魂の証明
大切な人を失ったすべての人に捧ぐミステリーロマン、読んでください。
キイ…キイ…
木々の間から音が聞こえる。
あれは心がきしむ音。
そこにいるには…誰?
むかしむかし、あるお城に十二人の美しいお姫様がおりました。お姫様達には朝、目が覚めると靴がボロボロになっているという不思議な謎がありました。王様がいくら聞いてもお姫様達は分からないと答えます。困った王様はこの謎を解いた者には褒美として姫を娶らせ国を継がせようと御触れを出しました。ただしこの謎は三日以内に解かなければならないのでした。
「おかあさん、お城に魔女がいるって本当?」
「ええ、本当よ。」
「会ったことある?」
「ないわ。でも魔女に会うと恐ろしい魔法にかけられてしまうのよ。」
「お城のお姫様達みたいに?」
「そう。だから決して魔女のいそうなところに近づいてはいけません。分かった?」
「うん!」
いい子ね、と母親が言ってから、親子は川の水が入った桶を持って家に帰っていった。
(魔女…か。)
木々の間からまだらに雲に覆われた空が見える。空はまだ明るいが森にはこうもりが低く飛び始め、薄暗い小道はなんとなくかすんで見える。親子が行ってしまった川べりで男は体を起こした。小さな清流はやがてゆったりとした大河に合流する。山を見下ろすと碧色の河沿いに木々に囲まれた城が見える。男は城へ続く一本道を歩いてきたのだ。
「…っ。」
立ち上がると包帯を巻いた方の脚がずきずきと痛んで思わず背中を丸めてしまう。
(これでは先が思いやられるな。)
治りかけの傷を抱えて山をいくつも越えた男の脚はすでに限界を迎えていた。それでも城に近づく緊張や高揚感が男に痛みを忘れさせここまで来ることができたのだ。夕闇はすぐそこまで迫っていた。
(今日中に着きたかったんだが今夜も野宿にするか…。。)
ため息をつき、あきらめて寝床になりそうな場所を求めてあたりを見回していると、小道を一人の女が走ってくるのが見えた。
「どうかお助け下さいまし!」
マントですっぽりと顔まで覆った女に驚きつつ男は話を聞くことにした。
「実は大切な預かりものを森で落としてしまったのです。このようなことをご主人様に知られたら私は屋敷を追い出されてしまいますっ…。」
女は早口でそう言った。
「しかしもう日は沈みそうだ。明日の朝なら私はまだここにいるだろう。城へ向かう最中も探してみよう。なあに心配することはない。その主人だって一晩くらいなら怪しまないさ。」
「そう…だとよいのですが。」
女は気持ちを落ち着かせるように胸に手をあてた。その手を見て男は昔の恋人を思い出した。
(ばかだな。もうずっと前のことなのに。)
思わず目を背けてしまう。
「あのう…お城には御触れの件で行かれるのですか。」
女がおずおずと尋ねた。
「ああそうだ。もう何人もの男が城に行ったが何もできずに追い返されたと聞いている。」
「その通りです。この国は魔女の話でもちきりです。」
(子供でさえも。)
男は先ほどの親子の会話を思い出した。
「しかし本当なのですか。突然王女達が魔女に目や耳をふさがれてしまったという噂は。そのうえ寝室の扉に王がカギをかけているのに、眠る前には新しかった靴が翌朝にはボロボロになっているというのも信じがたい話だが…。」
「ええ、すべて本当のことですよ。皆、まだ魔女が城に住んでいると噂しています。これ以上国に混乱を起こしてはならぬと王はこの謎を解いた者には好きな姫を娶らせこの国を継がせようとおっしゃいました。」
「それがあの御触れというわけですか。」
なるほど、噂は本当らしいと男は思った。
「はい。どうかお姫様達を救い出してくださいませっ。…私にはこのようなことしかできませんが…。」
そういって女はマントの中から小さな瓶を取り出して男に手渡した。
「…これは?」
「我がお屋敷に伝わる薬です。けがをされているようですので。」
「ああ、ありがたい!ちょうどこの痛みに往生していたのですよ。」
「眠る前に中身を直接傷にかけてください。翌朝にはきっとよくなっているはずです。」
女の顔は見えなかったがにっこりとほほ笑んでいるようだった。
「きっとお姫様を救ってくださいね。」
別れ際に女はそう言い残して去っていった。
男はもらった薬に喜びすぐに眠ることにした。疲れがたまっていたのか目覚めたとき日はかなり高くなっていた。慌てた男は急いで城の方へと山の中を駆けていった。
その後、山で男の姿が見られることは二度となかった。
足元の一輪草が朝露に濡れている。フサスグリの赤い実が朝日を受けて鈍い光を放ち、そこら中に茂った青木の根本には小さなつゆ草の花が見える。まだ霧が残る庭で王女は今が朝なのだと確認するために空を見上げた。鳥のさえずりが聞こえる。遠くから夜明けを告げるムクドリやアオゲラのよく響く鳴き声や耳をくすぐるようなハトの声が庭に立つ王女に朝の訪れを教えていた。王女は城下の噂は知っていた。だが今王女の目も耳もしっかりとあたりの情報を伝えてくれていた。昔はこの庭はもっと生き物の音にあふれていたと思う。野鳥の他に野兎やリスをよく見かけたものだ。今は生い茂る草木以外に生き物の気配は感じられない。本当に魔女の気配を察して逃げてしまったのかもしれない。ため息をつき窓辺に腰掛けてから王女は本を手に取った。廊下に出るための寝室の扉には錠が下ろされていてまだ開かない。扉の向こうでコツコツという衛兵の足音と腰に付けた鍵がこすれる音が聞こえた。疲れていて朝早く起きることなどとてもできないと十一人もいる妹たちは口をそろえる。王女は姉妹で一番上の王女だった。王女も常に眠り足りないような倦怠感を体に感じていた。しかし常に誰かに見られているような、何者かの強力な力を感じる不気味さのなかでは安心して眠ることなどできなかった。ずらりと並べられたベッドの下にはぼろぼろになった靴が投げ捨てられている。小さな寝息や寝返りを打つうめき声が聞こえる。
(今が一日で一番落ち着く時間…。)
目が覚めれば耳障りなことばかりな妹たちの声に今はじっと耳を傾ける。十二人の姉妹は互いに仲が良いとは言えなかった。
(ずっとこのままでいられたら…。)
漂う意識を体に戻すように手をぎゅっとつねる。考えなくてはならないことが山ほどあった。今の王女を最も困らせていることは不思議な円舞曲が聞こえることだった。どこからか流れてくる音楽に誘われて地下に通じる隠し扉を見つけたときは驚いた。耳をふさいでも頭に響く音色を聞いていると王女達は踊らずにはいられない。必ずこの音に誘われて踊る相手を求めて扉の奥に吸い寄せられてしまうのだ。昨夜も王女達は夢中で踊ったばかりだった。円舞曲は夜に流れる。それはもう靴がボロボロになるまで。
「また一人申し出があったみたい。」
もうすぐ円舞曲が流れ始める時刻、いそいそと支度を始めた王女達に混じって一番末の王女が鏡を見ながら言った。
「どうせまたどこかのばか王子ね。何十人と成功していないうえにごちそうと寝床目当ての申込みも絶えないわ。お父様もいい加減目を覚ましたらよろしいのに。私たちを救える人なんていないのよ。」
一番上の姉が鏡の中から答えた。
「そんな言い方…。お姉さまはいつも悲観的なことばかりおっしゃるわ。いつも読んでいる本の中にはそんなことしか書かれていないの?せっかく文字が読めてもそれではもったいないと思うわ。…私は信じます。いつかきっと王子様が助けに来てくれると。」
「ばかおっしゃい。本当に王女を助ける王子なんて物語の中にしかいないのよ。人間ですもの、魔力にかなうはずないわ。」
「それでもっ…。」
王女は思わず声を高くしてしまった。やがてあきらめたようにため息をつき、
「今夜は胸騒ぎがするわ。きっと何か起こりそう。」
と言った。
円舞曲が流れ始める。もう嫌だと王女は思う。泣きたい気持ちをこらえて地下への階段に向かう。体は魔力に乗っ取られ、いやでも今夜も踊り続ける。円舞曲のどこか懐かしい音色を聞いていると胸が締め付けられるようなさみしさに襲われる。誰でもいいから踊ってほしい。そう願わずにはいられなくなる。地下で会う王子達には声は届かない。何を言っても悲しそうな目をして首を振るだけ。きっと王女達と同じような魔法にかけられて来たのだろう。しかし王女達と違って王子達の耳は聞こえていないようだった。魔女がどこで聞いているかもわからないのでうかつに騒ぎ立てることもできず気づいた時には臆病な父が姫を娶らせ国を継がせるという御触れを出してしまっていた。他の姉たちはそれぞれ意中の王子とうまくいかなかった憂さを晴らすように円舞曲が流れるのを楽しむようになった。まだ十五の、恋も知らない王女は途方に暮れていた。御触れを聞いて城にやってきた男たちは何の役にも立たなかった。それでもまた申し出があったと聞くと王女は、
(今夜はもしかすると…。)
そう思わずにはいられなかった。
(お姉さまだって本当は期待しているくせに。)
先頭を切って階段を下る姉のすまし顔が憎らしい。王女は知っている。一番上の姉が申し出があるたびに飲み物を出すふりをして男を見定めに行っていることを。今夜も出かける前に扉の隙間から確認し、ため息をつく姿を王女は見ていた。
たくさんの服が曲がりくねった階段を一列に下る様子を見ながら王女は黙って最後尾を歩いていた。一瞬、服が何かにひっかったような、誰かに踏まれたかのような強い力で引かれてからはなされた。がくっと前につんのめった。
「キャッ。」
叫び声をあげ後ろを振り向くが誰もいない。階段は狭く王女は前の姉たちと同じところしか歩いていないはずだ。それなのに自分だけ何かに引っかかるはずはない。
「誰か…いるの?」
思わず誰もいない空間に震える声でそう呼びかけた。魔女が来たのかと思った。
「ばかおっしゃい。あんたより後ろに誰がいるっていうの。おおかた釘にでも引っかかったんでしょうよ。」
先頭の姉が立ち止まってそう言った。
「でも…。」
反論しようとしたが列が再び進んでしまう。胸の高鳴りを落ち着けようと王女は黙って列に続いた。
階段を下りきると銀色のまぶしい世界が待っていた。銀でできた木が立ち並び、地面は輝く木の葉で覆われている。ちらちらと動く王女達の影がそこかしこに見える。不意に、風もないのに銀の小枝が動いた。
バンッ
大きな音とともに不自然に枝が落ちる。
「ひっ」
再び声を上げてしまう。
「鉄砲みたいな音がしたわ。誰かいるような気がするわ。」
「どうもしやしなくてよ。王子様達がお迎えに、火を焚いて下さっているんだわ。」
(お姉さまは全く聞く耳を持たないわ。でも確かにいるのよ。)
冷や汗を流しながら王女は後ろをついて行った。
次に差し掛かった金の森でもダイヤモンドの森でも同じようなことが繰り返された。ダイヤモンドの森が尽きると湖があって十二艘の小舟がやってきた。どの船の王子も美しい服に身を包み輝く仮面をつけていた。一人ずつ船に乗り込んでいき、最後にあたりを警戒しながら王女が乗り込んだ。その時、
ギシッ
船がいつもより大きく揺れた。王子も仮面の奥から不思議そうに目をしばたたかせている。姉にさんざん無視された後だったので末の王女は何事もなかったかのように水面だけを見つめていた。
(そう、今夜は何から何までおかしいの。)
そう王子に言い聞かせるように心の中でひとり呟いた。
湖の真ん中には丘のように盛り上がった島があり荘厳な城が建っている。どの窓にも明かりが灯り岸に近づくにつれて王女達をいざなう円舞曲も大きくなった。王子に導かれた明るい大広間で王女達は夢中で踊り始める。一休みしている時に王女が持っていたグラスがなくなったが姉たちは誰も相手にしてはくれなかった。
夜明けが近づくと王女達は再び船で送られて帰る。王女もボロボロになった靴を引きずりながら森へ向かう。帰り際にダイヤモンドの森の入り口でもう一度振り返り船で引き返す前の王子と視線を交わす。明日の夜もまたここで。いつもの約束の合図だった。
キイ…キイ…
聞こえるはずのない音を自覚するまでにしばらくかかった。
(あれは心がきしむ音。)
思いがけない出来事に王女は目を見張った。
十二人の王女には生まれたときから不思議な音が聞こえていた。それは古い床板を踏んだ時の木がきしむ音に似ていた。何の音なのか気になって国王である父に訊ねても分からないらしい。父は気味が悪いからとそのことを口にすることを禁じていた。王族にはもう一つ習わしがあった。王女が十五になったとき願いを一つかなえてもらえる。上の王女から順番に願いは叶い、一番上の王女は文字が読めるようになったのだ。願いが叶うとこの耳障りな音も聞こえなくなるという。時にはうるさくて人といられなくなるから呪いだと姉は言っていた。性格はばらばらで気の合わないことも多い十二人だったが、音に関しては全員、いやな思いをしたことがあったので厄介な力だということで意見が一致していた。だから王女が十五になることは王族達にとって呪いから解放される喜ばしいことだった。だが王女はそうは思っていない。今年ちょうど十五になった。何か望みをいえと言われても答えないつもりでいる。王女は願いが叶っても幸せになれないことを知っていたからだ。願いをかなえそれぞれ魅力的になっても、姉たちは誰一人として結婚を望んだ王子を射止めることができず今でも鬱々とした日々を送っている。それに王女には音が聞こえてよかったと思える出来事があった。
まだ幼い頃、一番上の姉は賢いけれど性格は冷たくいつもほかの王女達から怖がられていた。王女も鋭い目つきが恐ろしくて避けるように過ごしていた。ある時王女は庭で遊んでいて例の音を耳にした。周りを見回すと姉の姿が目に入った。その時一番上の王女はすでに十五になっていたので本が読めるようになっていた。いつも窓辺に腰掛ける姿は絵画のように美しかった。そういう時王女は姉の姿を遠くから眺めるようにしていた。
(本ってそんなに面白いものなのかしら。)
姉は見かけた時、たいてい本を読んでいた。反対に王女は庭の花や植物を眺め、父の家来からその名前を教えてもらうことを楽しみとしていたので外にいることが多かった。たまに庭に迷い混んでくるリスや野うさぎたちが王女の遊び相手だった。
「お姉さま。」
窓から少し離れたところに立って声をかけてみた。
「その本にはどのようなことが書かれているのですか。」
「王子様が魔女にとらわれたお姫様を助けるお話よ。」
意外にもやわらかい声が返ってきて安心した。
(今日のお姉さまはご機嫌がよろしそう。)
そう思い甘えてみた。
「私に読んで聞かせてください。」
「…いいわよ。こちらへいらっしゃい。」
姉は少し驚いた表情を見せたが手招きして膝にのせてくれた。
物語は本当に魔女がでてくるものだった。さらわれた姫が助けを呼んでいるところであの嫌な音が聞こえてきた。耳を抑えても止まらない。じっと我慢して物語に集中していると自然に聞こえなくなっていった。
「素敵なお話。」
読み聞かせが終わると素直な感想が口に出た。
「私もそう思うわ。」
王女はうっとりした表情を浮かべ幸せそうに笑っていた。姉のそんな顔は見たことがなかったのでまじまじと見つめてしまう。
「どうかしたの?」
尋ねられて困ってしまった。代わりにこう質問した。
「魔女は本当にいますか、お姉さま。」
「いないわよ。不思議な井戸なら本当にあるけれど。」
「不思議な、井戸?」
「ええ、十五になるとお父様に井戸を見せてもらえるの。」
「なんだか怖い…」
「金や銀でつくられた美しい井戸だもの、大丈夫よ。それにそれは願いをかなえてくれる井戸なのよ。」
「本当に?」
思わず目を見開いた。この時まで末の王女は王家のしきたりもそんな夢のような井戸の話も知らなかった。
「私が文字を読めるようになったのもその井戸のおかげよ。たった1つだけだけれど井戸に話せば何でもかなえてもらえるわ。」
確かに王女のなかには裁縫や音楽ができる者はいたが本が読めるのは一番上の王女だけだった。
「お姉さまはどうして文字を読めるようになりたかったのですか。私なら素晴らしい庭がほしいです。」
「それはこの国を継いだ王様を助けたいからなの。」
「お父様のことですか?」
「いいえ。この私と結婚する未来の王様のことよ。私には結婚の約束をしている王子がいるの。その方が国を継いだ時、難しい本が読めればきっと役に立てると思ったの。王子もそれを聞いて喜んでくれているわ。」
いきいきと話す表情がまぶしい。王女は姉を怖がっていたことなどすっかり忘れていた。
「お姉さま幸せそう。」
「ありがとう。…もうすっかり元気になったみたいね。」
言われて耳をふさいだところをみられていたのだと気がついた。
「はい。姫様が一人で泣いていたところで聞こえて…」
「そうだったの。私も昔読んでもらったときに同じところで聞こえたことがあるわ。読む人によって聞こえないこともあったけれど。でも心配することはないわ、15になればその悩みも消えてしまうから。」
そういってから一番上の王女はどこかへ行ってしまった。
(お姉さまも同じところで聞こえたんだ。)
それまで音について話そうとすると嫌な顔をされたり注意されることが多かったので他の王女とはこの音について話したことがなかった。それから王女はこれはきっと人の心が痛んで何かがきしむ音だと考えるようになったのだ。音が聞こえなければ姉に気づくことも、こんなに親しく話すこともなかったかもしれない。それから王女は音をうまく利用して人との距離を縮めていった。だがこの状況において音は何の役にも立っていなかった。一度、王女は音を失うことを覚悟して井戸に助けを求めた。しかし王女の願いがかなえられることはなかった。
キイ…キイ…
木々の間から音が聞こえる。
あれは心がきしむ音。
「そこにいるには…誰?」
王子は銃の名手だった。野山を馬に乗って駆け巡り、猟に出かければ必ず大きな獲物をしとめてみせた。一方で困っている人を放っておかない心優しい一面も持ち合わせていた。王子の評判はたちまち近隣諸国でうわさされ、諸外国の王女からの結婚の申込みが王子のもとに殺到した。数ある手紙の中で一通だけ王女自らの直筆の手紙があった。王女でも読み書きができる女性は珍しい。たいていの王女は内容を口頭で伝え字のうまい家来に書かせていた。だから王子はその手紙にだけ返事を書いた。どうして字が書けるようになったのか、どうして自ら筆をとったのか気になったからだ。王女は隣の国の姫だった。王家に伝わる不思議な井戸の秘密を王子に教えてくれた。そして女が自分で書くのなら男もきっと自分で書く、そうすれば誰にも見られることなく手紙でも素直な気持ちのやり取りができるからだとも書かれていた。その賢明さに惹かれ王子は王女に婚約を申し込んだ。王女の国には王子がいない。だから王子は結婚した後は王女の国を継ぐつもりだった。王女も王子を支えると言い、二人で国を治めることが同じ夢になった。困難があってもきっと乗り越えて見せると王子は意気込んでいた。
戦が起こった時も当然王子は兵を引き連れ戦を勝利に導いた。帰りがけに馬から落ちて足にけがをしてしまったが帰って早く王女に会いに行きたかったので急いで帰国した。再開して、王女の喜ぶ顔が見られると思っていたが足のけがを見た王女は顔色を悪くしもう二度と来ないでくれと王子に告げた。城の衛兵たちに連れ出された扉の前で王子は混乱していた。
「戦で怪我をするような軟弱者とは結婚できぬと王女は言っておられます。」
無表情の、まるでからくり人形のような衛兵が王子の前に立ちはだかっていた。
「これは帰りにあやまって馬から落ちただけでっ…。私は決して軟弱者などではない!」
何度説得を試みても扉が開かれることはなく、王子は痛む脚を引きずりながら国へ引き返すしかなかった。その後婚約は解消され、それでも王子は手紙を送り続けたが返事は一向に届かない。もう読んでくれていないのかとあきらめかけた時、王女の国の噂を耳にした。
王女達が魔女に魔法をかけられ王が御触れを出したそうだ。内容は…
三日以内にこの謎を解いた者には十二人のなかから好きな王女を娶らせ国を継がせよう。
怪我が治っていないと反対する家来を押し切り、王子は一人王女の国へと旅立った。
(まだあきらめがついてない。それに…。)
王子はもう一度恋人に会いたい一心で城に向かった。
「ご気分はいかがです、お姉さま。」
翌朝、一番末の王女に笑顔で尋ねられ王女は困惑した。
「どうもこうも…。いつもと変りないわよ。」
そう答える。
(相変わらず明るいままね。)
王女はいつもこの妹の明るさに感心していた。十二人もいる姉妹の中で性格に影がないのは彼女だけだった。自分も含め他の王女達にはどこか後ろ向きな暗さを感じてしまう。井戸に願いをかなえさせても本当に欲しかったものは手に入らないと知ってしまっているからだろうか。いや、そんな姉の姿を妹は一番近くで見てきたはずである。王女は妹の明るさの理由が分からなかった。
「賭けは私の勝ちになるかもしれません。」
「まだそんなことを言っているの?ばかばかしい。」
王女は忘れかけていた妹との会話を思い出した。
賭けをしましょう、お姉さま。
私が負ければずっと一緒にいて何でもお姉さまに従います。だからもし私が勝ったら私に文字を教えてくださいね。
(そんなことしてもどうにもならないのに。)
妹がそんな提案を口にした頃、王女は戦に行った王子との婚約解消を考え悩んでいた。その様子を見ていた妹は、自分を励ますつもりでこんなことを言い出したことは分かっていた。
王子は必ず帰ってきます。
妹は自信を持ってそう言っていた。
音の悩みが十五で消えると教えた後から王女と末の妹の関係に少し変化が生まれた。定期的に物語を聞かせてほしいと頼まれ、気が付くと一番の話し相手になっていた。なんとなく物悲しいときや寂しいときにこの妹は来てくれた。だから王女はこの妹の前だけでは他の王女たちには話せなかった自分の悩みや弱さを自然に口にしていた。
寂しい。だからこそ一人で平気なふりをせずにはいられなかった。どうせ離れて行ってしまうなら初めから関わらない方がいいとも思っていた。本を読んでいる時だけは何もかも忘れられた。
「その時だけは孤独じゃないの。」
王子にそう言ったときのことを王女は今でも覚えていた。
「その時だけじゃない。いつだってあなたを想ってる。」
王子はそんな王女を愛してくれた。過去に何度か戦の経験もある隣国の王子だったため、父である国王の顔色はあまり良くなかったがそれでも王女は婚約を受け入れた。その時父は一つ条件を出したのだ。次に戦があったとき見事勝利してみせれば認めようと。王子はそれを受け入れ反対する王女を置いて戦場へ行ってしまった。一人残された王女は最悪のシナリオを考えた。
もし彼が帰ってこなかったらどうなるのだろう。
すでに結婚までした相手を失う不幸な話は本の中にごまんとあった。
(王子を愛してる。けれど王子にとって私は最良の相手ではないのでは…?)
その後追い打ちをかけるように円舞曲が流れ始めた。呪われた自分を自覚せずにはいられなかった。知ればきっと王子は助けに来るだろう。それは魔女の罠のように感じられた。
妹が言った通り王子は帰ってきた。だが無事ではなかった。それを見て王女は決断した。まだ婚約までしかしていない、今なら深く傷つけることなく引き返せると思った。王子を追い出した後、扉の奥で王女は外から聞こえる王子の声に耳をふさいでいた。そうして二人の婚約は解消されたのだった。
その時の賭けを持ち出した妹は今でも王子が再び来てくれると信じているようだ。もし妹が賭けに勝ったとしても文字を教えるつもりはない。妹には悲しい話は知らせず明るいままでいてほしかった。だから王子が怪我をしていたということで引き分けに終わったはずの賭けを繰り返してもどうしようもないと王女は思っていた。
(それに…。)
父に何かを奪われることも王女はもう二度と嫌だった。だから靴のことを何度問いただされようと答えたことはない。実は御触れを聞いて城に来た男に出す酒には眠り薬を仕込んでいる。城には魔女についても魔力についても本はあまり残されていなかった。王女は魔女に人間がかなうはずがないと本気で信じていた。
(どうせもう望みは叶わないのだから楽しんでしまおうか。)
王女は自棄になっていた。
(けれど…。)
誰でも好きな姫を娶らせる。
他人を巻き込みたくないのは本当だ。だが扉の隙間から男の顔を確認する度にため息が出るのを王女は止められなかった。
姉に賭けの話をしに行った後、末の王女は庭に出て昨夜の出来事を整理した。
「…誰?」
王女は立ち止まって恐る恐るきらめく木々しか見えない虚空へ声をかけた。サクサクという薄いダイヤモンドの木の葉を踏む心地よい足音が後ろから聞こえていた。立ち止まると早く戻って休みたい姉たちの姿はあっという間に見えなくなった。足音が止み、
「私が、見えるのか?」
という若い男の声がした。
「いいえ。だけど足音が聞こえて…。」
どきどきいう胸の鼓動を感じながら王女は答えた。何もない空間から声だけが聞こえるのは奇妙なものだった。
「そうか、それはよかった。実は御触れを聞いて城へ来る途中、魔女にあってこのような姿にされてしまったのだ。」
姿は見えないが男は安心して話し出した。
「魔女が…?」
「ああ。顔は見ていないが困ったふりをして男を引っ掛ける手口だったよ。親切にしたところすっかり騙されてこの通りだ。誰に話しかけても声しか聞こえないので気味悪がられてしまってこっそりここまで忍び込んできたんだ。あなた方は聞こえないはずと聞いていたがどうして…。」
「それは…ただの噂で困っているのは靴のことだけなの。それよりあなたはあの時の王子?」
「そうだ。うわさを聞きつけやって来た。慰めてくれた王女だね。あの時はありがとう。」
姉に追い出された王子に王女は声をかけていた。お姉さまは必ず説得する。だから怪我を直してまた来てほしいと。だが王女は未だに姉に届く言葉を見つけられていなかった。
「うわさを聞き半信半疑で来たのだがこのようなことになっていたとは驚いた。行きは怖がらせてしまって申し訳なかった。今日城についたばかりであなたの後ろについてここまで来たんだ。あなた方は聞こえていないと思っていたのでつい調子に乗ってしまった。」
困ったような笑顔が想像できた。また音が聞こえた。何度王女が訴えても耳を貸さなかった今夜の姉の態度は王子の助けを待っているとは思えなかった。王子がまだ姉をあきらめていないことが伝わってきて王女はなんだか切なかった。
「気にしないで。それより私たちは円舞曲に操られて毎晩こうして踊っていたの。靴の謎の答えはこれよ。でも円舞曲を流す魔女がどこにいるのか分からない。どうか正体を突き止めてお姉さまを…。」
言いかけて地下へ通じる扉が一番上の王女のベッドの真下だったことを思い出した。早くしなければ扉は閉じ出られなくなってしまう。
「円舞曲?」
何も知らない王子が尋ねた。
「詳しいことは後で話します。早くお姉さまたちに追いつかなければっ。」
そういって二人は慌てて銀の森を目指した。王子も状況を察したようですぐ後ろから足音だけが聞こえていた。
魔女にどこで見ているのか分からない。だから王子が来ていることは二人だけの秘密にしようということになった。
「ここまで無事でいられたんだ。きっと大丈夫。」
安心させるようにそう言ってから王子は眠りにつくまでそばにいてくれた。
姿が見えない敵。得体が知れないからこそ悪い想像ばかりが働きなお恐ろしくなる。でもどうして姉が城の本を調べたり王が御触れを出したりしたことは見逃されたのだろうか。実は王女は一度井戸に助けを求めたことがあった。城を追い出された王子を励ました時、王女は二人からの激しい胸の痛みを聞き取っていた。たとえ音を失うことになっても二人には幸せになってほしいと思っていた。手遅れになる前に王子に戻ってきてほしいと姉に秘密で井戸に願った。打ち明ければ素直に賛成してくれるとは思えなかった。だが音が失われることはなく願いは魔女に妨害されたと思われた。その晩王女は恐ろしくて疲れ切っているはずなのに眠れなかった。翌朝、庭にいると婚約が正式に解消されたと話す姉たちの声が聞こえた。
(嘘よ…。)
王女はいつまでも下を向いてたたずんだままだった。
王子は城の入り口で衛兵たちを怖がらせ自分が魔女の罠にかかってしまったと自覚しても、これは逆に好都合だと思い直していた。魔女を倒せば王女も救い出せるし自分も元の姿に戻ることができる。一度は城からつまみ出された身の上である。堂々と名乗りを上げることもためらわれた。王女とのこともあったが国王も自分の申し出を断りかねない。自分が次期国王になることをあまりよく思われていないことは分かっていた。
「一つ条件がある。」
婚約の申し出をしたとき王は王子にそう言ったのだ。
「そなたは銃の名手だと聞いている。次の戦で兵を率い、見事勝利に導けば私もこの国を継ぐことを認めよう。」
「そんな危険なことさせないでお父様!」
「大丈夫。…分かりました。必ず戦に勝利してみせましょう。」
自分の腕には自信があった。だから戦が起きたとき、反対する王女に心配するなとだけ言いおいて王子は意気揚々と出かけたのだった。
(あの時しっかり聞いておけばよかった。)
出かける前、不安そうな王女に向き合わなかったことを王子は今でも後悔していた。
「あなたは本当に賢くて素晴らしい人だ。こんな人と国を治められるとは私は幸せ者だ。」
「すべて井戸のおかげで私は特別ではないわ。」
「そんなことは決してない。あなたは私の特別な人。」
美しく聡明な王女に王子はすぐに恋をした。決しておごらない控えめな、けれど自分に自信のない人だった。もっと素晴らしい本を残した人がいる、もっと賢いやり方があった…。王子の誉め言葉は陶器の上をすべる水滴のようで固く閉ざされた王女の心に届くことはなかった。王子のことをふさわしくないとはっきり言い続ける国王と城に残され、王女はどんな気持ちだったか。帰りがけとはいえ気を抜いて怪我をするべきではなかった。王子の脚の怪我を見て顔色を変えた王女はきっと自分を責めたはずだ。王子は自分のために戦場に行った。ただ国王にふさわしい器を証明するためだけに。
(ただ一言を言い残せていれば…。)
悔しさに思わずこぶしを強く握りしめていた。王子は帰りを喜んで出迎えてほしいだけだった。その想いを伝えなかった代償の大きさを今の王子は感じていた。
城に忍び込んだ後に末の王女の後をつけ、地下で見たものは驚きの連続だった。だが王女が楽しそうに踊る姿は未練をかかえてここまでやって来た王子にはつらいものだった。ただ見守ることに耐えかねて、そばにおいてあった葡萄酒の入ったグラスをあおらずにはいられなかった。
円舞曲の話はさらに信じられないものだった。地下で踊る王子達も操られているとすれば一体誰がそのようなことをして得をするのだろう。なぜ王子が城からいなくなった時に流れ始めたのだろうか。魔女がいるというのならば王子はなぜまだ無事でいるのだろうか。王子が邪魔な国王の差し金ならば魔女はなぜ王子に忍び込むチャンスを与えたのだろう。今すぐ王女の呪いを解きたいと思い考えれば考えるほど腑に落ちないことが増えていった。心配する末の王女を眠らせた後、王子は部屋の反対側のベッドに近づいた。眠る王女の乱れた髪に優しく触れる。そして起こさないように静かにそっとキスをした。
「いやー、こんなお美しい方々と食事できるできるとは光栄ですなっ。」
三日目の晩、今回申し出てきたどこかの国の王子は十二人の王女との食事に満足そうだ。きれいに整えられた口ひげを気にしながら始終ニヤニヤとだらしなく笑っている。王女は十一人の妹たち同様こっそりと顔をしかめた。笑っていながらも男の目は落ち着きがなく、抜け目がないように王女達を品定めしているのが分かる。今までさんざんこういう男たちが謎を解けずに城を追い出されていたので、王女は取るに足りない相手として軽くあしらい続けていた。国王は申し出てきた王子達には必ず娘たちとの晩餐に招待していた。
「今夜で三日が終わる。貴国はわが国とも長く友好関係にある。きっと謎を解き明かし次期国王になって下さると期待しておりますぞ。」
王女が婚約を申し込まれた時には決して向けられたことはなかった父の笑顔が憎らしい。
「お任せ下さいっ。必ずやこの私が魔女から姫を守って差し上げましょう。」
「おいおい物騒なこと言わないどくれ。君はただ、靴の謎を解けばいいだけなんだから…。」
そういうと国王はさっさと食事を済ませて席を立って行ってしまった。
「私…何か陛下のお気に障るようなことを言ってしまいましたか?」
残されてぽかんとしている王子が気の毒で王女は答えた。
「大丈夫ですよ。父は魔女という言葉が嫌いなだけですから。」
「はあ…そうなんですか。」
不思議そうな顔をしてから王子は今度は隣に座っていた末の王女の方を向いた。
「しかし噂を聞いた時は心配しましたよ。目が見えなくなってしまったと聞いていたのですから。」
「そ、そうですか。なぜそのようなことになっているのやら…。」
「全くです、でもおかげで謎が解かれる前に間に合った。本当に心配で心配で急いで駆け付けたのですよ…。」
「あ、ありがたいですわ…。」
顔を執拗に近づけられて困惑していた妹は手まで触られて泣きそうだ。どうやらこの王子は一番若い王女を気に入ったようだ。王女は妹がそわそわと落ち着きなく辺りを気にしてばかりいる様子が気になっていた。
(そういえば…。)
王女は地下での出来事を思い出した。周りに誰かいると言っていたが王女には何も感じられず、その時は気のせいだと言ったのだがずっと引っかかっている言葉があった。
鉄砲みたいな音がしたわ。
まさかと一瞬でも思い浮かべた人物を慌てて打ち消す。
(銃を扱える人なんていくらでもいるわ。あの人のことを思い出してしまうのはきっと夢のせい。気をしっかり持たなければ。)
ここ二日ばかり王女はまだ幸せだった頃のことばかり夢に見ていた。一度だけ、王子に触れられた感覚が夢とは思えず伸ばした手は、ただ朝日に照らされた寝室の宙を空しくつかんだだけだった。
運ばれてきた皿の上の焼き菓子を食べることに集中する。久しぶりに見た夢の甘さに比べればそれすら味気のないものだった。
ミシッ
晩餐を済ませ部屋へ引き返しながら王女は背後に誰かの気配を感じた。振り返っても誰もいない。静まり返った古い城の壁からぱらりと小石がはがれ落ちた。夕暮れ時、紅い光が差し込む誰もいない廊下は不気味に映った。
王女達は寝室とそこに通じる衣裳部屋は同じだが、その他にそれぞれの部屋が与えられていた。部屋に戻り王子に出すための葡萄酒と眠り薬の準備をしていると廊下から人の諍う声が聞こえた。気になって扉の隙間からこっそりのぞくと末の妹とさっきの王子の姿が見えた。
「…姉上をかばっているんでしょう。晩さん会の間もずっと周りを気にしていたのはあなただけだった。魔女のことを何か知っているのではないですか?」
「知りません。…離れてっ。」
王子の言った姉上とは自分のことかもしれないと思い部屋を出て柱の陰から様子を窺うことにした。
「仕方ないな、では…これは何です。あなたの姉上の部屋で見つけた眠り薬ですよ。あなたはあの王女と一番親しいと聞いています。知っていたんでしょう?」
驚きで思わず声を出しそうになり慌てて口を押えた。怒りで体中が熱くなる。
「そんな…私は何も知らない…。」
「強情ですなあ。では王に見せるしかありません。もちろん部屋の前で拾ったとでも言ってね。そしてあなたの姉上の身の回りを調べてもらいましょう。きっと魔女だという証拠が出てくるはずです。」
「だめよっ、そんなことしたら…。」
「そんなことをしたら?やはり何か知っているんですね。」
王子は得意顔で末の王女に詰め寄っていく。自分が出て行っても何かできるとは思えない。かといって騒ぎ立てれば眠り薬のことをばらされる。立ちすくんだ王女の前をさっと風が通り過ぎた。瞬きをした次の瞬間…
ダンダンダンッ
大きな靴音が男の後ろではじけ、振り向いた男の顔が殴られたように勢いよくひしゃげた。
「うわっ」
床に倒れこんだ王子の上にカーテンが落ちる。身を乗り出してみても倒れた王子の他には誰もいない。ざわりと鳥肌がたった。
「お姉さま逃げて!」
妹の叫び声で物陰から出ている自分に気づく。
「やっぱりお前の仕業かー!」
起き上がって近づく王子の姿はまるで唸り声をあげながら獲物に襲い掛かる虎のようだ。王女は恐ろしさに身を縮めた。
「うっ」
今度は王子の体が壁に押し付けられ首にカーテンが巻きついている。王女は男の首元をみてぎょっとした。首のまわりの生地が人の手の形にくぼんで押し付けられていた。王子がばたばたと暴れても首はしっかりと何者かの力で固定されたままだった。
「くそっ、魔女め…うげっ」
王女の方をにらみながら悪態をつくと今度は首から体を持ち上げられたように王子の体が浮きあがった。
「お姉さまじゃなくて!魔女よっ、魔女がでたのよ!」
叫ぶように妹が言った後、どさりと王子の体が床に落ちた。廊下には王子のせき込む音しか聞こえない。
「呪いだ、ここは魔女に呪われている…!」
せき込みながら王子はよろよろと廊下を歩き、王女の前から去っていった。遠くで衛兵に呼び止められた王子がもうここにはいられないと伝える声が聞こえた。王女は泣きじゃくりながらなぜかしきりにうなずいている妹に声をかけた。
「大丈夫?ごめんなさい、私のせいでこんなことに…。」
言いかけて眠り薬の言い訳を考えていなかったことに気が付き話を逸らす。
「それよりあのカーテンは何?あなた魔女のこと何か知っているの?」
「知らない、知らないわよ…。」
「でも…。」
「お姉さまこそ眠り薬って何?今までの王子達がみんな眠りこけてたのもお姉さまのせいだったのね。あのお酒に混ぜていたんでしょう。そこまでしているのにどうしてあの人を呼ばないの?私は…」
うつむいて黙ってしまった妹の背中を優しくさすりながら言い聞かせるように
「だめなのよ。それに残念ながら私はあの人を待ってはいない。ただ、誰にも危険な目にあってほしくないだけよ。」
と言った。
「うそ、嘘つき!音がこんなにうるさくてたまらないのに!」
そう言って耳をふさぎながら首を振る。
「…もう黙って!」
気持ちを見透かされたようで恥ずかしくなり思わずかっとなって言ってしまった。忘れかけていた音を未だに妹は聞こえることを思い出した。
「…そんなだから見えないのよ。」
去り際に言い残された言葉の意味は分からなかった。
すっかり日が沈み暗くなった廊下に王女は一人取り残されたように立っていた。床に落ちたカーテンは黒い得体のしれない怪物のように見えた。
「魔女、ね。」
自嘲気味にそうつぶやいた。妹を音で苦しめている自分。原因不明の円舞曲。井戸の力。自分を守った不思議なカーテン。これほど魔女にふさわしい条件はそうないのかもしれない。
(それに…。)
実際に王子に魔女と言われて一つ分かったことがある。ずっと気が付かないふりをしていただけかもしれないが、誰にもに来ないでほしい本当の理由が今の王女にははっきり分かる。
(本当のことになったら耐えられない。)
魔女と言われて怖かった。ずっとずっと心のどこかで恐れていたことがまるで起こってしまったようで。もし誰かが助けに来てさっきの王子のようにひどい目にあってしまえばその時自分は本当に魔女ではないと言えるのか。この状況はつらくて寂しい。でもさらに他人から疎まれるようになったとき、いや、愛した人に言い訳ができなくなったとき、王女は自分の心を保っていられる自信はなかった。
ため息をつくと誰もいないはずの廊下にカサリと衣擦れの音がした。びくっと体を震わせてから
「来ないでっ」
と叫んで部屋に逃げ込んだ。
見慣れた部屋に入ると暖かいランプの光に安心して体の力が一気に抜けた。ほうっと息を吐きながら扉に背を向けて座り込む。手の震えが目に入ると涙をこらえることはできなくなった。微かに懐かしい香りがしたと思った。そういえば扉から二人の様子を覗いた時からこの香りがしていたような気がする。顔を上げると鏡台の引き出しが少し空いていた。きっとさっきの王子が部屋を物色した時もどしそこねたのだろう。引き出しには捨てられなかった手紙をしまっていた。手紙の内容はもう見なくても分かる。
誰よりあなたのそばにいたいと願ってる
(ばかね…。)
誰もいない部屋で王女はもう二度と会うはずのない人を想いながら「助けて」と小さくつぶやいた。
はじめて王子と地下で話した日から二日がたっていた。末の王女は円舞曲に舞いながら目は姿の見えない王子のことをばかり探していた。うっかりダンスのパートナーの靴を踏んでしまったのも一度や二度ではない。
(見えないから当然か…。)
王女は姿の見えない王子の声が好きだった。姉に気づかれないように話をするときはささやくような小声が近い。怖くなった時、不意に置かれる手のやさしさは王女にとってこの上ないものだった。
(目があえばこうはいかなかっただろうに。)
もし姿が見えていたとしたらこんなに素直に甘えることはできなかっただろう。きっと恥ずかしくて逃げ出してしまう。今でも王子の存在に気づいた時は顔が赤くならないように気を付けていた。
湖に面したテラスで一休みしながら王女はひとりため息をつき手元のグラスを見つめた。姉がこっそり眠り薬を仕込んで飲ませていた酒のことを思い出す。王女はそこまでするのに決して誰にも本音を言わない姉の強情さに呆れ、一方で驚きもしていた。そこまでする理由が分からなかったのだ。分からないことは他にもあった。
(あれから音がしていない…。一体王子はどこに行ったのだろう。…きっとお姉さまのそばね。)
廊下での出来事を思い出す。あれ以来王女は王子の気配を感じていなかった。証拠の眠り薬を突き付けられ動けなくなっていたところを助けられたときはすぐに彼だと分かった。よたよたと格好悪く廊下を退散する王子の後ろ姿を見ていた王女の手にさっと薬を忍ばせてから耳元で王子がささやいた。
「これはあなたが処分するんだ。」
姉が疑われた万が一のときのためだと分かってうなずいた。震える肩に置かれた手のやさしさに甘えて涙が出た。
(やっぱりお姉さまのことしか見ていないのね。)
分かっていたはずなのに思い出しただけで再びため息が出てしまう。どんな不安も覆いつくしてその腕にすべてを預けてしまいたくなるあたたかくて大きな手。
(こんなはずじゃなかった…。)
王女はわきあがった気持ちをどうすればいいのか分からず持て余していた。
誰もいないテラスに足音がした。姿が見えないので王女を驚かさないための王子なりの配慮だろう。
「少し、いいかな。」
「ええ。」
つとめて落ち着いた態度でそう答えた。
「普段、陛下はこの時間どこで何をしているんだ?」
「よく知らないのだけど…いつも夕食を早めに済ませて寝室に引き上げるわ。」
質問の意図がよく分からない。
「そうか…。」
「今までどこに行っていたの?」
聞いてから後悔した。
「あ、いいえ。何でもないの。」
(変よ、こんなこと気にして。)
「それより飲み物を持ってきてあげる。…あっ」
つま先を見えない王子の靴にぶつけてよろけた。思っていたより近くにいたらしい。手に持っていたグラスが落ちて中身がこぼれた。
「大丈夫?割れなくてよかった…」
布がこすれる音で王子がかがんだことが分かる。
「あ、触ったら…」
手が濡れてしまうと思い止めに入った。
「え?」
「い、いいえ。ただの飲み水よね。ごめんなさい。」
焦る気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てた。顔が見えないので表情で不自然だと思われていないか確かめることができないのが歯がゆい。ふいに手首を見えない手につかまれて驚いた。
「この手…まさかあの時の…。」
ぎくりとして思わず顔を背けると、豪華な衣装を翻しながら仮面をつけた人物が明るい大広間の光を背にして近づいてくるのが見えた。急いで手を引っ込めてから湖の方を向く。耳が聞こえていない人にならこれでごまかしがきくはずだと思った。王子に彼が戻ってきたことを小声で伝え、
「急いで行って。ここは私が彼をうまくだますから。早くっ」
と言った。微かな足音は円舞曲に紛れてすぐに聞こえなくなった。
末の王女と別れてから王子は地上に戻り、急いで国王の寝室を目指した。うまくやると言っていたが王女達のことが心配だった。
(あの手…。)
さっきつかんだ王女の白い手首を思い出す。この三日間そばにいながら今まで自分は何を見ていたのだろうかと思った。そういえば森で出会った女は王子の向かう方向からやって来た。道は城につづく一本道だった。手を見たときに昔の恋人を思い出したのも当然だ。
(妹だったからか。)
一度だが直接会って話をしていた。気づける機会はいくらでもあったはず。
(どうして…。)
王子は愛しい王女のことしか見ていなかった。何も気づかなかった自分の愚かさに腹が立つ。初めて地下で話した時悪い女と自分は言った。その後も話しかけるたびに伏せられ続けた瞳の意味は…。傷つけていたことに今更気づいた。
(かなわないな…。)
見えない王子に気づいた王女は、見たいものしか見えていなかった王子よりずっと上手だった。
(最悪が起こる前に止めてみせる。)
地下の男たちの笑った顔を思い出し苛立ちをかみしめながら誰もいない廊下を王子は走った。
ガタンッ
わざと大きな音を立てて王のいる寝室の扉を開けた。幸運にもカギはかけられていなかった。
「誰だ!ま、まさか王子か。靴の謎が解けたのか?」
どうやら国王は晩餐の後の出来事を知らないらしい。
「失礼を承知で参りました、国王陛下。」
「その声!まさか…お前がどうしてこの城にいる!?」
「詳しい話は後で。それより王女達が危険です。」
「何をばかなことを言っているんだ。娘たちの部屋には鍵をかけてあるから安全だ。」
「ではこれは?」
王子は国王の前に鍵束を投げ出した。金属の丸い輪にじゃらりとたくさんのカギがついていた。
「すきを見て城の衛兵からくすねたものです。気が付かないなどずいぶん呑気なものですな。」
「貴様…何を考えている。」
「陛下こそこのようにたくさんのカギを衛兵に任せるなど何を考えておいでなのですか。」
「それは…。」
答えられない国王に畳みかける。
「陛下はこの古い城の地下に眠っている湖の存在をご存じですね。そして陛下は水がお嫌いだ。違いますか。」
そういうと王子はそばにあった水入れの中身を持ってきたグラスに注いで差し出した。
「や、や、やめろ!それ以上近づけるなっ。」
慌てた様子の国王の姿をみて末の王女の行動に納得した。グラスを拾おうとした王子を焦って止めたのは…
「触れると姿が消える水、だからですね。」
その存在を知っているのは消された王子本人とそれを王子に渡した者。焦ったときの胸に手を当てる王女のしぐさが森で会った女の姿と重なった。見分けがつかないためその存在を知っている者は水を目にすると一度は疑わずにはいられないのだろう。だとすれば。
「陛下は井戸に王座を願い姿を消されたのではないですか。何かの拍子に井戸の水に触れその正体を知ったのではないですか。私は井戸のことを王女から聞いて知っていました。だから今回のことは実は陛下が王座を願ったばかりに、今さらですが王女達に何か新たな危険が迫っているのではないかと思っていました。実際は御触れ通り靴の謎だったわけですが。井戸は本来願いをかなえる代償として人から力を奪っていく。王女達も聞こえた音を奪われた。呪いではなく何かの力として井戸には恐れられたからでしょう。さすが陛下です。その存在を恐れられて消されてしまったのでしょう。ただし三日だけ姿を現すことを許された。御触れの条件が三日の理由はこれですね。」
「そ、その通りだ。しかしなぜ井戸ではなく水だと?それに私が願ったことが王座だということもどうして…。」
「恥ずかしながら私も不思議な水で見えない姿にされてしまったからですよ。王座のことは御触れを読めば分かります。謎を解いた者には姫を娶らせるだけでなく国を継がせると。たとえどの王女を娶ったとしてもです。私と王女の結婚に反対した時点でもそれは言えたはずなのに今さらです。これは何か問題が起きてすぐにでも王座を譲る必要ができたと考えるのが自然です。自分にはできない問題の解決と、やって来た男の次期国王としての力量を図るために陛下は御触れを出したのではないかと思いました。陛下は水に近づけない。何かしらの水の力が関わっていることはすでにお分かりだったのではないですか。」
「うむ…。」
王子に対して敵意をむき出しにしていた国王はようやく話を聞く気になったようだ。
「そうだ。それで謎は解けたのか。」
「犯人は衛兵…いや、湖と言った方がいいかもしれません。」
「どういうことだ!まさか本当にまだ王座の代償として…?」
「いいえ。井戸との取引は終わっています。ただ、井戸に願いをかなえさせた者が他にもいたんですよ。」
「まさかそれが衛兵だというのか。そんなはずはない!これは王族だけの秘密…」
国王が何かに気が付いたように口を止めた。
「…だから最初に地下の存在をご存じかとお聞きしたんです。井戸はきっと地下のどこかに通じていたのでしょう。水を恐れて地下の管理を全て衛兵に任せていたのなら十二年連続で聞こえてくる王女の声に疑問を持たれても仕方がない。いつしかそのうちの何人かが井戸の存在を突き止めたのでしょう。井戸に近づけないとしても同じ水源である湖の力に気づくのも時間の問題です。兵士たちの望みは王女達だった。毎晩寝室の隠し扉から王女達を地下へおびき寄せ、流れる不思議な円舞曲に合わせて靴がボロボロになるまで踊らせた。これが靴の謎の真相です。朝になると魔法は解け、王女達は解放されて井戸に奪われた兵士たちの真実を聞く耳も元に戻った。すべては陛下、あなたが恐れていたものを避け続けたばかりに起きた出来事だったのですよ。」
「すきを与えた、というわけか。」
「はい。それに私にも、ですよ陛下。狙い通り王座は私が引き受けましょう。そして兵士や王女達にも与えられた力を放棄するように言ってください。そうすれば湖を水源とする不思議な水もただの水に戻り、私も陛下も姿が戻ります。」
「…分かった。戦だけでなく靴の謎も解かれては文句は言えまい。王女との結婚も認めよう。」
「ありがとうございます。井戸と湖の水が同じだという証拠がこちらです。」
そう言って王子は初めて地下へ行った日に折り取った金と銀とダイヤモンドの枝を差し出した。
「井戸もこのような材質ではないですか。」
「…信じられん。」
暗かった窓の外からいつの間にか日が差して枝が輝く。
「そろそろ王女達も戻ってきているはずです。確かめてはいかがですか。」
「ああ、そうしよう。」
国王が王女達を呼び出し王子の話した真相が空かされると直ちに地下の衛兵たちは捕らえられ、今までの出来事の真相は全て明らかにされた。再び日が沈む頃には王子はすっかり元の姿を取り戻していた。
「あの子から全て聞いたわ。ずっとそばにいてくれたのね。」
城の庭園の東屋で王女はそう言った。様々な思いを抱えて迎えていた夜が今では静かに過ぎていく。夜空に広がる星を見上げて深く息を吸い込んだ。久しぶりに息をした気がする。
「もちろん。手紙に書いたことは本当だ。」
まっすぐ見つめられて思わず恥ずかしさに目を伏せた。
誰よりあなたのそばにいたい…
その言葉を信じさせてくれた王子の想いを今、王女は素直に受け取っていた。
「これでも噂を聞いて急いで来たんだ。でもこの国についた時にはすでに何十人も城に行った後だった。恐ろしい魔女の噂も飛び交っているのに御触れはそのことに触れていないから本当は何が起こっているのか心配した。」
そう言って抱き寄せられる。
「ここに来て無事な姿を見たときはほっとした。」
「すべてあの子の計画通りだったのね。」
「こうなった今ではそう…だな。」
「…どうやって原因がお父様だと気づけたの。」
「実は最初から怪しいと思っていたんだよ。三日という条件も寝室に鍵をかけているというのもね。日を限るなら五日でも七日でも十日でもいい。それなのに謎を解けなかった者は例外なく三日で城を追い出されてた。それにこれは召使の話から分かったんだが寝室のカギは昔からだそうだね。」
「ええ。父は心配性だと思ってた。」
「それはそうだが、だったら衛兵があんなにカギを渡されているのはおかしい。」
確かに歩くたびにジャラジャラと耳障りだと思っていた。当たり前のことだと思って見過ごしてきたことのいびつさに気づかされる。身に覚えのなかった魔法にかかったという噂も王子を呼びよせるために妹が流したものだった。庭から消えた動物たちも王子が薬だと言って渡された不思議な水のせいだ。きっと姿を見えなくされた動物たちが街に行き、すでに人々に恐れられていたから魔女の噂がまことしやかにささやかれたのだろう。どんなことにも理由があるのだと思う。
「うちの城でもせいぜい二、三本だ。それに本来鍵とは主である国王が持つものだしね。陛下は何を考えているのかと思ったよ。それでここについた次の日の夜は衛兵の後ろをつけたのさ。そうしたら反対側からあなたたちが来たというわけだ。」
「そうだったの。私、何も気づかずにいた。」
「何度踊るあなたを連れ出そうと思ったことか…。」
それは王女もずっと望んでいたことだと今なら言える。願った望みが叶っていたことに気づけなかったのは自分のせいだ。王子を遠ざけ、妹の思いに背を向けて一人であてどない暗闇をさまよっていることにも気づかなかった。きっと父にも話していれば真実にたどり着くのはもう少し早かったのかもしれない。王女はただただ本当の孤独を恐れてかりそめのざわめきに身をゆだねていただけだった。だから偽りの地下の世界を肯定したこともあった。
(そんな私よりあの子はずっと強い。)
何度も謝りながら自分のしたことを話してくれた妹のしたことは王女よりずっと勇敢だった。自分の力の犠牲を覚悟して井戸に頼り、そしてかなわないと知ると手に入れたたった一つの可能性にすべてを賭けた。
「…庭に湧水が出るところがあるの。お姉さまの婚約解消を聞いたとき、たまたまそこに野兎が来て水に片足を落としたのよ。」
王子にも悪かったと謝りながらわけを全て話してくれた。
「その様子が気になって見ていたらみるみる姿が消えて…。これなら魔女にも見つからずに何かできるんじゃないかって思ったわ。周りの植物は何ともないけど生き物になら同じように使えると思ったの。人で試すわけにはいかないから賭けだったけれど私が大げさにして流した噂を聞いてきっと王子は来ると分かっていたから毎日森に行って待ってた。運が良ければ王子の助けになるくらいにしか思っていなかったけど…。もし魔女と関係なくて永遠に姿が見えなくなることだって考えなかったわけじゃない。でも、王子にしか来てほしくないっていうお姉さまの気持ちは痛いほど分かっていたつもりだったから。」
「そう。その通り。あなたは何も間違ってやしなかったのよ。」
「勝手なことして本当にごめんなさい。」
謝る妹の肩を抱きながら何度も言って聞かせた。
全ては妹の計画通りにことが進んで今がある。そうだと答えた王子から、再び聞こえるようになった耳障りな音が聞こえて王女は思わず耳を抑えた。
「…ごめん。」
「謝らないで。これはあなたの優しさだから。」
王女と王子が結ばれて計画通り。妹が心から願ったことはかなえられたはずなのに王女は妹の心の痛みを聞き取った。きっと王子もその気持ちに気づいている。でなければ今、音が聞こえるはずはない。闇のなか、遠くで河の魚がはねる。全てがうまく運んだ後で響いた音は、行き場のないたった一つの誤算が生んだものだった。
「賭けは私の負けね。」
「賭け?」
唐突な王女のつぶやきに聞き返す。
「あの子に賭けをしましょうって言われていたの。最初は本当にただの賭けだったのよ。あなたと私が結ばれるかどうかの。そのうちあなたが来て私を救い出せるかってことになっていったかしら…。私は相手にしていないつもりだったけれどね。」
「そんなことがあったのか。」
「ええ。私、誰にも賭けることができない臆病者だった。…眠り薬のことも見ていたんでしょう。」
「ああ。晩餐中から君の部屋の扉の前にいたからね。君が廊下に出ていたことを知らなくてあの時は焦ったよ。」二人の王女に対する振る舞いが許せず脚の痛みも忘れて男を黙らせたときのことを思い出した。声こそ出さなかったがあの時王子は夢中だった。王女がだれにも話さなかったのはただの幸運だと思っていた。だが…
「臆病者なんかじゃない。あなたは誰にも傷ついてほしくなくて必死だっただけだ。妹姫のことも私のことも、必死に守ろうとしたから騒がず一人で考え続けていたんだろう。」
思えば国中に御触れが出されて久しい。その間に王子と同じ情報を耳にした人間は数えきれないはずなのに自分のように疑問を持って名乗りをあげた者は一人もいない。王女がどんなに孤独であったか今さら気づいて背筋が寒くなった。
「でも私は間違えてた。教えて、何を間違えていたのか。」
「間違えてなど…。」
そう言って王女の涙を優しくぬぐう。
「言ったでしょう。あなたは強いと。」
国王が王女達を集めたときに王子は音は呪いではないと説明していた。
「音は呪いなんかじゃないですよ。末の王女のおっしゃるとおり、人の心が痛む音です。それが分かる姫たちはきっと優しい人になれたんです。実際あなたはそれをうまく利用できていた。」
そう言って末の王女の方を見た。視線はすぐにそらされてしまったが。
「それが何であっても得体のしれないものは恐れられるものですよ。本当に力として認められなけば井戸に願った時点で全員私のように姿を消されていたはずです。陛下は力を与えようと井戸の存在を教えていましが、最初からその必要はなかったわけです。」
「あなたが聞こえるその音は、きっと心の橋が鳴る音だ。」
「橋…?」
「だから橋が落ちたとき人は涙に濡れるんだ。私には音は聞こえない。けれどあなたの橋を脅かす全ての者を許さない。たとえそれが自分でも。だから私はあなたのためならどんな力とも戦える。あなたがいなければきっと再びここに来ることはなかったよ。あなたも私を欺く魔女になることは決してない。あなたは音が聞こえるのだから余計な力などいらないことをもう知っている。…あなたの強さは十分見たしね。」
困難を一人で抱える姿は見るに忍びなかったが、暗闇のなかでたった一人もがき続けることを選んだ勇気は、誰にでもあるものではないと思う。
「でも…。」
「一つ不安要素があるのだとすればあなたがそのことを忘れてしまうということだ。忘れて姫たちや私を遠ざけて魔力にすきを与えてしまうんだ。だから…」
王女の手を取って伝える言葉はずっと前から王子が胸に抱えてきたものだった。
「だから私をあなたのそばにおいてください。あなたが素晴らしい人だから、何度だってあなたのもとに帰ってくることをこの身をもって証明した私を。とわにあなたを勇気づけると約束します。」
とった手に口づけるとあたたかい雫が落ちてきた。見上げた王女の顔に涙が伝う。
「…分かったわ。私の負けよ。あなたの方がずっと上手ね。」
と言った。
「それなら…」
そう言って額にキスをしてから
「私がこんなに愛していることをもう少し覚えていてほしいな。」
いたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った。
(そんな橋があるのだとしたら…。)
愛しい人がその向こう側へ渡る日まで守ってみせると王子は思う。そして自分もたどり着いたその時は、きっとまた愛した人の魂を探し出してみせると心に誓った。
盛大な結婚式が執り行われ末の王女にも笑顔が戻ってきた頃、立派な王子を王国に連れて来ることになった魔女の事件は実は親切な妖精の仕業だったと国民たちは噂しました。妖精は魂を連れてくるもの。姿を見えなくされてしまっても王子様はお姫様のもとに戻ってきたのです。末の王女が愛したものも形を変えて、きっとそばにやってくるはずです。おしまい。
原作の童話「おどる十二人のおひめさま」の絵本を読んだ時、最後に結婚した王女は本当に幸せになれたのか、末の王女をどうすれば幸せにしてあげられるかのか考えたことがこの物語を書いたきっかけです。最後の文章を書きながら、私には王子と王女の結婚式で末の王女が素敵な男性と出会うところが想像できました。この物語が、読んでくださった方々に童話の魂を届ける存在になれたらうれしいです。