また会う日を楽しみに
彼岸花が囁く夏の暮れを、今でも思い出す。
ブカブカの制服で走り回った中学の校舎も。億劫になって、仲間と抜け出した高校の数学も。
好きな子が出来て、コクって。そしてフラれた仲間を、いつものバカなノリで励まし合った放課後の帰り道も。
みんなみんな、陽炎の向こうに消えてしまった。
あれから十年が過ぎて、あの地元はもう遠くなって。
ふとした時に思い出す郷愁も、胸の底に仕舞った想いも。思い出す度に苦々しくなって、埃を被せてしまって。
そうしていつしか、どこにも帰れなくなっていた。
だからきっと、今更還ってきたのは、単なる気の迷いだったんだろう。
(あいつ、俺の事覚えてんのかな……)
故郷へ続く道すがら、埃を被せていた苦い記憶が蘇る。
いつも遅くなるまで一緒に遊んだ、少女の記憶。
感情ばかりが先行して、今となっては彼女の顔も思い出せない。
夕暮れの木陰で灯した、少し早い線香花火も。静寂に寄り添う小さな音も。その横顔に、張り裂けそうになった胸の苦しさも。
消え行く蛍の残光にも似て、砂場で見つけた綺麗な石ころみたいに小さなその感情を、恋と呼ぶのか。
俺はまだ、迷ってしまっている。
「お母さん早くー!」
「はいはーい」
緋色に群青が乗る空を、祭囃子の間抜けな笛の音が泳いで行く。
この祭囃子の笛の音も、もう聞くことはないだろう。きっともう、俺はこの村には還って来ない。
道中の畦道で、浴衣の親子とすれ違う。二人は、還ってきた人間の事なんて気にも留めず歩いていく。
(もう、誰も俺のこと気付かないんだ)
十年も前に飛び出した地元は、もう俺の事を忘れてしまった。
きっと彼女も、俺の事なんて覚えていないのだろう。そう考えると、どうしようもなく胸が締め付けられる。
『ねえ』
ザアと、畦の露草が啼いた。
入道雲に走る電線。風が運ぶ祭りの喧騒。
試し打ちの花火が、一瞬の静寂を生んで、空に咲く。
狐の面に曇った声が、鼓膜を撫でた。
『このビー玉、取ってくれない?』
浴衣に咲いた沈丁花を歪めて、その女性が瓶を差し出す。
呑み終えた後のラムネ瓶。カランコロンと踊る、透明なビー玉。
子供心に煌めいて見えて、ほしくなって。けれど力が弱くて取れなくて、父さんに頼んで取ってもらった。あの小さく湿った、硝子の玉を思い出す。
「……俺に言ってる?」
『アンタしかいないでしょ。それ、取れそう?』
「ん、あー、これは栓抜きないと無理かな?」
道端に腰を降ろして、飲み口を拭ってから右に捻る。
湿った飲み口は回らない。
「ごめん、やっぱ無理だ」
『いいよ。じゃあ花火見ようよ』
瓶を返すと同時に、宵闇にシャンデリアがその灯を燈した。
赤い灯を合図に、次々と空に華が咲いていく。赤、青、黄色。その残り火は蛍みたいに漂っては消えていく。
海ホタルの淡い煌めきを、集めて閉じ込めたスノードームのように。
暗い夜空の灯火は、どこか小くて、どこか違う世界のような煌めきで、僕の目を奪う。
『ほら、綺麗だよ』
「いやでも、お姉さん誰かと一緒なんじゃ」
『何言ってんの?』
瞬く夜闇の幻燈に揺れながら、狐の面が外される。
沈みきった夕陽。花火の後に昇る星。
コオロギの声がフェードアウトして、ウミホタルみたいに青い光の中に、見知った面影が照らし出される。
「──アンタを待ってたんじゃん」
懐かしい彼女の、俯きがちの顔に掛かる前髪と、少し緑がかった大きな瞳。
笑うと覗く、小さな八重歯。十年で随分変わったけど、その綺麗な緑の瞳は変わらない。
「帰ってくるの、遅すぎだよ……」
緑の瞳が濡れて、ハスキーな声が揺れた。十年前に死んだ俺が、最期に聞いた声を思い出す。
「あぁ……」
もう少し。もう少しだけ、早く還ってきたらよかった。
彼女ともう一度逢って、その感情の名前を見つけられたのだから。
「ごめん。でももう、行かなきゃ」
今更還った俺を、彼女は情けないと笑うだろうか。
自分勝手に消えていく俺を、彼女は薄情だと罵るだろうか。
手折った花を、泣き出した彼女の目線に合わせて、ぼんやりと考える。
「帰ってきた、ばっかじゃん……」
泣きじゃくる彼女が顔を上げた。
緑のビー玉を覗いたみたいに透明な煌めきに、花火の残光が散っていく。
「だからこれ。もらってくれないか」
もう薄くなった手で、一輪の花を贈る。
「彼岸花……」
「知ってるか、これの花言葉。これな」
本当は、俺の事は忘れてください、と言うべきなのだろう。
幸せに生きてくれ、とひっそり願うべきなのだろう。
けれど、俺は弱いから。最期まで言えなかった言葉を、伝えたいと思ってしまう。まだ生きたいと、願ってしまう。
生きたい。生きたい。彼女のそばで、俺も生きたい。
もし神様がいるのなら、どうか見逃してください。
ずっと分からなかったこの気持ちを。死んで始めて「恋」と気付いたこの気持ちを、伝えることは罪ですか?
「好き」と言う感情は、罪ですか?
もし、罪だったとしても。
今この時は、見逃してください。
最期の最期に、消えていく蛍の光や綺麗な石ころにも似たその「恋」を、迷わず吐き出すことを。
燃えるように真っ赤な、彼岸花の花言葉に乗せて──
『想うは、あなた一人』
彼岸花は別名リコリス・ラジアータです。
花言葉は『思うはあなた一人』。
それと、『また会う日を楽しみに』です。