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第5皿 ウサギのブイヨンスープ

 私のいるこの『森の隠れ家レストラン』の営業時間は、だいたい朝日が昇って中天に差し掛かるちょっと前から、日が沈むくらいの時間までと大雑把に決められています。


 もっともマスターは仕込みのために朝、ニワトリが起きるよりも早く起きて仕事を初め、夜も遅くまで鍋を洗ったり、仕込みをしたりしているので、私はマスターが寝ている姿を見たことがありません。


 いちおうマスターの寝室は一階にあるのですが、ここは許可がないと掃除にも入れないので、二~三度覗いたことがあるくらいでしすが、あまり生活臭のないお部屋だったような気がしました。


 基本的に料理をしていれば幸せという人(豚鬼(オーク))なので仕方ありませんが、体を壊さないか心配です。目を放すと平気で四~五日徹夜して料理の仕込をしたりするのですから。


 実際、ついこの間も五日がかりのとんでもなく手のかかる料理を作っていましたしね。

 う~ん、話せば長くなりますしその話をする前に、その十日ほど前にやってきた新顔のふたり組のお客様の話からしないとなりませんから……それでもよければ。


 ◆


 夕食にはまだちょっと早いけれど、お昼の時間帯はとっくに過ぎた、普段であればわりと暇な時刻のことです。


 雑貨屋で洞矮族(ドワーフ)の行商人であるガストンさんが、二週間ぶりに顔を出して、前回設置していった魔導オーブンの具合を確認して、マスターとああでもないこるでもないと話した後、

「んじゃ、夜に飯食いに来て、一晩泊まって明日の朝帰るぞい」

「おう。じゃあ明日は帰りの弁当を用意しておくので、朝のうちにミュゼットに届けさせるわ」

「すまんの。ミュゼット嬢ちゃんもな」

「いえいえ、どうせイレーヌさんのところにミルクを買いに行くのでついでみたいなものですから、それほどの手間でもないです」

 ちなみに、辺境の開拓村ですから宿屋なんてものはないので、客人が村に泊まる時には村長さんの家でお世話になるのが普通です(また、商人なら何か小物を渡したり、小銭を包んだり、周辺の噂話を教えたり。吟遊詩人なら歌を披露したり。冒険者なら夜に村の周辺の見回りをしたりとそれに見合った対価を払います)。


 そんなわけで、昔からの顔なじみであるガストンさんも村長さんの家に一泊しているそうなので、ひとまず夕食前にいったん村に戻って、商売をしてくると言って帰っていきました。


 で、ガストンさんとほぼ入れ違いになる形で、不意に店の扉が開いて、若い……人間の年齢は微妙にわかりづらいのですが、私たちの部族ならたぶん百二十歳くらい(うちの部族の平均年齢は五百歳くらいですから、人間だと多分十七~十八歳でしょうか?)の商人風の身なりをした若者と、その護衛か用心棒らしい中剣を腰に下げたいかにも歴戦の戦士という風情の中年男性が、物珍しげにお店に入ってきたのです。


「いらっしゃいませ~っ」


 ――珍しいな。一日にふたりも新しいお客さんが来るなんて。


 そう思いながら私が出迎えの挨拶をすると、いつものようにマスターも厨房からのっそり顔だけ出して、ぶっきら棒に「……らっしゃい」と一言挨拶をしました。


 言うまでもありませんがうちの店のマスターは豚鬼(オーク)です。たぶん……本人はそう言ってるので、そうなんでしょう。

 常連のメイアさんなどは、「あんなの豚鬼(オーク)じゃない! 絶対に豚鬼(オーク)の皮を被った別のナニカよ!」と、公言してはばかりませんが(実は私も密かに同意しているのですが)、とりあえず一般の人間からは恐ろしい亜人というか、もろに魔物と見なされる豚鬼(オーク)です。


 話は変わりますが、この『森の隠れ家レストラン』が建っている場所は、メイアさん曰く、「明らかに怪しいわ。あたしだって一人だったら絶対足を踏み入れなかった」らしく、人から見るとあまり良い立地とは言えないらしいそうです。


「そもそも魔物でさえ忌避するという《ライデンの森》の中にあることが変なのよ!」

「でもって、そこに看板を出して、なおかつ“隠れ家”を自称するレストランとか、絶対罠だと思うわ」

「おっかなびっくり足を運んだら、ぽっかりとここだけ魔物の気配ひとつない、それどころか清涼な泉に涼やかな風、柔らかな日差し、見上げるばかりの御神木みたいな巨木。咲き乱れる花とハーブ類、長閑(のどか)に草を食む山羊(ヤギ)驢馬(ロバ)、あと(ニワトリ)。そして瀟洒なログハウス。出来すぎていて胡散臭いわ!」


 そんなわけで、人間族の眼には「あからさまに罠」と見られるらしいのです。


 いや、ちょっと待ってください。と、その話を聞いた時に私は反論しました。

 そもそも、この場所が他から隔離されているのは《聖域(サンクチュアリ)》だからです。その中心がこの場所に生えている世界樹の系統に連なる聖樹様です。

 聖樹様がこの場所を浄化していて、聖樹様を慕って上位精霊を含めた精霊たちが集い結界を築き、この場所を素敵な楽園のようにしているのですよ。

 そして、そして聖樹様が主人(マスター)と認めお方こそ、皆さんが“スポンタネ”と呼んでいるマスターのことです。――はい? ええ、そういう理由で私も「マスター」と呼んでいるのですが。あ、言ってませんでしたか?


 とにかく、そういうわけで精霊が見えて会話できる私には、別段もおかしなところはない、それどころかことによれば飛び出してきた――こほん。社会勉強のために後にした故郷である『南の妖精族(エルフ)の里』よりも、ひょっとすると快適だと思える環境なのですけれどねえ。う~ん、そんなに人間族にはここが大層不自然に思えるのですか……。


 閑話休題(それはさておき)。そんなわけで、ごくまれに知らずに人が迷い込んでくることもあるのですが、そうした疑心暗鬼の精霊に取り憑かれたまま、第三者がおっかなびっくり扉をあけた途端、豚鬼(オーク)であるマスターが顔を出したらどうなるのか――言うまでもありません。

 

 ちなみにここは基本的にマスターに悪意を持った人間や魔物は、どうやってもたどり着けないよう聖樹様と精霊たちが周辺に魔法をかけているのですが(妖精族(エルフ)の里の結界と同じものです)、たまに通りがった冒険者や旅人が、何も考えずに扉を開けたることがあるので、そうした場合はさしもの結界も役に立ちません。


 で、ほとんどがマスターの顔を見た瞬間、悲鳴を上げて逃げ出すか、ひどい場合には破れかぶれで武器を構えて向かって来ることすらありました。


 そういう場合は私が精霊魔術〈精霊の眠り(ヒュプノス)〉で眠らせるか、場合によってはマスターがふん捕まえて説教してから放り出すのが常で、そうなればもう二度とその人はこの店にたどり着くことはできなくなります。


 もっとも最近は、そういう問題のあるお客に対しては、常連になった女騎士三人組が率先して仲裁……というか、有無を言わせず殴るわ、蹴るわ、剣で叩くわ、水をかけるわと、と割と容赦ない暴力……もとい正義の鉄槌を繰り出し、最終的に素っ裸に剥いて縛り上げて(なぜメイアさんはあんなに手馴れているのでしょう?)、村の中を引き摺ってさらし者にしたあと、砦で調書をとって村から放逐するという流れが出来上がったため、非常に手間が省けるようになりました。


 ただ、それでも面倒には違いありませんし、そもそも私としてはこんなに美味しい料理を作って提供してくれるマスターが、豚鬼(オーク)というだけで色眼鏡で見られるのは、毎度のことながら内心忸怩たる気持ちがなくならないわけではありません。

 マスターは気にした風もなく、「ま、そんなもんだ」と飄々としていますけれど……。


 ただ、今日来たお客様はよほど豪胆なのか好奇心が旺盛なのか、

「おおっ、聞いた通りだ。本当に料理人が豚鬼(オーク)だよ! いやぁ、威風堂々立派なものじゃないか! うちの親父よりもよほど理知的で貫録があるぞ、ビル!」

「……私は聞かなかったことにさせていただきます、若旦那」

 マスターを見てもまったく恐れげもなく、ズカズカと店内に足を踏み入れてきました。


 はしゃぐ若者(若旦那?)と、それを(いさ)める中年男性(ビル?)。


 ここに至ってどうやら本格的なお客様だと判断した私は、今度こそ心からの笑みを浮かべて歓迎しました。


「いらっしゃいませ、お客様。お二人様ですか? お席に案内させていただきます」

「ああ、そうだ。できれば奥のテーブルに座りたいのだが?」

「はい、畏まりました」


 特にどちらかに対して声をかけたわけではないのですが、一連の受け答えはすべて中年の護衛風の男性――ビル氏がして、若旦那のほうはそれが当然という顔で私たちのやり取りを見ています。

 なるほど、やはりこのふたりは『若旦那』のほうが主人筋で、ビル氏のほうは従者という関係なのでしょう。


 私はご希望に従って、ふたりを四組あるテーブル席の一番奥へと案内しました。


 時たま、ちらちら若旦那の視線を感じるのは、やはり人の世界では妖精族(エルフ)が珍しいからなのでしょう。とはいえ純粋な好奇の視線ですので――もっと卑猥な視線を向けるお客さんもいるので、かなり紳士的なほうです――さほど不快感は感じません。

 ビル氏のほうは亜人に慣れているのか、マスターの時と同じく特に反応を示さず、淡々としたものでした。


「では、いま、オヒヤとオシボリをお持ちしますね」

「オヒヤとオシボリ?」


 子供みたいに好奇心旺盛な目で、キョロキョロとお店の中を見回していた若旦那が小首を傾げます。


「オヒヤは冷たいお水のことで無料です。言っていただければお代わりもお持ちしますので。オシボリは手を拭くための布ですが、こちらは食後に回収しますので、持って帰らないようにお願いいたしますね」


「なるほど。フィンガーボールみたいなものか」

「……意外とちゃんとした店のようですな、若旦那」


 説明を聞いて即座に膝を叩いて納得をする若旦那と、なにげに失礼なことを口走るビル氏。

 それはともかく、咄嗟にフィンガーボールが出る辺り、そうとう良い家のお坊ちゃまなのかも知れませんね。


「マスターの発案なんですよ。では、少々お待ちください」


 私は少しだけ自慢げにそう付け加えて、厨房へ戻りました。


「――マスター、奥のテーブルにオヒヤとオシボリを出して注文を取ってきますね。それにしても珍しいですね。今日だけで新規のお客さんが、(逃げずに)ふたりもご来店するなんて」

「ふん。ま、ガストンの親爺さんのお陰だろうな」


 鍋の具合を確認していたマスターが、軽く鼻を鳴らしてそう言います。


「? そうかも知れませんね。あちらも商人みたいですから、多分村長さんのところへ滞在しているはずですから、そこでガストンさんに聞いたのかも知れませんね」

「……まあ、そういうことにしておくか」


 肩をすくめるマスターの含みのある言い方に、ちょっと引っかかるものを感じながら、私はお昼に汲んだばかりの泉の水をコップに入れて、別に用意してある甕の水でオシボリを濡らして絞り、きちんと丸めてコップとともにお盆に乗せて、お客様の待つテーブルへと戻りました。


「……会の会頭が、定期的に一介の行商人の真似ごと……」

「尻尾を掴まれないよう……まさか、ここで飯を食う……」


 テーブルに座って声を潜めて何か話していたふたりですが、私が姿を見せた途端、ピタリと口をつぐんでそ知らぬふりをします。

 もしかして、このふたりって単にガストンさんの知り合いってだけではなくて、商売敵かなにかで、ガストンさんの商売先を調べるためにコソコソ嗅ぎまわっているんじゃないのかなぁ……と、以前にメイアさんから借りて読んだ似たような設定の小説を思い出して(もっともあれは商売敵同士の息子と娘が密かに恋し合う悲恋でしたけれど)、いろいろと想像を膨らませてしまいました。


 実はこの若旦那がガストンさんの娘さんと恋仲だったりとか(後に聞いたところ、ガストンさんの娘さんは全員結婚していて、上の孫娘もまだ六歳だそうですが)。


「オヒヤとオシボリで~す」

「ああ、ありがとう」

「これは少ないが……」


 オヒヤはともかくオシボリには、「へえ?」と、感心した顔をしましたが、ふたりとも特にそれ以上は特になく、“若旦那”は馴れた様子で懐から銀貨を一枚取り出すと、チップとして私に渡そうとしました。

 確か人間の世界では普通に働いて一日に銀貨一枚報酬として貰えるのは、一人前の職人くらいだったはずです。ずいぶんと太っ腹のお客様ですが……。


「――いえ、結構です。それに私は妖精族(エルフ)なので」

「純金や純銀以外の卑金属は触れない……だったかな?」


 後半の台詞を引き取ったのはビル氏です。


「はい。ですから当店ではチップはお断りしています。お気持ちだけで結構ですので」

「ふむ……。そういうことなら仕方ないな。では、気持ちだけで申し訳ないが、ありがとう」


 納得したのか嘆息した若旦那は、銀貨をしまうと、軽く私へ頭を下げました。


「いいえどういたいまして。こちらこそありがとうございます」

「それと申し訳ないついでなのだが、我々は好奇心からこの店に足を踏み入れてはみたものの、実は昼食を食べたばかりでさほど空腹ではないのだよ。レストランにきて失礼な話だとは思うが、できればサラダとスープくらいで、軽くつまむ程度をお願いしたいのだが……」

「はい、問題ありません。確かに承りました」


 一礼をした私は注文をマスターに伝えるために、厨房へと戻ります。


「マスターっ注文はいりました。おふたりとも軽くつまむ程度で、スープとサラダだそうです」

「わかった。んじゃ俺は一角兎(ホーンラビッド)のスープを作るので、悪いんだがミュゼット、その間にクレソンの花つきで良さそうなのを、そのあたりから摘んできてくれ」

「わっかりました~っ!」


 クレソンなら確か泉の北側に群生してたな、と思い出しながら、竹製の(ザル)を抱えて、即座に裏口から外に出ました。


 三十分後――。

「――お待たせしました。季節の“サラダで花つきクレソンのサラダ”と“一角兎(ホーンラビッド)のブイヨンスープ脳味噌添え”、それとお飲み物の“モミの葉茶”になります。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」


 手早く(手抜きではないです)調理を終えたマスターを注文の品を受け取った私は、それらを木製のお盆に乗せてテーブルへ運びました。


「ほほう……これはいいな。見た目も鮮やかで美しいな」

「そうですな。もっと雑なものを出して来るのかと思っていたのですが」


 摘んだばかりの花つきのクレソンをビグレット(塩、胡椒、ビネガー、オリーブオイル)であえたもの。一角兎(ホーンラビッド)の骨でとったブイヨンに塩だけで味付けした薄い琥珀色のスープ。そしてオーブンで三十分焼いた一角兎(ホーンラビッド)の頭から取り出した脳味噌(一羽でスプーン一杯分しか取れません)。そしてモミの葉を煮出して淹れたお茶に蜂蜜と砂糖を一かけしたもの。

 以上となります。


 若旦那のほうは素直に目を輝かせて待ちきれないとばかりスプーンに手を延ばし、ビル氏のほうは相変わらずひねくれた口を叩きながらも、興味津々お皿に注目しています。


「――美味いっ!」


 慣れた手つきでフォークとスプーンを使い、まずは一口スープとともに脳味噌を頬張った若旦那が感嘆の声をあげました。


「ウサギの脳味噌がこれほど美味だとは思わなかったぞ! コクといい滑らかな舌触りといい、以前に食べた小牛の脳味噌以上の美味さだ。それにこのスープがけしからん。塩だけの味付けなのに、この旨味は……何か秘密があるのか!?」


「……秘密なんてもんはありませんよ。俺はウサギの持つ素材の味を最大限に引き出しただけですから。昔からウサギは“野禽の女王”って言われるほど美味いですからね」


 一仕事終えたマスターが厨房から顔を出します。


「そうなのか? 正直、俺はウサギの肉はパサパサして好きではなったいので、あまり期待していなかったのだが、こうしてスープにすると違うのだな」

「肉だって処理の仕方と手間を惜しまなかったら極上の味になりますぜ」

「なんとっ、そうなのか!? そうなると腹を減らしてくればよかったな。しかし、俺たちはこの後ファン・レイン王国の首都に商売に出かけなければならないからな。帰りに寄るにしても行き帰りで十日はかかるだろうし……」


 口惜しげに舌打ちする若旦那。


「だったら十日後をだいたいの目安にして、最高のウサギ料理を準備しておきますぜ」

「本当か! だったら頼む。礼は幾らでも出すので!」

「いや、志だけで結構です。俺としちゃ、お客さんに喜んで貰うのが最高の報酬ですから」

「……そうか。では頼む」


 座ったままですが、若旦那がマスターに向かって深々と頭を下げたのを見て、同じテーブルに座っていたビル氏が初めて表情を変え、危うく飲んでいたスープを吹き出しそうになりました。


「でっ――若旦那、豚鬼(オーク)に頭を下げたなんて、おう――旦那に知れたら大目玉ですぜ!」

「別に人が人に礼を言うのに種族や身分など関係ないだろう。――そうですよね?」


 先ほどのチップでのやり取りを引き合いに出して同意を求められ、思わず私は反射的に頷いていました。


「――はあ……。ま、ここにいるのは私……いや、俺だけだからいいですけどね」

 気持ち的に折り合いをつけたらしいビル氏は、深々とため息をついて自分のお皿に向かい合います。


「ま、そういうことで。美味いウサギ料理を味わえるよう、十日後を楽しみにさせてもらいますよ、シェフ」

「ええ、ご期待に添えるように腕によりをかけて準備させていただきます」

「これは楽しみだ。では、これは今日の心地よい時間と素晴らしい出会いに対する報酬としてお渡しする」


 そういって若旦那は無造作に右手中指に嵌めていたシルバーの指輪を外して、マスターに渡しました。


「ぶっ!?!」

 途端、ビル氏は今度こそ飲んでいたモミの葉茶を吹き出しました。

「若旦那! それは家紋入りの――」


「なにか困ったことがあれば遠慮なく頼ってくれたまえ。なんなら当家の専属シェフになって欲しいくらいだね」


 ビル氏の抗議も馬耳東風で聞き流し、あながち冗談でもない口調でマスターを勧誘する若旦那ですが、当のマスターは軽く肩をすくめて、

「生憎とここが好きなもんで」

 にべもなく断り、家紋のところを一瞥した後、無造作に指輪をエプロンのポケットにしまいました。


「そうか、残念だ」

「申し訳ありませんね。その代わり、お客さんがお見えの際には精一杯勤めさせていただきます」

「そうか。まら、なるべく頻繁に顔を出すようにしないといけないな!」


 何が楽しいのか、若旦那は心から楽しげに笑うのでした。

 ビル氏は若旦那の思い付きでの道楽に、心底うんざりした表情で私が改めて淹れ直したモミの葉茶を啜り、今日何度目になるかわからないため息をつきます。


 ◆


 一週間後――。


「ミュゼット、お酒ちょうだい、酒! 飲まなきゃやってられないわよ!」


 なぜか最初から出来上がっていたメイアさんを筆頭に、いつもの三人組プラスペットの剣歯猪(サーベルボア)の子供がやってきました。


「どうしたんですか? ずいぶんと荒れているみたいですけど」


 席につくなりお酒を注文するメイアさんのどこか荒んだ雰囲気に、思わず隣の席に座るメイアさんの部下――というか、実質保護者な――シャルロットさんに、オヒヤとオシボリを並べながら尋ねます。


「別にたいした事ではありませんわ。実はいまファン・レインの王都へ隣国ママリア公国の公王様の御嫡子、セレスティノ王太子殿下が親善訪問のためにいらしているのですが、その歓迎の式典にメイアお嬢様の同期で、騎士学校時代に次席であった騎士が参列する栄を授かった……というような自慢の手紙が届いたもので、少々爆発しているだけです」


 シャルロットさんの説明に、メイアさんは机を叩いて反論します。


「セレスティノ殿下はどうでもいいのよ! それよりも護衛として今回は、あの〈竜殺し(ドラゴンスレイヤー)〉ウィルヘルム騎士団長閣下が同行されているのよ! 一介の冒険者から剣一本で騎士団長まで成り上った、あの伝説の英雄よっ。この機会にお会いして、ぜひご指南をお願いしたかったのにぃ!!」


「いや、親善大使の護衛相手に、さすがにそれは無理だと思いますけど……」

 剣歯猪(サーベルボア)の子供――ウリ坊を抱きかかえながら、エミリィが常識的なツッコミを入れますが、当然のようにメイアさんは聞いていません。


「あの軍務卿のボンボンが。親の権力で取り入って……つーか、いまだに卒業前のアレ(・・)を根に思って、事あるごとに煽りやがって。ホント小さい男よね! あ~あ、どーせなら殿下と閣下、意表を突いて裏道も裏道、ライデンの森を迂回するルートを使ってこの村を経由して、お忍びでファン・レイン王国に入国してくれれば良かったのになぁ」


 なにやらブツブツ憤慨しています。『アレ』というのが若干気になりますが、私の勘がこれ以上ツッコマナイほうがいいと告げているので、とりあえず話題を変えて注文の話に戻りました。


「では、今日はお酒をメインにしたオツマミみたいなものを用意しますね」

「頼むわ~。つーか、今日はスポンタネ顔を出さないけどいないの?」

「いえ、厨房にいることはいるのですが、二~三日前からかかり切りになっている料理があって、それでなかなか手が離せない状況のものですから……申し訳ございません」

「いや、謝ってもらうこっちゃないけど、珍しいわね。そんなに手間取るなんて」


 確かに。普段であればお客様の見えないところで準備万端完了しているマスターですから、ここまでかかり切りになっているのは珍しいといえるでしょう。


「三日後にお見えになるお客様用に作っている特別料理なのですが、なんでも二日は煮込んでブイヨンを取って、その後は三日かけて冷蔵とまた煮上げをしないといけないそうで、特にこの三日は火加減を間違えるとお肉が硬くなったり、パサパサになるとかで神経を使っているみたいで……」

「へーっ、なんか凄そうね。なんて料理?」

「“ウサギのロワイヤル”だそうです」

「“王室風(ロワイヤル)”!? ずいぶんとご大層な名前の料理ねぇ」


 感嘆の声をあげるメイアさん。


「つーか、セレスティノ殿下の件で虫の居所がわるいんだし、だったらあたしもそのロワイヤルを注文するわ!」

「無茶言わないでください! 作るのに五日かかるんですよ。ただでさえマスターは三日前から不眠不休なのに、この上もう一品とか死んじゃいますよ!」

「成せばなるっ!」


 八つ当たりで無茶振りするメイアさんを、他のふたりと協力して宥めるため、その夜は多大な労力と数多の酒瓶を犠牲にしたのは言うまでもありませんでした。

8/13 いろいろと修正しました。


※なお、この作品はあくまで異世界を舞台にしたものであり、現実の世界における鳥獣の捕獲等に関しましては、狩猟免許等の取得が必須です。


《一口メモ》

モミの葉茶は北欧でよく飲まれています。

モミの葉(一房)をよく洗い、枝から外して容器にいれ、水を入れて10分沸かせば完成。

モミの木があればどこでも作れますし、モミは常緑樹ですのでいつでも飲めます。

油分が多いので口当たりは滑らか。砂糖をスプーン一杯。他に蜂蜜や生姜を入れても美味しいです。


ウサギのロワイヤルはフランス料理の王道です。そのため作りかたも店によって様々になります。

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