レモン
日に一度、私はレモンの絵を描く。毎日、決まって一枚のレモンの絵ができあがる。
絵といっても、ただ白い紙の真ん中に、黄色い絵の具を塗りつけるだけのものだ。私はそのためだけに画用紙を買い、絵の具を買った。
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中学の頃、美術の時間にアクリル絵の具で絵を描いた。美術の先生は小柄なお爺さんで、丸いレンズの眼鏡をかけていた。彼は、身体にいいといって生徒にレモネードを勧めたがるので、生徒のほうでは「レモネード入道」というあだ名をつけて呼んでいた。彼は常に、レモネードのいっぱい入ったボトルを懐に忍ばせており、時々取り出して、大切そうに口に含んでは、また懐にしまうのだった。
レモネード入道はよく、冗談めいた口調で「レモネードは命」と言っていたが、健康のためにレモネードを飲み、レモネードのために健康を保つ、そんな彼からレモネードをとってしまえば、本当に命が終わってしまう……そんなふうにさえ、私には思われた。
その日は、レモンを描いていた。授業日前日に告げられた、各自レモン持参という指示には驚いたが、指示を出したのがあのレモネード入道であれば不思議はないとも思えた。それより不思議だったのは、忘れた生徒が一人もいなかったということだ。
そういうわけで、この日はレモネード入道お得意のレモネード推奨演説にも余計に熱が入っていた。レモネード入道いわく、彼のレモネードは奥さんのお手製で、こしらえた日の彼女の心持ちによって味が違うのだとか。
「甘いのが飲みたいと思えば、愛想よくただいまを言っちゃならん。できるだけ素っ気なく、これが肝さね」
レモネード入道はそんなことを言って、レモネードを少し、口に含む。そうして満面の笑みを見せた後、人差し指を唇に当ててみせるのだった。
「対象をよく見て、見たままに写し取れ。写実的にな」
レモネード入道はそう言って、彼が描いたという見本を生徒へ見せた。それは見事な写実絵画で、私はその均整のとれた紡錘形のフォルムにしばらく見入ってしまったことを覚えている。私は彼の絵をそっくり真似て、まっさらな画用紙いっぱいに写実した。
夢中になって描いていたので、私は早々に描き終えてしまった。教室を見渡すと、まだ半分も仕上がっていないレモンを前におしゃべりをしている生徒たちが目に入った。レモネード入道が居眠りをしているのをいいことに、持参したレモンをかじり始める生徒もいた。彼はレモネード入道の真似をして、唇に指を当ててみせた。私はなんとなく恥ずかしくなり、完成した自分の絵をひっくり返した。アクリル絵の具が机に貼りついてしまったが、気にしないふりをした。
机の上には、ひっくり返した画用紙、持参したレモン、そして、少しだけ絵の具の残ったパレットが載っていた。
暇を持て余した私は、何を思ったか、まっさらな画用紙の面にレモンイエローの絵の具を塗った。真ん中に、小さく。しかし大胆に。まっさらな画用紙の中心に、混じり気のないレモンが一つ、できあがった。それはきれいな紡錘形でもなければ、蜂蜜の入ったレモネードの色彩でもない。チューブから絞り出した、アクリル絵の具のかたまりだ。しかし、そのシンプルかつ異様な平面は、私になんともいえない感動をもたらした。
気がつくと、レモネード入道が横に立って、私の画用紙をのぞき込んでいた。私は慌てて隠そうとしたが、レモネード入道は無言で私の肩に手を置いた。しばらくの間、黙って画用紙を眺めていたが、やがて口を開くと、「給食の時間だ」と教えてくれた。レモネード入道が寡夫だったと知ったのは、高校に上がる少し前のことだ。
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日に一度、私はレモンの絵を描く。毎日、決まって一枚のレモンの絵ができあがる。
絵といっても、ただ白い紙の真ん中に、黄色い絵の具を塗りつけるだけのものだ。私はそのためだけに画用紙を買い、絵の具を買った。
誰に何があったのか、それを語る必要はないだろう。
ただ、レモネード入道にとってのレモネードが、私にとってはこの、画用紙の真ん中に小さく塗られたアクリル絵の具のかたまりなのだ、ということだけ、言っておきたい。
作者:レモネード・イエロー こと 檸檬 絵郎