第9.5章 二学期 第281話 晩餐会後日談―⑤ 四大騎士公会議
「……良し」
翌日。十月七日。今日は、四大騎士公会議の日。
俺はベッドから上体を起こし、相変わらず見慣れない広く豪奢な部屋を見つめて、目を擦りながら短く息を吐く。
「今日でこの部屋も見納め、かな」
オフィアーヌ家で過ごして二日。想像したよりもみんな、良い人だった。
メイドたちはアンリエッタに強要されていたのか、最初は軍隊みたいな雰囲気を感じて少し近寄りがたかったが……俺が普通に話して欲しいと要求すると、みんな気さくに話しかけてくれて、優しい人ばかりだった。コックとも料理の意見交換などするくらいには仲が良くなった。
オフィアーヌ家傘下貴族である嫡子のガゼルとセラの兄妹も、アストレアも、良い奴らだった。ガゼルとセラはにはこれからもオフィアーヌ家傘下の貴族として、みんなを支えて欲しい。アストレアは……やかましい奴だが、多分、悪い奴ではないと思う。うん。声量を抑えて修道士を目指して頑張って欲しい。
ブルーノとアレクセイは仲が良くて見ていて微笑ましくなる兄弟で、シュゼットはたまに怖い時があるが基本的には(俺にだけ)優しい姉だ。コレットは会う度によしよしと可愛がりたくなる程、可愛らしくて誰よりも綺麗な心を持っている妹分だった。エリーシュアとコルルシュカの双子メイドも、以前より蟠りがなくなった……というか、最近エリーシュアがコルルシュカに毒されつつあるのがちょっと不安だな。まぁ、あの双子の漫才を見るのも、最近では日課になりつつある。
ここが、父と母が暮らしていた、俺の実家。
二日過ごしてきて、とても良い御屋敷だなと、そう思った。
だけど――――――ここは、俺の本当の居場所じゃない。
多分、反対されると思うけど……俺は今日、みんなに自分の考えを伝えようと思う。
既に、次の後継任なら決めてある。あの人なら……俺の代わりに、このオフィアーヌ家を引っ張っていけるはずだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
十月七日。午前九時四十分。
―――――――――王都・聖騎士駐屯区。聖騎士団本舎、会議場。
そこには、円卓のテーブルを囲む、三人の騎士公の姿があった。
上座に座るゴーヴェンはテーブルの上で手を組み、左右に座る二人の騎士公に声を掛ける。
「ククク。よく来てくれたな、フランシア伯、レティキュラータス伯よ」
ゴーヴェンの言葉に、ルーベンスは口髭を撫で、ハンと鼻を鳴らす。
「ゴーヴェン。私はお前に疑問がある。何故、四大騎士公会議から追放されたレティキュラータス伯がこの場にいるのかね? 七年前、お前は自ら、エルジオを追放したのではなかったかな?」
「ククククク。どうした、ルーベンス。私がレティキュラータス伯をこの場に連れ戻したのが、そんなに不思議か?」
「不思議に決まっておろう! 何故、四大騎士公の面汚しである、没落貴族などをこの場に呼び戻したのだ! 私は奴と同じ席に座っているだけで不愉快極まりないぞ!」
ゴーヴェンは、ルーベンスのその言葉に、目を細める。
「フランシア伯。お前は……私がレティキュラータス伯に何かするのではないかと、警戒しているのだな。その猜疑心の宿る目は、そういった理由か。相変わらず、お前たち二人は仲が良いことだ」
「……ゴーヴェン。私の考えを勝手に想像するな。私は、天才と称されし、栄光あるフランシアの指揮官だぞ? 我が天才的な頭脳は、誰にも予測することなどできないのだ。はーっはっはっはっはっ!!」
そう言って、高笑いを上げるフランシア伯、ルーベンス。
そんなルーベンスを見て、エルジオは「ルナティエさんにそっくりだ」と言って笑みを溢すと、表情を引き締め、ゴーヴェンへと視線を向ける。
「バルトシュタイン伯。再びレティキュラータス家を四大騎士公会議に招いてくださったこと、感謝致します。それで、今回の議題は……聖王陛下の暗殺の件についてですね?」
「あぁ、そのようなところだ、レティキュラータス伯。だが、本題に入る前にしばし待て。まだ、新しい四大騎士公がこの場に来ていない」
そう言ってゴーヴェンが手で待ったをかけると、ルーベンスとエルジオは、空いている一席に視線を向ける。
「アネット・オフィアーヌ、か。確か彼女は、ロザレナ・ウェス・レティキュラータスのメイドだったな。マリーランドで一度、見たことがあるぞ。エルジオ、お前はあのメイドが先代オフィアーヌの血縁者であることを知っていたのか?」
「いえ……自分は、何も知りませんでした」
「フン、そうか。しかし、あの王都晩餐会での一件は驚かされたな。まさか、没落貴族レティキュラータス家のメイドが、アンリエッタを罠に嵌め、オフィアーヌ家当主の座にまで上り詰めるとは。まるで吟遊詩人が謳う物語のようだ。とはいえ……今、民の中で中心の話題になっているのは、聖王陛下暗殺の件だ。今は誰も、オフィアーヌ家新当主のことなど語っている者はおるまい」
「聖王陛下を暗殺……いったい、誰が―――」
エルジオがそう言葉を口にしたのと同時に、扉が開かれる。
そこから姿を現したのは、ブルーノとシュゼットを引き連れて現れた、黄色いドレスの少女……四大騎士公、オフィアーヌ家当主、アネット・オフィアーヌだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
《アネット 視点》
俺が会議場に入ると、ゴーヴェンは席を立ち、仰々しく両手を広げた。
「ようこそ、新たなる四大騎士公よ。さぁ、席に着きたまえ、オフィアーヌ伯」
(ゴーヴェン……!)
俺はゴーヴェンの顔をジッと見つめる。
父、ジェスターを騙し、アネット・オフィアーヌの身体に俺を転生させた張本人。全ての元凶。
テメェ、よくもこの俺を墓場から引きずり出して、メイドに転生させやがったなこの野郎!と、言いたいところだが……流石にそれはできないな。
もしかしたら奴は、まだ、俺が無事に転生できているのかどうか分かっていない可能性がある。こいつの前では極力前世の情報は抑え、いつも通り、ただの少女を演じた方が良さそうだ。
「どうかしたかね、オフィアーヌ伯?」
「……いえ。失礼致します」
俺は頭を下げた後、正面にある円卓の席へと座る。
ブルーノとシュゼットは、そんな俺の背後に立った。
ゴーヴェンの背後には、地下水路でやりあった黒獅子隊隊長フォルターが立ち、ルーベンスの背後には鎧を着たセイアッド、エルジオの背後には誰も立っていなかった。
俺はゴクリと唾を呑み込み、正面にあるゴーヴェンの顔を見つめる。
すると、右の席に座っていたエルジオが、声を掛けてきた。
「良かった、アネットくん……無事だったんだね」
胸に手を当てホッと安堵の息を吐くエルジオに、左の席に座っているルーベンスが声を張り上げる。
「レティキュラータス伯! オフィアーヌ伯はもう、貴公の家のメイドではないのだぞ! その口の利き方は何だ! 同じ騎士公に対して失礼であろう!」
「あ……あぁ、そうでした! 申し訳ございませんでした、オフィアーヌ伯」
頭を下げてくるエルジオ。俺はその姿を見て、思わず慌ててしまう。
「あ、いえ、そんな! 頭を下げなくても大丈夫ですよ、旦那さ……コホン。レティキュラータス伯」
まずい。レティキュラータス家のメイドの癖が取れていない。雇い主であるエルジオ伯爵には、ついついメイドとして接してしまいがちだ。
俺はコホンと咳払いをして、正面にいる悪人面へと口を開く。。
「バルトシュタイン伯。この度は、オフィアーヌ家を四大騎士公会議にお招きいただき、感謝致します。他の四大騎士公の皆様も、若輩者ですが、どうかよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします、オフィアーヌ伯」
「フン。よろしく頼むぞ、若き騎士公よ」
「ククク……よろしく頼む」
それぞれの騎士公と挨拶を交わした後、ゴーヴェンは口を開いた。
「さて。本日の会議だが……皆も分かっている通り、聖王陛下の一件についてだ。陛下は二日前の王宮晩餐会の夜、何者かによって暗殺され、亡くなられてしまった。国葬は明日、城門前で行われる予定だ」
その言葉に、ルーベンスは腕を組みフンと鼻を鳴らす。
「ゴーヴェンよ。陛下を暗殺した犯人は、未だに分かってはいないのか?」
「あぁ。未だ、王宮内では誰が陛下を暗殺したのか、疑心暗鬼になっている状態だ。主にジュリアン王子派閥とエステリアル王女派閥が、一触即発の空気で、王宮内を闊歩している」
「だったら、状況から考えるに……犯人は、現政権に反発して民を先導していた、エステリアル王女に違いない。聖王と親密な関係を築いていたジュリアン王子では絶対ないな。私が断言しよう!」
「確かにフランシア伯の言う通り、その可能性が最も高いと私も見ている。だが、陛下の胸部には、ジュリアン王子の短剣があったそうだ。そして、エステリアル王女が犯人だという決定的な証拠は今のところ見つかっていない。現状、誰が犯人なのか、断定することは不可能なのだよ」
ゴーヴェンの言葉に、レティキュラータス伯は真剣な表情を浮かべ、口を開く。
「では……お二人は、あくまでも犯人を仮定するのなら、エステリアル王女が一番怪しいと、そう思っておられるのでしょうか?」
「あぁ、そうだな」「当然だ」
レティキュラータス伯は「なるほど」と口にした後、俺に視線を向けてくる。
「オフィアーヌ伯は、どうお考えですか?」
まぁ、俺もぶっちゃけ、聖王を暗殺したのはエステルだと思っているが……多分ここでエステルと発言すると、他の騎士公たちに、オフィアーヌ家がジュリアン派閥に付く意志があるとみなされそうだな。
王宮晩餐会での反応を見るに、ジュリアンは、先代当主の血を引く俺を良く思っていない。自分の保身のためにも、オフィアーヌ家が奴に付くのはナンセンスだ。かといって、エステルを庇い、今真っ向からジュリアン派閥と対立するのも悪手な気がする。
ここは、無難に濁すのが吉とみた。
「ジュリアン王子の短剣が使われていることから、もし他に犯人がいるとするのなら、その者はジュリアン王子に罪を被せたい意思がある……というのは理解できます。ですが、ジュリアン王子が何等かの意図をもって聖王陛下を暗殺した可能性も、捨てきれないでしょう。ここで犯人が誰なのかを語っても、答えは出ないと思います。現状、あまりにも証拠が少なすぎます」
「クク……そうだな。私もこの会議で誰が犯人なのかと、無益な話し合いをするつもりはない。私が貴殿ら騎士公をここに呼んだのは……聖王陛下が崩御なされた、これから先、王子たちによる王位継承戦がますます激化していくということを伝えたかったためだ」
レティキュラータス伯とフランシア伯の顔に、一気に、緊張の色が現れる。
ゴーヴェンは「ククク」と笑った後、続けて、口を開いた。
「そろそろ……貴殿らの考えを聞いておきたいと思ってな。貴殿ら四大騎士公は、いったい、誰を次の聖王に推挙するつもりだ? 今日は、腹を割って話そうではないか」
会場内が、一瞬にして、重い緊張感に包まれる。
背後に立っていたシュゼットは「チッ」と舌打ちをして、小声で開口した。
「……脅し、ですね。ジュリアン派閥に付かない者は、バルトシュタイン家の敵としてみなす……そう、あの男は暗に言っている」
「黙っていろ、シュゼット。無駄な口を開くな。ここから先は、下手な言葉を発するだけで、騎士公同士の紛争になりかねないぞ」
――――――チッチッチッチッ。壁掛け時計の音だけが、会議場に鳴り響く。
ルーベンスとエルジオは、眉間に皺を寄せ、ゴーヴェンをただジッと見つめていた。
対してゴーヴェンは目を伏せ、背もたれに背中を預け、優雅に座っていた。
ゴーヴェンは恐らく、この場で、自分の敵をあぶりだそうとしているのだろう。
いや……自分の下に付く者がいないか、見定めていると言った方が正しいか。
俺はスゥーと静かに息を吐いた後。ゴーヴェンに向けて、口を開いた。
「私は……ミレーナ王女こそが、聖王に相応しいと考えています」
「なっ!」「えっ!?」
背後で驚きの声を上げるブルーノとシュゼット。
俺はそんな二人を無視して、真っ向から、ゴーヴェンを見つめた。
ゴーヴェンは目を開くと、目を細め、面白そうに口元を吊り上げる。
「ほう。第六王女ミレーナ殿下、か。まだ王女として名乗りを上げて間もない彼女を推挙するとは、いったいどういった理由からかね? オフィアーヌ伯」
「彼女は、大聖堂に秘密裏に保管されていた『死に化粧の根』を告発し、セレーネ教の不正を白日のもとに晒しました。他の王子王女は、未だ目立った国の改革を成し遂げていません。……なので、今一番聖王に相応しいのは、実際に行動を起こしているミレーナ王女ではないかと、私は考えています」
「確かにな。オフィアーヌ伯の考えには一理ある。では……オフィアーヌ家は今後、ミレーナ殿下の派閥に付くと、見て良いのかね?」
「? いえ、そんなことは一言も、言っていませんよ。私、アネット・オフィアーヌが、ただ彼女を個人的に推しているだけの話です」
「む?」
呆けた顔を見せるゴーヴェン。他の四大騎士公の二人も同時に驚いた顔を見せた。
「私個人として、ミレーナ様を推しているだけです。御家の意向とはまた別問題です。バルトシュタイン伯も、どの王子を推挙するのか聞いただけで、誰の派閥に付くのかは聞いていませんでしたよね?」
「ククク……なるほど。確かに、これは私の落ち度か。では、再度問おう。オフィアーヌ家は、どの王子の派閥に付くつもりなのかね?」
「現段階では判断しかねます。私は、四大騎士公になったばかりの身ですので。どの派閥に付くかは、一族全員で考えねばならないことです。なので、オフィアーヌ家側からの答えは、無派閥、ということで納得していただけたら幸いです」
「……クククク。クハハハハハハ! なるほど、面白い答えだ。やはり君と会話するのは楽しいな、アネット・オフィアーヌ。私は君のことを気に入ったよ」
お前に気に入られたくはねぇんだよ、この、元凶野郎が。
「うむ。では、どの派閥に付くかは抜きにして、オフィアーヌ伯のように、個人的にどの王子が良いと思っているのか……お二方にも聞こうではないか。フランシア伯は、どうなのかね?」
「……それは……発言次第で、御家同士の政治的な諍いにならないと見て良いのかね?」
「勿論だ。まだ、巡礼の儀は始まってはいない。これは単なる雑談だ。好きにしたまえ」
「分かった。私は、敬虔なセレーネ信徒だ。当初は、セレーネ教と結びつきが強いジュリアン王子に付こうと考えていた。だが、私一人でフランシアの今後を定めるのはどうなのだろうと、マリーランドで戦が起こった時に考え直した。もし、息子のセイアッドや愛しのルナティエが、私が付いた派閥以外の他王子に付いたらと考えると……息子と娘と戦うのは無理だと考えた」
「ククク……家族を想った故の結果、か」
「あぁ。だから、セイアッドと話し合い、我が娘ルナティエが自分の意思で仕える王子を見定めた時、我らも娘と同じ王子の派閥に付こうと考えたのだ」
ルーベンスの言葉に、エルジオが呆けた表情を浮かべる。
「え……? フランシア伯は、ルナティエさんの答えに……全面的に従うと……? そういうことですか……?」
「その通りだ! 我が愛しの娘ルナティエは、フランシア家始まって以来の天才だ!
ルナティエなら、私やセイアッドよりも、良い考えを導き出してくれるに違いないだろう! そうだろう、セイアッド! ルナティエならば我らより、良い答えを導き出してくれるよな!」
「はい、父上。その通りです。ルナティエは、私たちの希望の光ですから」
頷き合うフランシア家の親子。
…………いやいやいやいや。
いやいやいやいや!! 親馬鹿にも程があるだろッッ!!!!
何でフランシア家の意向を当主でもないルナティエに決めさせようとしてんだ、この口髭親父は!! あいつがお前らに期待を掛けられる程、どんだけプレッシャーを感じて、死ぬ思いで努力してきたのかが分かってんのか!!
娘を愛しているのは分かるが……お前らのせいだからな! ルナティエがあんなに苦しんで努力し続けなきゃいけなくなったのは!! そこんとこ分かってんのか、フランシアの馬鹿親子!! 娘溺愛親父と妹溺愛兄貴ゴルァ!!
……と、叫びたくなったが、我慢した。ルナティエ、すまない。お前の親父の暴走、師匠は止めることができなかった……。
「娘であるルナティエの意向に従う、か。フランシア伯の考えはよく分かった」
ゴーヴェンはため息を吐き、つまらなそうにテーブルに視線を落とす。
そして、彼は顔を上げると、次に、レティキュラータス伯であるエルジオへと視線を向けた。
「レティキュラータス伯は、どう考えているのかね?」
「レティキュラータス家としましては、フランシア家オフィアーヌ家の両家と同じく、お仕えする王子をまだ決めかねています。ですが……私個人としては……マイスウェル王子が良いかと、考えています」
レティキュラータス伯の言葉に、ゴーヴェンとルーベンスが、同時に目を見開き、驚きの表情を浮かべる。
俺も、同じく、驚きの表情を浮かべてしまった。
ここであの女好きの王子の名がでるとは、思わなかったからだ。
「マイスウェル王子、か。彼は王位継承権を剥奪されている……が、一応、参考までに理由を聞いておこう」
「彼は、幼少期、神童と言われていました。王子の中で最も頭が良く、最も剣の腕があった少年。それが彼です。若いオフィアーヌ伯は知らないかもしれませんが、バルトシュタイン伯とフランシア伯は、そのことをご存知ですよね?」
エルジオの発言に、ルーベンスはハンと鼻を鳴らす。
「あぁ、勿論だ。神童マイスウェル王子。あの王子は、幼少の頃、最も次の聖王に近い王子として期待されていた人物だった。だが……今は見る形もない。遊び惚け、貴族の息女に手を出して聖王陛下に勘当された、ただの馬鹿王子だ」
「そうですね。世間でマイスウェル王子は、女好きの馬鹿王子などと呼ばれています。ですが、自分は、幼少時のマイスウェル王子と話をしたことがあるのですが……その時、彼と話して、次期聖王は彼しかいないとそう直感したのです」
「何故、そう直感したのだ?」
ルーベンスにそう問われたエルジオは頷くと、再度、開口した。
「王宮晩餐会の日。マイスウェル王子は、大勢の国の重鎮に囲まれて壁際に立っていました。私はその時、とても驚きました。6歳だというのに、彼は、大人顔負けの斬新な政策を周囲に語ってみせたのですから。人が捌けた後、私は一人になった彼にこう声を掛けました。『殿下は、素晴らしい才能をお持ちだと』。そうしたら王子は、こう言葉を返しました。『こんなものは才能ではありません。ただ、自分を利用したい人間がいるから、その期待に応えたまでのことです』。そしてその後、王子は、晩餐会に集まる人々を見て小声でこう呟きました。―――『いつまでも権力闘争をしているばかりでは、この国は真に変わることはできない。お互いを蹴落とし合って頂点に立った者を王と崇めても、世界は永遠に争いを繰り返すだけだ』と」
そう過去の出来事を話し終えると、エルジオは笑みを浮かべ、顔を横に振った。
「王子は、争いごとをひどく嫌っていました。そして、国の重鎮たちが自分を利用していることも、見透かしていました。とてもすごい御方だなと、その時、私は思いました。幼少の頃からここまで世界を理解しておられる方だったら、良き聖王となってくださる。そう、直感したのです」
その言葉にルーベンスは訝し気な表情で、エルジオを見つめる。
「それは……本当に、あの馬鹿王子が言ったことなのか?」
「そうですよ、フランシア伯。マイスウェル王子は、6歳にして、この国の現状を憂いておられた。今は、人が変わられてしまったと、皆様、口を揃えて仰られますが……私は、マイスウェル王子の中にはずっとこの考えが残っているのではないかと思っています。だからこそ、私個人は、マイスウェル王子を推しています」
エルジオの言葉に、ゴーヴェンは「ククク」と笑みを溢す。
「―――人が人である限り、争いは無くならない。殺し合いこそが、人の本質だ」
「え?」
「何でもない。レティキュラータス伯の考えは理解した。マイスウェル王子の理想は、確かに素晴らしいものだ。だが、彼は王位継承権を持っていない。故に、現時点で、聖王になれる器ではないだろう」
そう口にするゴーヴェンに、エルジオは俯き、コクリと頷いた。
幼少期のマイスウェル王子は、どうやら俺が知っているマイスとは違うらしいな。
いや、エルジオの言う通り、言動が変わっただけで、もしかしたらその本質は変わらないのかもしれない。
あいつは、いつかの夜――――満月亭のみんなで流れ星を眺め、願いを口にしていた時、こう言っていた。
エステルを止められたら良いな……と。
誰よりも争いを嫌う、平和主義の王子。それが、あの女好きの馬鹿王子の本質。
もしかして……ああいう風に馬鹿を演じなければいけなかった理由が、あいつにはあったのかもな……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
一通り会議が終わり、そろそろ解散の流れになった頃。
俺はコホンと咳払いをし、三人の騎士公へと顔を向けた。
「あの……最後に、皆さんにお話しておきたいことがございます」
「何かね、オフィアーヌ伯?」
テーブルの上で手を組み、ニヤリと笑みを浮かべるゴーヴェン。
他の騎士公二人、エルジオとルーベンスも、何事かと俺に目を向けていた。
その視線を前に、俺は、意を決して……全員に向けて口を開く。
「本日で私は――――――オフィアーヌ家当主の座を降りようと思います」
俺の言葉に、三人は同時に驚いた表情を浮かべる。
「なっ……! オフィアーヌ伯! 貴殿は騎士公になったばかりだろう!? たった二日で当主の座を降りるというのか!?」
「はい、フランシア伯。私を当主に推してくださったオフィアーヌ家の皆様には申し訳ないのですが……私は、当主に相応しい人物ではありませんので、今日を持って引退させていただきます。もう、一族全員で話し合って決めたことです。そうですよね、ブルーノ様、シュゼット様」
俺の言葉に、納得がいっていない様子で頷くブルーノとシュゼット。
俺はそんな二人から視線を外し、ゴーヴェンへと目を向ける。
「次のオフィアーヌ伯については、既に目星が付いています。私よりも、オフィアーヌ伯に相応しい人物を、選ばせていただきました。次の会議は、その方が出席致します」
「……アネット・オフィアーヌ。当主の座から降りるということの意味を、お前は分かっているのか? お前は四大騎士公ではなくなり、先代当主の娘に戻ることになる。そうなれば……聖王派閥の人間が、どういった動きを取るのか、分からないでもあるまい?」
ゴーヴェンのその言葉に、エルジオは机に両手を突いて立ち上がり、慌てた様子で口を開く。
「そ、そうだよ、アネットくん! 君は、四大騎士公でいるべきだ! 先代当主の血を引く君の立場は、今の王国では危うい状況にあるわけで―――」
「大丈夫ですよ、レティキュラータス伯。私にも、考えがあります」
俺はそうエルジオに伝えた後、再びゴーヴェンへと顔を向けた。
「私は、四大騎士公ではなくなりますが……今度は、オフィアーヌ家の御意見番として、新しい役職に就くことになりました。今後は元当主として、オフィアーヌ家新当主を支える立場です。つまり……当主と同等の立場に立った、ということです」
「ほう……? では、完全にオフィアーヌ家から離れるわけではないということか?」
その答えに俺が頷くと、背後に立つブルーノが口を開く。
「僕たちオフィアーヌ家一族は、今後、アネット様のバックに付くことになる。これから先もしアネット様に手を出す者がいれば、新当主と一族総出で相手になる。つまり、彼女の命令は、オフィアーヌ家新当主よりも上ということだ。その意味がお分かりになるだろうか、バルトシュタイン家当主殿」
「ククク……四大騎士公と同等の権力を保持したまま、アネット・オフィアーヌは当主を引退するということか。安心したまえ、私にお前たちの元当主を害す気は一切ない。先代当主の一族を疎ましく思っているのは、亡き聖王と第一王子ジュリアン、そしてセレーネ教の信者たちだけだ。私にはオフィアーヌ家と事を構える気は、今のところない」
ゴーヴェンの言葉に、シュゼットは眉間に皺を寄せる。
「ゴーヴェン・ウォルツ・バルトシュタイン。ジュリアン派閥にいる貴方の言葉を誰が信じるとでも?」
「アンリエッタの娘か。見た目は奴に似ているが、この私に殺気を飛ばすとは……剛毅な娘だ。お前はどちらかというと、オフィアーヌではなく、バルトシュタイン家に近い雰囲気を持っているな。力を持つ者こそが正義だという、バルトシュタイン家特有の傲慢な目つきをしている」
「……あ?」
シュゼットは怒りの声を上げると、背後に石の礫を出現させた。
その光景を見て、俺とブルーノは慌ててシュゼットを止める。
「シュゼット、落ち着け!」
「シュゼット姉様、深呼吸しましょう! 深呼吸!」
俺がそう声を掛けると、シュゼットはゴーヴェンを睨み付けたまま、背後にあった石の礫を消滅させた。
ゴーヴェンの奴、無駄に煽ってんじゃねぇよ! うちの姉様、キレやすいんだから……!
というかシュゼットも聖騎士団団長に噛みつくなんて、狂犬がすぎるな……これからブルーノには彼女の暴走の制御役を頼みたいが……できるだろうか……。
シュゼットを手で押しとどめた後、俺は正面に向き直り、三人の騎士公に対して頭を下げた。
「短い間でしたが……お世話になりました。次のオフィアーヌ家当主にも、良くしていただけたら幸いです」
俺はそう言って席を立つと、ブルーノとシュゼットを連れて、会場を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「――――――我、オフィアーヌ家の当主として、彼の者に、番人の役目を引き継がせる。大蛇よ、オフィアーヌの血を引きしこの者を、宝物庫の番人として認めたまえ」
俺はそう言って、ペンダントを渡したある人物に向けて手をかざし、呪文を唱える。
すると、この前の俺と同じ光景……脳裏に宝物庫への経路と大蛇……を見たその人物は、数分経った後、驚いたように目を瞬かせた。
「どうだった? 毒蛇王は何か言っていたかな? ―――――――コレット」
俺のその言葉にコレットは頷くと、脇に抱えてあったスケッチブックに文字を書いていく。
そして一通り書き終えると、それを俺に見せてきた。
『こんなにすぐに当主を降りる奴は歴代で初めてだ。次その顔を見たときは小一時間説教してやる。アネット・オフィアーヌに伝えておけ……だそうです』
「あははは……王家の宝物庫になんて、今後一生行く機会はないと思うけど……毒蛇王にもし会った時は、ごめんって、謝っておいて欲しい」
微笑みながら、コレットは頷いた。
これで……引継ぎは完了。オフィアーヌ家当主は俺では無く、コレットとなった。
俺は、コレットの後ろに立つブルーノ、アレクセイ、シュゼット、エリーシュア、ギャレットへと顔を向ける。
「皆さん。勝手に決めてしまい申し訳ございません。ですが、コレットさんならきっと、オフィアーヌ家を良くしてくださると思います。彼女はまだ幼いので……大きくなるまで、皆さんで支えてあげてください」
俺がそう口にすると、ブルーノが前に出て、声を掛けてきた。
「これで本当に……良かったのかい、アネットさん」
ブルーノの言葉に、俺は「はい」と答える。
「何もかも投げ出すような形になって、すみません、ブルーノ先生。だけど、元々、私は当主を長く続けるつもりはなかったのです。私には……待ってくれている人がいますので。ごめんなさい」
「いや……僕の方こそすまない。君の意思を無視して、無理やり重責を押し付けてしまっていた。駄目だな、僕は。これじゃあ、これから先、コレットにも迷惑を掛けてしまうだろう。反省だ」
そう言って首を横に振るブルーノ。
次に俺に声を掛けてきたのは、シュゼットだった。
「アネット……」
シュゼットは辛そうな様子で眉を八の字にしていた。
そして、何か言おうとしては、口を開いては閉じてを繰り返す。
そんなシュゼットに対して、エリーシュアは、肩に優しく手を置く。
「シュゼット様」
優し気な表情を浮かべるエリーシュアに頷くと、シュゼットは前に出て、口を開いた。
「……アネット。私は今でも、貴方に当主をやってほしいと、そう思っています」
「あ、あははは……ごめんなさい、お姉様」
「ですが……貴方には貴方のやるべきことがあるのでしょう。姉として、妹のやりたいことを否定しません。私の意思で貴方を束縛しては、子供を道具のように扱っていたあのアンリエッタと同じになりますから。私は、それはしません。貴方は貴方の道を征きなさい、アネット」
「……ありがとうございます、お姉様」
シュゼットは両手を広げると、真顔で、開口した。
「きなさい、アネット」
俺は頷いて、彼女の腕に抱かれた。
シュゼットはぎこちなく俺を抱き留めると、静かに口を開いた。
「ですが、たまには、オフィアーヌ家の屋敷に帰って来てくださいね。ここは、貴方の家でもあるのですから。私はいつでも、貴方の帰りを待っています」
生前の俺は、家族の愛情に飢えていた孤児だった。
だから……シュゼットのその言葉は、とても嬉しかった。
レティキュラータスの御屋敷や、満月亭以外にも、俺の帰るべき居場所ができた。
「はい、お姉様。ありがとう……ございます」
「貴方の敵となる存在がいたら、いつでも私を呼びなさい。串刺しにしてやりますから」
「あははは……串刺しは駄目ですよ、お姉様。人を簡単に殺してはいけません」
「分かりました。半殺しで我慢します」
俺は長く抱き合った後、シュゼットから離れた。
シュゼットはまだ抱き続けたかった様子だったが、エリーシュアに羽交い締めにされ、後ろへと下がって行った。
次に前に出てきたのは、アレクセイだった。
アレクセイは、後頭部をがしがしと掻きながら、口を開く。
「あー……まぁ、いつでも帰って来いよ、アネットさん。俺たちはもう、家族なんだからさ」
「はい、アレクセイさん。あ、そうだ。オフィアーヌ領観光地化計画ですが、一晩考えて、ノートに私の作戦を書いておきました。そのノートは、コレットさんが持っているので、今後はお二人で計画を進めていただけたらと思います」
「え、あんな与太話、覚えてたのかよ!?」
「与太話じゃありませんよ。とても素晴らしいお考えでした。アレクセイさんは、自分のことをオフィアーヌのドベだと仰っていましたが……私はそうは思いません。貴方は、ブルーノ先生やシュゼットお姉様とは異なった、素晴らしい才能をお持ちです。頭が良いからといって、領民を幸せにできるとは限りませんよ。貴方には、みんなを笑顔にできる力がある。貴方の考えで、コレットさんと共に、オフィアーヌ領を楽しい場所にしてあげてください」
「あぁ……あぁ! ありがとう、アネットさん! うぅぅ……っ! 俺、アネットさんに会えて良かったよぉう! ありがとう、本当に、ありがとう……っ!!」
アレクセイはブワッと瞳から涙を溢れさせると、俺の手を掴み、ブンブンと振ってくる。そんな彼を見てシュゼットが眉間をピクリと動かすが……ブルーノがシュゼットの肩を掴み、頭を横に振っていた。暴走お姉ちゃんを制御してくださり、ありがとうございます、ブルーノ先生。
泣きながら後ろに下がるアレクセイ。
次に出てきたのは、ギャレットだった。
ギャレットは俺の顔を見つめると、笑みを浮かべた。
「やはり、こうなったか。いや、良い。お主はお主の道を行くが良い、アネットよ」
「はい。色々とありがとうございました、お爺様」
「ジェスターの遺体は聖騎士団に持って行かれたから、ここには無いが……アリサの墓は、どこかにあるのかの?」
「はい。レティキュラータスの御屋敷の裏にあります」
「そうか……近い内に、レティキュラータス家へお邪魔させてもらおうと思う。せめて、アリサには面と向かって謝罪したい。アンリエッタをこの屋敷に連れて来てしまったのは、ワシの責任でもあるのだからな……」
「お爺様……」
「旅立ちの前に湿っぽい話になってしまったな。許せ。何、ワシもまだまだ現役じゃ。これから先は、コレットを支えて、ジェスターとアリサへの贖罪のためにも、この地を平和に統治してみせるわい」
そう言って笑うギャレットに頭を下げた後。
俺は、最後の一人、コレットへと視線を向ける。
「……コレットさん。無理を言ってしまって、申し訳ございません。ですが、その……私のお願いを聞いてしまって本当に良かったんですか? コレットさんは多分、私と一緒で、当主の座には最初から興味がなかったんですよね?」
コレットはコクリと頷くと、スケッチブックに字を書いていく。
そして、その文字を俺に見せてきた。
『はい。ですが、アネットお姉様に頼まれちゃいましたから。私、アネットお姉様のことを、すっごくすっごく尊敬しているんです。出会って、そんなに経ってはいませんが……私は、アネットお姉様みたいな人になりたいと、そう思いました。お姉様みたいな、みんなを笑顔にできる、太陽みたいな人になりたいです!』
「コレットさん……」
俺はしゃがみ込み、コレットと視線を合わせた。
「私は、コレットさんの語った、『人が死なない世界』に共感致しました。この世界は残酷で、今でも、王国の各所では理不尽な出来事が起きています。強者によって弱者が虐げられる、それが今の王国の現状。ですが……オフィアーヌ領だけでも、そんな理不尽と切って切り離すことができたら、良いですよね。誰もが理不尽に命を奪われることもなく、楽しく、笑顔でいられたら―――私は、そんなオフィアーヌ領を見てみたいです。そして、それができるのは、墓石を積み、権力闘争の中でも誰かの死を悼んでいた貴方だと思いました。一族の中でも、貴方だけだと思いました」
「……」
「お礼を言わせてください。ありがとうございます、コレットさん。この残酷な世界の中でも、貴方のような誰かの死を悼むことができる優しい女の子に出会うことができて、私は救われました。――――石を投げられても尚、俺が守ってきたこの世界に、君のような存在が産まれてきてくれて……本当に良かった」
俺は最後に、アーノイック・ブルシュトロームとして、彼女に礼を言う。
最後の一言に、コレットは不思議そうに首を傾げるが……俺はコレットの頭を優しく撫でて、そのまま踵を返した。
すると、その時。背後から、声が聞こえてきた。
「――――――ッッ!! ―――――――――――――アネットお姉ちゃん!!」
「え……?」
振り返る。
するとそこには、涙を瞳いっぱいに溜めているコレットの姿があった。
何処かで聞いたような声。その声は……俺と似た声をしていた。
いや、違うな。俺の声じゃない。
女性としてちゃんと産まれていたアネットだったら、こういう声質なんじゃないかと思う……そんな、不純のない、綺麗な鈴のような声だった。
「アネットお姉ちゃん! ば……ばいばいっ!」
手を振るコレット。
そんな彼女の背後に、いつの間にか、一族以外のオフィアーヌ家のみんなも集まり……悲しそうな表情を浮かべていた。
「アネット様! 何かありましたら、いつでも言ってください! 俺たち兄妹は何があろうとも、貴方の味方です!」
「アネット様ー! ありがとうございましたー!」
オフィアーヌ傘下のオルビフォリア兄妹が、泣きながら手を振る。
「アネット様ー! ファイアーですよぉ!! また騎士学校でお会いしましょうー!」
暑苦しい修道女、アストレアがそう叫んで手を振る。
「オフィアーヌ家メイド一同、アネット様がいつでもお帰りになられても良いように、お部屋のお掃除をしておきますね!!」
「今度来る時は、アネット様みたいに洗濯物を綺麗にできるよう、もっと頑張っておきますからー!」
眼鏡を掛けたメイド長と、ギャルっぽいメイドが、そう言って手を振る。
「今度来た時は、また、料理についてお話しましょうぜ、アネット様ー!」
フライパンを掲げたコックが、そう、声を張り上げる。
出立を見に来てくれたオフィアーヌ家の使用人たちと、一族のみんな。
そして、先頭に立ち、顔を真っ赤にして泣きじゃくるコレット。
その光景を見て、俺は思わず……涙を流してしまった。
「くそ、男だったら簡単に泣くんじゃねぇって……この身体になってから、涙腺弱くなってんだよ、くそ……」
別に、転生したから涙腺が弱くなっているんじゃない。
アネット・イークウェスに産まれて……俺は、大事なものをたくさん知ったから、涙腺が弱くなったんだ。
俺は手を振り返した後、踵を返し、今度こそオフィアーヌ家を去った。
門を通ると、そこには、コルルシュカが立っていた。
コルルシュカは荷物を手に持ちながら、ふぅと、息を吐く。
「まぁ……コルルには最初からこうなることは分かっていましたよ。お嬢様は、あの人の元から離れられないでしょうからね。ちょっぴりジェラシーです」
「……うるせぇ。というか、お前、オフィアーヌ家に残らなくて良かったのか? 何でまた俺と一緒に屋敷を出ているんだよ。せっかく、妹とも和解して、元の居場所に戻れたっていうのに」
「何を仰いますか。出会った時から、コルルはずーっと、言っているじゃないですか」
そう言ってコルルシュカは両手に鞄を持ちながら俺に近寄ると……小悪魔っぽく笑みを浮かべ、ツンと、右手で俺の顎を突いてきた。
「貴方の専属メイド、ですので」
「……ったく。じゃあ、また、レティキュラータス家に戻るのか?」
「はい。休暇をいただいているとはいえ、ここまで休んでしまうと、マグレット様……メイド長に怒られてしまいそうですしね。はぁ、憂鬱です。一時はオフィアーヌ家の使用人の権力階層トップに立った私が、またマグレットメイド長や後輩のクラリスに叱られる日々を送るなんて。我ながらどうかしていますよ」
「まぁ、そういった日々も、嫌いじゃないだろう?」
「それは……そうですね。嫌いじゃありません」
俺とコルルシュカはお互いに笑みを浮かべると、一緒に並んで、夕陽の元、帰路を歩いて行く。
俺は手に持っている鞄を見つめ、口を開いた。
「ようやく、俺の一張羅に戻れそうだな。ドレスは肩が凝って仕方なかったぜ」
「とてもよくお似合いでしたよ?」
「あほいえ。俺の服は……これしかないんだよ。メイドだからな」
そう言って笑い、俺は、夕陽を見つめた。
今、帰ります―――――――――――――――お嬢様。
待っていてください。