中編
「ごきげんよう」
「良い晩ですね」
続々とお客様が入ってこられる。王族の親戚の方や、貴族の家の方々。そのすべての方々が豪華な衣服や装飾を身に着けておられた。
勿論、ほんの子ども以外の方々のほとんどは男女でペアになっている。
夫婦、婚約者、あるいは恋人。年代や事情によって色々あるだろうが、いずれもそのたぐいであろう。
そして自分も。
サシャはちらりと隣を見た。
ミルヒシュトラーセ家の家族、関係者の座る席。サシャの隣には勿論『ロイヒテン様』が居る。やはり髪を持ち上げて固めて、そして今まで見た中で一番豪華な服を着ていた。
事前に話したように、ワインレッドを基調とした盛装。今となっては、カフェの片隅で衣装の色について話したことのほうが夢のようだった。
でも夢ではない。あのときサシャがカタログで見て「これがいいわ」と指したピンクのドレス。自分も今、仕上がったそれを着ているのだから。
ドレスは体にぴったり。コルセットなども無く、ふんわりとしたスカートなのでそう苦しくもない。
むしろ着心地はとても良かった。慣れなくはあったが。
使われている布の質がそもそも庶民のものとはまったく違うのだ。庶民は、少なくともサシャの国では、綿や麻の生地が主流。せいぜいバーの歌姫をするときだけ、絹素材のドレスを着るくらい。しかしそれも質がいいとは言いがたい、最低ランクの質だろう。
今着ているものも絹だが、着心地は比べるのもおこがましいくらいにするりとしなやかで光沢を持っている。
こんな良いものを着てしまっては、もう普段着が着られないかもしれないわ。
そんなふざけたことまで思ってしまうほどに信じられないものであった。
ドレスを着るだけではなく、サシャの髪はハーフアップにされて、下ろした部分は綺麗に巻かれている。そこへレースの付いたリボンを飾られていた。金髪、それもロングヘアなので華やかな髪型がよく映える。
勿論メイクも完璧。自分で施したものとは比べ物にならなかった。
そもそも使っている化粧品からして、いや、そもそも容器からしてランクが違った。
ファンデーションは艶を持って真っ白、チークはやわらかなピンク。そしてリップはグロスを重ねてぽってりとかわいらしく。
ドレスは一度試着したものの、髪やメイクまでセットしてもらってはいなかったので、フル装備にしてもらって鏡を見てサシャは、ほう、と息をついてしまった。
まるで絵本のお姫様。自分がこんな『お姫様』になれるなんて。
場末のバーの歌姫は、今宵だけ本物のお姫様になれるのだ。
お客様が次々と入ってきて、国王陛下や王妃様、王子様たちに挨拶をしていく。その中の一組に、サシャは少しの違和感を覚えた。それは男性のほうではなく、女性だった。サシャより少し年上に見える。
「お久しぶりね、ロイヒテン様」
国王陛下などにご挨拶をしたあと、こちらへやってきた彼女はツンとした口調で言った。彼女はサシャと同じ金髪。高く結い上げていた。
「……お久しぶりです」
ロイヒテン様はなんだかきまりが悪そうだった。「お知り合い?」と聞きたかったけれど、この状況でそんなことは訊けない。サシャはなにも言えなかった。
「サーシャ、こちらはエリザベータ=オイレンブルク様。隣の領のお家の……」
ロイヒテン様は彼女を紹介してくれ、彼女にもサシャのことを「彼女はサーシャ=アシェンプテル。……婚約している」と紹介してくれた。なんだかツンツンした彼女に少々圧を感じていたものの、『婚約者』と紹介されたことに嬉しくなってしまった。ロイヒテン様は婚約していると言うのを少し躊躇った様子であったけれど。そこも少々謎だった。
しかしそんなこんなを態度に出すわけにはいかない。サシャは表情を引き締め、「お初にお目にかかります」とお辞儀をした。
「こちらこそ」
彼女はそれしか言わなかった。そして「楽しい晩になりますように」と、隣に居た男性にエスコートされて去っていった。その言葉が建前でしかないのは明らかだった。
彼女が去って、ロイヒテン様はため息でもつきそうな顔をする。実際にため息はつかなかったがそういうお顔だった。彼女……エリザベータ様となにかがあるのだろう。
察したけれど、今、この状況でなにが言えるものか。次のお客様がすぐにいらしたこともあり、サシャはまた、今夜何度目かもわからぬ「お初にお目にかかります」を、にこりと言うことになった。
国王陛下のご挨拶のあとは、あちこちでグループができてお喋りがはじまった。
けれどロイヒテン様は「ゆっくりしていよう」とサシャを端のテーブルまで引っ張っていった。そしておつきに料理や飲み物を持ってこさせてサシャに勧めてくれた。
「ありがとうございます」
あの中に入ってもなにを話せばいいのかわからないし、このほうがありがたい。
供された料理はとても美味だった。なんという名前かわからない料理も多い。ただ、テーブルマナーはこの国でもサシャの国でもそう違いは無いようなので、そこを気遣う心配がないのは安心した。
あら、これ美味しいわ。せっかくだからなるべくたくさんいただこうかしら。
そんなことすら思えてしまうサシャは良い意味で図太かったといえよう。
「美味しいかい」
自分でもワイン……普段カフェの近くの店で飲むものとは明らかに質の違うものだが……を手にしながらロイヒテン様が言う。なんだかこの状況が楽しくすらなってきていたサシャは上品に見えるように微笑み、「ええ」と答えておいた。
「それは良かった」
微笑み返したロイヒテン様は、内に秘めているシャイの顔では「上手にやっているじゃないか」と言っているのがわかったし、それがわかるのが嬉しいと思う。
端のテーブルとはいえ、何人かの貴族や親戚という方々が入れ替わり立ち替わりやってきた。しかしロイヒテン様の根回し、『彼女は内気だから』は完ぺきだったようで、サシャが言葉少なでも疑う様子を見せる者はいなかった。
「お兄様!」
少し時間が空いたとき、水色のドレスを着た少女がロイヒテン様のもとへやってきた。
長い黒髪、緑色の瞳。
お顔を見て、少し考えてサシャは気付いた。あのとき、隣町で馬車を見たときロイヒテン様の隣に居た娘だ。
妹様、と言われていた。つまり、ロイヒテン様の妹様で本物のお姫様だ。
昨日間近でお顔を拝んだロイヒテン様の母上とよく似ておられる。ロイヒテン様とは少し違って、彼女は母親似のようだ。
「キアラ。今夜は特に綺麗だね」
「当たり前よ」
ふふっと言って、しかしその言い方や表情に嫌味はまったく無かった。
どうやら気質は『シャイ』に似ているようだ。明るく、人好きで、人懐っこい。
「サーシャ。こっちはキアラ。妹だ」
紹介されたので、サシャは椅子を立ってお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。サーシャ=アシェンプテルと申します。ロイヒテン様にお世話になっております」
「はじめまして。キアラ=ミルヒシュトラーセです」
キアラ姫は少女らしい好奇心旺盛な瞳でサシャを見つめ、ドレスや髪などあちこち見てきたのだが、にこっと笑った。無邪気な笑みだった。
「綺麗な方ね」
「あ、ありがとうございます」
本物のお姫様にそう言われてしまうなど光栄だわ。むしろ同性から認められるほうがすごいのではないか。違う意味でサシャは嬉しくなってしまった。
「サーシャの三つ下になるかな。今年十三だ。まだまだ子どもだよ」
「まぁ酷い」
ぷぅ、と膨れた様子はしかしロイヒテン様の言う通り子どもにしか見えず、微笑ましかった。しかしキアラ姫は無邪気なだけの娘ではないようだ。
「いつまで放蕩なさるおつもり?良いおとしをされて」
次に出した話題は、声を潜められていた。ロイヒテン様は困ったように笑う。事実ではあるので。
「キアラは手厳しいね」
「お兄様のことを思っているのよ」
「それはありがとう」
そんなやりとりのあとは、サシャにお鉢が回ってきた。
「サーシャ様は、ほんとうはなにをされているの?」
ぎくりとした。この娘にも話が伝わっているのか。
それはそうかもしれないが。身内……それも妹などという近しいも近しい関係であれば。十三といえばまるで子どもというわけでもないので。
「サーシャは」
ロイヒテン様が助け舟を出してくれようとしたが、キアラ姫にびしりと止められてしまう。
「ストップよお兄様。私はサーシャ様とおはなしがしたいの」
「……ははは、悪かった悪かった。じゃ、女の子同士で話したらいい」
ロイヒテン様はちょっと言葉を切ったものの、すぐに笑ってサシャを見た。ロイヒテン様の身内で素性が知れているので過剰に心配はしていないだろうが、やはり不安なのだろう。そういう顔をしていた。
大丈夫よ。
サシャは微笑んだ。それにロイヒテン様も、少しだけ安心したように笑ってくれる。
そのやりとりをどう見たかはわからないが、キアラ姫はサシャの隣に腰を落ち着けてしまって、「そうするわ。それで?学校などに通われていらっしゃるの?」などと話をはじめてしまった。
学校に通っていること、そしてバーで歌姫をしていることなどをサシャは話した。あまりに卑しい身であることは言わないほうが良いと思ったので、いかにも『ある程度の良い家の娘』の話に聞こえるように気は配ったが。
「あら、じゃあお姫様ではないの」
バーの歌姫に関しては、キアラ姫はちょっと目を見張った。サシャは苦笑してしまう。
「そんな上等なものではないのです」
「歌姫様ならおうたが上手いのでしょう。今度聴かせてくださいませ」
「お耳汚しにしかならないかもしれませんが、もし機会がございましたら……」
自分の言い方が我ながら上手かったのだと思う。『バー』のことを、労働者が一杯ひっかけるような雑多なところではなく、いかにも身分のある人々が集まるようにだいぶ脚色したので。まるで嘘ではないとはいえ、まるっと本当のことではないので心は痛んだが。
あれこれ、十分近くは話していただろう。
そのうちに遠くからキアラ姫を呼ぶ声がした。国王陛下ではなく、親戚かなにかのようだ。こちらへきてお話をしましょうとでも誘っている声だった。
「呼ばれてしまったわ。私、失礼するわね」
キアラ姫は立ち上がって、「サーシャ様、またいらしてね」とまで言ってくれた。
「ああ。キアラ、サーシャとの話はくれぐれも」
「わかってるわ。内緒話よ」
釘を刺したロイヒテン様にしれっと答えて、そして最後にひとこと告げる。
「サーシャ様、良い方ね。私、エリザベータ様より好きだわ」
「こら、キアラ」
ロイヒテン様はぎくりとしたような顔をして、キアラ姫を小さく叱った。それにもかまわずキアラ姫は「ではね、お兄様。サーシャ様、ゆっくりしていらしてね」と言って去っていってしまう。
「ありがとうございます」
そう言って見送ったものの、サシャの頭には疑問符が浮かんでしまった。
エリザベータ様?
さっき出会った、ツンとしたどこか不機嫌な様子だった女性だ。どうして彼女と自分を比べる必要があるのだろう。
「やれやれ。すまないね。騒がしかったろう」
「そんなことないですわ。楽しかったです」
「それならいいけれど」
言ったあとに、ロイヒテン様がふと距離を詰めてきた。顔が近づいたのでサシャは少し、どきりとする。
「上手くやるものだね」
先程キアラ姫が言ったように、内緒話。サシャはほっとすると同時に嬉しくなってしまう。期待に応えられたことに。
「私で大丈夫と言ったのは『ロイヒテン様』よ」
こそこそと言い合い、ふふっと笑った一瞬だけは、ただの『シャイとサシャ』であった。
パーティーも興が乗り、広間ではダンスがはじまっていた。優雅な社交ダンスが、ゆったりとした音楽に乗って踊られている。音楽は勿論、生演奏。
部屋の隅には音楽隊がいた。ピアノ、バイオリン、チェロ、フルート……これほどきちんとした音楽隊をサシャは見たことがなかった。
自分が普段、バーで歌うときは勿論、伴奏やBGMを入れてもらう。けれどそれは大概ピアノ、もしくはバイオリンの独奏であった。
このような豪華なバックミュージックで歌を歌えたら楽しいでしょうね。そのように思った。
ダンスに関してはあまり興味がなかったが。ロイヒテン様も「参加しなくてもいいんだよ」と言ってくれたので、サシャはお言葉に甘えることにした。社交ダンスなどはしたことがなかったので、こればかりはどうにもならないだろう。ダンスには参加していない者も多く見えたので、不自然でもないはずだ。
なので二人でソファに腰かけてゆったりとその様子を見ていた。
「サーシャ」
ふと、ロイヒテン様がサシャに呼びかけた。
「なんですか?」
サシャは何気なくロイヒテン様を見たのだが、そっと手を重ねられてどきっとした。王子の盛装がそうであるように白い手袋をしているのだが、確かに彼の温度を感じてしまったので。
「今日は来てくれてありがとう」
どきどきしながらもサシャは笑って言った。
「あら、まだ早くはなくて?」
パーティーの流れはよくわからないのだが、雰囲気的にまだお開きには少し早いと思う。
ロイヒテン様はサシャに微笑みかけた。なんだか今までになかなか見たことのないほどやさしい笑みであった。
「いや、そうなんだが本当に助かったから」
「そうね。……スイーツビュッフェ」
「お望みのままに」
秘密の話を堂々と、ただ内容はわかりやしないように端的に言い合い、ふふっと笑った。
「まぁそれもあるんだが、今日は」
ロイヒテン様が、ここまでとは違うなにかを言いかけたところで、よそから「今晩は」と声がかかった。
サシャが顔を上げると、そこには先程ちらりと話題に出た彼女……エリザベータ様がパートナーの男性と立っていた。パートナーの男性はどういう関係なのかわからないが、一歩引いている。
「……エリザベータ様」
ロイヒテン様の表情が一瞬で硬くなるのが、サシャにはわかってしまった。
このひととはどういう関係なのだろう。良いものでない様子なのは、ここまでで散々目にしてきたが。
「ご挨拶に参りましたわ」
言う声もツンとしている……というよりは不機嫌全開であった。
「それはご丁寧に」
そう言ったロイヒテン様に続いてサシャも立ってご挨拶をし、そしてエリザベータ様はパートナーの男性と共にソファに腰かけた。
ロイヒテン様、大丈夫かしら。なにが大丈夫なのかはわからないけれど。
心配になってサシャはちらりと彼を見てしまった。しかしそれも彼女の、エリザベータ様には気に入らなかったらしい。サシャの頭からつま先までじろじろと眺めまわす。
好奇心しかなかったキアラ姫の視線とはまったく違い、粗探しをしているのが明らかであった。しかし特に文句をつけるところもなかったようで、エリザベータ様が言ったのは単純なことだった。
「この娘が婚約者ね。ずいぶん子どもっぽい方とご婚約されたもの」
それは完全に嫌味であったので、サシャは、むっとしてしまう。
別に自分が『子どもっぽい』といわれたことにではない。それは幾つかはわからないが彼女のほうが明らかに年上なのだから、子どもっぽいという形容は完全には間違ってもいないといえるので。むっとしたのは、ロイヒテン様を馬鹿にするような言い方であったことだ。
「……彼女はまだ十六ですから」
ロイヒテン様も不快に思ったのは明らかであったが、声音は落ち着いていた。
「若い娘のほうがよろしいということね」
「……エリザベータ様。お気持ちはわかりますが、サーシャにまで飛び火させないでくださいますか」
このいくつかの面白くないやりとりでサシャはなんとなく察した。
エリザベータ様は昔、なにかしらロイヒテン様と関係があったのだろう。婚約者とか、恋人とか、そういう。
でも事情があって、今はそういう関係ではない。彼女にとってはきっとそれは不本意なのだろう。だからこのようなことを言ってつっかかってくるのだ、きっと。
「そんなつもりではないわ。貴女、ロイヒテン様だっていつまでお傍におられるかわからなくてよ。ロイヒテン様ときたら」
「やめないか!」
サシャに言われかけた言葉。ロイヒテン様が不意に、ここまでとは打って変わった口調で声を上げた。
サシャは驚いてしまって彼を見上げたし、エリザベータ様も同じだったようだ。目を丸くする。
「このような場で話すことではないだろう。それに俺は」
不意にもう一度、場の空気ががらっと変わった。ロイヒテン様が、隣に居たサシャの腰をぐいっと引き寄せる。
わ、なんて貴族の娘にはふさわしくない声を上げるところだった。
そんなサシャの頬になにかが触れる。さっき感じた、手袋越しの体温。
それが頬に触れる意味を理解する前に、ぐぅっと彼の顔が近づいていた。くちびるにやわらかな感触が触れる。
それはほんの一瞬だった。すぐにロイヒテン様は顔を引いてしまったが、サシャの腰は引き寄せられたままで、つまり彼の胸に体を預けるような格好にされていた。
「俺はサーシャを愛している。俺から恋をした相手だから」
しっかり抱きしめられて、そんなことを言われて、そしてさっきの一瞬のキス。
え、え、なにこれ。
これはパートナーの、婚約者の振りではなかったの?
おまけに恋をした、なんて。
一体なにが起こっているかわからないサシャは、おそらくこの場で一番混乱していただろう。
ただわかるのは、初めてこんなふうに触れたロイヒテン様の体は思っていたよりずっとしっかりと、がっしりしていて男のひとであったことと、緊張はしているものの、それとは真逆にあたたかくてとても安心するものだということ。
驚愕レベルはサシャの比ではなかったろうが、エリザベータ様も多少は動揺したらしい。
「仲がよろしいようでなによりだわ。……失礼しましょ」
パートナーの男性に腕を伸ばし、その腕を取ってさっさと行ってしまう。
彼女の吐き捨てるような言葉。それも心に確かに刺さりはしたが、そんなものは些細なことだと思ってしまう。この状況からしたら。
「……サーシャ」
呼ばれる声が近すぎて、サシャはびくりとした。真上から降ってくるようだ。
「すまない、唐突に」
「え、いえ、あの」
なにを言うべきかわからなかった。
やっと顔を上げたが、余計になにも喋れなくなってしまった。数十センチ先のロイヒテン様のお顔。これほど近くで見たことなどなかったので。琥珀色の瞳が今は硬い。
「彼女を黙らせるためではあったけれど、勿論それだけじゃない」
そんな眼で、おまけに間近で言われて、サシャの胸がどきどきと高鳴る。
なんなの、これは。
思うけれどこの先に続く言葉がわからないはずはない。胸を高鳴らせて待っていたけれど。
「俺は、サーシャを、……あ、」
途中で切られた。
……えっ。
胸の中でもう一人の自分が拍子抜けしたような声を上げた。
なんで、こんなところで。
しかしすぐにその理由を理解する。遠くから音楽が聞こえてきていたのだ。それはパーティーの終幕を告げるものなのだろう。
わいわいとおしゃべりやダンスに興じていた人々が一気に静かになったので。
それで国王陛下が壇上に上がられるのが見えたので。
「悪い。あとでゆっくり話そう」
すっと体は離されてしまって、サシャの胸にさみしさが一瞬よぎった。そのあと国王陛下がご挨拶をされていたが、すべてサシャの耳を通り過ぎていった。
国王陛下が退場されたあとに、王族の退場となる。ロイヒテン様や、パートナーのサシャも一緒にだ。このときだけはロイヒテン様に腕を組んでいただいてエスコートされながら、サシャは混乱の仕切りだった。
そして会場を出たあとは「悪い。またあとで」とメイドに引き渡されてしまった。
王族、血族だけで集まるのだろう。「サーシャ様、お疲れ様!」などと言ったキアラ姫がロイヒテン様にまとわりつきながら去っていくのを見ながら、サシャはまた呆然としていた。
夢を見ていたような気がしたのだ。パーティーよりもなによりも。
抱き寄せられた感触とキスの味が強く強く残っていたが、独りになった今では良い夢を見たようにしか思えなかった。
客室でメイドにドレスを脱がされて、メイクを落とされて、お風呂に入れられ髪も体も洗われたが恥ずかしいどころではなく、サシャは始終ぽぅっとしていて、気が付いたときには「ごゆっくりおやすみくださいませ」と就寝前のホットミルクを出されていた。
レースのネグリジェ。
昨日から過ごして多少は馴染んだ部屋。
日常とは程遠いが、パーティーより数センチは日常寄りだろう。
状況をやっと落ち着いて考えられる状況になって、サシャは思わず顔を覆っていた。
顔が熱くてならなかった。きっと赤く染まっている。
あれはきっと、ロイヒテン様のおきもち。だって、『彼女を黙らせるためではあったけれど』『勿論それだけじゃない』と言ってくださった。それに続くのなんて、自分を想う言葉であってくれるに決まっていて。
もう、婚約者の振りどころではなかった。恋人にもなれないなんて諦めるどころではなかった。
国王陛下のご挨拶のタイミングによって切られてしまった、言われかけた言葉の続きが気になって仕方がない。
言ってほしい、と思った。
一体あの続きはいつ聞けるのだろう。
サシャが悶絶するうちに、ホットミルクは冷めきっていた。
月も真上をすっかり越してしまったところで、眠らなくてはとなんとかベッドに潜り込んだものの、今夜こそ眠れるはずがない。
抱き寄せられた感触。
くちびるへのキス。
それが何度も何度もリピートされて、そのたびにサシャはベッドの中を転がった。
朝日が差し込む頃には、サシャが暴れまわったせいで、フリルたっぷりのシーツはぐしゃぐしゃになっていた。
ざざっと船が波を切ってゆく。甲板からそれを見ながらサシャは、ぼうっとしていた。
海はどこまでも続いているように見える。いっぱいにたたえられた水はとても冷たそう。
十二月もあと数日で終わるのだ。そうすれば一月、新年。
明日からは連日バーでの仕事が入っていた。年末年始の、ニューイヤーパーティーがおこなわれるためだ。一番のかきいれどきである、クリスマスイヴもクリスマス当日もお休みをもらってしまったのだし、一日だって休めないだろう。
たとえ酒を飲んで馬鹿騒ぎをする男たちがメインの、クリスマスのロマンティックとはほど遠いバーだとしても、いや、だからこそか。歌姫は貴重なエッセンス。そんな日に両方お休みなど。
しかしクリスマスパーティーに参加するためにはバーにお休みをもらうしかなかった。当然、マスターには「困るよ」「せめてどっちか」と渋られ、粘られたけれど、シャイとの約束を優先せざるを得ない。
そしてそれを事前に予測していたシャイが、「俺の用事に付き合ってもらうんです」と説明し、八割がた嘘であったがもっともらしい理由をとつとつと述べてお願いしてくれた。
そう、シャイが。
頭を下げてまで。
そのシャイ。さっき港を出てきた国では『ロイヒテン様』。結局、あのあと二人きりで話すことは叶わないまま別れてしまった。無理にでも時間を作って話をしてくれると思っていたので、サシャは拍子抜けしてしまった。
それと同時に残念にも思った。そして今では疑問にも思ってしまう。
あれは本当に、あのあとに続くはずだったのは自分を想ってくれる言葉だったのだろうか。
ただ、しつこく絡んできたエリザベータ様を去らせるためだけのものだったのでは。
そんなことすら頭に浮かんでしまう。
そんなことはないと、思うんだけどな。
サシャはやっぱりぼんやりと、甲板の下を見た。つめたい水が勢いよくかきわけられていく。
一睡もできずに迎えた、翌朝。朝食をいただいて、食休みをしただけでお城をおいとました。そして今、こうして国に帰るために船旅をしている。ミルヒシュトラーセ王国には長くいるわけにもいかないのでそのほうが良かった。
なのでタイミングがなかったことも別におかしいというわけではない。それでもすっきりしない帰路になってしまったのは仕方が無いだろう。
この船が港に着いたら、おつきのひとたちともお別れすることになる。小さな宿の部屋を借りて普段着に着替えて、港のある隣町から、暮らす街まで粗末な馬車で帰るのだ。それは当たり前のように今までしてきたようなことなのに、何故か色あせるように感じてしまった。
「あまりお外におられると冷えますよ」
行きも迎えに来てくれたおつきの男性に声をかけられたので、サシャは振り向いて「ありがとうございます」と言った。
確かにここはだいぶ冷える。水の上で、しかも風を切るように走っているのだから当然だろうが。
風邪を引いてしまっては、明日からの仕事に障るだろう。なのであたたかい船内に居ようと、サシャは甲板を去った。
あたたかいお茶でもいただこう、と思う。寒い場所にいるより、あたたかい船内、あたたかい飲み物でも飲んだほうが、気持ちも落ち着くだろう。
翌日は幸い、時短営業であった。バーでも大々的に行われたはずであるクリスマスイベントも終わって、つかの間の休息。
とはいえ、数日すればニューイヤーパーティーに向けて遅くまでの営業となる。三十日から二日までは朝まで営業。歌いっぱなしではないとはいえ、数時間おきに歌が挟まれるために、歌姫であるサシャはバーに居続けることになる。
夜を徹して仕事ということになるので今から少々気が重い。たとえ歌うのが、歌姫の仕事が嫌などではなかったとしても。
しかしサシャにとってはこれが日常なのだ。あのお城であったように、綺麗で最高級のドレスを着て王子様にエスコートされて、というのは一夜の夢。もう終わったことなのだ。今、この小さなバーで薄っぺらなドレスもどきを着て歌を歌うのが現実なのである。
しかしそんなことを考えても仕方がない。目の前の現実がすべて。
バー自体が休業となる、年明けの数日。今年は多分、三日ほど連続の休みがあるはず。その期間でそれまでの疲れを癒すためにゆっくり眠ったり、自分でもニューイヤーをお祝いするためになにかお出かけでもしようかと、それを楽しみに働くことになりそうである。
午前十一時には閉店となり、サシャはほっとしてバックヤードへ入った。
「お疲れ様」
仕事の終わったサシャにマスターがねぎらいの言葉をくれた。
「これから忙しいと思うが、風邪なんか引かないようにね」
それはサシャを気遣ってくれているのではなく、仕事に穴をあけるなという意味であるのはわかったので、サシャはにこっと笑って、「ありがとうございます。気をつけます」と言っておいた。
歌姫は喉が命。風邪を引いては仕事にならない。それに、無理をおして働くのは自分がつらい。
ミルヒシュトラーセ王家のクリスマスパーティーの緊張や疲れが出て体調を崩さないとも限らなかったので、意識してあったかいものでも食べてしっかり眠らないと、と思う。幸い学校はもう冬休みなので、プライベートの時間はたっぷり眠ることができる。
体をあたためておくために、明日、生姜やネギを買い込んでおこうかしら。確か、風邪の引きはじめや予防に生姜のお茶やネギのスープがいいとか聞いたような……。
考えながら着替えとメイク落としをして、しっかりコートを着込んだ。「お疲れ様でしたー」とスタッフたちに挨拶をして外に出て、そこでどきりとした。
「……こんばんは」
そこにはロイヒテン様……ではなく、『シャイ』が居たのだから。髪を下ろして、服も普段着。庶民の着るようなもの。カフェは当たり前のようにとっくに営業時間が終わっているだろうからカフェウェイターの制服ではない。カフェが閉店してからだろうか、待たれていたらしい。
パーティーであのようなことがあって、そのまま別れたのだ。大変決まり悪げな様子をしていた。
「……シャイさん」
サシャは彼の名前を口に出し、そこではじめて、この名で彼を呼ぶのは久しぶりだということに気付いてしまう。
「ごめんね。たくさん手伝ってもらったのに満足に挨拶もできずに帰らせることになってしまって」
「いいえ。お、……おうちのほうがお忙しかったのでしょう」
王室、と言いかけて『おうち』にしておく。このようなところで、誰が聞いていないとも限らない。
「そうなんだけどさ。……どうも。色々残る別れかたになっちまって」
今はおろしている黒髪をくしゃくしゃと掻き乱して、シャイは言った。
「ちょっと、散歩でも出来ないかな」
すぐにわかった。
あのとき言われかけた言葉の続きだ。サシャはごくりと唾を飲んだ。
あのとき、欲しいと思ったもの。
きっと今、聞かせてもらえる。
疲れはあって、早く休みたい気持ちはあったものの、心をすっきりさせたい気持ちも確かにあった。迷うことなくサシャは心の浄化を取ることにして、「ええ」と答えたのだった。
『散歩』のさなかは随分静かだった。シャイと歩いていてこんなふうになったことはない。鳥がさえずるようにどちらも言葉を切ったりしないのだから。
歩く大通り。街灯が灯って、人通りはまだちらほらある街中を黙々と歩いていく。
どこへ連れていかれるのかしら。
隣を歩くシャイ。今は王子様ではなく、庶民の、少なくとも庶民になりきった、カフェウェイターとして働く男のひとのシャイ。なにを考えているのかわからなかった。
そのうちシャイは大通りを外れて細い道へ入っていく。暗い道を歩くことになるので、サシャはちょっとどきりとしてしまった。
バーの仕事を早く上がれたとはいえ、もう零時近いだろう。そのような時間にこんな道を。
サシャが不安になったのを察したように、隣のシャイが視線を向けてきた。
「サシャちゃん」
不意に手が差し出された。今は手袋もなにもない、素手だ。
「大丈夫だよ」
ふっと笑われて、それはいつもどおりのシャイの笑顔だった。サシャは少しほっとした。
でも手を差し出されたということは、手を繋ごうということだろう。
ためらった。この街で一緒に過ごしていたときにはこんなこと、当たり前のようにしたことがなかったために。
ミルヒシュトラーセ王国での数日。
クリスマスパーティー。
あのときのことと、今、ここの現実が交錯する。
しかしサシャの心は決まっていた。そろそろと手を伸ばしてシャイの手を握る。
大きくてあたたかかった。それはもう、手袋越しの感触とは比べ物にならないほどに確かな存在感が伝わってきて。
ああ、彼は今ここにいるのだわ。
これも確かに現実。この街で一緒に過ごしているのだって、現実。
「行こう」
サシャが応えたことに安心したのだろう。そっと手を引っ張ってシャイはまだ歩いていく。
どこまでいくのか。
もう一度不思議に、ちょっと不安にも思ったけれど、男のひとが一緒なら大丈夫だろう。
十分と少し近く、歩いただろうか。不意にぱっと目の前が開けた。
そこは公園……というには、少し手狭だろうか。開けた場所と、ベンチと、そして柵がある。
柵の向こうは夜空、その下には街が見えた。いつのまにか少々高い場所まで来ていたようだ。この場所は知らなかったサシャは感嘆してしまう。
街は大半が暗く眠っていたが、中心部はあかるいし、住宅街にもちらほら灯りが見える。宵っ張りの人々が起きているのだろう。
サシャが見入ったことに気付いたように、シャイは言った。サシャの手を引いて、柵の近くまで連れていってくれる。
「ここ、街が良く見えるんだ」
「ええ。良く見える。私、こんなふうに見たことなかったわ」
そっか、とシャイは答えて、サシャと同じように眠りかけている街を見下ろした。そのうちぽつぽつと話してくれる。
「俺、この街が好きだよ」
話がはじまったことを察して、サシャは街の様子からシャイに視線を向けた。シャイは視線の下の光景をまだ見つめていたけれど。
「ミルヒシュトラーセ王国も勿論、生まれ育ったんだから好きだ。でも、違う魅力がこの街にはある」
カフェでウェイターをしていること。
街の人々と関わること。
いくつか話してくれて、そのあとサシャを見た。琥珀色の瞳で、まっすぐに見つめられる。
「それで、俺はこの街で過ごす『シャイ』としての俺が好きなんだ」
どくんとサシャの心臓が高鳴った。瞳に射すくめられてしまいそうで。
でも目が離せない。あまりにうつくしかったから。
「あのとき。サシャちゃんに伝えるつもりだった。……まぁ、邪魔が入ったんだけど」
確かにあのとき、パーティーも終わりかけのとき。
ソファに腰かけて手を重ねて、『まぁそれもあるんだが、今日は』と言いかけたとき。
なにかしらを言ってくれるつもりだったのだろう。
そのあと抱き寄せられたことも。キスも。
すべてが示している。
そのとおりのことをシャイは、今は『ロイヒテン様』ではなく『シャイ』として、彼は言った。
「エリザベータ様の前でしたことは、ほとんど衝動だった。だから後悔した。ほんとうは、こういうふうに言いたかったから」
すっと。
シャイはサシャの手を取った。両手で握りこまれる。寒い折だというのにしっかりとあたたかかった。
視線がそらせない。
今は硬い、琥珀色の瞳。真剣に伝えようとしてくれることが痛いほどに伝わってくる。
「サシャちゃんの前では、やっぱり俺は『シャイ』でいたい。だからあのとき言わなかったことを赦してくれ」
前置きはそこまでだった。
数秒、シャイは目を閉じた。琥珀色が閉ざされる。
すぐに開かれたけれど。今度は硬さはなくなっていた。優しい、穏やかな色がある。
「サシャちゃんのことが好きだ」
シンプルながら、それだけでじゅうぶんだった。
サシャの胸にほわりとあたたかな火が灯る。すぐに全身に回ったように体が熱くなっていった。
「サシャちゃんの境遇は、とても大変なものだと思う。まだ学生さんなのに、夜はバーで働いて、歌って。たとえバー・ヴァルファーが上等なところでなくたって、俺の耳にサシャちゃんの歌は極上のものだったよ。きみは本物の歌姫だ。お姫様だ」
言ってくれる言葉はどれも優しく、おまけに嬉しすぎるものだった。
これほど自分のことを見ていてくれたのだ。
肯定してくれるのだ。
決して上等な身でない自分のことを。
「シャイさん」
名前しか呼べなかった。
代わりに握られた手を握り返す。自分の手が随分小さいことを思い知ってしまったけれど、そんなことは些細なこと。
「私ね、ミルヒシュトラーセ王国の舞踏会になんてお招きされてとても緊張したわ。バーだってお休みすることになったし」
「それはすまなかったよ」
シャイの苦笑いが入ったけれど、サシャは首を振って否定する。
「でもね、それでも請けたのはシャイさんからのお願いだったからよ。私もなりたかったの。一瞬でも、お姫様に」
今度はシャイが黙ってサシャの言葉に聞き入る番だった。
「勿論、綺麗なドレスを着ることじゃないわ。シャイさんのお姫様になりたかったのよ」
努力して微笑んだ。頬は染まりそうだったし、むしろ泣き出したくなるほどに恥ずかしさと嬉しさはあったけれど、今は微笑んでいたい。
「サシャちゃん」
シャイがサシャの手をほどいた。その手はサシャの腰に回る。あのときのように強引にではなく、羽根に触れるようにそっと抱き寄せられた。
同じように緊張は激しかったけれど、動揺はない。むしろ当たり前のことのようにサシャはそれを受けた。
抱き寄せられた胸に頭を預ける。あのときは意識することもできなかった、彼自身の香りが鼻をくすぐった。
妙に安心した。男のひとの腕に抱かれるのなんて初めてだというのに。
「俺は『シャイ』になったところで、『ロイヒテン』としての身分は確かにある。ややこしいこともたくさんあるだろう。それでも、俺の恋人になってくれるかな」
答えなんて決まっていた。サシャははっきりと口に出す。
「勿論よ。私を『シャイさんの』お姫様にして」
「……ありがとう」
抱き寄せられていたのは、きっとほんの一分ほどだったはずだ。サシャにとっては永遠とも感じられる時間だったけれど。
それも引き剥がされて、今度は頬にシャイの手が触れた。やはり手袋越しではない手の感触は、あたたかくして、おまけにやわらかい。男のひと特有のごつさはあるのに、ヒトの肌特有のやわらかさが確かにあった。
どきどきと心臓が再びうるさくなったけれど、サシャは今度、きちんと目を閉じることができた。
顔が近づけられる気配がして、くちびるにやわらかな感触が触れる。二度目のキスだが、初めてのキスのような気がした。
心臓を高鳴らせ、身を熱くし、羞恥も確かにあるのに、安堵が上回るようなキス。こういうキスが欲しかった、と思う。
そしてここへ、シャイの恋人として収まれてしあわせだと思う。
シャイへの気持ちがたっぷりと胸を満たしてくれるようなキス。触れるだけのキスだったけれど、サシャの胸はいっぱいになってしまって、離されてからもシャイの瞳から目が離せなかった。
「……これからは、『ちゃん』を取ってもいいかな」
言われた言葉は唐突で端的ではあったが、すぐに意味がわかった。
サシャの目元が緩んでしまう。余りの幸福感に。
「ええ。名前だけでいいわ」
「ああ。……サシャ」
ちょっと照れた響きであったのでサシャもくすぐったくなってしまう。男のひとにこのように呼ばれるのは初めてであった。
「……嬉しい」
そのあとにはそんな要求をされた。
「サシャからも『シャイ』にしてくれよ」
「わかったわ。シャイ」
即答したサシャを見て、言葉を聞いて、シャイは言う。
「俺のお姫様は、俺より勇敢だね」
シャイは嬉し気にふっと笑って、もう一度サシャに顔を近付けた。
三度目のキスは、しっかりと結ばれたことを確かめるための、確然としたキスだった。
「まぁ。シャイさんと」
サシャの前で、ストルがぱっと顔を輝かせて胸の前で手を合わせた。
「ええーっ、お付き合いすることになったのぉ!」
ビスクも前のめりで聞いてくる。
翌日は流石に少し寝不足だった。遅くまでシャイと外に居たのだから当然ではあるが。しかし友達と約束があったので夕方からではあるが、待ち合わせをしていたカフェへ赴いた次第。
勿論シャイの働くシュワルツェではない。別の、もう少しカジュアルなカフェ。
オープンテラスもあるが、この寒さでは利用している客はいなかった。サシャ達一行も、店内の奥まったソファ席に陣取って、まったりと話をしている。暖炉には明々と火が入っていてとても暖かい。
「まぁねー、シャイさんとは仲、良かったもんね」
ビスクは、あーあ!などと言いながらソファに寄りかかって両手を上げた。伸びをするようなお行儀の悪い体勢で、先を越されちゃった、なんて言う。
ストルはそれに比べるとだいぶ落ち着いていた。目の前のローテーブルに置いていたハーブティーをひとくち飲んで、「おめでとう」と言ってくれた。
「シャイさんのこと、好きだったんでしょう」
そう言われるのはちょっと恥ずかしい。シャイとこの二人は顔見知りであるし、仕事を関してもシャイに良く会っていることは知られていたので。
「うん……だから、夢のようよ」
「そうでしょうねぇ。お幸せにね」
「ありがとう」
ストルはそれで終わらせてくれたが、ビスクはそういうわけにはいかなかった。伸びをしていた体勢から、ばっときちんと腰掛けなおす。それどころかその体勢よりもっと前のめりになってサシャに顔を近付けてきた。
「で?オヒメサマはどんなふうに告白されたの?」
ビスクの言った言葉はただの比喩であったが、サシャはちょっとどきりとした。
お姫様。
かりそめでもあるがお姫様の振りをしたことを言いあてられたような気がしたのだ。そんなはずはないのだが。
「え、えっとね……昨日仕事終わりに待っててくれて……綺麗な公園に連れて行ってくれて……」
惚気になってしまうのはわかっていたが、そしてまだ恋人のいない二人に自慢するようになってしまうのは心が痛んだが、話したい気持ちは確かにあった。
なので正直に話した。昨日あったことを。
真夜中の告白。抱擁。そしてキス。流石に抱擁とキスについては濁したが、わかられてしまっただろう。
「えーっ!そんな……公園とはいえ、夜景の見えるところでなんて、まるでプロポーズ!ロマンティック~」
ビスクはうっとりと、羨ましげである声で言って、ほう、と手を合わせて頬に触れた。ストルも「シャイさん、まるで王子様ね」などと言った。
今度はシャイのことを王子様と言われて、サシャはまたびくりとしてしまう。
これだって比喩でしかないのはわかっている。けれど、友達の口から言われればほんとうに『王子様』と『お姫様』の関係に思えてくる。
ほんとうにそのとおりなのだけど。なんというか、そうであってそうでないというか。
上手く説明は出来ないし、出来たとしても二人きりの秘密である以上、友達には言えない話だ。
なのでサシャは言った。微笑と共に。
「うん。本当に、王子様になってくれたの」
その言葉にはビスクが、ぷぅっと膨れた。
「もう!惚気て!決めたっ、幸せのお裾分けにスイーツ奢って!そうね、トルテがいいわ!」
「そうねぇ、私もお裾分け欲しいわぁ」
ストルまで悪ノリしてくる始末。年頃の少女にとっては、恋人ができるというのは最上級の幸せなので。
ビスクはメニューを、ぱっと広げて軽く見回して指さした。
「トルテの大型。トッピングナッツ増量、クリーム添え!」
「ちょっと!?オプションまでつけるの!?」
サシャの焦った声に、ビスクは楽しそうに笑う。
「無礼講無礼講!」
「ビスク、それちょっと違う……」
苦笑するストルがそれに突っ込み、きゃはは、と楽し気な声がカフェの片隅に響いた。お財布は多少の痛手を負うものの、友達二人に祝福してもらえたことは嬉しくて、サシャは「今日だけだからね!」なんて言っていた。
怒涛の年末年始のバー営業も無事に終わった。このあとはニューイヤー休み。三日間の連休。
サシャは最終日の仕事終わりの日、自室のベッドに沈むなりほぼ丸一日眠り込んでしまった。それほど疲れていたのだ。
目が覚めると朝になっていた。朝までバーが営業していて、帰宅したのが明け方なのでほんとうにほぼ丸一日で、起きても寝すぎてぼんやりしてしまったくらいだ。それでも、次の日はきちんと動いて溜まり込んだ家の仕事を片付けたり買い出しに行った。
そしてシャイとも一度デートをした。入れ替わりのように今度はシャイのカフェの仕事が再開されたのだが、仕事始めに入った人々はあまりカフェに長居もしない時期だ。そう忙しくもないと言っていた。
なのでサシャの休みの最終日。二人で出掛けた。
とはいえ、サシャがあまりに激務のあとだったため、二日間の休養を経たものの、街中を歩いてランチをするなどといった軽すぎるデートであった。「スイーツビュッフェは、もう少し余裕ができてから行こうよ」とシャイは言ってくれたし、サシャも「そのほうがお腹いっぱい食べられていいわ」なんてやっぱり茶目っ気を出したことを言ったのだった。
恋人同士になったのだ。歩くときにシャイは手を差し出してくれたし、サシャも僅かに恥ずかしくなったものの、すぐにその手を取った。
しっかり手を繋いで歩く街中。今までとは見え方がまるで変っていた。きらきらと輝くようなのだ。なにを見ても楽しい。
「これかわいい!」
雑貨屋さんに入ったときも、単なるチープな雑貨しか並んでいないのにサシャは声を上げてあれこれ手に取ってしまった。
サシャが手にしたのはピンク色の万年筆だった。そう高価ではないが、落ち着いたピンク色にレースの模様が入っている。
「ああ、かわいいね。……あ。これはいいな」
シャイも近くに並んでいたペンを手に取った。それも万年筆だ。濃い茶色をしている。
装飾はなにもない。強いていうならばキャップのふちに金色が彩られているくらいのもの。
「オーダーをつけるペン。新しいの、あってもいいな」
カフェではオーダーを受ければ、ウェイターが小さなバインダーに挟んだオーダーシートに注文を書き込む。そのときに使いたいということだろう。
「買ったらいいわ。これ、きっとシュワルツェの雰囲気にも……あっ。これはどう?それを私が買って、シャイがこのピンクのを私に買ってくれるの」
ぱっと顔を輝かせてサシャは提案する。シャイは可笑しそうに笑って、「じゃ、買ってプレゼントし合おう」と言ってくれた。
王族でもあるシャイにとってはこんなもの、チープすぎるだろうに構わず『気に入った』と手にする。そういうところがサシャは好きだと思う。
雑貨屋を出てからプレゼント包装してもらった包みを交換し合った。
「私もこれ、楽譜のチェックをするときに使うわね」
「ああ。俺のことを思い出してくれよ」
「勿論よ」
言い合って、やっぱり手を繋いで次は本屋へ行った。最近売れている小説はこれだとか、雑誌におまけがついているのが流行なのだということを言い合う。
そんな、平凡極まりない、しかし幸せすぎるデート。あちこち見たいと引っ張りまわすサシャに微笑みついてきてくれるシャイは、ただの街で働くカフェウェイターの男性だった。
でも実際はそれだけではない。
嫌でも意識させられたのは、半月近くが立ち、ニューイヤーの喧騒もすっかり収まったその頃のことであった。