瀬尾一樹の復活とその歩み
「・・・・・・」
真っ先に視界に入ったのは、白い天井だった。一面の土でも、少し前までいたはずの校舎でも、棺桶の中でもなく。
その景色を見た驚きを口で表現しようとしてみても、何故か言葉が出てこない。喉からは「あ……あ……」と空気の漏れるような、情けない音しか聞こえなかった。
ただ眠っていたことは理解出来たので、仕方なく起き上がろうとした。
しかし、何故か起き上がるどころか、指1本さえ満足に動かない。
渾身の力を振り絞っても、ほとんど震える程度しか動いてくれなかった。
土の重さ故ではない。
身体が全く言うことを聞いてくれなかったのだ。
まるで全身の神経回路を、知らぬ間に光ファイバーからタコ糸に変えられたようである。
いったいここはどこなのか。
自分の身体はどうなってしまったのか。
次から次へと押し寄せる不安は、どこにでもいるような一介の男子高校生である一樹にはあまりに重く、思わず涙が出そうになった。
そこでふと、自分の現在の複雑な境遇を思い出す。
それを思えばこんなところでへこたれている場合ではない。
そう一樹は自分を鼓舞し、何とか口を動かそうと懸命に神経を動かす。あの時に比べれば、これぐらいの困難などへでもない。
やがて喉が動いているような実感が脳に伝わり、今まで休眠状態だったであろう唾液腺も、徐々に活動を始める。
それと同時に全身を強い痛みが襲った。
耐えがたい全身痛だ。
それでも力を振り絞り、ようやく一樹は、
「た す け て 」
と本当に蚊の鳴くような小さな声で言った。
視界に映る部屋はそれなりに広く、周囲には誰もいない。
常識的に考えれば、誰の耳にも届かない小さすぎる悲鳴である。
だが届いた。
一樹の耳に大勢の人間の足音が聞こえ、勢いよく部屋の扉が開かれたのだ。
扉を開けたのは数人の医師と、それ以上に多い看護師達だった。
「瀬尾さん、私の話が聞こえますか?」
責任者らしき白髪交じりの初老の医師がそう言った。
一樹はその問いかけに同じような掠れ声で「は い」と答える。
それからその医師は後ろに控える別の医師に何か言い、さらに看護師にも指示を出した。
その後、初老の医師が一方的な状況説明を始める。
尤も、一樹に聞きたいことがあっても、満足に声が出ないのだからそうなるのも仕方がない。
とはいえ、脳はしっかりと動いてくれたようで、医師の話を理解することは出来た。
医師の話を要約するとこうだ。
一樹はあの土砂崩れが原因で、ほぼ植物人間のような状態に陥った。一樹が眠っている間、色々な処置を施したが、それでも目を覚まさせることは出来なかった。しかしつい先ほど、脳波計に反応があり、駆けつけてみたら一樹が自分の意志で目を覚ましていた。まさに奇跡としか言いようがない。身体は寝たきり状態で衰えているが、意識はしっかりし、神経にも異常はないため、リハビリを続ければ日常生活に戻ることも可能だと――。
つまり、現実的には一樹の心からの叫びと医師の登場の因果関係は全くなかったわけである。
話を全て聞き終えた瞬間、言葉の意味はちゃんと理解していたのに、脳が理解したことを拒んでいた。
医師の話を受け入れたら、自分は文字通り浦島太郎のような存在になってしまう。
医師もその点には気付いていたのか、実際にどれだけの時間が経ったのかはっきりとは言わなかった。
室内にも、現在の日時を知る手がかりになるような物は一切ない。
花瓶に入った花、誰が描いたのかよく分からない絵画、窓から見える木立だけではどうしようもない。
それでもいずれ知ることになるだろうなと、一樹は覚悟はしていた。
そうでなければこの時代で生きていくことは出来ない。
そして一樹のリハビリ生活が始まった――。
その第一歩は、子供でも出来る、話すという行為からだった。
子供でさえできることが、今の一樹には満足にできない。
以前、部屋にずっと閉じこもっていた人間が言葉が話せなくなってしまったという話を聞いたが、アレは本当だったようだ。
尤も、そちらは心意性の問題で、一樹の場合は声帯の方だが。
とはいえ、未だまともに動かない首から下と違い、声帯の筋肉は回復が早く、すぐに話せるようになった。それに平行して嚥下も可能になったが、さすがにいきなり食事は出来ず、水と点滴の生活が続いた。
しかし、話せるようになっても一樹の面倒をみてくれる看護師は、ほとんど何も答えてはくれなかった。とにかく質問に答えることは担当医師に禁止され、まずはその医師に許可をもらってくれと答えるばかりだった。
その医師にしても、問診に来るのはあの初老の医師ではないため、自分に責任はないので無理だと言われ、ならばその医師に聞いてくれと頼んでも、返事はいつになるかわからないと言われる始末。
本当に面倒な話だ。
ただ、門外漢を自覚していた一樹は、その指示に敢えて逆らおうとはしなかった。餅は餅屋、自分の判断で勝手なことをするより、専門家の意見に従った方が回復も早くなるだろう、と。
結局、根が素直なのである。
やがて重湯のような食事が取れるようになった頃、一樹の精神状態が落ち着いたと判断したのか、一番気になっていた時間経過について、初対面以来のあの初老の医師が答えてくれた。
「信じられないかもしれないが、君は10年間眠っていたんだ」
「10年も……」
医師の口から出た言葉とは言え、容易に信じられる内容ではなかった。
比喩ではなく、これでは本当に浦島太郎だ。
そこまで寝ていると、逆によく生きていたとさえ思う。
「ただ不幸中の幸いなのは、この10年で社会はそこまで劇的に変化したわけじゃないんだ。ここを出てもせいぜい流行に乗り遅れている程度の感覚だけで、すぐに馴染むことは出来るだろう。君は特に適応能力が高そうだしね」
困惑する一樹に、医師は慰めるように言った。
どこまで信じていいか分からない。
しかし、反論のための材料がない以上、そう信じてリハビリに励むしかなかった。
それから一樹は祖父母と母親について聞いた。
ある事情から、一樹の家には両親はいない。
母親は生きてはいるが遠いところにおり、小学校高学年ぐらいからは、ずっと祖父母が面倒をみてきた。
一樹の質問に医師は、「申し訳ないが、それは治療とは関係がない君のプライバシーに関する話なので、私は最初から知らないんだ」と答えた。
どうやらこの医師は、あくまで治療に当たるだけの存在で、そこまで入り込んだ事情は知らないらしい。
一樹はそう推測した。
次に一樹はあの時一緒にいた人間――美里も含めてどうなったかを聞いた。
一樹の記憶では、校舎には自分以外にも数人の生徒が未だ残っていたはずだ。
一番気になるのは美里だが、他の人間もどうなったのか知っておきたかった。知ったところでどうにかなる問題でもなかったが、知ることが生き残った自分の義務のように感じられた。
医師は一樹の質問に、初めて考える素振りを見せた。
知らない祖父母のことを聞いたときは、すぐに返事をしたというのに。
それでも時間にしては数秒だっただろう。
ただ、今まで立て板に水で話が進んでいたため、そのタイムラグが一樹にはやたら長く感じられた。
医師は結局「ちょっと待って欲しい」と言い、一端部屋を出て行った。
残された一樹は所在なげに室内の様子を見る。
今までのリハビリでは未だ立ち上がれるほど回復していなかったので、問診も全て自室で行ってきた。
ここ数日はこの病室だけが自分の世界だ。
そのため景色はもう完全に見飽きている。
リハビリに影響がなかったので、花の名前や絵画の作者と題名も既に知っていた。
初日はとにかく何もかもが一杯一杯だったが、こうして上半身だけでも起き上がれるようになると、退屈を強く感じるようになる。
そうなると、今の一樹に出来ることは妄想ぐらいだ。
微か……どころかはっきり残っているあの放課後の校舎での記憶を元に、あの時どう言うべきだったのか頭の中でシミュレートしてみたりした。
(……何かどう転んでもうまくいかない気がする)
ネガティブになっているつもりはなかったが、美里の思い込みの激しさを思うと導き出せる結論は全て芳しいものではなかった。
とにかくまともに話すにはあの思い込みをどうにかしなければならない。
それをうまく説得する方法をあれやこれやと考えてはみるものの、美里にはるかに劣る話術しかもっていないと自覚している一樹には、考えるだけ時間の無駄であった。
結局碌なアイディアも浮かばないうちに医師が戻ってくる。
医師は「とりあえず許可が下りたので」と前置きしてから話し始めた。
どうやらこの医師よりも、さらに上の人間がいるようだ。
「まずあの土砂崩れで、生徒教師、そして瀬尾さんも含めた12人の方が被害に巻き込まれました。その内職員室にいいて生き埋めになった教師の方6人は全員亡くなられ、瀬尾さんを含めた生徒6人は瀬尾さん同様程度に差はあれ植物状態に陥りました」
「先生方は亡くなられたんですね……」
一樹の脳裏につい先日別れたばかりの教師達の顔が浮かぶ。
実際は10年たっていても、一樹の主観では数時前のことだ。
成績は中程度だが、真面目で教師受けが良かった一樹は、彼らの死を素直に悼んだ。
「それじゃあその植物状態になったっていうのは……」
その1人が美里である可能性は高い。
ただ、生き残っても何も話せず動けない状態であれば死んでいるのと大差ない。
美里が生き残ったと知っても素直には喜べなかった。
しかし――。
「実は瀬尾さん以外の方々も、同じようなタイミングで目を覚ましたんです」
「本当ですか!?」
一樹の知らないところで、一樹同様の奇跡が起こっていた。
「い、いったいなんでそんなことが!?」
「残念ながら以前も話したように、現代医学では皆さんに起こった現象を説明する事が出来ません。そもそも、あの土砂崩れで先生達のように生き埋めになったにも拘らず圧死せず、植物状態とはいえ生き残れたこと自体が奇跡なのです」
「奇跡、ですか……」
そんなあまりに都合の良すぎる話を聞くと、康大はそもそもここが死後の世界なのではないかと思ってしまう。
生き残ったと思った人間が、実は死んでいた、という話はフィクションではよくあるオチだ。
ただ、今まで受けて来たリハビリでかなりの苦痛を受けてきた。死後まで痛みに苦しめられるという話は聞いたことがない。
それでももしここが死後の世界であったのなら、リハビリ抜きで楽に回復してほしかったな、と一樹は皮肉交じりに思った。
もちろん、そんな心配などするだけ無駄なことは明らかなので、前向きで真面目な一樹は、医師の言葉をそのまま受け取った。
「みんな日頃の行いが良かったのかな?」
「そうかもしれませんね」
「ああ、でもそう考えると先生達の行いが悪いってことになるか。まあ、生徒にはテストなんかで恨まれてたと思うけど。ははは……」
一樹の苦笑に、医師は愛想笑いで返す。
お互い、話しても答えのない問題であることは理解していた。
重要なのは原因ではなくこれからどうするかであることも。
「その、目を覚ました5人に会うことは出来ませんか? 納屋美里さんには是非会っておきたいんですけど」
「申し訳ありませんが、それはできません」
医師はにべもなく断った。
さすがにこの点に関しては、一樹といえど理由も聞かない内から納得は出来ない。
「何故です?」
「一番はリハビリの問題です。これから瀬尾さんには本格的なリハビリを受けてもらうわけですが――」
「今までのも結構きつかったんですけど、まだ本格的なものじゃなかったんですね……」
「ええ、残念ながら」
初老の医師はまた苦笑する。
「……それで、その際、同じような状況の方に会われ、進展状況を比較されると非常に問題があるのです。なぜかというと、たいていの方はそこで競争心が芽生え、必要以上に頑張ってしまうのです。もちろんそれがいい方に作用する場合もありますが、瀬尾さんたちの場合はかなり特殊なケースで、計画的に段階を踏まなければなりません。私たちも緻密な計画のもと、最善と思えるメニューを組んでいるのですから。その消化が早すぎても遅すぎても困るのです。同様の理由でスマホもお返しすることは出来ません。尤も、既に皆さんのスマホは解約され、土に埋もれてもう使い物にはなりませんが……」
「そうなんですか……」
「もちろん皆さんのリハビリが完了したら、いつでもお会いして結構ですから、そこは安心して下さい」
「はい」
一樹は頷いた。
これ以上の要望はただのわがままだと自分を納得させながら。
いずれ会わせると言っているのだから、それを受け入れるのが患者の本分であると。
それから立つ訓練、歩く訓練とリハビリは進んでいく。
そこまでいくと元いた部屋では手狭になるので、車いすで一端リハビリ室に移動し、そこで行われることになった。
初めてリハビリ室に行ってまず驚いたのは、変わり果てた自分の姿だ。
リハビリ室には大きな鏡があり、そこで初めて一樹は今の自分の姿を確認することが出来たのだ。
一番変わったのは髭だ。10年前はほとんどなかった髭が、今は顔の下半分を覆っていた。今まで頰を撫でる習慣もなく、そもそも満足に指も動かせなかったので、それに気付くことが出来なかった。
とても20代後半には見えず、10年どころか20年は眠っていたのではないかと勘違いしたほどだ。
また明らかに痩せていた。これは今までの状況から予想出来たが、実際に見てみるとまさに病人そのものだった。目も窪み、頰もこけ、病人を通り越してまるで幽霊だなとすら思った。
10年経ったという話を事前に聞いていなければ、その場で思い切り取り乱したかもしれない。
こんな体型で果たしてまともにリハビリなど出来るのかと思った。
実際リハビリは厳しく、平常時なら意識でせずとも出来る行動で、身体中が悲鳴を上げた。
一樹は1人の男としてできる限り耐える気でいたが、腹筋に力が入らなかったせいか、口からも悲鳴が漏れた。
それを、リハビリ室にいた一樹以外の人間に聞かれる。
――そう、リハビリ室は一般の入院患者にも開放されており、老若男女問わず様々な人間がいたのだ。
個室で、今まで病院関係者以外の人間を一切見なかったため、隔離病棟にでも入院させられていたのかと思っていたが、そうでもないらしい。植物状態の維持に必要な機械が不要になれば、大部屋でも問題がないのかもしれない。
ただしそこに美里の姿はなかった。美里以外にも、知った顔は1人もいない。
本当にリハビリが終わるまでは同じ犠牲者生徒に会わせる気はないらしい。
そして、それからしばらくの間リハビリ室と、病室の往復生活が続いた。
個室での生活はあまりにも暇だったので大部屋に移るよう頼んだが、それは却下された。
医師の話によると「あの事故から生き残った人間が目を覚ましたことで、世間の話題になっている。あまり人目の多いところに行くのは得策ではない」ということだった。それも関係して、外部と連絡を取ることも禁止された。
その変わり、退屈を紛らわすような物はゲームだろうが漫画だろうが用意してくれるという話になった。
一樹としては自分達が世間でどう扱われているか気になり、週刊誌を要望したが、それは駄目だと言われた。
医師はとにかく情報と隔絶された環境を維持したいようだった。
それはリハビリ室においても同様で、人は大勢いるのだが一樹には看護師が尽きっきりで、誰とも話すことが出来なかった。これでは人がいてもあまり意味がない。
ここまで徹底されると、一樹もさすがに違和感を覚える。
そこで隙を見つけてとにかく情報を収集しようとしたが、元から嘘を吐くのも人を騙すのも苦手な一樹の目論見は全て失敗し、気付けばつらかったリハビリはもう終わりを迎えようとしていた――。




