納屋美里の誤解と伝えられなかった現実
前日の夜は1メートル先も見えない土砂降りだった。
けれど、明け方から雨は弱まり、翌日の昼にはすっかり止み、空に虹も架かっていた。
尤も、納屋美里にとっては雨が降っていようがなんだろうが登校することに変わりは無い。
別に皆勤賞を狙っているわけではない。
今まで休んだことはただの一度もないが、それは結果に過ぎない。
ただ家にいたくないだけ――。
(やめよう)
美里は頭を振って、ネガティブに進みつつある考えを改める。
昔から気を抜くと、物事を悲観的に考えてしまう。毎日頭空っぽにしてスポーツをしているだけの推薦組が心底羨ましい。
ただ今日これから会う人間は普通科だが、頭の空っぽぶりでは彼らとそれほど変わらないだろうが。
彼の名前は瀬尾一樹。
このスマートホン全盛の時代に、わざわざ下駄箱にラブレターを仕込んできた変わり者だ。とはいえ、生い立ち以外は特にこれといった特徴のない男子である。
それなりに社交的で交友関係も広いのだから、連絡先を共通の友人から聞けば良かったのに、と思う。
(まあ、どんな方法でも結果は変わらないけど)
美里は女神のような笑顔のまま、心の中で嘲笑した。
本当に分を弁えない阿呆だ。私のような才色兼備の学園の支配者が、あんなどうでもいい、普通を絵に描いたような同級生を相手にするものか。寝言は寝てから言え。無視しなかっただけでも感謝すべきだろう。――笑顔のまま、心の中でありとあらゆる嘲笑を浴びせる。
無視しなかったのは相手のためではなく完全に保身のためだ。
逆恨みされ、影であることないことを言われるのも面倒だと美里は思っていた。
美里は一樹が待つ教室への階段を上りながら、恨まれない上手な断り方を考え続けた。
そんなとき、ちょうど階段から降りてきた春香と出会った。
「あれ、もう帰ったんじゃなかったの?」
「うん、ちょっと用があって。春香は?」
「私は図書館で勉強してたから……。せっかくだから一緒に帰らない?」
「そうね……」
春香はクラス委員長だが、美里にとってはそんな学内での役職などどうでもいい。
彼女はこの高校では一番の秀才で、東大に入るのもそれほど難しくはない成績である。つまり勝ち組の将来が確定しているような人間だ。
ただ人付き合いが下手で友達が少なく、クラスでは浮いた存在であった。
それでもその利用価値から、美里は彼女に対し友人のように振る舞っていた。
彼女との関係は、将来必ず自分の益になる。
いわゆる投資だ。
それが分かっていれば、他の役に立つか分からない有象無象の反感を買っても、友人関係を続ける価値はあった。
美里にとって、人間関係=損得勘定である。
得すると思った人間には積極的に近づき、それ以外の人間は適当にあしらうか徹底的に無視する。
ただ、たとえどんな相手でも、自分から進んで敵対することはない。
そんな損にしかならない行為はしない。
唯一、小泉えりなを除いては――。
(……ってまた何考えてるのよ)
「どうしたの美里?」
「ううん、なんでもない。そうね、用はそんなにかからないだろうし、玄関で待っててくれないかしら?」
「分かった」
待たされることに不満は言わず、春香は階段を降りていく。
その背中を、美里は蔑みの籠もった目で見ていてた。
2人は表面上友人同士ではあるが、対等ではない。
たとえ成績は美里の方が劣っていても、学内におけるヒエラルキーは美里の方が圧倒的に高い。孝明台高校でトップといっても過言では無いだろう。
そんな2人が対等になれるはずなどない。
出会いのきっかけを作ったのが美里からだったとしても、それは変わらない。
故意か無意識かまではわからないが、春香自身もそれは理解しているようで、日々の振る舞いからとにかく美里を立て、意に沿うように努めていた。
今日もわざわざ待つと言ったのもそれが理由だ。
そんな春香が美里は哀れであると同時に、可愛くもあった。
自分の好きなように動く駒には愛着も湧く。
これから会う一樹は、そういった人間の1人だろうか。
お互い社交的であったが数えることしか話したことがない美里には、一樹がどういう性格の人間かよく分かっていない。
ただ、利用価値がある家柄や能力がないことはわかっている。
逆説的に、それだからこそ美里は一樹をよく知らなかった。
そんなことを思いながら、美里は教室の扉を開けた。
教室では暮れなずむ夕日を、窓から見ている一樹がいた。
寛人のような美少年がすれば様になる姿だったが、一樹では完全に設定に負けている。
(精一杯かっこつけようとしたのかしら?)
心の中で馬鹿にしながら、美里は口を開いた。
「えっと、お手紙読んだけど……」
美里の声に、一樹は無言で振り返る。
その表情は決意に溢れ、悲壮感すらあった。
よっぽどこの告白に真剣なのだろう。今まで告白してきた誰よりも気迫が感じられた。
こういう場合、どう断れば波風が立たないか。
美里は探るように言った。
「えっと、とりあえず橋本君の知り合いだから来たんだけど……」
まずクラス一の美少年である、寛人の名前を引き合いに出す。
この時点で、お前なんか眼中にないということを暗に臭わせた。
けれど、一樹は全く表情を変えない。
(勘が鈍いのかしら? ここは単刀直入に言った方が良いか……)
そう思った美里は、前置きを一切省くことにした。
「とにかく言いたいことは分かってるわ」
一樹の真剣な瞳は、まだ美里をずっと見つめる……と言うか睨んだままだ。
あまりに必死すぎて、だんだん可笑しくなってくる。
その笑いを飲み込みながら、美里は話を続けた。
「その、瀬尾君の気持ち自体は嬉しいわ。本当よ。そこまで私のことを気にかけてくれていたなんて。でも、今は誰かとお付き合いするとか、そういう状況でもないと思うの。私達今年受験でしょ? お互いこんな事より勉強を頑張らないと」
「こんなこと……」
何故か一樹は表情を歪め、唇を噛む。
まるで一生涯かけてきたことを否定されたかのように
この告白がそれほど大事だったのだろうか。
美里には一樹の気持ちが全く理解出来なかった。
「それは違うんだ納屋さん。そういうことじゃないんだ!」
一樹が声を荒らげ、美里を責めるように言った。
美里は心の底からうんざりする。
何故フっただけで責められなければならないのか。
フられたのは自分の責任ではないか。
出来ることならそう言ってやりたかった。
ただし、それを実際に口に出せば、一樹がストーカーに変質してしまうかもしれない。
そこでなるべく穏便かつ、拒絶の意思をはっきりと伝えることにした。
「そういうことって……。あまりしつこいようだと先生を――」
里見がそう言いかけた瞬間、すさまじい轟音が校舎全体を遅う。
その原因が何かを確認する必要は、当事者達にはほぼ必要がなかった。
なぜなら、轟音と窓から膨大な土砂が飛び込んできたのは同時だったのだから。
孝明台高校は「台」という言葉が示す通り、丘の上にある。さらに頂上付近ではなく、その中腹辺りにあり、校庭に面する窓と逆側は崖に面し、その崖が降り続く雨で一気に崩れたのだ。
実際に崩れるまで、その危険性に気付いた人間は誰もいなかった。おそらく玄関で待っている春香も、被害にあっていることだろう。
ただ、幸いなことにこの絶望的な崖崩れが起こったのは放課後であったため、被害者の数はそこまで多くはならなかった。
もちろん、その少ない被害の当事者になった人間にとっては、規模の大小など関係ないが。
「きゃー!!!!!」
美里は悲鳴を上げた。
心からの悲鳴だ。
そのすぐ後、こんなところで終わってたまるかという、激しい憎しみが沸き起こる。
どんな事をしてでも生き残る。
生き残って幸せになってやる。
そんな強い意志が天に届いたのか、美里の前に誰かの手が差しのばされる。
美里はそれを反射的に掴んだ。
掴んだところでどうなるとも思えなかったが、それが美里には最後の命綱のように思えた。
やがて轟音は校舎全体に轟き、美里の意識ごと土砂が飲み込んでいく。
彼女の強すぎるほどの意志が再び地上にその姿を見せるのには、それから10年の歳月を必要とした――。




