瀬尾一樹の伝えたかったことと伝えられなかった現実
前日の夜は1メートル先も見えない土砂降りだった。
けれど、明け方から雨は弱まり、翌日の昼にはすっかり止み、空に虹も架かっていた。
おかげで孝明台高校の生徒達は、ぬかるんだ坂道を汗水垂らしなが通学させられる羽目になった。
しかし、雨は大きな疵を残していた。
目には見えな地面の下で。
それに全く気付かないまま、瀬尾一樹は放課後の校舎で人を待っていた。
「えっと、お手紙読んだけど……」
暮れなずむ教室、沈みゆく夕日を複雑な思いで眺めていた一樹の背中に、女子生徒の声がかけられる。
それが誰かは振り返って確認しなくても一樹には分かった。
何故なら、彼女――納屋美里を呼んだのは他ならぬ自分なのだから。
一樹はぬかるんだ坂道を、朝練を始める――尤もこんな状況で活動する部もいなかっただろうが――生徒達よりも早く通学し、美里の下駄箱に手紙を仕込んでいたのである。
曰く「大事な話がある。2人だけで話がしたい、と」
美里は才色兼備という言葉が相応しい、孝明台國府高一の美少女で学内のマドンナ的存在であり、今まで受けた告白も一度や二度ではない。
ただそれらは全て失敗に終わり、未だに彼女に恋人はおらず、告白しようとする人間は無謀な阿呆と思われるようにさえなっていた。
一方の一樹は容姿が飛び抜けているわけでもなく、何か一芸に優れているわけでもなくどこにでもいる普通の男子高校生だ。
客観的に見るまでもなく、美里とは釣り合わない。
けれども彼女が来てくれるという確信があった。
(――正確には違う、か)
一樹は心の中でその考えを一部否定する。
来るという確信ではなく、自分だから断れない、むしろ断ってはいけないのだという思惑があった。
彼女はおそらく既に自分の気持ちに気付いている。
そう信じていた。
「えっと、とりあえず橋本君の知り合いだから来たんだけど……」
美里はそう切り出す。
橋本君、というのは一樹の幼なじみで、遊び好きで女の子の噂が常に絶えない、派手で軟派な美少年、橋本寛人のことだ。
どちらかに分類しなくても真面目な一樹と正反対の性格であるが、何故かこの2人は馬が合い、幼なじみというだけでなく、親友同士でもあった。
美里はここに来たのは、そんな寛人の影響が大きいからだという。
一樹はその言葉を聞いて、がっくりと肩を落とした。
どうやら思いは通じていなかったらしい。
この時点で、一樹が想像していた最良の未来は、ほぼ実現不可能になったような気がした。
最良の未来どころか、最悪の未来になるかもしれない。
もしそうなれば、自分も手段を選んではいられない。
そう思い、一樹はポケットに入っていたスマートホンを握り占める。
「とにかく言いたいことは分かってるわ」
微笑みながら美里は言った。
クラスメイトなら、心までとろかされるような笑みだ。
けれど一樹にはそれが自分を見下して言っているものだとすぐに気づいた。
……外見や身体能力において特筆すべき点もないが、社交的で友人が多い一樹は、その人間が裏でどんな感情を抱いているか大体わかった。
いわゆる知能指数ではなく、心の知能指数が高い人間なのである。
「その、瀬尾君の気持ち自体は嬉しいわ。本当よ。そこまで私のことを気にかけてくれていたなんて。でも、今は誰かとお付き合いするとか、そういう状況でもないと思うの。私達今年受験でしょ? お互いこんな事より勉強を頑張らないと」
「こんなこと……」
一樹は唇を噛んだ。
これから話そうとしていたことは、絶対にこんな事で済まされる問題ではない。
ただ、その点に関して反論するより前に、一樹にはすることがあった。
確実に美里は勘違いをしている。
その誤解を解かなければならない。
「それは違うんだ納屋さん。そういうことじゃないんだ!」
一樹は美里に詰め寄る。
そんな一樹に怯えているような態度で、美里は後ずさりをした。
「そういうことって……。あまりしつこいようだと先生を――」
里見がそう言いかけた瞬間、すさまじい轟音が校舎全体を襲う。
その原因が何かを確認する必要は、当事者達にはほぼ必要がなかった。
なぜなら、轟音と窓から膨大な土砂が飛び込んできたのは、ほぼ同時だったのだから。
孝明台高校は「台」という言葉が示す通り、丘の上にある。さらに頂上付近ではなくその中腹辺りにあり、校庭に面する窓と逆側は崖に面し、その崖が降り続く雨で一気に崩れたのだ。
実際に崩れるまで、その危険性に気付いた人間は誰もいなかった。
えてして大事故とは前兆なく起こるものだ。
ただ、幸いなことにこの絶望的な崖崩れが起こったのは放課後であったため、被害者の数はそこまで多くはならなかった。
もちろん、その少ない被害の当事者になった人間にとっては、規模の大小など関係ないが。
「きゃー!!!!!」
美里が悲鳴を上げる。
一樹はそんな美里に、反射的に手を伸ばそうとした。
しかし、押し寄せる土砂はそんな一樹ごと飲み込み、かつて校舎だった物が、ほぼ一瞬で泥の山と化した。
結局一樹は美里に対して言いたかったことの100分の1も言えなかった。
その思いはこのまま泥の山で埋もれてしまうだろうか。
一樹は薄れゆく意識の中でそう思い始める。
だが、大いなる自然はそれを是とはしなかった。
彼の思いはそれから10年後、本人もこの世の誰もが想像しなかった形で蘇ることとなった――。