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お忍び王子とカリソメ歌姫  作者: 白妙スイ
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前編

散漫な拍手がサシャに贈られた。客たち……サシャの客ではなく、勤めているバーの……は、そんなもの興味がなかったとばかりに、がやがやとおしゃべりに戻ってしまった。

実際、サシャの歌はこのバー・『ヴァルファー』に彩りを添えているに過ぎない。ふぅっと息をついて、サシャは申し訳程度に作られている壇上から降りた。

「サシャちゃんの歌、今日も良かったよ」

客の一人が声をかけてくれた。

「ありがとうございます」

サシャは、にこっと笑ってお礼を言っておく。

「今度、俺のためにも歌ってほしいな」

にやにや笑いを向けてくるのは中年の男性だ。サシャのように若い女の子にそんな台詞、体目当てに決まっている。

ほんとうに、仕方ない男。

内心ため息をつきつつも、サシャはもう一度にこっと笑って「おじさまが『シュテルンシュヌッペ』のディナーをご馳走してくれるならいくらでも歌うわ」と言っておく。

「ええー、たっけぇよー」

男性はぶーぶーと文句を言い、すぐに仲間との雑談に戻ってしまった。当たり前のように本気ではなかったのだろう。少なくとも、サシャにこの街では最高級店のディナーを代償にするなどもったいない、と思うくらいには。

このような客のいなしかたももう身につけていた。もうここで、雑多なバーで働くことにも慣れたのだ。この程度、かわせるようにならなければ身が持たない。

小さなバー……ちっとも高級なものではなく平均的な労働者が集まって仕事後の鬱憤を晴らすための、いわゆる『場末のバー』。雑多な飲み屋の集まる場所にあるこの一軒が、サシャの居場所であり職場であった。

一応、学生という身分もある。十六才のサシャは、学校での最高学年。今年で卒業するのであるが。マスターにはこのまま歌姫として勤めてほしいと言われていたし、そうなるものだと思っている。

歌姫なんていっても、ちっとも華やかなものなんかじゃないけど。

思うたびに少し悲しくなるのだった。

綺麗なドレスだって良いのは見た目だけ。素材は粗悪で、脱いでみればぺらぺら。安物の生地やレースで出来ている。

でもこの程度がお似合いだとサシャは思っていた。

なにしろ生まれた家が家である。庶民の家なのは当然であるが、その中でもどちらかといえば下層に分類されるもの。

母親は既に亡く、父親は一応仕事についてはいるものの、じゅうぶんに働くようなひとではない。さっさと仕事を無理やり終わらせて、家や、今サシャの勤めているような安いバーで酒を煽っているようなひとなのだ。

家だって、サシャのそう多くもない稼ぎが半分近くをまかなっている状態だ。それでも一応ここまで育ててもらってきたので、父親のことを完全に嫌いというわけではないのだが、少なくとも尊敬対象ではなかったし、大好きというわけでももちろんない。

でも家族だから。サシャは家に居続けるし、バーで得たお金も大半を家にきちんと入れるのだった。

それに、ドレスの素材はともかくサシャの見た目は悪くなかった。

艶やかな金髪はくるくるとしていてボリュームがある。肩より長いその髪。瞳は金に良く映える深い青。たれ目がちではあるが、不細工でもない。

なのでお飾りでも華やかなドレスはよく映える。安いバーにはじゅうぶんなくらいの華になれる外見だったといえる。

「お疲れ」

マスターが声をかけてくれて、サシャも同じように「ありがとうございます」と言う。

「喉が渇いたろう。一杯飲むかい」

「ありがとう。ではオレンジジュース……」

言いかけたところで、マスターは楽しそうに笑って手を振った。

「今日は『シンデレラ』だよ」

サシャは、きょとんとした。『シンデレラ』はノンアルコールではあるが、カクテルだ。仕事後の一杯として飲むには少し不釣り合い。従業員なのだからカクテルなんて。

「『こちらのお客様から』だ」

そう言われて横を示されて、サシャは『そのひと』を見て、ぱっと顔を輝かせていた。

「シャイさん!」

「やぁ。ちょうど寄ったらきみの歌が終わりそうなところだったからね。聴かせてもらったよ」

「そうなのね。嬉しいわ」

カウンターに肘をついて、にこにこ笑っているのは人好きの笑顔を浮かべている若い男性だった。黒髪に琥珀の瞳を持つ、人懐っこい顔立ちをした青年。彼はサシャの顔見知りであった。

職業はカフェウェイター。今日も仕事の途中か終わりなのか、ウェイターの黒いベストの服を着ている。このバー・ヴァルファーのわりあい近所といえる位置、もっと表通りにある立派な店だが、そこで働いている。

彼がこんな雑多なバーにやってくるのは、アルコールを仕入れるためだった。アルコールは、彼の勤める店・カフェ『シュワルツェ』で、ときたま使うそうだ。

「ブランデーを紅茶に垂らして飲むと美味いんだよ」と前に、出逢って間もない頃に教えてくれた。

「普通に紅茶に落としてもいいんだけどね、コーヒーにもいいんだ。スプーンに角砂糖を乗せて、ブランデーを染み込ませて火を……ちょっとやり方が特殊だから、今度、ウチの店で見せてあげるよ」

その約束はまだ叶えられていないけれど、つまりそのように店でアルコールを使うそうだ。

ただ、彼の働く店はあくまで『カフェ』であるのでアルコールはメインでない。なので仕入れ問屋を使うまでもなく、バーで小さな瓶ひとつ、ふたつを買っていく。それを買いに来るのは彼、『シャイ』であったりほかの従業員であったりするのだが、ともかく使いっぱしりの店員であった。

「シンデレラ、好きだよね」

彼からの奢りのカクテルに嬉しくなってしまう。マスターが出してくれたのは、口の広いグラスに入れられた、鮮やかな黄色い飲み物。

「ええ。金色でとっても綺麗で」

まるで彼の瞳のようで。

思ったけれどそれは流石に口には出せず、サシャはほんのりと頬を染めるにとどめておいて、「いただきます」とグラスを手に取った。パイナップルジュースをメインに作られているそれは甘くて、少し酸っぱい。

「俺も好きだな。華やかだろう。きみの髪のようにね」

にこにこと言われて、サシャの内心はもっと熱くなってしまうのだが、それを顔に出すことはない。これは本心からだがにこっと笑って、「からかわないでちょうだい」と言っておく。サシャが嬉しく思ったのは伝わっただろうから、この程度でいいのだ。

「本気なんだけどなぁ」

彼は軽く言い、ごついグラスに入った飲み物……明らかにアルコールの飲み物……をひとくち飲んだ。

「シャイくんもこんなところで油を売ってていいのかい」

自分で出しただろうに、マスターはからかうような台詞をシャイにかける。

「いいんですよ。今日はシュワルツェすいてますしもうすぐ上がりなんで」

「でもそれをシュワルツェに持っていくまでが仕事だろう?」

「やだなー、硬いこと言わない言わない」

マスターとシャイの間であはは、と笑い声が起こった。サシャも微笑を浮かべてそれを見守る。

彼が、シャイがこのバーで短い時間を過ごすことはときたまあって、サシャはその時間が好きだった。このような雑多なバーには似合わないほど綺麗な外見と明るい性格をしているのに、シャイはわざわざこの店にアルコールを仕入れに来てくれるのだ。それは単にカフェ・シュワルツェから指示されているに過ぎないのだろうけれど、それでもシャイに会えるのは嬉しかった。

学校の男の子たちを別にしたら一番身近な男性であるし、成人している彼は当たり前のように、学校の男の子たちよりオトナで魅力的だった。少女であるサシャが憧れるのにはじゅうぶんすぎたといえる。それはほんのりとした、恋心。

でもまだ『見ているだけでいい』と思っていた。たまにここで会えて、話ができるだけでしあわせだ。

もうひとくちグラスから飲み物を飲んで、シャイはサシャのほうを見た。

「そうだ、サシャちゃん。今度新作の紅茶が入ったんだよ。試飲に来ない?」

そんなところに嬉しい誘いをされて、サシャは思わず、ぱっと顔を輝かせていた。

そんな、バーの外で会えるなど。彼の店に過ぎないが、そしてそんな理由でカフェに誘われたことは何度かあったが、それでもお誘いされれば嬉しい。

「いいの?行きたいわ」

「そっか、嬉しいな。いつがいいかな。俺は大体いるけども」

サシャが嬉しそうに良い返事をしてくれたことに、彼も笑みを浮かべる。

「じゃあ……金曜日はどう?」

思ってサシャはそう提案した。彼の休みは、店が比較的すいている月曜日か、もしくは週のなかばだと知っている。だから週末目前である金曜日なら多分出勤日だろうと思ったのだけど、「ああ、ごめん」と言われてしまった。

「金曜日は普段ならかまわないんだけど、今週の金曜日はちょっと予定があるんだ」

あら、残念。都合が合わないのね。

思ってサシャは言いかけたのだが。

「そうなのね。じゃ……」

「ちょっと週末にかけて用があるもんだからね。今週にしてくれるなら、木曜とかどうかな」

シャイさんが、週末にかけて用事?

サシャはちょっと不思議に思った。

週末は当たり前のように、カフェが混む。そこにシャイの休みが入ることなどめったにないことなのだ。

シャイがカフェでどのような立場なのかは詳しくなかったが、ウェイターとして相当優秀なのは知っている。その彼が抜けたらカフェは多少なりとも大変になるだろうに。しかしそれは突っ込んで聞く領域ではない。

「木曜日でいいわ。学校終わりだから夕方になっちゃうけど、いい?」

「大歓迎だよ。木曜ならすいているしね」

にこっと笑ってシャイは言ってくれた。そのように約束は成立して、「じゃ、俺はそろそろ仕事に戻るかな」と、ぐいっとグラスの中身を飲みほした。

「ほら、まだ仕事中なんだろう。酒なんぞ煽って仕事なんて、不良め」

マスターがまたからかってきたけれど、シャイもさっきと同じように笑ってひらひらと手を振る。

「こんなのジュース、ジュース。じゃ、はい。また来ますね」

紙幣を一枚カウンターに置いて、シャイはここでマスターから買ったであろう、本当の目的物のおつかい品の酒瓶を手にして……今日はブランデーだろうか……「じゃ、木曜に待ってるね」と帰ってしまった。サシャは「ええ。楽しみにしてるわね」とその後ろ姿を見送った。

「シャイくんが来てくれて嬉しいだろう」

マスターがにやにやとからかってきたけれど、サシャはやっぱり、にこっと笑うのだった。

「シャイさんカッコイイですもんね」

「そうだよなぁ。いい男だよな。どうだい、カレシに」

「もったいないですよー」

くすくすと笑って「着替えてあがりますね」と言う。もうこんなからかいに乗ったりしない。

バーで働いて数年。年齢の割にはすれてしまった、と思いつつ。

それをちょっと物悲しく思いつつも、サシャはグラスの底に少しだけ残っていたシンデレラを見つめた。

お姫様の名前の付いた、金色のうつくしいカクテル。ほんとうはこのカクテルのように、綺麗な女の子でいたいのだけど。バーで薄っぺらいドレスを着て歌う、安っぽい歌姫、『お姫様モドキ』なんかではなくて。

でもそんなこと、夢でしかないから。

うつくしい金色の飲み物を飲み干してしまい、「お疲れ様でした」とバックヤードへ向かうのだった。




木曜日は綺麗に晴れた。冬の折にしてはあたたかな日。サシャは普段着のワンピースを着てカフェへ向かった。

普段着、とはいうが、普段着にしている服の中では上等な部類のものを選んだけれど。恋としてはおとなしすぎる気持ちであっても、憧れている男のひとに会うのだ。綺麗な服で会いたいではないか。

今日は運よく早めに終わった学校。帰ってから着替えたのは、深い緑色のワンピース。胸元は黒いリボンで結ぶようになっていて、スカートのすそにはフリルもついていてかわいらしい。寒いので、上にはちょっと厚手のジャケット。これも黒色だが、丸襟でビロードの生地でできていてあたたかいのだ。

履いてきたのは赤いパンプス。少し底が厚くてかわいらしさがあって、お気に入り。髪色がこの国ではスタンダードな金髪であるので、サシャは大概の色が似合ってしまう。そういう意味では都合のいい髪色であるわ、と普段から自分でも好ましく思っているのだ。服や装飾品を見るのは好きだから。

お金なんて、食べるに困っていないとはいっても裕福とは程遠いから、今日の服だって、そう高級品というわけではないけれど。特注なんてとんでもない、ただの市販品である。それでもかわいらしく、それなりの仕立てのものだ。

「こんにちは」

カフェ・シュワルツェの前につく。

今日はプライベートで会うのだ。ちょっとだけ緊張する。私服で会うのはあまりないだけに。

そっとドアを押すと、扉についていた真鍮のベルが、からんからん、と鳴った。お客の来訪を告げる音だ。

「いらっしゃい。……ああ、サシャちゃん」

奥でなにやら作業をしていたらしいシャイが振り向く。普段店で働いているときの、黒いベストにパンツ、ギャルソンエプロンの姿で。

「お邪魔するわね」

「歓迎するよ。ああ、そこの席、あけておいたんだ」

シャイが示してくれたのは、窓際の、外が良く見える席。赤い布張りの椅子。店の中でも特等席だ。特別扱いしてもらえているように感じてしまって、胸がときめいた。

「例の新作の紅茶でいい?」

訊かれるのでサシャはもちろん頷いた。

「ええ。楽しみにしてきたの」

「うん。じゃ、すぐ用意してくるね」

サシャを席につかせてくれて、シャイはすぐ厨房へ行ってしまった。サシャは手にしていた赤いハンドバッグ……赤い靴に合わせて選んだもの……を荷物入れに置いて、外を眺めた。

町並みはすっかり冬のもの。樹々は赤く染まったあとの、茶色に変色した葉を落としつつあったし、街行く人々もしっかり上着などを着こんでいる。

でもサシャはこの季節が嫌いではなかった。この国は比較的温暖だと聞いていることも手伝っているのかもしれないが。

もっと寒い地域だと毎日のように雪が降っていたり、常に積もっていたりするそうだ。ここでは相当寒い日、真冬の折でもないと雪など降らないのだけど。それに、降ったとしても積もることは稀だ。

「お待たせ」

シャイはすぐに戻ってきた。トレイにはポットとカップが乗っている。あらかじめある程度の準備をしてくれていた、という様子の素早さであった。

「今日は冷えるね。あったかい紅茶が美味しい季節だ」

言いながら手際よくそれらをテーブルにセッティングしていった。

紅茶は少し蒸らすのだろう。砂時計をひっくり返した。多分、測る時間は三分。

「これはサービス」

最後に、ことりとシャイがテーブルに置いてくれたのは小さな皿に入ったクッキーだった。サービス、というだけに控えめに、二枚。それでも綺麗な焼き目がついていて、上にはチェリーらしきものが飾られている。

「え、いいの?」

サシャはちょっと目を見張ってしまった。まさかこんなものをいただけるとは思っていなかった。

「昨日、たくさん焼いたからね」

それなりの格式のある店だけあって、出すスイーツも店で作っているのだ。専門のパティシエもいるらしい。

クッキーを出しておいて、「わざわざきてくれたお礼だよ」なんて、シャイはぱちんとウインクをする。

もう、こんなことをするんだからタチが悪い。

思いつつも嬉しくて、サシャは「ありがとう」と笑う。そうこうしているうちに砂時計の砂は落ち切ってしまって、シャイがポットから紅茶をついでくれた。

「新作はストロベリーティーなんだ。見た目も冬らしいかなとかね」

赤みを帯びた紅茶。確かに冬にふさわしい温かみがある。

「綺麗ねぇ」

サシャも、ほうっと息をついていた。

つがれた紅茶はあつあつ。白い湯気が立っている。そして一緒に漂うのは。

「甘い香りだろう。どちらかというと、香りを愉しむものかな」

ストロベリーの、いちごの甘い香り。これは女性が喜ぶだろう。

「さぁ、どうぞ」

「いただきます」

猫舌というわけではないので、サシャはすぐにカップを持ち上げた。やけどをしないように、慎重に飲む。

ふわっと口の中に、いちごの華やかな香りが溢れた。紅茶の味は控えめで、それだけにいちごの香りとほのかな味が引き立てられている。

「華やかな味だわ」

感じたままの感想を言う。

「そうだろう。女性好みだろうってマスターが決めたんだよ」

「そうね。女の子は好きだと思うわ」

「そっか。じゃ、この冬の看板商品としてふさわしくなりそうだな」

シャイはウェイター。給仕をしてくれる立場なので、サシャのついているテーブルの横に立っていたのだが少し話をしたそのあとで厨房を振り向いた。

「マースタァー」

シャイが声を張り上げる。それはちょっと媚びるような声音を帯びていたものだから、サシャはくすくすと笑ってしまった。子どもっぽい言い方だ。

「混んでないし、ちっと話しててもいいすか」

シャイが口に出したことに、どきっとした。自分と話してくれるのだ。シャイは仕事中だろうから、ほぼ一人でお茶を味見として飲むだろうと思って来たのに。

「あんまサボんなよ」

カフェのマスターはそう言ったものの了承してくれて、シャイは「さんきゅっす」なんて言って、サシャに向き合ってくれた。横の席に腰かける。窓に向いていたサシャの隣、窓に沿うような位置でセットされている、四十五度の角度にある椅子だ。向かい合うよりなんだか親密に感じてしまって、どきどきした。

「これで堂々とサボれる」

マスターの言葉を否定するように、ちょっとだけ身を乗り出してそっと言い、サシャは思わずくすくすと笑ってしまう。近い距離に心臓の鼓動は速まっていたけれど。テーブルに肩肘をついたシャイが、視線をちょっとだけ窓の外にって言った。

「寒くなったね。ここまで寒くなかったかい」

「今日はそれほど寒くないんじゃない?夜は冷えるかもしれないけど」

学校の終わったあとなのだ。もう夕方になっていた。でも今日はバーの仕事が無いので、多少遅くなってもかまわない。

「そっか。じゃ、早めに帰らないとね。夜も暗くなってきてるし」

言われて少し残念に思ってしまった。少しでも長く彼と居たかったので。

「俺は今日、遅番だから送ってってやれないしなぁ」

そのあと言われたことには嬉しくなってしまった。

送っていく、なんて。

実際にしてもらったことはないのだけど、そう言ってもらえるだけで嬉しいではないか。それに自分の家はお世辞にも立派な構えではないので、見られるのは少し恥ずかしいから、言ってもらえるだけでいいのだ。

シャイは「またサボってあがっちまおうかな」なんていうのでサシャは「あんまりサボると干されちゃうわよ」なんて混ぜ返す。「だよなぁ」とシャイもおかしそうに笑うのだった。

「もうすぐクリスマスかぁ」

話題を変えて、シャイはもう一度窓の外に視線を遣った。確かに、樹々にいくつかの赤や緑、金色などのボールがついている。まだ飾りつけ途中なのだろう。その量は多くなかったけれど。

「今日のサシャちゃんの服も、クリスマスみたいだねぇ」

シャイに言われて初めて気づいた。

緑のワンピース。

赤いパンプス。

緑と赤を基調としているクリスマスの色だ。まるで先取りしたようでおかしくなってしまった。

「かわいいよ」

「ありがとう」

ほわっと胸があたたかくなった。無意識にクリスマスカラーの服を選んでいた少しのおかしさよりも、彼が自分の服装をきちんと見てくれていたことのほうが嬉しい。

「でもクリスマス、ちょっと面倒なんだよなぁ」

珍しくシャイがぼやいたので、サシャはクッキーをかじっていた手がとまってしまった。彼がこのような物言いをするのは珍しい。

「そうなの?」

不思議そうに訊いたけれど、シャイは端的な理由を言った。

「うーん、オヤがパーティーするのが好きだもんでね」

パーティーのなにが憂鬱だというのか。楽しそうではないか。

きっとシャイの家は、家族円満なのだろう。パーティーをやるなんてくらいには。そのくらいに思ってサシャは笑っておいた。

「うちはパーティーなんて縁がないから、羨ましいわ」

「サシャちゃんがきてくれるなら楽しいだろうけどね」

言われることにはまた嬉しくなってしまう。

「パーティーなんて行ったことないから、うまく振舞えるわけないもの」

「うまくやる必要なんかないさ。料理食ってればいいんだから。一応、美味いもんが出るんだぜ」

それでその話はおしまいになってしまった。そこから発展した、バーのクリスマスの話へ行ってしまう。

でもそのクリスマスの話はサシャの胸を少し躍らせてしまった。

クリスマス。恋人同士の日。

隣にいる、ほんのり恋をしているシャイと過ごせたらどんなに愉しいだろうか、と思ってしまったせいで。

でも彼は、その親の開催するパーティーとやらに出るのだ。それは叶わないだろう。自分だってバーでクリスマス向けの歌を歌う日であるのだし。だからまた、こうして二人で会えるだけでじゅうぶんじゃない。

思ってサシャはストロベリーティーを飲み干して、「もう一杯どうぞ」と勧めてくれたシャイに「ありがとう」とにこっと微笑むのだった。




その日は買い出しだった。それも隣町までだ。

休日、サシャは当たり前のように学校が休み。でも時々バーで昼間の雑務を担うことがあった。

バーも夜だけ運営しているというわけではないのだ。むしろ、仕込みは昼間がメイン。マスター以外にも厨房担当、バーテンダー担当などといろいろな担当がいるのだが、昼間は皆でそれぞれ仕込みや準備をするくらいには、バー・ヴァルファーは小さな店なのであった。

今日もそのたぐいで、隣町まで『おつかい』を命じられた。

買ってくるのは煙草だ。あまり重いものではないので、少女であり非力といえるサシャが買いに行ってもなんら困らないというわけだ。

普段、煙草くらいは店に出入りする業者から買っている。業者が店に届けてくれるのだ。

ただ、今日サシャが買いに向かっている煙草は、少し特殊な銘柄でこのあたりでは隣町の輸入店でしか扱っていない。店主が偏屈なのか、それとも余裕がないのかは知らないが、届けてくれるサービスはない。なので一ヵ月に一回程度、店のスタッフの誰かが買い出しに行くのであった。

買うのは毎回、カートンで五つ程度。まぁかさばりはするが、重くはない。この銘柄は隣町でしか売っていない、つまりバーのある街では入手しにくいわけで、たまに「カートンで売ってくれよ」もしくは「個人的に売ってくれよ」などと言われるのだが、マスターは毎回断っている。確かに煙草を売るようにすれば収益は増えるだろうが、そこまで手を出してしまうとバーが回らなくなる、とぼやいていた。

なので、この煙草は『店で吸うため』として、一度につき一人一箱しか毎回売らないことになっている。よって、カートンも五つで足りてしまうというわけ。足りなくなったら早めに買いに走ることにはなるが。

「ありがとうございました」

隣町までは少し距離があるので、馬車に乗った。乗り合いの安い馬車。隣町までは三十分程度。

ぼうっと景色を眺めているうちに隣町に到着して、サシャは運賃を御者に払って馬車を降りた。そして煙草を扱う輸入店へ向かう。しかし店主は居なかった。

「ごめんな、父ちゃん今、仕入れに行ってんだ」

店主の息子……サシャより少し年下の少年……が店番をしていた。そう説明してくれる。

「そうなの。いつ頃お戻り?」

「お茶には戻るって言ってたから、あと一時間とちょっとくらいかも」

「そうなのね」

サシャは少し悩んだが、本当に数秒だった。一時間くらいであれば、どこかで時間を潰せばいい。

煙草を買うくらいであれば目の前の、店主の息子からでいいけれども今日はマスターから、店主への手紙を預かっていた。これを渡さなければいけないのだ。一緒に取引書類が入っているから、店主に直接渡す必要がある。何度も顔を合わせているので少年を信用していないわけではないが、万が一ということもある。

「じゃ、一時間後くらいにまたくるわね」

サシャはそう言い、少年は頷いた。

「わかった。父ちゃんが帰ったら、店に居るように言っとくよ」

「ありがとう」

そんなわけで、サシャは用事が終わらないまま店を出た。

やれやれ、と思った。さっさと用事を終えて帰りたかったのに、と思ってしまう。

でも仕方がない。一時間、自由時間ができたと思えばいいわ。

せっかくだから、そのへんの雑貨屋さんや洋服屋さんでも見ましょう。

そう思えば楽しみになって、サシャは街の中心部へと向かった。

バーのある、サシャの暮らしている街よりここは少し大きい。輸入店があるだけあって、海が近いのだ。近いとは言っても、歩いていける距離ではないが。今日は一時間しかないこともあって、見に行くことはできないだろう。

でも一度、機会があって見に行ったことがあった。港にはたくさんの船がとまっていて、その先には青く広々とした水がたっぷりとたたえられている『海』というものが広がっていた。どこまで続いているのかもわからない。

その先には別の国があるのだという。ここからでは見えもしないほど、遠くに。

サシャはよその国を知らなかった。話くらいしか聞いたことがない。

でも特に興味もなかった。自分とは違う世界のことだ。

自分にあるのは、学校、バー、そして街中のカフェ・シュワルツェをはじめ、身近な店。そのくらい。交友関係だって、父やちょっとした親戚、学校の友人や教師、ほかにはシャイをはじめバーやカフェに出入りする人々などだけ。そのくらい小さな世界。

でもそれで満足している。この世界で平穏に過ごせればそれでいいのだ。

ああ、でもあの広い海は綺麗だった、とふと思った。今、冬の折では水辺は寒いかもしれないが、広々とどこまでも続く海を何故か、見たいと思ったのだ。

そんなことを考えながら道を歩き、隣街へ来たときはたまに訪ねている雑貨屋へ向かっていた、そのとき。

不意に、きゃぁ、と声が上がった。女性の黄色い歓声だ。愉しそうな、嬉しそうな。

遠くから、がらがらという大きな車輪の音もする。馬車の音ではあるが、サシャが今日乗ってきたものよりずっと大きな音だった。つまり、それだけ馬車が大きいか立派なのだ。

「いらしたわ!」

「王子様の馬車よ!」

きゃぁきゃぁと楽しそうな会話が聞こえてきた。サシャがそちらを見ると、どうやら『それ』が通るのは予定にあったらしく、人々が道路の脇に集まっていた。若い少女から年配の女性までさまざまであったが、とにかくほとんどが女性であった。

『王子』というからには男のひとが乗っているのだろう。そのひとを一目見たい、という気持ちなら、女性が多くて当然。

「海の向こうの王子様よ」

「外交ですって」

馬車を、そして乗っているであろう『王子様』を一目見ようと待っていた女性たちはそんな会話をしていた。

それを聞いたサシャも少し興味を覚えた。

王族の方を拝見したことなどない。どのようなひとなのか、ちらっと見てみたくなったのだ。きっと綺麗に着飾って、もしかしたら顔立ちもうつくしいかもしれない。行き当たったのもせっかくの良い機会であるし。

よって、道のはしへ寄って、こちらへゆっくりと走ってくる馬車を待った。

馬車はたいそう豪華だった。金色とワインレッドに彩られていて、サシャの乗ってきた、木材剥き出しの粗末な実用性しかない馬車とは比べ物にならない。

素敵だわ。

その特別な乗り物を見ただけでサシャはうっとりしてしまった。

馬車の速度はゆっくりだった。『外交』だそうなので、少しくらいは街の人々に顔見せでもしようということなのかもしれない。

王子様。

どのような方かしら。

野次馬のようだがわくわくと待ってしまう。

馬車に乗っていたのは、若い男性と女性だった。

男性は成人して間もないほどの、黒髪のひと。

女性はそれよりだいぶ若かった。若い、というか、まだ少女。サシャより少し下に見える

同じ黒髪で、衣装の雰囲気も似ていたので、結婚している夫婦というよりは兄妹のようにサシャには見えた。

しかし、目にしたその男のひとのほうに、サシャは違和感を覚えた。なんだか既視感があったので。

黒い髪をオールバックにして綺麗に撫でつけていて、瞳は高貴な琥珀色。とても格好のいいひとだった。

なのに、見惚れてしまうよりはなんだか妙な感覚がした。

私、この方を知っているような気がするわ。

そんなことを思ってしまって自分に驚いた。

知っているはずがないだろう。海の向こうから外交に来た王子様なんて。

どこかでお写真でも見たのかしら。

不思議な感覚にちょっとぼんやりとしているうちに、馬車はがらがらと音を立てながら目の前を通過していった。乗っている男性と女性は微笑を浮かべて、窓から時折町のひとたちに手をひらひらと振っていた。そしてそのまま行ってしまった。

「素敵だったわねぇ」

「ロイヒテン様、やっぱりイケメンだわ」

観ていた女性たちは、ほうっとため息をついてそのような会話をしていた。

先程の王子様。ロイヒテン様というらしい。

知らない名前だった。名前も知らないひとのこと。どうして変な感覚を覚えてしまったのか、余計にわからなくなってしまった。本か写真かなにかで見たなら、当たり前のようにお名前も一緒に見たことがあるだろうに。

「妹様も大きくなられたわね」

「ええ。素敵な女性におなりになりつつあるわ」

雑談を聞くに、やはり兄妹だったようだ。そのうち野次馬をしていた女性たちもちらほらと散っていった。

サシャもその場を去ろうとして、でもうしろだけが小さくまだ見える馬車を見遣ってしまった。

なんだろう。なんだかとても心がざわめく。

そのあとはお店を見るどころではなくなってしまって、結局街中をふらふらするだけで一時間は終わってしまった。そして再び輸入店を訪れて、帰ってきていた店主に今度こそ手紙を渡し、煙草を五カートン買った。

そのあとは馬車乗り場で乗り合い馬車を待ち、また三十分ほど揺られて暮らす街へ帰った。景色を見ている間は、目にした王族の馬車と兄妹だという二人のことを考えていたが、馬車を降りる頃にはもう意識はバーの仕事へシフトしていた。

遅くなっちゃった。あと二時間もすればバーが開くのに。それまでにドレスの準備をして、メイクを少し派手に化粧し直して。

馬車を降りて運賃を払って、そのあとはカートンの煙草を抱えて、サシャは小走りでバーへ向かっていた。





「それでね、この間、王子様を拝見したのよ」

サシャは次の週、学校でそのことを友人たちに話した。既視感などはただの気のせいだと思えるようになったのだ。馬車を一目見ようと待っていた隣街の女性たち同様、友人たちもすぐに食いついた。

「王子様!どちらの方?」

「ずるいわ、どこで拝見したのよ」

つつかれるのでサシャは慌てて続けることになる。

「この間、バーのおつかいで隣町まで行ってね、そのとき外交とやらでいらしていたの。馬車に乗られていたわ」

「へぇ……いいなぁー」

羨ましそうに言われたので、サシャはちょっと誇らしくなった。素敵なひとを見られたことに。確かにとても格好良かった。

「海の向こうの国の王子様だそうよ」

「海の向こう……ってことは、ミルヒシュトラーセ王家の方じゃないかしら」

サシャの言葉にちょっとだけ考えて口に出したのは、友人の一人、シュトーレン。愛称は、ストル。落ち着いた茶の髪をしていて本が好きな、サシャと仲のいい子の一人。

「あら、詳しいのね」

ストルの言葉にサシャは言う。そして記憶を探って続けた。

「ええと、街のひとたちはロイヒテン様……とか言っていたと思うわ」

「ロイヒテン様!」

今度声を上げたのは、友人のビスクヴィートだった。愛称はビスク。ミルクティーのような髪をした小柄なビスクは、いわゆるイケメンが好き。口に手を当てて嬌声をあげたあと、きゃぁきゃぁと話しはじめる。

「ミルヒシュトラーセ王家の中でもイケメンって有名よね!お写真を拝見したことがあるけど、とってもカッコいい方だったわ!」

「そ、そうね。確かにとってもお素敵だったわ」

その勢いに少々押されながらもサシャは肯定する。感じた違和感のことを少し思い出してしまったのだ。

「継承権は一位ではないのだけどぉ、それでもあの方が次期国王になられたらいいなぁ」

まるで自分が目にしたようにビスクは嬉しそうな様子だった。

「ロイヒテン様が国王陛下になられてもなにも変わらないじゃない」

「そんなことないよー!お目にできる機会が増えるでしょ!」

ストルがツッコミを入れてもビスクは変わらない。前向きともいえる発言をした。

「まぁ、そうねぇ」

そのあまりにプラス思考な言葉に、ストルは苦笑する。

「ねぇ、どこでお写真を見たの?」

サシャはそちらのほうが気になった。ビスクはどこでロイヒテン様のお姿を見たのだろうか。

「え?えーとねぇ……ミルヒシュトラーセ王家の方々について載ってらっしゃる本よ。お姉ちゃんが借りてきたの」

「へぇ……そんな本があるのねぇ」

「王家の方はよくお写真を撮られるからね」

写真はあまり普及していないのだが、身分ある方々は確かに写真を良く撮るもののようだ。

「それ、見られるかしら」

サシャの言葉にビスクはにやにやとした。

「なぁにー。サシャだって気になってるんじゃない」

「まぁ、……そうよ」

本当のことを言いかけたけど、やめてしまった。どこかでお見かけしたような気がするから、なんて夢物語のようなことを。からかわれるに決まっている。

「とてもお素敵だったからほかのお写真も見てみたいの」

もっともらしいことを言っておく。ビスクは別段不思議にも思わなかったらしく「うんうん、そうよねぇ」と言って、誘ってくれた。

「街の図書館で借りたって言ってたよ。せっかくだから、明日にでも行かない?」

「うん、見てみたい。行こう」

サシャの返事にビスクは頷き、ストルのほうを見た。

「ストルは?行く?」

「そうねぇ」

ストルは少し考えたようだったが、「行こうかな」と答えた。

「お写真も拝見したいし、本も見たいわ。いいのがあったら借りようかなって」

「それは本を借りたいのがメインじゃないの?」

「いいじゃない。図書館ってそういうところでしょう」

「そうだけどー」

ストルとビスクがわいわいと話しだして、サシャはそれを聞きつつもなんだか胸が騒ぐのを感じた。

明日、お写真を見る。違和感の正体がわかるかもしれないのだ。

違和感に思い当たりはなかったけれど。

街中で見かけたひとに似ていたのかもしれない。バーのお客に似ていたのかもしれない。その程度に思っていたのだ。



でも、その軽い思考は翌日、図書館で見かけた写真で吹っ飛んだ。

「えーとねぇ。……あ!これこれ!この方よ」

ビスクがお姉ちゃんに見せてもらった、という本は運よく存在した。

それをデスクへ持っていって、座って三人で見た。真ん中に座ったビスクがページを繰り、そして一枚の写真を指さした。

サシャはやはり眉を寄せてしまう。写真ですら感じた。

なんだろう、これ。知っているような、感じ?

写真は何人かの人々が写っていた。確かに先週末に見かけた馬車でのひとたちだ。ロイヒテン様とやらと、その妹様。

でも数年前のもののようだ。ロイヒテン様も見かけたときより若く、少年に近く見えたし、妹様はそれはもう、幼い少女にしか見えなかった。

ほかには現国王陛下と王妃様も載っていた。家族写真、のようなものだろう。

「本当にイケメンよねぇ。王子様になるために生まれてきたみたい」

ビスクがほうっと息をつく。ストルも「格好良い方ね」と言った。こちらはビスクほど熱情的ではなかったが。

でもビスクはそれには構わず、続けた。

「お姉ちゃんに聞いたんだけどね、オフショット写真集なんかがあるんだって!それにはねぇ」

そのあとビスクがきらきら輝く眼で言ったこと。

それがすべての答えだった。

「プライベートのお写真も載ってるんですって!ロイヒテン様はいつも髪をあげてらっしゃるでしょう。おろした姿とかが!きゃーっ、見たいわぁ」

髪を、おろした姿?

想像してみて、サシャは思わず、あっと声を上げるところだった。

その想像で気付いてしまったのだ。

ロイヒテン様。彼がオールバックにしていた髪をおろした想像、それは身近にいる『あのひと』に非常に似ていたのだから。

そしてそれを意識してしまえば、違和感のピースは次々に当てはまっていった。

黒い髪。

琥珀色の瞳。

その顔立ち。

すべてが。

……バーやカフェで会う、『シャイ』にそっくりなのだ。

まさか、同一、人物?

思ったものの、サシャはすぐにその思考を否定した。

そんなはずないわ。名前だってまったく違うし、王族の方がバーやカフェにいるはずないじゃない。

当たり前のことを考える。でもどきんどきんと胸は高鳴っていた。

万一そんなことがあるなら。起こるはずはないけれど。

もしかしたら親せきとか……血族なのかもしれない。それでよく似た従兄弟とかそういう関係なのかもしれない。

それだったらありうることだろう。少なくとも本人そのままよりは。サシャはそう思った。

そして複雑な思いを抱く。

本人であろうはずがない。でも血族であったら高貴な方のはずだ。もしこの方が、なにかしらシャイとご縁のある方であれば、シャイだって相応のいい家のひとのはずなのだ。

「その写真集は市販されてるものじゃないみたいだし、勿論図書館にあるようなものじゃないから簡単には見られなくて、残念、……サシャ?」

ぺらぺらと喋っていたビスクが、ふと言葉を切った。サシャがおしゃべりに乗ることなく、写真をじっと見て黙っていたのだからだろう。自分で見たいと言っておきながら、この反応だったものだから。

「見とれちゃったんでしょう。あまりにカッコいいから」

ストルが言った。フォローしてくれるように。それにサシャは心からほっとして言った。

「そうね。ああ、直接お顔を拝見できてよかったわ」

ビスクの興味が逸れるようなことを言っておく。ビスクはそのまま乗ってくれた。

「もーっ狡いよー!そんなこと、私も誘ってくれたらよかったのに!」

「無理よ。偶然行き当たったんだから」

「それでも狡いーっ!」

わーっと声を上げたビスクは、寄ってきた司書に「図書館ではお静かに願います」と注意されてしまい、「す、すみません……」と縮こまったのだった。




じゃあね、ばいばい。

いつもどおりのやりとりでビスクとストルと別れて、サシャは帰路についた。帰路といっても今日はこれからバーの仕事があるので、家ではなくバーに向かうのだが。

先日、隣町で、そして今日、本で写真を見た、黒髪をオールバックにしていた『ロイヒテン様』。年頃もシャイと同じくらいに見えた。

シャイがもしもロイヒテン様と血族であれば、高貴な方なのだ。

これまでどおりに話してくれなくなったら寂しいな。

サシャはそう思ってしまい、ちょっとだけため息をついた。

そして思った。

言うべきかしら。隣町とお写真で似た方を拝見したのだと。

シャイは今までそんなこと、なにも言わなかった。

当たり前かもしれないが。王族の方と縁があるなんて、公言するようなことではないだろう。

でも、ただの他人の空似って可能性もあるわ。

サシャはそう自分に言い聞かせた。大体、そっちの可能性のほうがはるかに高いと思った。

そしてそれならシャイは、あはは、と笑い飛ばしてくれるだろう。

『俺が王族に似てる?そりゃ光栄だ』

『身代わり王子になんかなれるかもしれないな』

『ちょっと王子様のフリでもしてくるか』

そんなふうにふざけてくれるだろう。

きっとそうなる。そう思っておくことにした。

でもその夜。

タイミングよく、だろう。カフェからのおつかいに「こんばーん」なんて手を振りながらやってきたシャイを見て、サシャは確信してしまった。

他人の空似などではない。きっと血縁の方だ。だって、あまりに似ている。

実際にシャイと向き合ってしまえば、写真はともかく隣町の馬車に乗る様子をちらりと見た、あの姿。あまりに似ていたのだ。

「あれぇ、サシャちゃん、今日はサボり?」

カウンターの中でお酒を作る手伝いをしていたサシャを、シャイはからかってくる。

「違うわよ。今日はピアノの独奏だから」

今日はピアノ専門の奏者がきていた。物悲し気なジャズを奏でている。

だからサシャの歌は今日はお休み。客の前で歌うときのドレスよりはもう少し簡素な服を身に着けて、バーテンダーのお手伝いの日。

「あー、『干されちゃった』わけだ」

前にサシャが買った言葉を借りて、シャイはくすくすと笑って、サシャも「やぁね」なんて笑いかけたのだけど、いつもどおりにはきっと笑えていなかっただろう。

聞かないと。

あれが一体なんだったのかを。

シャイが王族の方とどういう関係なのかを。

「ねぇ、シャイさん」

サシャの言葉に、例によっておつかいついでの一杯をやりながらシャイは「ん?」とサシャを見た。

琥珀色の瞳。ああ、やっぱりあのとき拝見したものによく似ている。見慣れたこの色は。

「今日、お店が終わるの早い?このあとお話しできないかしら」

「お?なにかヒミツの話か?」

シャイは嬉しそうに、そしてからかうような響きで言ったのだけど、サシャはそれには乗れなかった。普段なら「そうなの」なんてくすくす笑うのに。

「……そうよ」

今は硬い声で、それしか言えなかった。

サシャの様子が違うことに、シャイはすぐ気付いたのだろう。すっと目が細くなる。

「……そっか。じゃ、サシャちゃんが上がる時間に、また来るな」

「ありがとう」

サシャの様子になにかしらを感じたのか、シャイは早々にグラスをカラにして「仕事戻りまーす。まったねー」なんてふざけた言葉を言って、帰っていった。

その態度は普段はないもの、だったけれど。



「お疲れ様」

バックヤードからの裏口を出ると、そこにはシャイが壁に寄りかかっていた。にこっと笑ってねぎらいの言葉をくれる。

今日は歌の仕事がないだけに、サシャの仕事も早めに終わった。もう夜半ではあるが、歌を歌う日は零時も過ぎるので早いほうである。

「お腹すいたろ。なにか食いに行く?」

確かに仕事上がりでお腹は減っていたけれど、お店でこれを訊くのはためらいがあった。もし、万一本当のことであればほかのひとに聞かれないほうがいいだろうから。

「うーん……いいわ。お散歩はどう?」

サシャのその返事にシャイはいよいよヘンだと思ったのだろう。「じゃ、そうしよっか」と言ったものの、それはどこか警戒するような響きを帯びていた。

お散歩、なんて言ってももう夜半だ。男のひとが一緒とはいえ、明るい道へ行く。

街灯がついていて明るいけれど人通りは少なかった。ここならいいだろう。サシャは思い切って、切り出した。

「シャイさんって」

シャイは「うん?」とだけ言ってサシャの言葉を促す。サシャは、ごくりと唾を飲んで思い切って言った。

「もしかして、身分のある、お方?」

返ってきたのは、沈黙だった。

「……そんなわけないじゃん。俺はただのウェイターなの知ってるだろ」

数秒後に明るい声で言われたけれど、嘘なのは明らかだった。数秒の沈黙が、その答え。サシャはなにも言えなかった。

それにつられるようにシャイも黙ってしまう。数間、黙々と歩いた。

やがてシャイがぽつりと言った。

「なんでそんなこと、思ったんだ?」

サシャは素直に答える。素直であるものの、はっきりとは言わなかったが。

「ちょっと、見たものがあって」

「そうか……」

シャイはまた数秒、黙った。

「こんな場所じゃあれだから場所を変えよう。そうだな……やっぱりご飯に行こうよ。個室の部屋にしてさ」

そのあとにされたのは、そんな提案だった。

「そこならひとめは気にならない、から」

ぽつりと言われたこと。それはサシャの抱いていた疑問を、少なからず肯定するものだった。



シャイに連れていかれたのは、薄暗い居酒屋だった。酒が飲めるといってもサシャの勤めるヴァルファーのようなものではない。薄暗くて、しかし照明が綺麗で、そして席もソファ席。多分、ここは恋人同士がこの秘密の席に座って、寄り添って話をするところなのだろう。

「なんか食べなよ。とりあえずさ」

勧められたので、サシャは今度こそ「そうね。お夕飯いただくわ」と言った。夕ご飯を食べていなかったし、それにシャイもその間に思考の整理をしたいだろうから。

「じゃ、ボンゴレビアンコで」

「うん。俺はカフェで軽く食べてきたから、このジャーマンポテトとボイルソーセージと……あとワインでも一杯」

簡単にメニューを決めて、オーダーして、その間は雑談をした。

今日の店は、仕事はどうだったとか。

あるいはサシャの学校はどのような様子だとか。

いつもしているようなたわいない会話ができた、と思う。

料理はすぐにきたし、食べるのもすぐだった。『話』が気になっていたから、食べやすいものを選んだのだ。

くるくるとフォークにパスタを巻き付けてぱくぱくと食べていく。美味しいけれど、このあと訊くことにそわそわしてしまって、普段より味わって食べることは出来なかった。

そのような軽い食事も数十分で終わってしまった。残ったのは、シャイの頼んだワインの二杯目と、サシャの食後の紅茶と、そしておつまみのミックスナッツくらい。話をする体制は出来た。

「で?サシャちゃんからのヒミツのお話をどうぞ」

それでもシャイはふざけたように言った。ナッツをひとつぶ摘まみながら。無理やりいつも通りにした、という様子のくせに。

「あのね、先週末に隣町までおつかいに行ったのよ」

それだけでシャイの目が丸くなった。それがすべての核心だったようだ。

「輸入煙草を買いに行ったんだけど、そこで馬車を見たの。王族の方の馬車。とっても豪華で……ええと、そうじゃなくて」

話が脱線しそうになって、戻した。自分が見たものを。

「ミルヒシュトラーセ王家の、王子様とお姫様が乗ってらしてね」

サシャがそこまで言いかけたとき、シャイが「あーっ」と声を上げて頭を抱えた。

「あー……」

テーブルに突っ伏しそうな勢いで、シャイは頭を抱えていた。サシャはそれを見守るしかない。

複雑だった。言わなければ良かったのかもしれない。シャイが王族の血族かもしれない、なんて憶測。きっと彼は隠しておきたかっただろうから。

「あー……うん……。バレたなら仕方ないや」

たっぷり三分はそうしただろう。

悶絶したあとシャイはやっと顔を上げて、言ってくれた。

「バレたからには言うけど。そうだよ。俺がロイヒテンだ」

サシャの意識が、一瞬空白になった。シャイの言った言葉の意味がすぐに理解できなくて。

「……えっ」

今度驚きの声を上げるのはサシャのほうだった。

本人?

そんな、こと。

「は?そう思ったからヒミツの話とか言ったんじゃ」

サシャが「やっぱりそうなのね」とか言うと思ったのだろう。シャイは、あれ、とばかりに顔を上げる。その反応にはサシャのほうが戸惑ってしまった。

「え、あの、ご親戚とかだと、思って」

シャイの目が丸くされた。そして盛大に顔をしかめる。

「……はっ!?……うわぁ……そういうことにしときゃ良かった」

サシャの予想だったことを聞いて、シャイはもっと頭を抱えた。自分で暴露したも同然なので。

「ご、ごめんなさい……」

サシャはなんとなく謝ってしまった。言わせたようなものだった。はじめから「血族の方なの?」とか聞けばよかったのかもしれない。

「や……。俺が動揺して……、ああ、もう!」

ぶつぶつと言っていたけれど、シャイは……『ロイヒテン様』は、ばっと顔を上げた。

でも彼はサシャにとっては『シャイ』だ。カフェ・シュワルツェで働く、たまにサシャの職場におつかいにくる青年、シャイだ。

「とりあえず、まず言っとくけど。誰にも言わないでくれよ」

「そ、それは、勿論、あの……ロイヒテン、様」

あわあわと言って、サシャは言うべき呼称を口に出したのだが。

「や、それはやめよう。今まで通り俺のことは『シャイ』にしてくれ」

『シャイ』に、ばっと手を突き出された。拒絶するように。サシャはそれに息を呑んでしまう。

呼ばれるのは嫌だったろうか。そしてそのとおりで、でも少し違うことを彼は言う。

「サシャちゃんの前では、『シャイ』でいたいんだよ」

ぼそりと言われて、思わずどきっとしてしまった。

『ロイヒテン様』と『シャイ』。

同じひと。

でもきっと、違うひと。

「わ、わかった……とか、あの、こんな口調で、いいのかな」

どもりつつ言ったのだけど、少し落ち着きを取り戻したらしいシャイに言われる。

「いいんだよ。今までとなにも変えないでくれ」

「わ、わかった」

それで、一応の実質『暴露』は済んで。シャイは事情をぼそぼそと話してくれた。

「王子って立場じゃあるけど、俺は国王になりたいわけじゃないんだ。大体、なれるはずもないし」

ぐいっとワインを飲み干して、ウェイターにもう一杯頼んだ。そして来たワインを見つめて言う。

「継承権も相当下だし、そのせいで王室でもそれほど重要な立場じゃない。だから父上……ああ、ミルヒシュトラーセ国王だけど。父上も、俺が実質、国を出て放蕩してるようなもんなのをほったらかしてるんだろうさ」

放蕩。

違う国にきて、庶民のするような仕事をしていること。

それは王族という立場からしたら『放蕩』になるのだろう。サシャのような、庶民も庶民からしたら立派に働いている状態なのだけど。

「でもまぁ、一応勘当とかされたわけじゃないから。たまに呼び戻されるんだよな。式典とかそういうときには」

その説明でサシャは理解した。

『金曜日は普段ならかまわないんだけど、今週の金曜日はちょっと予定があるんだ』

『ちょっと週末にかけて用があるもんだからね。今週にしてくれるなら、木曜とかどうかな』

シャイが自分で言った、ちょっと不思議なこと。

接客業についている人間としては、あまり無いこと。

週末まるまると用事がある、など。それがやっとわかった。

『海の向こうの国』。生家であるミルヒシュトラーセ王家の外交に参加する用事だったのだろう。そのとおりのことを、シャイは言った。

「ここの隣の街だな。週末、泊りがけの外交に参加してこいなんて言いつけられてさ。妹と一緒に来たってわけ」

そこで、やっぱり、はーっと息をついた。

「まさかサシャちゃんがきてるとはな……馬車で走るのなんてほんの数十分だったのに、なんてタイミングだよ」

確かにその通りだ。

サシャの住んでいる街へくるのならともかく、普段いない場所だ。おまけに馬車が走って庶民に顔を見られるなんて僅かな時間だっただろうに、そこに遭遇してしまうなど。

「あんまり知られたくなかったなぁ……サシャちゃんの前では、俺はただのカフェウェイターの『シャイ』でいたかった」

「そっ、……か。ごめんなさい」

ぽつりと言われたことに、サシャの胸が痛む。まるで彼の秘密を暴いてしまったようで。

それを悟ったように、シャイは慌てて言った。

「ああ、悪い。気ぃ使わせちゃったな。うん、でも。俺のことはこれからもシャイって呼んでほしいし、扱いも変えないでいてくれたら嬉しい」

にこっと笑って、言われて。

サシャはほっとした。つられたように笑う。

「ええ。シャイさんがそれでいいなら」

「うん。そうしてくれよ」

空気は穏やかになっていた。

「あーっ、気分でも変えよ!甘いもの食べようぜ。ここ、ジェラートが美味いんだ」

気分を変えたい、と言ったそのままに明るい声を出して、シャイはメニューを取り上げた。

ショコラにするか。ヴァニラにするかとか選びはじめる。その様子を見て、サシャはほっとしてしまった。

変わらないのだろう。

ここにいるひとは、馬車に居た『ロイヒテン様』ではなく『シャイ』。それだけだ。




海の向こうの王子様。そんな存在が近くにいたなんて。

夜、建物の屋根裏の部分にあたる小さな自室で髪にブラシを入れながら、サシャはぼんやりと考えた。

もう夜半をとっくに過ぎていて、月は真上を越していた。弱い月の光が窓から入ってくる。

小さなアパートの一部屋を間借りしている、サシャの自宅。

借りているのは、リビング兼ダイニング。

父の部屋。

自分の部屋。

その他、風呂やトイレなどくらいしかない、小さな、小さな家。そんな自分が海の向こうの王子様という身分を持ったひとと話したなんて信じられなかった。

ふわふわの髪はもつれやすいので、サシャは毛を切らないように丁寧にブラシでとかしていく。お風呂に入って、髪も洗って、トリートメントをしてタオルで水分オフ。今日の仕事では、アップにまとめて整髪剤で整えたので、固めた状態になっていていつもより念入りに洗う必要があった。なので必然的に、髪も多少は絡まっている。

髪の手入れは少々手がかかるが、もうすっかり慣れている。なので髪に過度に集中する必要はなく、考え事をしてしまっていた。

昨日、夕食を共にしたシャイのこと。ヒミツの話……それは『ヒミツ』どころか機密事項ともいえるほど壮大なものであったのだけど……まぁ、そういう話をしたこと。

そのときは、変わらない、と思った。

でも自分がそれを知ってしまったという事実はある。

それは確かに『変わってしまった』こと。

シャイは自分の前ではただのカフェウェイターでいたいと言ってくれた。

それがどんな意味かはわからない。単に『王子という身分を意識したくない』という気持ちかもしれない。けれど、『自分のことを、ただの女の子として扱いたい』としてそういうふうに言ってくれたのなら。

王子様なのだ。庶民の、そして立派とは言えない……バーで歌って生計を立てているような、どちらかと言うならば卑しい身分にも近い女子を本来、そのように扱ってはいけないだろうから。

シャイはいつもサシャに良くしてくれる。一人の女の子として、対等に接してくれて。自分もその関係を続けたい、とサシャは思う。

だから。

髪も綺麗にとかし終わって、サシャはブラシを置いた。

心に決める。

昨日、聞いたこと。無かったことにはできないし、しない。

けれど、自分にとってはシャイ。『ロイヒテン様』ではない。

なにも変えやしない。彼がそう望んでくれたのだから。それならサシャがなにか変えてしまうほうが彼をがっかりさせてしまうだろう。

だからいいのだ。このままで。

そろそろ寝なければ、と思う。明日も学校だ。サシャの通う学校は朝が遅いほうで、だからこそ夜遅いバーの仕事なんてことも並行しておこなえているのだが、流石にもう寝なければ。

寝支度を整えてベッドに入る。しかしなかなか寝付けなかった。

シャイ。

ロイヒテン様。

その、二人であり一人である人物のことが、交互に頭に浮かんでしまった。






そして『シャイ≠ロイヒテン様』の図式が覆ってしまう出来事が早々に起こってしまった。

「こんにちは」

冬も深まったある日。サシャはカフェ・シュワルツェのドアを叩いた。

買い物に来たのだ。シュワルツェは茶葉も扱っている。

もうすぐクリスマスなのだ。クリスマスくらいは良いお茶を淹れて、友達とお茶会でもしようと思っている。その茶葉を見繕いにきたというわけ。

「はーいいらっしゃ……サシャちゃん」

くるっと振り向いたシャイは、サシャを見て、ぱっと顔を輝かせてくれた。

あれから本当になにも変わらなかった。シャイは時折バー・ヴァルファーへおつかいや飲みにやってきてくれるし、サシャも二度ほどシュワルツェへお茶を飲みに来た。そのときは友達と一緒だったけれど。

仲のいい友達、ロイヒテン様の話をしたビスクとストル。彼女たちもシャイのことを知っているので、店を訪ねたときには「こんにちは」「お久しぶりだね」くらいはやりとりをしていた。

そのとき少し心配になった。シャイが「あのとき本で見たロイヒテン様と似ているね」なんて思われてしまったらどうしよう、と。

しかしストルが「いつもサシャがお世話になってます!」と言い、ビスクが「お母さんか!」なんてツッコミを入れて、あはは、という笑いが溢れる程度で終わってしまった。二人にとってはそれほど良く知らない男のひとだ。黒髪に琥珀の瞳なんてこの国ではありふれているカラーリングであるし、気付かなくても当たり前だ。

ほっとしてサシャはそのとき、安心してお茶を飲んで話に興じることができた。なので、シャイから聞いてしまった話も「それとて彼の一部」くらいに思うようになっていたのだけど。

「今日はおつかい?」

サシャが一人であるのを見てとってだろう、シャイはそう言った。

確かにヴァルファーからのおつかいでカフェに来ることも、たまにはある。シャイがヴァルファーにおつかいにくるのと同じだ。

ヴァルファーはバーではあるが、もちろんソフトドリンクも提供している。そのひとつにアイスティーやホットティーがあるので、たまにではあるが茶葉も必要になるのだ。なので二、三ヵ月に一回程度ではあるが、ヴァルファーからのおつかいでシュワルツェにくることもあるのである。

「ううん、私個人的なお買い物よ」

「そうか。紅茶かな」

売っている茶葉の並んでいく棚へ行くと、シャイもやってきてくれた。一緒に見てくれるらしい。

ちょうどお店は空いていて、お客さんたちもおしゃべりに興じていたり、もしくは静かに本などを読んだりしていて、すぐにウェイターを呼びそうな雰囲気ではなかった。シャイはお客さんが呼びたそうな雰囲気を出せばすぐにそれを察せるので、それまで見てもらってもいいかな。なんて思ってサシャは紅茶選びに付き合ってもらうことにする。

「うん。おすすめはある?」

紅茶であれば大概のものが好きなのだけど、旬のものがやはりいいだろう。

「そうだねぇ、この間のストロベリーティーもいいけど……ミルクティーにすると美味しいのは今度新しく入ったこれかな。ロイヤルミルクティーにすると、すごく濃厚で美味しいんだよ」

ロイヤルミルクティー。ミルクで茶葉を煮出して作る、濃くて美味しいミルクティー。冬にはぴったりの飲み物だ。

シャイが次に取ったのは、なんだか不思議な缶だった。

緑の筒状の缶。側面には紙が巻かれて、折り紙を切って散らしたような模様が入っている。見慣れないものだけど、とても綺麗だった。

「あと、新しいのといえばこれね。海の向こう……」

言いかけて、シャイはちょっと言葉を切った。サシャがどきっとしたのがわかったからだろう。でもすぐに続けた。

「ああ、もっともっと遠くだよ。地球の半分もしそうなくらいの遠い国のお茶なんだけど。リョクチャっていうやつも入ったんだ。このへんじゃ珍しいよ。今、並んでるぶんしかないんだ」

「へぇ……緑のお茶なのね」

サンプルが他の紅茶と同じような小さな缶に入っていたけれど、それは深緑をしていた。紅茶とはまったく違う。

「ああ。味見をしたけどちょっと渋めだな。サシャちゃんにはもっと甘いのがいいと思うな」

くすくすと笑いながらからかわれるので、サシャは、ちょっとむっとしてしまう。

「もー!子どもじゃないのよ!」

「あはは、ごめんごめん」

一通り笑って、サシャが「じゃあ、やっぱり新しいこれにするわ」とロイヤルミルクティー向き紅茶を選んだあと。

会計の前に、シャイが言った。

「『海の向こう』って言えばさ」

もう一度どきりとした。どうしても意識してしまう、その単語。

「またヒミツの話をしない?」

三度目だった。どきりとさせられるのは。

そして今までの比ではなかった。こんなお誘いをされれば当たり前であるが。

「え、……私はいいけど」

でも断る理由もない。サシャはちょっとだけ言い淀んだものの、受け入れる。シャイは何故かほっとしたような顔をした。

「そう。じゃ、……明日はどう?サシャちゃんお仕事あるかな」

「あるけど歌わない日よ。だからお夕飯くらいはお付き合いできるわ」

「そっか。じゃ、前と同じようにしようか」

それで予定の取り付けは済んでしまって、サシャは茶葉を購入して、紙袋に入れてもらった。

「じゃ、またね~」

帰るときにはシャイがひらひらと手を振ってくれて、サシャもにこっと笑って「またね」と店を出た。紅茶の入った袋を抱えて家路につきながらどうしても考えてしまう。

ヒミツの話、ってなんだろう。

前回と同じ言い方をするに、『ロイヒテン様』関係の話かもしれない。それならちょっと緊張してしまう、と思う。嫌ではないけれどどうしてもかまえてしまうだろう。




「実は折り入ってサシャちゃんにお願いがあるんだよ」

翌日。深夜。以前と同じ店を選んだ。個室で食事もできて、ひとに聞かれたくない話もできるので。シャイとずいぶん近くで話すことになるのでちょっと緊張はするものの、心地良い店だ。

「なぁに?」

そしてこれも以前と同じ。仕事上がりのサシャは軽く夕食を食べて、既にその空いた皿は下げられて代わりにココアのカップが置かれていた。ホイップクリームが控えめに乗せられていて、甘いココア。

「実は……その、俺のことは『シャイ』として扱ってくれ、なんて言ったくせにとか思われそうなんだけど」

シャイは大変言いにくそうで、黒髪に手をやった。だいぶ言い淀んだけれど、口を開く。サシャはそれを聞いて驚愕してしまった。

「今度のクリスマスにある、ミルヒシュトラーセ家舞踏会。俺のパートナーのふりをして参加してほしいんだ」

ココアについてきていたクッキーをかじりかけたまま、サシャは固まってしまう。言われたことの意味が理解できなかった。

クリスマス?

舞踏会?

そしてパートナー?

パートナーってなに?

まさか、恋、人とか。そういう。

なにもかもがサシャの過ごす世界には無いものすぎて、理解が追い付かない。クッキーを口に含んだままぽかんとしてしまったサシャを見て、シャイは苦笑いする。

「急に言われてもって感じだよな……あと二週間もないし。でもちょっとパートナーを用意しないとまずい事態になっちまったというか……」

重ねて「頼むよ。お礼はするからさ」と言われる。

「えっと、その、なにをすれば……」

「ああ、ごめん。まずはそこからだよな」

信じられずにいたサシャに、シャイはひとつずつ説明してくれた。

ミルヒシュトラーセ家舞踏会。王室の外で暮らしているとはいえ、特別な日でイベント。参加しないわけにはいかない。

そして成人した王子の一人として、婚約者かそれに値する女性のパートナーが居なくてはならない。けれど今回、代役として参加してくれるはずだった貴族の家の娘の都合が悪くなってしまった。

ここで「いいとしをして、本当のコイビトの一人すらいないなんて情けないんだけどさ」と苦笑いが入ったけれどそしてサシャも愛想笑いをするしかなかったけれど。

シャイに恋心を抱いている身としては胸が痛んだのと、少しの喜びもあったので。

でも身分や事情があるだけに、そのへんの女の子に気軽にお願いは出来ない。貴族の娘だって、シャイの事情を知っている者はほとんどいないし、この『シャイとしての生活』を秘密としてくれる保証もない。

そこでサシャにお願いしてみる、という思考になったという経緯。

「どうかな。ドレス着て、俺の傍に居てくれるだけでいいんだ。ダンスとかもないし」

そこまで言われてしまえば断ることなどできるはずがないではないか。特別扱いをしてくれることが嬉しいし。

「え、えっと……私に出来るのかな」

「できるできる!本当に難しくないんだって。俺が事前に『内気な子だからあんまりおしゃべりは得意じゃない』って根回ししとくからさ、深い話もしなくていいと思うし」

サシャの心が受け入れに傾いたことを知ったのだろう。背中でもバンバンと叩きそうな勢いでシャイは言った。が、そのあと茶化される。

「まぁ、本当のサシャちゃんは内気とは程遠いけどね」

言われるのでサシャは膨れてしまう。

「ひどい!そんなふうに言うなら行かな……」

「ああっごめん、冗談だよ!」

あたふたとシャイは言ったが、ただのふざけあいだった。

「……わかったわ。頑張ってみるけど……失敗しても怒らないでよ?」

「ありがとっ!サシャちゃんなら大丈夫って信じてるからさ!」

「そう言われると荷が重いんだけど……」

「大丈夫だって!」

そのあとシャイはほっとしたのだろう、さっと手を伸ばしてメニュー表を掴んだ。

「じゃ、とりあえず先払いとしてケーキでも奢るよ。なにがいい?トルテとかどうかな?」

「こんな時間に食べたら太っちゃうわ」

年頃の女の子として体型には気を使っているのだ。深夜のご飯だって、夜遅くまでの仕事をしている以上、食べないわけにはいかないけれど、軽く済ませるように心がけている。

「特別なときくらい許されるって」

「……じゃ、この一番小さいの」

「慎ましやかだなぁ」

とんでもない依頼を受けてしまったものの、甘いものを食べればちょっとだけ心は落ち着いた。




しかし、よく考えればおおごとである。

庶民の自分が王族……とまではいかないが、貴族の娘かなにかの振りをするのだ。シャイは「サシャちゃんなら大丈夫」と言ってくれたがまったく自信がない。

ちょっとは貴族のことに関して勉強しておかないと。

思ったサシャはそれから空いた時間、毎日のように図書館へ向かった。そこで王族に関する資料や、貴族の生活について書かれた本をいくつも読んだ。こんなもの、しょせん付け焼き刃でしかないけれど、無いよりはましだろうと思って。

そしてそうしているうちに、別のことも気になってきた。

シャイが自分のことを選んでくれた、という事実。

恋人の振りをしてほしいと言ってくれた。それは自分に対してなにかしらの想いを抱いてくれる気持ちが少しは、ほんの少しはあるからではないだろうか。

少なくとも偽装の対象にしてくれるなんてくらいには、女の子として見てくれているということで。

つまり、偽装であっても彼の『お姫様』になれてしまうということで。

思い至ったときには思わず本で顔を隠してしまった。恥ずかしいけれど、嬉しすぎる事実だ。本当の恋人になれたらいいのに、なんて叶うかもわからないことを思ってしまう。

いや、叶うはずはないのだけど。シャイが本当に、街中のカフェウェイターとして働くただの庶民の男性であれば、まだ可能性はきっとあった。

けれど、シャイが『ロイヒテン様』である以上、それは多分叶いやしない。

きっといつかは家に戻って相応の貴族かどこかの娘と結婚するのだろう。自分で言っていたように王位継承権が低いというなら、王位を継ぐかはわからないけれど、少なくとも王子の一人であればそうあって当然。そう考えると胸は痛む。

けれど自分が望むなど図々しい。振りであっても恋人と振舞えること。このようなことについて考えると、ある意味降ってわいた僥倖ともいえた。

だから、せっかくだから享受してしまいましょうか。

前向きなサシャはそう思うことにして、二週間はすぐに経ってしまった。

その間、シャイともう一度、こっそり会った。舞踏会でドレスを作るためにサイズを測るからと。

シャイの事情を知る王室お抱えである仕立て屋に、細部までサイズを測られた。薄着の上からではあったけれど、こんな計測をされたことなどなかったのでだいぶ恥ずかしかった。

それはともかく、サイズ計測も終わったあと「どんなのにする?」なんてカタログまで見せてくれた。しかもこれはただの参照で、いくらでもアレンジができるそうだ。

自分がこんな美しいドレスを着るなんて。普段からバーの歌姫としてドレスもどきを着てはいるけれど、そんなものとは比べ物にならない本物のドレス。女の子として純粋に嬉しくなってしまった。

「いいの?じゃあ、ピンクがいいわ」

サシャの意識はすっかり前向きになっていたので、むしろ堂々とドレスのカタログをめくり、明るいピンク色でリボンやレースがたくさんついていて、ふんわりしたスカートのものを指した。

「いいねぇ。若い女の子なんだからかわいい色を着ないとね」

シャイは肯定してくれたし、自分でもピンクで良いと思った。髪が金色で、この国ではポピュラーな色なので大概の色は似合うのだ。

「じゃあ俺は、ピンクに似合うようなワインレッドにでもするかな」

言われてサシャの胸はちょっと痛んでしまった。

そうだ、自分がこのドレスを着るとき隣に居るのは『シャイ』ではなく『ロイヒテン様』なのだ。きっとあのとき馬車で走るのを見かけたように、髪を持ち上げて王子様の盛装をするのだろう。

「そういえば、言葉遣いとかはどうすればいいの?」

気分を変えるように聞いたサシャに、シャイはなんでもないように答えた。

「別に普通の敬語でいいよ。ただ、俺のことをロイヒテン様って呼んでくれるくらいでいいんだ」

「……そう」

それが一番の問題であり、距離を感じてしまう寂しさであるのだけど。それを悟ったように、シャイは言ってくれる。

「悪いな。気、使わせると思う」

「ううん」

言って、今度はサシャがその場を和ませた。

「頑張るから、うまくやってのけたら甘いものでも奢ってね。スイーツビュッフェとかがいいわ」

「ちゃっかりしてるなぁ。太るんじゃなかったのか」

「特別なときはいいのよ」

言って、なんだかおかしくなって、シャイと二人でくすくすと笑ってしまった。

きっと出来るだろう。

そう思えるようになったのだ。




クリスマスイヴの前日。

サシャは港のある隣町まで行って、そこから船に乗って海の向こうのシャイの……ロイヒテン様の国へと出向いた。船に乗るのもサシャは初めてで、甲板に出てついはしゃいでしまった。ちなみに行くのは一人で、であった。少なくとも知人という意味では。

シャイは準備があるからと、おそらく数日前から国に帰っていた。「付き合わせるのに迎えにもいけないなんて、ごめんな」と言ってくれたけれど。

よって、お迎えに来てくれたおつきのひとたちがサシャを連れていってくれた。側近でシャイの事情も分かっているので、あまり気追うことはないと言われたので少しは安心していたし、それにあちらからもあまり話しかけられなかった。

そんな、数時間の船の旅。心配したけれど船酔いをすることはなかった。

降り立ったミルヒシュトラーセ王家の国は、サシャの暮らす国よりだいぶ立派で、思わずあたりをきょろきょろと見てしまった。

全体的に建物が豪華だ。お店で売っているものも、明らかに質がいい。豊かな国なのがすぐにわかった。

「一人で出歩かないでくださいね」

サシャがあちこち見ていたからか、おつきの男性に言われてしまう。

「は、はい」

サシャは答えたものの、その理由はちょっと物騒だった。

「お嬢さんの暮らすお国より綺麗に見えるかもしれませんが。スラム街もあるのです。そういうところは危険なのですから」

よって臆してしまって、もう一度「はい」と言うしかなかった。

乗せられた馬車は、あのときサシャの暮らす街の隣街で見たものと同じ豪華さだった。

もちろん、このようなものに乗るのは初めて。緊張と同時に胸がときめくのを感じた。

王家の馬車なのだ。街中を走る僅かな間にも、街の人々の視線を集めているのが感じられた。

シャイに贈られた、貴族の娘に見えるような相応の良い服を着ていたけれど、中身はただの庶民の娘であることが露見しやしないかびくびくした。

しかし別に疑われはしなかったようだ。おつきの男性は「舞踏会ではよそのお国のお貴族様などもよくいらっしゃるのです。そのすべてを庶民の方が知っているはずもありません」と、また素っ気なくあるが説明してくれた。

そして「もちろん参加されるお貴族様もすべて把握されているわけではないですから」と言われたのでほっとした。

城について、きっと門の前で止まると思ったのだが馬車はそのまま門を抜けていく。

そういうものなのかしら。

いつ降りるのかわからずにそわそわしてしまうサシャを乗せた馬車は、城の玄関……なんて表現がはばかられるほど立派だったけれど……そこまでいって、やっと止まった。

「いらっしゃいませ。長旅、お疲れ様でした」

びし、と玄関の両脇に立っていた衛兵が敬礼してくる。

衛兵の服も豪華だった。赤いかっちりとした服に、大きな帽子をかぶっている。腰には剣を携えていた。

「あ、は、はいっ。ありがとうございます」

言ってから気付いた。貴族の娘ならここでお礼など言わないのかもしれない。当たり前のように、ツンとして「ご苦労様」「お邪魔するわ」なんて言うのかもしれない。

実際の貴族と親密に接したことがない以上、そこまでは流石にわからなかったので不審だったかもしれないこともわからず、ちょっとびくびくしてしまった。城でもサシャがどういう家の娘で、どういう事情でやってきたのか知っている者は一握りなのだ。

貴族の娘に見えるように、付け焼き刃であっても知識を総動員してふるまわないと。

決意を固め、ごくりと唾を飲んで、サシャは城へ足を踏み入れた。



城で通された客室も豪華極まりなくて、「長旅でお疲れでしょうから少しおくつろぎくださいませ」とおつきに去られて、サシャは一人になってからあちこち探索してしまった。

花柄の大きなソファ。

硝子の天板のローテーブルには、どう作られているのか繊細な模様入り。

クローゼットも派手な装飾が掘られていた。

奥にあるベッドは見たことも無いほど大きい。フリルがたっぷりついて白いシーツがかかっている。おまけに天蓋付き。

こんなもの、絵本などでしか見たことがない。本物のお姫様のお部屋だ。

かりそめとしても、こんな経験きっと一生のうちで、もうできないだろう。場違いにもサシャはわくわくとしてしまった。

それでも半日足らずではあるが長距離移動の旅や、張り詰めた心が疲れたのは確かであったので、息をついてソファに腰をおろす。ふわっと良い香りがした。香かなにかを焚き染めたような香りだ。

そのうちに、タイミングよくお茶が出された。

やってきたのは若いメイド服を着た女性。黒のワンピースに白いエプロンをしている。

「ようこそお越しくださいました、サーシャ様。どうぞおくつろぎくださいませ」

「……ありがとう」

メイドといっても本来のサシャよりずっといい身分であることはわかる。

そんな彼女に敬語もなしで喋ろうなど気は引けたものの、貴族の娘なのだ。そのように話さなければと敢えて少しツンとしたような声で言った。

ちなみに『サーシャ』という名前はシャイがつけてくれた。『サシャ』をほんの少しいじっただけであるが。

今のサシャは『サーシャ=アシェンプテル』という名前である設定になっていた。生まれが元々、庶民が名字をつける習慣がない国であったので、サシャは名字というものを持っていなかった。

しかしなにかしらの名字は必要であり、しかも相応の格好がつく名前でないといけないので考えてくれたのだ。

「『アシェンプテル』は、知っているかな。シンデレラのお話。あれに出てくる名前を少しいじったんだよ」

茶目っ気のある目でシャイは言ったものだ。

「灰かぶり、ではないけれど、シンデレラのようなものだからちょうどいいだろ?」

「そ、そうね」

『シンデレラ』は庶民の娘が王子様に見初められて嫁ぐおはなしなので、少しドキドキしてしまったけれど。

それはともかく、出された紅茶も極上の質であることが香りだけでわかった。華やかでありつつも深みのある香り。カフェ・シュワルツェで飲むものだってサシャの国では上等の部類に入るお茶だというのに、それよりもっと良いものだ。

入っているティーカップも綺麗な花柄が焼き入れられていて、どう作られているのかもわからないくらい繊細に薄いものだった。落としたら粉々になってしまいそう。でももちろん、貴族の娘はそんな失態、犯さないのだ。

「あと一時間ほどしましたら、お着替えのお手伝いに参ります」

着いたら国王陛下……シャイの、いや、ロイヒテン様のご両親にご挨拶することになっていた。今はサシャの長旅を気遣ってくださって休憩時間を頂いているだけなのだ。

「……あ、はい。お願いするわ」

『お願いします』と言ってしまいそうなのを堪えて、敢えてぶっきらぼうともいえる口調で言った。

貴族の娘は基本的に、おつきに着換えをされるのだと本や聞きかじって知った。サシャにとっては自分で着たほうがしっくりくるように着られるのだし、同じ女性とはいっても素肌に近い下着姿を見られることには恥ずかしさもある。

本当なら、本当に貴族の娘であれば自分の家からおつきのメイドかなにかを一人や二人、連れてくるものなのだという。でもサシャにそんな者はいるはずもないし、偽装できるような、してくれるような存在もいなかった。

不審に思われるかもしれないと心配だったが、こちらもシャイが「上手く根回ししといたから」と言ってくれた。

「俺との仲をサシャ……サーシャの父上にまだ反対されてるって設定でいこう。だからお忍びってことで、メイドも連れてこられなかったってことで」

ちょっと無理はあるのかもしれないが、王子であるシャイ……ロイヒテン様が言えば、メイドや使用人くらいは「そういうことだ」と思うしかないのだろう。なのでここでの生活の間は、この城のメイドにいくらか面倒を見てもらうことになっていた。

ちなみにミルヒシュトラーセ国で過ごすための数日間に着る、ドレスに近い服はもらったが、下着だけはシャイに用意させるなんて恥ずかしいことは出来なかったので、もらったお金を握りしめて、暮らす街の最高級のお店で自分で選んで買った。

つけたこともないような豪華なブラとショーツの上下のセットと、レースのたっぷりついたキャミソール。それを三セット程。多分貴族の娘の設定としても見劣りは、しない、はず。

お世話をされるとき、着替えさせてもらうときだけに見られるので相応のものを買っただけで、別にシャイに見られるわけでは。

と思ったものの、やはりシャイから「これで、ドレス以外に必要な小物とか揃えて」とお金を渡されたときにどうしても意識してしまって、買ってきた超豪華な下着をつけて鏡を見たときには赤くした顔をおおってしまった。恥ずかしい妄想をしてしまったので。

まさかこれがシャイの前で着るなら良かったのに、なんて。

そんなこと、あるはずもないのに頭に浮かんでしまったのだ。

でも彼の前で、ドレスを着ているとはいえ下にこんな豪華な色っぽい下着をつけていると思ったらやはり顔が赤くなってしまいそうだと思ってしまったのだった。

そんな下着事情はともかく、少しくたびれたのでサシャはソファに横たわって天井を見上げた。ドレスを潰しすぎてしまわないように気をつけながら。本当の貴族の娘ならこんなはしたない格好、するはずもないのだが誰も見ていないときくらい肩の力を抜きたい。

見上げて気付いたが天井も豪華だ。豪華な彫りが入っている。

ああ、本当に違う世界へやってきてしまったのだわ。

こんなことから実感する。

ぼうっとしているうちに、疲れからか眠気が襲ってきたが、寝入ってしまうわけにはいかない。サシャは少しだけ頭を振ってソファから体を起こして、すっかり冷めた紅茶をすすった。紅茶を飲むと頭がすっきりするのだ。

シャイが前に言っていた。「紅茶は頭を冴えさせる作用があるんだ。だから夜には飲みすぎないほうがいいんだよ」と。

眠いままで国王陛下の前に出るわけにはいかなかった。なのでちゃんとすっきりした思考で赴かなくては。

そうこうしているうちに一時間はすぐに過ぎ、先程のメイドの女性がやってきて、ここまで来た外出着よりもう少し良い服に着替えさせてくれた。




「お初にお目にかかります。サーシャ=アシェンプテルと申します。この度はお招きありがとうございます」

ドレスの裾を持ち上げて、サシャは丁寧なお辞儀をした。

王座に座っているのはシャイ、ではなくロイヒテン様の父上。ミルヒシュトラーセ王国の国王陛下だ。どんなお姿をしているのかは直視できなかった。礼儀という意味もあるが、緊張と不安で心臓がばくばくとしていたせいでもある。

「ようこそいらっしゃった。歓迎する」

言われたが、それは『心から歓迎する』という声音ではなかった。当たり前のように、ロイヒテン様の事情は父上である国王陛下には伝わっている。そこまで欺くことなどできないのだから。

「お顔を上げたまえ」

言われてサシャは、そろそろと顔を上げた。国王陛下と視線が合う。

国王陛下はロイヒテン様によく似ていた。髪は白髪混じりではあるが黒髪で、瞳の色も琥珀色。ロイヒテン様の父であることは疑いようもなかった。そして立派な口ひげをたくわえていた。

彼は値踏みするようにサシャをじろじろと見て、そしてその通りのことを言った。

「……見た目は美しい娘だ。これならまぁ、ロイヒテンと並んでもそう見劣りはしないだろう」

「父上、彼女に失礼では」

国王陛下の隣に立っていたロイヒテンが言う。

彼は今、『シャイ』とはまったく違う格好をしていた。

王子の姿。カジュアルな部類ではあるのだろうが、黒のかっちりとした衣装を着こんでいる。そして初めてサシャが『ロイヒテン様』としてのお姿を見たときと同じように、髪をすべて持ち上げていて、それはシャイより精悍な様子で、やはり別人のように見えた。

「庶民の娘だろう。これでも十分すぎる褒め言葉だと思ってほしいものだ」

言われてロイヒテン様は黙った。流石にそこまで口答えはできないのだろう。

とんでもない方だわ。お偉すぎる方。

サシャはそのやりとりで臆してしまう。

いえ、駄目。堂々としていなければ。

お腹に力を入れて、ぎゅっと目を一瞬だけ閉じて開けた。

「本当に、綺麗なではないですか」

ロイヒテン様とは隣にいらした方。国王陛下と同じ、玉座にゆったりと腰掛けている。

王妃様。ロイヒテンの母上だろう。

彼女も黒髪をしていた。瞳の色は違っていて、澄んだグリーンであったが。

ロイヒテン様はどちらかというと、父似であるようだと思わせられた。母の面影も確かに持っていたが。

「おまけに庶民の娘にしては、なかなか堂々としているわ。これなら大丈夫ではないかしら」

母上のほうは、国王陛下である父上よりは寛容のようだ。サシャは少しほっとした。

「お前もロイヒテンの肩を持つのだな」

「あら、びくびくされて不審に思われるよりは良いではないですの」

「そうだが」

それでも国王陛下は気に入らなかったようだ。

「よくよく言っておくが、我が王家に泥を塗ることはしてくれるなよ。客分とはいえ、ロイヒテンの婚約者に相当する立場として出てもらうのだからな」

「父上、彼女はそのようなことをされたりしません」

「そうだといいがな」

ロイヒテン様が言ったが、ふん、と鼻でも鳴らしそうな様子で国王陛下は言った。そしてすぐに「さがりなさい」と言われてしまったのでサシャは「謹んでおいとまいたします」と、来たときと同じように丁寧なお辞儀をして部屋をあとにした。

お辞儀をする前。一瞬だけロイヒテン様と目があった。

その目は「ごめんな」と言っていたので、サシャはふっと笑った。大丈夫よ、と。見咎められては困るのですぐに表情を引き締めたが。

お部屋を出て、おつきに客室まで連れていかれ、「お夕食までおくつろぎくださいませ」とまた紅茶を出してもらって、サシャは、はーっとソファに座り込んだ。

緊張した。国王陛下に自分がご挨拶することになろうとは。

ほんとうに、大変な事態になってしまった。

もう何度目かもわからぬその事実を噛みしめて、今度こそサシャはソファのひじ掛けにもたれて眠りに落ちてしまった。一時間ほど眠っていただろうか。こんこん、とメイドにドアを叩かれてもすぐには気付かないくらいに、ぐっすりと眠ってしまった。




クリスマスイヴ、つまりミルヒシュトラーセ家舞踏会は翌日の夜。前夜、城に来た日はなかなか寝付けなかった。例のレースたっぷり、天蓋付きのベッドが良いもの過ぎて身に馴染まなかったのもあるが、翌日のことが気になりすぎて。

上手くできなかったら。

ロイヒテン様に恥をかかせるようなことをしてしまったら。

それは『ロイヒテン様』ではなく『シャイ』との友人関係……カフェウェイターの彼とは『友人』だろう……がなくなってしまうだろう不安もあったけれど、それ以上に自分の自己肯定心すらなくしてしまいそうな不安でもあった。

サシャとて小さなプライドくらいはある。

このような大舞台には緊張して、委縮しても当たり前であろうが、シャイの依頼を請けたのだ。

シャイが『サシャちゃんなら大丈夫』と言ってくれたのだ。

その喜びと、そこから生まれた、『大丈夫』と評してもらえた自分に対するプライド。裏切りたくない。

だから眠らないと。寝不足で挑んでは満足な振る舞いもできないだろうし、それは失敗に繋がってしまうだろう。

幸い、夜の仕事を持っているサシャは眠ることに関してはあまり繊細ではなかった。どこでも……というのは難しいが、いつでも眠る、ということはできる。普段は仕事が夜半を回るために眠るのは深夜だが、翌日早くから学校や用事があったりと必要であれば夜早くでも眠るのだ。

なので目を閉じて、羊でも数えることにする。

(ひつじが一匹……ひつじが二匹……)

布団を肩の上までかけて、羊がぴょんぴょんと柵を飛び越えていくところをイメージする。ふわふわとした毛を持つかわいらしい羊たち。

いつのまにかサシャの意識は眠りへ近づいていたようで、そのカウントはやがて違うイメージになっていった。

柵の前に居るのはサシャだった。目の前には高い柵がある。これを超えなくてはいけないことを夢の中でサシャは理解した。

でもこれは随分高い柵だ。ひょいっと超えられるものではない。

どうしたものかしら。

夢の中でサシャはちょっと考えてしまった。

ふと見てみれば、柵の向こうには誰かが居た。

すぐにわかった。シャイだ。ロイヒテン様ではなく、髪を下ろして黒いギャルソンエプロンをした『シャイ』。彼がサシャに向かって手を差し伸べていた。

「サシャちゃんなら大丈夫」

笑みを浮かべている彼が、言った。

「だから、おいで」

ああ、シャイさんがそう言ってくれるなら絶対に大丈夫。この高い柵だって飛び越えられるわ。

サシャの心に安心と決意が生まれた。

「今、行くわ」

さらりと言えてしまい、数歩さがって、すぅ、と息をついた。たっと地面を蹴る。

じゅうぶんに助走をつけて、柵の少し前で地面から蹴り上がった。サシャの体は羊どころではなく鳥かなにかのように高く、高く飛び上がり、少し身を前に向けるだけで柵を軽々と超えていた。

そして目の前にはシャイが手を大きく広げている。満面の笑みを浮かべて。

彼が受け止めてくれる。もう少しで腕の中に。

そこでサシャの視界がぱっと切り替わった。

数秒、この状況がわからなかった。

見えたのは白い、透けているうつくしいレース。ここがどこかもわからなかったが、じっとしているうちに思い出した。

ここはミルヒシュトラーセ家。お借りした客室。お借りしたベッド。見えているのはベッドの上の天蓋のレース。

理解すれば安心して、サシャはごそりと布団の中で身じろいだ。

窓からはあかるいひかりが差し込んできている。すっかり朝だ。

いつの間にか眠っていたらしい。それもぐっすり眠っていたようだ。体も頭もすっきりしていた。

それに、見ていた夢。夢の中でシャイが勇気づけてくれた気がした。

それだけでなく、自分も「今、行くわ」と柵を飛び越える勇気を出すことができたのだ。

勇気を出すだけでなく、実際に飛びあがって、柵を超えられた。あとは彼の腕に飛び込むだけだったのだ。

だからきっと、今夜のことも大丈夫。サシャの胸には力がみなぎっていた。

しかしそれとは別件で、ちょっと恥ずかしくなってしまう。

あのままシャイの腕に抱きとめられるところまで夢が見られたらよかったのにな、と思ってしまったために。

でももしかしたら。

パートナーとして今夜、一緒に参加するのだ。恋人の真似のようなことならして貰えるかもしれない。そうしたらきっと、真似であっても幸せだろう。

サシャがそう考えてしまっているうちに、こんこん、とドアがノックされた。

「サーシャ様。もうすぐご朝食です」

メイドの声だった。

「起きておられますか?」

問われるのでサシャはあたふたとベッドを出た。ドアへ向かう。鍵を開けなければだ。

「起きていますわ」

言いながら鍵を開ける。これも用意してきたネグリジェ姿であった。

朝食は部屋に運んできてくださるそうだが、食べる前に着替えなければならない。その着替えも手伝われるそうで、おまけにメイクや髪のセットまでしてくださるそうだ。生まれてこのかた、バーの歌姫として先輩にメイクや髪のセットの仕方を教わったとき以外、他人にそのようなことをしてもらうことはなかったのでちょっと気が引けたり緊張する気持ちはあったものの、綺麗に飾ってもらうのは純粋に楽しみだった。

「おはよう」

昨日とは違うではあったが、同じように黒いワンピースに白のエプロンをしたメイドににこっと笑って朝の挨拶をする様子は、ほんとうの貴族の娘のように堂々としていただろう。

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