を持つ少女が入ってきた。
彼女は露出の多いネグリジェを着ており……正直、目のやり場に困る、はしたない服装をしていた。
彼女はベッドの傍にあるテーブルにトレーを載せて、私に話しかけてくる。
「この奈落に人が落ちてくることは、まぁ、珍しいことじゃないから、あまり詮索はしませんけど……貴方、朝、ゴミ山に倒れていたのよ。それで私が君を助けて、ここまで運んだのです。身体は大丈夫?」
「は、はい……え? 奈落……? ここって、もしかして……?」
「そう。ここは、王国において最下層の街……奈落の掃き溜めよ」
それって、先代オフィアーヌ伯が言っていた……?
貧民が住んでいるという、あの……?
その時。私は、思わず鼻と口を押えてしまう。
とても臭くて、しょうがなかったからだ。
私の姿を見て、少女は首を傾げる。
「? どうしたのですか?」
「い、息……吸って、大丈夫なんですの!?」
「へ? 息? どうして?」
「だ、だって、こんなにも、臭いんですのよ……!」
「えー? ははははは! 奈落の掃き溜めで生きている私たちは、毎日こうして暮らしていても特に問題は何もないですよ? まぁ、確かに、上層から来た人にはこの臭いはキツイみたいですけど。私はもう慣れちゃった」
「そ、そう……なんですか?」
「うん。あ、私は、リーリヤ。この奈落の掃き溜めで、娼婦をしています。よろしくね」
そう言って手を差しだしてくる少女……リーリヤの手を、私は受け取る。
そして、彼女に疑問を投げた。
「しょ、しょう……ふ?」
「え? あー……男性に身体を売る仕事、かな?」
その言葉を聞いた私は、彼女の手をパシッと払いのける。
そして、声を張り上げた。
「き、汚らしい!! 何でそんな仕事をしているのですか!!」
私のその言葉に、リーリヤは、困ったように微笑む。
すると、その時。彼女の背後から、長い黒髪の少女が姿を現した。
「……リーリヤ。だから私は言ったんだよ。そんな奴、拾ってくるなって」
「シェリー……でも……」
「そいつ、服装から見て、どう見ても貴族様でしょう? 私、貴族は大嫌い。偉そうなことばかり言って、自分で動かずに、下の人を動かしているだけだから。それでいてあいつらは奈落の住民のことを見てみぬふりして、人間扱いをしない。あいつらは全員、クズそのものだよ」
「シェリー……娼館には、貴族様もいらっしゃることが多いのだから、そういった悪口は……」
「うるさい。黙っていて、リーリヤ。……そこのあんた。まるで私たちを汚物か何かのような目で見ているけれど、私たちだってやりたくてこんな仕事をしているわけじゃないから。ここで生きるには、こうするしかなかったの」
「だ、だったら、奈落の掃き溜めから出れば――――――」
「おめでたい思考。簡単に出れるとでも思っているの? ここから上に行くには、通行許可証がいるのよ。その通行許可証を買うには、百枚の金貨が必要だって話。ここに落ちたが最後、殆どの人間は上には上がれないの。ここ数十年間で上層に行けたのは、伝説の剣聖アーノイック・ブルシュトロームと、剣王キリシュタットとその恋人ルーシー、剣王クローディアのみ。私たちのような何の才能もない一般人は、ここで一生、暮らすしかないのよ」
「……そ、そんな……おとうさ……聖王陛下は? 王族の人たちは、皆、ここのことを知っているの!? なんで、王国は、奈落の人々を閉じ込めているんですの……!」
「知らない。王族のことなんて知りたくもないわ。ただ分かるのは……王族や貴族は、私たちをいないもの扱いして、放置しているだけ。臭い物に蓋をしているんでしょうね、きっと」
開いた口が塞がらなかった。
王国の堀の下に、こんな世界があるなんて、知らなかったから。
「おねえさまがたー! ろうかのおそうじ、おわりましたー!」
そう言って、バケツを持って、幼い少女が部屋入ってきた。
シェリーと呼ばれた黒髪の少女は、そんな彼女の頭を優しく撫でた。
「……ありがとう、アリエル」
「そ、その子は……? ま、まさか、そんな小さな子も、娼婦、なの……?」
「いずれ……ね。今はこの娼館を掃除して、生計を立てている。貴族のあんたには分からないだろうけれど、奈落に生きる女にとって、娼館は安全地帯なんだ。娼婦である以上、綺麗な寝床と食事が用意されて、暴漢からも娼館が守ってくれる。ここはある意味、天国のような場所でもあるの」
「で、でも、そんな仕事をしていたら……」
私の言葉に、今度は、リーリヤが口を開く。
「勿論、私たちだって違う仕事があるのなら、仕事を選べるのなら、このような仕事は遠慮したいわ。でも……遠慮することはできないんですよ。ならもう、腹を括るしかないわよね。あとは娼館で金貨百枚を稼いで通行証を得て、上に行くしか道はありません……」
「無理に決まってるでしょ、リーリヤ。私たちに入ってくるお金なんて、一日で、せいぜい銅貨数十枚なんだから」
「そうね。でも、希望は抱き続けなければ、心が……壊れてしまいますもの。フフフ」
そんな……そんな過酷な状況でどうして、笑うことができるのだろう。
彼女たちには、未来がない。自分で未来を選ぶことすらできない。
この奈落の掃き溜めという場所に生きる人たちにとって、この世界は、地獄そのものなんだ。
「……で? どうすんの、こいつ。奈落に落ちてきたのなら、ここで働かせるの?」
そう言って、シェリーが私を睨み付けてくる。
私が思わず身構えていると、シェリーに向けて、リーリヤは首を横に振った。
「いいえ。私は、彼女を……地上に戻そうと思っているわ」
「はぁ? 正気ぃ? 通行許可証もないのにどうやって? 上層へと続く関所にいる聖騎士は、バルトシュタイン家直属の騎士なんだよ? 賄賂とか色仕掛けでどうにかなるわけないって」
「勿論、分かってるわ。でも、彼女は貴族の可能性があるのよね? だったら……えっと、貴方、名前は?」
「フレーチェル、ですわ」
「フレーチェル……? 何処かで聞いたような名前ね……」
リーリヤは頬に人差し指を当て、うーんと首を傾げる。
すると、シェリーは呆れた様子でため息を吐いた。
「はぁ。奈落の流儀として、他人の事情には深く突っ込まないけど……まぁ、そのフレーチェルとかいう女が貴族なら、確かに、関所にいるバルトシュタインの騎士たちは通してくれるかも――――――」
「バ、バルトシュタインの騎士は、だ、駄目です!!」
「え?」「は?」
困惑の声を溢す二人。
私の脳裏にあるのは、ジュリアンお兄様の騎士であった聖騎士団団長ゴーヴェンの姿。そして、ゾーランドを斬った、聖騎士ルクスの姿。
ジュリアンお兄様の息がかかった聖騎士たちは……きっと私が生きていると知ったら、殺しに来ると思います。
私を始末しようとしたことを、もし私が世間に広めたら、お兄様の支持率に影響があると思いますから。
私が王女であることを聖騎士たちに知られては……いけない。
「それじゃあ、どうやって上に戻るのよ? あんた、上に戻りたくないわけ?」
「も、戻りたい、です。でも……聖騎士に会うのは……」
私の言葉に、リーリヤとシェリーは顔を見合わせる。
「困りましたね。上層に行くには、関所を通らないといけないのだけれど……」
「まったく。リーリヤは人一倍お人好しなんだから。奈落に生きる者は、他者を信用せず、他者に関わらずが当たり前なのに。……だったら、こういうのはどう? 奈落から地上に送る聖騎士たちの荷物に紛れ込むの。私、前に見たんだよね。あいつらが着替え終わった服だとかを、ロープを使った昇降機で、上に運んでいるのを」
「無茶ですよ、シェリー。バレたら只じゃおきませんよ。下手をしたら、殺されます」
「平気だって。だってそいつ、貴族なんでしょ? バレたら身分開示すれば殺されないって」
いや、バレたら殺される可能性が高いと思います……なんて、言えませんし、ここは、彼女の提案に乗るしか地上に戻る方法はなさそうですね……。
(そもそも、私……地上に戻っても何をすれば良いんですの……お兄様には拒絶され、エステリアルには敵意を向けられて……唯一の味方だったゾーランドとグリウスはもういない。先代オフィアーヌ当主も、味方にはなってくれなかった。私、これからいったいどうすれば……)
再び、ボロボロと涙が零れ落ちる。
そんな私を見て、シェリーが眉間に皺を寄せた。
「何、泣いてるの? 言っておくけどね、ここで生きている人間には、泣く暇なんてないから。みんな、今を生きるために必死で動くしかないの。あんた、地上に戻れる可能性があるんだよ? それが私たちにとってどんなに羨ましいものなのか、分かってる?」
「シェリー! やめなさい!」
「だって、こいつ、ムカつくでしょ! 奈落に生きてる奴には、泣く暇なんてないのに!」
私の涙を流す姿に、激怒するシェリー。
……そう、ですわよね。
彼女たちは必死に現実と戦って、今を生きているのに、私は……現実と戦おうとすらしていなかった。
地上に戻ったところで、自分が何をすべきか分からない。
そんなの、彼女たちにとっては、贅沢も良いところです。
だって、ここに住む人たちには……最初から、未来なんてものがないのですから。
「……おねーちゃん、だいじょーぶ?」
その時。足元に近寄ってきた幼い少女……アリエルと呼ばれた少女が、私にハンカチを手渡してきた。
私は「ありがとうございます」と礼を口にして、そのハンカチを受け取ると、生地を見る。
何回もツギハギした箇所のある、質素な薄いハンカチ。
きっと彼女たちにとって布ですら、希少な物品なのでしょう。
だから、捨てることなんてせずに、何度も再利用している。
王族たちは、誰も―――――ここにいる人たちに、今まで手を差し伸べることをしなかったのでしょうか?
いったい、誰が、この奈落をこの状態のままで良しと、判断したのでしょうか?
何のために? 誰が何のために、堀の底に、いなくても良いとされる人たちを産み出したというの?
「で、どーすんの? あんた」
シェリーに睨まれて、そう言葉を掛けられる。
彼女たちには泣く暇なんてない。
だったら、自分は、今は、地上に戻ることを考えるしかない。
そうでなきゃ、私を助けようとしてくれている彼女たちに失礼だ。
私はハンカチで目元を拭った後、口を開いた。
「申し訳ございません。地上に戻るお手伝いを、手伝ってくださらないでしょうか」
私はリーリヤからマントを借りて、深くフードを被ると、顔を隠した。
リーリヤとシェリーは流石にネグリジェで外に出る気はなかったのか、外着のドレスに着替えた。
とはいっても、そのドレスも、胸元が空いたはしたない衣装だった。
職業柄、そういった服しか持っていないのだと言う。
私はどう反応して良いか分からず、曖昧に頷くことしかできなかった。
「……さて。これから娼館を出て、関所に向かうわけですが……よろしいですか、フレーチェルさん。娼館に知らない人間を連れてきていることがバレたら、私は罰を与えられてしまいます。基本的に、娼館に入れるのは、店の者、娼婦、客、しか入れないですから」
「えっと……つまり?」
「貴方は、お客様の振りをしてください。とはいっても、貴方は女性ですので、店の者に話しかけられても喋らないように。良いですね?」
「は、はい」
「悪いけど、私はミスしたら容赦なくあんたを切り捨てるから。そこのとこよろしく」
「はい……」
私が二人に頷きを返すと、アリエルが口を開いた。
「おねえさまがた、どこかにいくのー?」
「ええ。このおねーちゃんを地上に送っていかないとけいないから。アリエル、このおねーちゃんがここに来たことは、誰にも言わないようにね。お願い」
「うん、わかった!」
ばいばーいと手を振るアリエルと別れ、私は、リーリヤとシェリーと共に、部屋の外へと出る。
そして私たち3人は、多くの部屋が連なる廊下を歩いて行った。
廊下は、想像したよりも静かだった。
「今は昼間だから、客もいないし、娼婦の殆どが眠っていてラッキーだったね」
「そうね。でも、油断はできませ―――――」
「あ? お前たち、こんな昼間から何処行くんだ? 夜の仕事まで、寝てなくて良いのか?」
その時。ブラシとバケツを持った店の者と思しき人間が、階段を上り、前方から姿を現した。
リーリヤとシェリーはすぐに笑みを浮かべて、口を開いた。
「お疲れ様です。実は、今、今朝のお仕事でお相手をさせていただいたお客様を、お送りするところでして……」
「ほう? 仕事熱心だな。きっとキリシュタット様も、喜ぶだろう」
「はい。では、失礼致します」
私たちは男の横を通り過ぎ、階段を降りようとする。
すると、その時。
男が、私たちに声を掛けてきた。
「待ちな」
「何でしょうか?」
「街の方で何やら聖騎士たちの動きが妙だ。どうやら、何かを探し回っている様子のようだ。奴らとは余計なトラブルは起こさないようにな」
「はい」
リーリヤが頷いた後。私たちは一階へと降り、フロントロビーを通って、外へと出た。
「なに、これ……」
外へと出た瞬間、目に入ってきたのは、廃墟のような出で立ちの建物が連なる通りだった。
行き交う人の数は疎ら。人々の顔は皆、暗く、目は濁っている。
通りの端に座り込んで俯いている人々の姿も散見される。
彼らは虚ろな表情で虚空を見つめ、その手足は樹木のように木質化していた。
次に、鼻を突く異臭に、私は顔を顰めた。
食べ物が腐ったような臭いと、嫌な感じがする甘い匂い、そして、人の糞尿が交じったような……饐えた臭い。
私が鼻を押さえていると、シェリーが口を開いた。
「私たちは鼻が慣れてなんともないけど……今、あんたが嗅いでいるその臭いは、『死に化粧の根』と、それを使用した人間の臭いだよ。『死に化粧の根』を使うと、最初は会いたい人間や自分が幸福だと思う光景の幻想を見れるから、みんな嬉しそうなんだけど……長く使うと、ああやって、道端に根を張って座り込んでしまう。そうなってしまうと、排泄物も垂れ流し。使った本人が、『死に化粧の根』と化してしまう」
「『死に化粧の根』って、違法薬物ですよね? 何故、聖騎士たちは取り締まらないのですか?」
「私たち奈落の民は、世間ではいないもの、だからね。法律が適用されないんだよ。それに……この奈落に『死に化粧の根』を蔓延させたのは、聖騎士たちの親玉であるバルトシュタイン家だって話だし……」
「え……?」
「シェリー。それは、噂でしょう?」
「だとしても、娼館を取り仕切っているマフィア『餓狼』のボス……キリシュタットは、ゴーヴェンと繋がっているって話じゃない? 聖騎士団とマフィアが繋がっている時点で、その噂も本物のような気がするけどね」
「そんな……聖騎士団とマフィアが……?」
お兄様はそのことを、知っているの……?
どうして、奈落の人たちがこんな状態なのに、誰も助けようとしないの?
ねぇ、お父様、お兄様……貴方たちは、いったい、今まで……何をやっていたの……?
聖王とは、民を守るためにあるって、そう言いましたわよね? お父様?
「……っと、お喋りはそれくらいにしよっか。まぁ、貴族のお嬢様には少し衝撃が強い光景だったかもしれないけど、これでもここではまだ『マシ』な方だから。剣王クローディアがいたとされる北区域は、秩序もあったもんじゃないって話だし。あんたそこに落ちてたら、今頃、裸にされて犯されてるか、殺されてもおかしくなかったよ。良かったね、落ちてきた場所が比較的安全な南区域で」
「え? こ、ここよりも治安が悪い場所が、あるのですか……!?」
私の言葉に、リーリヤは静かに頷いた。
「ええ……ここはマフィアが統治しているから、まだ、秩序が保たれていますが……北区域は略奪と殺人が横行している無法地帯です。何十年か前に、剣聖アーノイック・ブルシュトローム様が子供だった頃は、鬼子と呼ばれた彼がそこを牛耳っていたという話ですが……今では誰もあの場所を支配することなんてできません。まともな思考をできる奈落の民なら、絶対に、近付かない場所です」
そんな……本当にここは、あの、王国なの……?
ここは本当に、私が知る、あの聖グレクシア王国なの……?
「こんのコソドロが!!!!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
その時。通りの店先で、土下座をしている二人の幼い兄妹の姿が目に入った。
彼らの前には店主と思しきスキンヘッドの男が、萎びたフルーツの棚の前に立ち、怒鳴り声を上げていた。
「俺の店から万引きしようとは、良い度胸だな、クソガキども! 勿論、奈落の掟は知っているよな!! ここには法律はない!! やられたら、やりかえす。もう二度と舐められないように、見せしめに大々的にな!! でなければ、お前たちみたいなコソドロがまた、店の品物に手を出す可能性があるからな!! 覚悟は……できてんだろうなァ!!」
「お、お腹が減っていただけなんです! 僕たち、もう三日も何も食べてないんです!」
「そんなこと……知ったことじゃねぇよ!!」
男は拳を鳴らした後、少年のお腹を蹴り上げた。
少年は「かはっ」と肺の中の空気を吐き出し、蹲る。
そんな彼に、妹と思しき幼い少女が、背中に手を当てた。
「お、お兄ちゃん! うえぇぇぇぇぇん! やめてよぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「ビービーうるせぇガキだな、オイ。俺はまだ優しい方だぜ? 隣の店なんて、万引きしたガキの両腕を切り落としたんだからな。ま、俺は思う存分、お前たちガキを殴ってストレス発散させてもらうとするか。それか……メスガキを娼館に売って、チャラにするか、だな」
「や、やめろ! 妹の分も、僕が殴られるから! だから……それだけは……!」
「そうかいそうかい。じゃあ……妹の分も100発! 耐えてみせるんだな! オラ!」
「がはっ!!」
「お兄ちゃん!! お兄ちゃーん!!」
子供が殴られている現場だというのに、周囲の大人たちは笑いながら、その惨劇を見に集まってきた。
「おーおー、威勢の良いガキだなー。あれは、奈落に落ちたばっかりとみた」
「ま、そうだろうな。あの目にはまだ光がある。ここのモンの目付きじゃねぇ」
「このまま生きるか死ぬか、賭けようぜ?」
「乗った!」
まるで賭け競馬でも見ているかのような周囲の男たちの姿を見て、私は思わず、足を前に踏み出してしまった。
そんな私の肩を、シェリーさんが掴んで止めてきた。
「何する気?」
「と、止めないと! あの子たちが!」
「無駄だよ。というか、無理だよ。あいつの言った通り、奈落に法律はない。金を積んでマフィアを頼らない限り、私刑で済ませるしかないのさ。気付かれずに物品を盗まれたり、コソドロを見逃せば、間抜けとしてあいつが周囲から馬鹿にされる。一度舐められたら、すぐに食い物にされる。それが、この街の掟だ」
「で、でも……!」
「あんたがあの子供たちに同情するのは勝手だよ。でも、同情するなら責任を持たないといけない。あんたはあの子たちを助けたとして、この先、あの子たちを一生食わせていけるの? あの店主を納得させられる理由を持っているの?」
「そ、それは……」
「私だって……この光景を見て胸が痛まないわけでもない。でも、これが、ここの普通なんだ。我慢……しないといけないんだ……」
私の肩を握るシェリーさんの手は震えていた。
彼女だって、好きで私を止めているわけじゃないんだ。
そうしなきゃ生きて行けないから……私を止めているだけなんだ。
口は悪いけど、彼女はリーリヤさんと同じで、根は優しい人なんだと思う。
でなければ、私を地上に戻す手助けなんて、してくれなかっただろう。
数分後。地面には、全身痣だらけの少年が横たわっていた。
彼の傍では、泣きじゃくる妹の姿があった。
誰も、彼らに手を差し伸べようとはしない。
皆、公開リンチが終わると、方々に散って去って行った。
私が呆然としていると、リーリヤが私の手を握り、引っ張った。
「さぁ、行きましょう、フレーチェルさん。ここは比較的安全とはいえ、女性だけで歩いていて絶対に安全とは言えない場所です。速やかに、関所へ――――……あ」
リーリヤが、突如、私の手をパッと離す。
「すみません。私に触られるのは、その、お嫌……でしたよね?」
「あ……い、いえ。その、最初は失礼なことを言ってしまって、ごめんなさい。大丈夫です。私は貴方の……いえ、貴方たちの手を、汚いとは、思っていませんから……」
私は、無知だった。
生きるためには、職業を選ぶことすらできない人たちがいるだなんて、知らなかった。
彼女たちは立派だ。
先ほどのリンチを見て喜声を上げている男たちは、きっと、この奈落に長年いることで、この街の空気に馴染んでしまったのだと思う。
暴力というものを、娯楽として消化してしまうくらいに……狂ってしまったんだと思う。
だけどリーリヤさんとシェリーさんは、たとえどんな仕事をしていようとも、その魂は穢れてなんていない。
真っ当な価値観を持ち、子供がリンチされるあの光景を、痛ましいものだと捉えていた。
そうだよ……みんな、懸命に、この地獄の中で生きようとしていただけなんだ……汚くなんて、ない。私は何様だったのだろう。
「……ごめんなさい。私、何もできなくて……ごめんなさい」
「何、謝ってんの? 別に、あんたが謝ることじゃないでしょ? 私だって……貴族だからといって、あんたが奈落をどうにかできるだなんて、思っていないし」
シェリーさんはそう言うけど、そんなことはない。
これは、間違いなく王族の責任だ。王族の怠慢だ。
果たして、お兄様とエステリアルが聖王になったら、ここの人たちのことを救ってくれるのだろうか?
お兄様が目指すのは、お父様と同じ、現状維持の国政。
セレーネ教の教えを守り、セレーネ教中心で国を統治するやり方。
多分……お兄様が聖王になっても、この場所は変わらない。
だったら、エステリアルは?
あの子はセレーネ教を壊すという、変革を求めているけど……奈落の人たちを助けてくれるの?
……多分、その保証はないと思う。
むしろ、エステリアルは、争いを好んでいるように思える。
あの子は誰よりも好戦的な性格をしている。お兄様もよく言っていた。エステリアルは、戦争を起こそうとしているのではないかと。
エステリアルが見ているものは、奈落ではなく、遠くの別の何か……だと思う。
彼女が聖王になっても、ここは変わらない。
だったら、誰が、この場所を変えてくれるの?
いったい誰が――――バルトシュタイン家と戦うというの?
「……」
私は、胸元のブローチを引きちぎり、それを、泣き叫ぶ少女の手に握らせた。
「え……?」
「それを売って、お金に変えてください」
「え、でも……?」
「いいから。受け取ってくださいまし」
そして私は立ち上がると、リーリヤさんとシェリーさんに声を掛けた。
「……行きましょう。関所へ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「キィィィィィ!! キィィィィィ!!」
奈落の掃き溜めの、人気の無い路地裏に……無数の蝙蝠の群れが降り立つ。
蝙蝠は、人の形をかたどると、そこから――――一人の人物を形成していった。
そこにいるのは、下半身を無くした、長髪の男。
その髪は白髪となり、顔はやせ細っていた。
「血……血だァ!! 早く、血を、飲まねば……!! あの偽物めがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!! 必ず殺してやるぞぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」




