納屋美里編 第四回投票
『小泉えりなさんと中野春香さんが出ないを選択したため、引き続けグラス・ヘキサゴンで相談をしていただきます』
「なんですって!?」
美里は思わず叫んだ。
ほぼ自分の奴隷のように思っていた春香が、自分の意に沿わない行動を取るなど考えてもいなかった。
美里はすぐに春香に通信を入れるため、トランシーバーのボタンを押そうとする。
「・・・・・・」
その指を寸前で止めた。
現在の心理的状態のまま連絡を入れて詰問したら、まるで自分の方が春香に翻弄されているような状況になってしまう。
それはプライドが高く、何より序列にこだわる美里には絶対に認められない。
話すにしても、ある程度落ち着く必要があった。
美里は意識的に深呼吸する。
あまり人に見られたくない姿だが、何もしなければそれ以上の醜態をさらす羽目になるのだからどうしようもない。
(……よし)
美里は心の中で落ち着きを確認し、春香のボタンを押した。
だが春香は一向に通信に出ない。
トランシーバーの点灯に気付いていないわけではない。しっかりと春香の視線の範囲内にトランシーバーはあった。
明らかに意図的に無視しているのである。
それを見た美里の血管は煮え立ちそうになった。
これが寛人あたりであったなら、まだ受け流すことも出来ただろう。一樹相手だとしても、それなりに我慢は出来た。
だが春香は駄目だ。
美里にとって春香は友人ではなく、ほぼ奴隷のような存在だ。
それが主である自分の話を聞かないなど、決して許されることではない。
――そう、はっきりと口にしたわけではないが、心の底からそう思っていた。
もしこれが高校時代の話であったなら、春香は翌日からえりな以上にいじめの対象にされただろう。
美里にしてみれば、馬鹿な同級生達をそう仕込むなど造作もない。
だが今ここにいる同級生の中に美里の思い通りになる人間はおらず、それどころか確実に敵になる人間が1人はいる。
さらにグラス・ヘキサゴンという隔絶されたはた迷惑な環境では、得意の同調圧力も使えない。
美里は今まで、自分が望む結果を直接口には出さず、それが正しいことであると周囲に思わせるよう仕向けてきた。
その際自分に好意的で頭の悪い同級生達は、まさに絶好の駒だった。
彼らは誘導されているとは夢にも思わず、そういう空気を作ってくれる。
しかし、1対1でしか話せないこの環境では、そんな見えない空気を作ることは至難の業だ。
たとえ一樹あたりが賛同したとしても、トランシーバーだけが通信手段では、そこから伝染病のように自分の考えを浸透させていくことは出来ない。
せめてもう1人同調してくれればいいのだが、現状それは不可能に近かった。
(全く忌々しい環境ね)
まるで自分を貶めるために作られたような環境だ。
美里は笑顔を張り付かせたまま、心の中で爪を噛む。
子供の頃の経験から、美里は感情の抑制が難しくなると、逆に表情がなくなる。
それは彼女が生きるために自然と身につけた技能でもあった。
それが最も被害を少なく出来た。
そんな感情の抑制を子供の頃から繰り返し続けたため、美里自身俗に言う堪忍袋の緒が切れた際、自分がどういう顔をするのか想像がつかなかった。
少なくとも、この不気味な顔が出来るうちは、未だ完全に理性が失われているわけではなかった。
これからどうすべきか。
何をするのが最善……は現状不可能なので、事前か。
美里は冷静に働いている理性的思考回路で考える。
「・・・・・・」
その結果、そっとトランシーバーから指を離した。
まず大前提として、これ以上春香に連絡を取ろうとするのが間違いだ。
そんなすがりつくような真似をすれば、周りからも格下に見られるし、何より春香に見下される。
それは絶対にあってはならないことだ。
そんな辱めを受けるぐらいなら、説得を諦めた方がいい。時が解決してくれるまで、待った方がいいだろう。どうせまたおせっかいの一樹あたりが何とかしてくれる。
美里にとってヒエラルキーは何より重要だ。上下関係を除いた対等の人間関係などあり得ない。
子供の頃からそう教えられてきた。
躾けられてきた。
それは家族間でも例外ではなく、分を弁えない人間も、下にいながら役に立たな人間にも価値はない。
そう躾けられてきたのだ。
(冷静になる……と思ってできるなら苦労はしないわ。それより他のすべきことを考えて、そっちに集中した方が建設的ね)
そう方針を決めたとき、一樹から通信が入る。
ちょうどいいタイミングだ。
本来なら少しもったいぶって出るところだが、さすがに今の美里ではその判断が出来なかった。
「久しぶりね、瀬尾君。あの時の続きでもする?」
美里はそう軽口を言った。
感情を抑制していたので、心なし声が低くなった気がするが一樹相手ならどうでもいいことだ。
美里の返事に一樹は少し面食らったようで、即答はしなかった。
10年ぶりに初恋の人間の声を聞いたら、そうなるものかしら――。
そんな優越感にひたりながら話を聞いていれば、その返答も自然とピントが合わないものになる。
【先に言っておくけど、アレは告白のために呼んだんじゃ無いからな】
「そういうことにしといてあげるわ」
美里は微笑をたたえながら言った。
本人がどう思っているにせよ、美里自身がそう思っているのだからそれが事実だ。
実際、高校時代は全てそれで通じたのだから。
一樹がため息を吐く。
美里にはそれさえも、気を引くための芝居に見えた。
【……じゃあもう今はそれでいい。その話は後にして、さっき中野さんといったい何を話したんだ?】
「春香と?」
美里は思わず首をかしげた。
美里にしては珍しい素の反応だ。
まさかこのタイミングで春香のことを聞かれるとは、夢にも思っていなかった。
美里が思いつく限り、一樹と春香の接点は同じクラスという事以外ない。
話したことが皆無というわけではなかったが、その内容はどれも伝達事項だったはずだ。
そんな一樹がいったい春香の何を――。
(ああ、そんなこと、ここを「出ない」を選択した理由に決まってるわね)
一樹の視点から見れば、春香は自分と話した後でここを出ないを選択したのだ。自分に原因があると考えるのは当然だろう。
それならば、こうして話を聞くのも納得できる。
自分と一樹が同じ立場だったとしてもそうしたはずだ。
とはいえ、美里にも思い当たる点がない。
むしろ自分より、その前の寛人とのやり取りに問題があったような気がした。
(素直に言った方が良いかしら)
美里は情報の価値を誰よりも理解している。
どんな小さな情報も、人によって大きな価値があることも理解していた。
それをタダでくれてやる気などさらさらない。
しかし今回の場合、一樹にこのまま春香の件を一任した方が良い気がした。
少なくとも、自分の話を聞こうとしない春香相手に、自分が説得を行うよりはマシだろう。
そのために必要な材料というのなら、渡すことを拒むこともない。
美里の頭も次第に落ち着き、いつものような損得勘定だけの計算が出来るようになっていた。
「……何か訳の分からないことを言ってたわね。橋本君が人殺しじゃないかって」
【それは俺も寛人から聞いた。その理由については言ってなかったか?】
「理由……」
どうやら一樹は直接美里が関係しているとまでは思っていないらしい。
少なくともその程度の頭は回るようだ。
だが、残念ながら美里にはその理由とやらまでは思いつかない。
今の春香の行動は完全に美里の想像の範疇を超えている。
だからといって何も答えないのもまた見くびられる気がしたので、美里は頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「はっきりとは言ってなかったけど、多分あの質問が良くなかったんじゃないかしら?」
【質問?】
「ええ。2回目の投票前の質問で、橋本君誰かが殺されたかどうか聞いたじゃない。身内の安否を確認するにしても、普通生きてるかどうかよね。それでいっぱいいっぱいだった春香が悪い方向に勘違いしたんじゃないかしら。加えて瀬尾君の背中の傷も妄想を掻き立てるのに一役買ったと思うわ。ちなみに私はその傷について聞く気はないわよ。どうでもいいし」
【なるほど……】
一樹は美里の答えに納得したようだった。
美里自身も、自分で言って「まあそんなとこでしょうね」と納得していた。
それから一樹は通信を切ろうとした。
しかし、その直前に美里はあることを思い出す。
気を抜いている今なら、その事実確認ができるのではないかと鎌をかけてみることにした。
「ねえ、ところで死んだかどうかを聞いたのって、あの大江宗一郎じゃない?」
【・・・・・・】
一樹はイエスともノートも言わなかった。
けれどそれで美里には充分だった。
一樹の表情を見れば、イエス以外の答えがないことは明らかだ。
これで、これからは大江宗一郎と寛人の関係を確信して接することができる。
あそこまで親密な一樹からの情報なら、真実に間違いはない。
尤も、すでに知っている情報のため、具体的に何かが変わるわけではない。ただ、やる気と安心感に関しては大分変わってくるだろう。
美里は勝ち誇ったように一樹に言った。
「ありがとう。その反応だけで充分だわ。自信はあったけど、確信はなかったの。橋本君と仲の良い瀬尾君がそう言うなら、あの噂は本当みたいね。それじゃまた楽しいお話しましょ」
【出来ればもう話したくない】
そう言って通信を切った一樹であるが、それが負け犬の遠吠えであることは明らかだった。
寛人の秘密を漏らしたことが、よほど悔しかったのだろう。
美里の留飲も、これで多少は下がった。
落ち着いたところで、改めて周囲を見回してみる。
寛人とタイガは先ほどとは打って変わって視線を合わせて何やら馬鹿話をしている雰囲気であり、春香は何を思ったのか一樹に通信を入れていた。
唯一えりなと自分だけが現在誰とも話していない。
そのえりなは、何か不機嫌そうな顔をしている。
「・・・・・・」
ただしそれは、自分に対して向けられたものとは違う気がした。
もし自分に対する憎しみにとらわれていたのなら、一瞥ぐらいはしただろう。
しかし、今のえりなは自分の方など一切見ていない。
明らかに別のことで頭を悩ませている風であった。
それが美里には気に入らない。
まるで自分のことなど眼中にないような振る舞いに見えたから。
ただ、そのことにわざわざ文句を言うべく通信を入れるほど、感情的でも暇でもない。
なによりもえりなのことを気にしていると思われることが屈辱だ。
美里は視線をえりなから別の人間へと向けた。
現状彼女に対して自分ができることも、通信する理由もない。
いつまで見ていても意味がないし、何より不快だ。
――そう、ここにきてから不快なことばかりだった。
ここまで自分の思い通りにならなかったことは、彼女の人生の中でない。
努力した結果に見合ったリターンは常に得てきた。
たった一つのことを除いては。
(……止めよう)
ネガティブに陥りそうになる思考を強引に中断し、また観察に集中する。
美里が主に見ているのは、一樹と春香のやりとりだ。消極方でそれだけが残った。
一樹は春香の通信に、親身に接しているようだった。
迷惑電話のような対応で通信を切った自分と違い、じっくりと考えながら問いかけに答えている。
美里は今の春香にそこまでしてやる義理があるのかと、不思議に思った。
彼女にとって人間の行動はすべて損得勘定の上に成り立ち、善はあまねく偽善である。
その証拠に、無償の奉仕をうたっている人間も、相手が感謝しないと気分を悪くする。
それは無形有形の違いだけで、損得勘定で動いているのと同じだ。
(……私が無理そうだから鞍替えしたのかしら?)
以上を踏まえ、美里にはそう思えた。
やがて2人の会話も終わる。
(確認した方がいいかしらね……)
もし気持ちが自分から春香に移ったとしたら、色々面倒だ。
フったとはいえ、美里の頭の中では一樹はどうとでも使える駒の一つである。
少なくとも、慌てるだけで状況分析もできていない春香よりは使えそうだ。
使えると言えば、一樹は確か今1回多く質問回数を持っていたはず……。
これを利用しない手はないと、美里は二つの理由から一樹のトランシーバーに連絡を入れた。
一樹はすぐには通信に出なかった。
それどころかあからさまな溜息を吐く。
その態度は美里の癇に障ったが、今回はボタンを押すのを止めなかった。
あまりつっけんどんな態度をとるのも問題がある。
もちろん縋り付くような態度は論外だが。
【もしもし】
やがて本当にめんどくさそうな態度で、一樹は通信に出た。
美里はそれに気づかない風を装い、自分のペースで話を続ける。
「何か春香と随分親密に話してたみたいね」
【いろいろとな。本来これは親友の納屋の役目なんだけど】
「親友、ね」
美里は意識的に苦笑した。
ただ、内面の嘲笑が外見に漏れ、それが誰の目にも鼻で笑っているように見えた。
美里自身そのミスに気づていない。
彼女もいったんは落ち着いたが、以前のように完全な鉄仮面に戻れたわけではなかった。
そんな自分にかまうことなく、美里は本題に入る。
「まあそんなことはどうでもいいわ。それより瀬尾君は質問を2つ持ってるわよね。今回もまた回答不可能な質問をするぐらいなら、1つ私にくれないかしら?」
この質問には2つの意味があった。
一つは言葉通り、一樹の質問権を手に入れるため。
先ほどの質問及び、春香と寛人のやり取りで、美里は寛人の父大江宗一郎に何かがあったことを確信できた。
だがそれを退院した後の寛人や、宗一郎の関係者に聞いても口を開いてくれるとは思えない。
それがここでは聞けるのだ。
それを利用しない手はない。
そしてもう1つの意味、それは一樹が自分の提案にどこまで乗るか、好感度のチェックだ。
質問の有効性は、いくらどんくさい一樹でも気づいているはず。
その無条件譲渡など、好意を抱いている人間でなければ無理だろう。
つまりこの持ちかけを受ければ、今だ一樹は自分を信頼……というより未練があり、完全に春香になびいているわけではない。
美里にはそう思えた。
【断る】
どうやら天秤は春香の方に傾いているらしい。
一樹はほとんど考えることなく拒絶した。
一樹の返事に失望はしたが、こうなることが読めなかったわけではない。何よりここで会話を終わらせてしまったら、完全なピエロだ。
美里は事前に用意していた本格的な交渉へと移る。
「あら、振られた腹いせ? それとも春香に情が移ったのかしら?」
まず軽く挑発して一樹の出方をうかがう。
それに一樹はため息交じりに答えた。
【だからアレは告白したわけじゃないし、中野を好きになったわけじゃない。とにかく俺がお前に甘い顔すると思ったら大間違いだぞ】
――そうにべもなく言ったが、通信を切らないあたり交渉を決裂させる気がないことは明らかだった。
この分なら条件次第ではなんとかできるだろう。
そう目星をつけた美里は、少しだけ考えてからそれを持ち掛けた。
「それは残念。だったら取引しましょう。私は瀬尾君に自分の分の質問と、瀬尾君にもらえる分の質問の内容を教えるわ。それで手を打たない?」
【……分かった】
果たして一樹は美里の申し出を受け入れた。
どうせ回答した時点で質問内容もだいたい理解されるような質問をするつもりだから、美里に損はない。
良い取引だったといえるだろう。
美里はそう思いながら口を開く。
「それじゃあ早速言うわ。私が知りたいのはこの10年間の保証と賠償を誰がしていたか、そしてここにいる人間達の身内で誰が死んだか、よ。まさか聞くだけ聞いて、約束を破るなんてことはしないわよね?」
【しないよ。じゃあ俺が2つ目の質問をする】
「ありがとう。契約成立ね」
心変わりをされないうちに、美里は一方的に通信を切る。
(これで今回の件と大江宗一郎の関係は大体わかるでしょうね……)
2番目の質問は、当然寛人が死亡確認したのが大江宗一郎かどうかの確認だ。
状況的に間違いないとは思うが、寛人の場合唯一の肉親である母親の安否を確認した可能性もある。
ここだけは絶対に白黒はっきりさせなければならない
そして1番目の質問に関しても、また大江宗一郎が関係していた。
今回のように大規模で、また高性能AIを用いるような実験に病院だけが関わっているようには思えない。
そこで最も関与が疑われるのが、大江宗一郎だ。
宗一郎は厚生族で医療関係と太いパイプを持つ。
さらに実の息子と思われる寛人が事故に遭ったことも重なれば、宗一郎が関わっているのはむしろ必然といえた。
宗一郎が何を思って、こんな施設に手を貸したかまではわからない。
逆にどこかの怪しい研究所が宗一郎に口利きをしてもらい、被害者兼被験者として差し出されたのかもしれない。
それを理解しないまま一方的に踊らされるのは、業腹……を通り越して危険だった。
もちろんそんな核心に触れるような事実を正直に答える保証もないが、それでも得られる情報は多いに越したことはない。
美里はそう思っていた。
交渉成立したことで、美里はさっそくクレアのボタンを押す。
一瞬約束を反故し、別の質問をしようかとも思ったが、自己満足以外の何の意味もないのでやめた。
「この10年間の保証と賠償を誰がしていたか教えて」
『「この10年間の保証と賠償を誰がしていたか」という質問受理しました』
美里は通信と同時に一樹の様子を見た。
自分が約束を守っても、一樹が反故すれば意味がない。
じっと見ていると、不意に一樹と視線が合う。
一樹は慌てて視線を逸らした。
やましいことがあって視線を逸らしたようではない。
もちろん今更照れているわけでもない。
なにか面倒ごとに巻き込まれないよう、顔をそむけたといった感じだった。
まるでやくざの様に思われていることは不快ではあったが、美里は何も考えないようにした。
目的が果たせればそれでいい。
ここから出たら、もう二度と会うこともないだろうから。
やがて中央の部屋にAIが姿を見せる。
美里はその姿より、違和感がほとんどなくしゃべる声の方が気になった。
技術的に気になったのではない。
どこかで聞いたことがある声のような気がしたのだ。
美里がそれが誰か思い出す前に、AIの声がグラス・ヘキサゴン内に響いた。
『それでは投票前に、皆さんから頂いた質問の回答を言います。室伏タイガさん、タイガさん自身の医療費は全額援助され、生活費は弟さん達が働いて稼いでいます。中野春香さん、毎日ほぼ欠かさずお見舞いに来ています。小泉えりなさん、はい。橋本寛人さん、遺産自体がほぼ残っていませんでした。納屋美里さん、国と大江宗一郎さんと中野栄吉さんを中心にした、財団がしています。瀬尾一樹さん、最初の質問に対する回答は、瀬尾一樹さんの御祖父母だけが亡くなられました、で、2つ目の質問に対する答えは閉店しました、です』
(なかのえいきち……)
美里は予想外の名前に内心で首をかしげる。
国と大江宗一郎が補償をしていたのは予想通りだった。
しかし3人目の中野栄吉とはいったい誰なのか?
美里は先ほどのAIの件を頭から完全に追いやり、そちらに思考リソースを投入する。
(中野ということは……)
美里は今更春香の名字が中野であることを思い出した。
一度春香と呼ぶようになってからはずっとそう呼んでいた上、10年間も眠っていたため名字を思い出すのに多少の時間がかかったのだ。
そこからは芋づる式で、春香の父親が建設会社の社長で、たたき上げの、あまり学のない人間であることも思い出す。
そして何より、娘との関係が色々とこじれていることも。
春香は父親の話をあまりしたがらないが、その嫌悪感は隠しようもない。
自分に面と向かって、父親を罵倒したことさえあった。
金銭的には援助することも難しくはないだろうが、それを受けられる関係ではない。
美里はそう思っていた。
世の親子関係など、どこもたいていそんなものだと。
だが違った。
少なくとも春香の父親は、10年も植物状態だった娘を見捨てないほどの親心があった。
嫌っていたのは春香の方だけだったのだ。
それに気づいたとき、春香の質問も理解する。
春香は栄吉が自分のお見舞いに来ていたのかどうか聞いたのだ。
それはつまり、彼女が父親に対する考えを改め、それを行う可能性があるだけ愛されていることに気づいたことも意味する。
美里ならそんな質問、するだけ無駄だとわかっているので絶対にしない。
どんなに結果を出そうが、決して褒めないどころか視線すら合わせようとしなかった自分の父親とでは、雲泥の差があった。
美里は人知れず奥歯を噛む。
ぎりぎりと骨から音が聞こえるほど強く。
確実に下だと思っていた人間が、自分よりはるかに恵まれた環境にあるなど決して認められることではなかった。
一方的に敵視したえりなのように。
「・・・・・・」
1人になったような気がした。
元から一人だと思っていたが、それを他人の口からはっきり肯定された気がした。
美里の脳裏に、かつて父に言われ、今まで心の奥底に封印していた言葉がよみがえる。
――お前は生まれたことが間違いなのだ、呪われた子だ――
吐きそうになった。
しかしそれを寸前で飲み込み、頭を振って考えを改める。
分かりきっていたことだが、美里には寛人や春香と違って後ろ盾はない。
そして今更春香に頼ることなどできない。
これから自分が生きていくためには、絶対的な武器が必要だ。
拷問を受け続けるような気分だが、それがわかるまでここを出るのは早計な気がしてきた。
強い孤独が、より美里を狡猾にさせた。
『それでは皆さんトランシーバーでの口頭投票お願いします』
美里は初めて考えてから、「出ないわ」と答えた。
あの質問はまだ使える。
せめてもう少し、外の状況がはっきりさせるまで残らなければならない。
『投票を受け付けました。それでは結果をご報告します』
数分後、美里を含めた全員にAIの声が届く。
自分が出ないを選んだ以上、出られないことは分かっている。
美里はまるで他人事のように、頭では次に何を質問するか考えていた……。




