飾られた桜の小枝
さて夕刻時。ここからは給仕で大忙しとなります。とはいえ一番下っ端の私は、姐さんたちに言われるまま、野菜洗いに芋の皮むき、食器運びに目まぐるしく右往左往。ようやく一段落ついたのはちょうどお夕食の時間。配膳に不手際があってはならないからと、順番に料理をお出しする姐さんたちの動きを、お部屋の隅で見ておくように言われておりました。
カチャ、と扉が開く。ガウンを着た初老で怖面の男性、雑賀の御当主様がいらっしゃったようです。続いて長い黒髪をひとつにまとめた、背の高い若い女性。凛として麗しいお姿に目を奪われそうです。お二人が席につかれると、食卓が少し華やかになりました。そして少し経って、袴の青年が入ってくる。
「あ」
新山恭四郎様だ。恭四郎様は着席されると、こちらに目配せをし、口元をほんの少し緩ませた。それが私に微笑まれたように見えて、私に気づいておられるようでした。私は少し緊張し、頬が紅潮したかもしれない。
「梢ちゃん、皆様がテーブルに座られている位置もよく覚えておいてね」
アサミさんが近づいて、そっと耳打ちしてくれました。
「まず一番奥におられるのが、御当主の雑賀惣右衛門様。続いて右隣にいらっしゃる長髪の女性がご令嬢の怜様。それから、袴姿の男性、あの方が奥様の甥の恭四郎様だよ」
あれ、よく見ると奥様の食器の用意がない。
「そういえば、たしか雑賀様は旦那様と奥様、お嬢様の3人家族でいらっしゃいましたよね。奥様はこちらでは召し上がられないのですか」
「奥様はお体を患っておいでだから、お食事はひとり自室で召し上がられるんだよ」
「そうでしたか」
アサミさんは少し苦い顔をしたあと「あんまり気にしなくて良いからね」と微笑んだ。
と、そのとき再び扉がカチャっと開き、いかにも高そうで派手な着物に身を包んだ女性がお出でになりました。あの人は、今朝お庭で恭四郎様と話されていたおばさんだ。その場にいた給仕の姐さんたちが全員ギョッとした顔で女性を見た。
「今夜は恭四郎が見えていますからね。皆そんなに驚かなくとも。食事くらい一緒にさせて頂きますよ」
女性はそう言うと、素知らぬ顔ですたすたと着席された。ぎょろぎょろとした目で周囲を舐めるように見回している。その場にいた全員の背筋が凍るのを感じた。私は何が何やら。空気がピリリとしている。思わず隣にいたアサミさんの顔を伺うと、小声で「奥様の操様よ」と教えてくれました。
不穏な空気を破り、最初に口を開いたのは恭四郎様でした。
「これは叔母様、お体の調子はいかがです?」
「恭四郎は優しい子ね。今夜は思いの外調子が良いの。普段は見たくもない人の顔も、今夜は耐えられそうに思ったのよ」
操様の口元が二ィっと上がり、目元のシワがぎゅっと寄った。細めてもなお大きな目は、向かい側にお座りになられている怜様を睨むように捕らえていた。
「ねぇ怜、恭四郎がわざわざ来てくれたのよ。お前のような娘にはもったいないわよね。素晴らしいわ、そう思わない?」
「ええ、本当に」
操様のねっとりした物言いに、それまで静かに聞いておられた怜様が答えられた。怜様のお声は静かだけれどスッと届いてくるようでした。
「本当に可愛げの無い子だわ」
操様はふんっと鼻を鳴らし、懐から取り出した扇子でお顔を仰がれた。慌てて操様の食事を用意している姐さんたちを、品定めするようにぎょろぎょろと見たあと、今度は部屋中を見回している。すると、操様の目がハッと一点を捕らえたようだった。みるみると憤怒の色に染まり、一言つぶやかれた。
「ねぇちょっと、誰が桜を飾って良いと言ったの」
再び全員の動きが止まった。そして、全員がその部屋の同じところを見た。息を飲む音や小さな悲鳴が聞こえる。皆が見ているのは、お部屋の隅に、小さな花瓶に生けられた桜の小枝。それは夕刻前、私がお庭から手折って来て飾ったものでした。
「申し訳ございません!すぐに片付けます!」
蒼白した顔で慌ててアサミさんが叫び、それと同時に姐さんたちが急いで桜の枝を奥へ下げた。操様は怒りに任せてバンッと大きな音を立てて立ち上がられる。
「誰よ!よくもこんな、私の目の届くところに!名乗りなさい!!」
操様は周囲を睨みつけ、手元のグラスを床に叩きつけた。グラスは割れ、破片が飛び散る。私は訳も分からず、ただ操様がとても恐ろしくて、がたがたと震えてしまっていた。
「申し訳ございません・・・私です・・・」
私はようやくひとこと搾り出しました。周囲の視線を感じ、体が縮こまる。震えが止まらない。ぎゅっと目をつぶっていると、すかさずアサミさんが叫びました。
「奥様、この者は立花の孫で、本日より女中としてお仕えしている梢と申します!この度のこと、梢に指示が行き届かなかった私の責任でございます!」
アサミさんは大きく頭を下げた。それにならって、すかさず私も頭を下げる。操様が次の罵倒を言うよりも前に、旦那様が「もうよい」と遮られた。
「もうよい。それより立花の孫か。立花には幼少より世話になった。今後も励めよ」
旦那様はそれだけおっしゃられて、あとは黙々と食事を続けられた。旦那様に遮られた手前、操様はバツの悪そうなお顔を赤黒く染められ、「あとで私の部屋に来なさい」と言って出ていかれてしまった。食卓はシンとし、重い空気だけが残る。
私は恐怖で気分が悪くなり、それを察したアサミさんによって奥へ連れて行かれました。「あとで一緒に奥様に謝りに行くからね」と肩を抱いてくれたアサミさんにホッとして、私は奥の女中部屋でわんわん泣いたのでした。