其之五|第零章|プロローグ
得てして人間は特筆した才能を持つ者を「神」と呼ぶ。
異世界の人間だとしても、それは変わらない。
人間以上の力や知識を持って人間に何かをもたらす者。
それが「神」と言う存在。
それの正体が本当は悪魔だったとしても。
自分達に何かをもたらしてくれる存在なら、人間はソレを神と呼ぶだろう。
俺達が居た元の世界での神々を見ても分かる話だ。
白い雄牛に化けて女性を誘拐した者も、全てを手に入れなければ気が済まない者も、激高して使徒に何千人の虐殺を命じた者も「神」として崇められた。
神の本質は人々の恐れだと言っても良い。
ゆえに神々がもたらすのは有益な事ばかりではない。
当然と言えば当然の話だ。
本来、神の本質は人々の恐れられる存在。
人々の恐れからうまれたのが神だと言えるのではないだろうか。
初期人類に降りかかる天災や人災。
理解出来ない現象に人々は「神」を見た。
災害によって理不尽に失われる命。
納得するためには何かの理由が必要だった。
何かの責任にしなければ納得できなかったに違いない。
そして、感情や意思を得た人類には救いが必要だったはずだ。
人の身ではどうにも出来ない事象に理由を欲したのだ。
それが「神」と言う存在の起源だろうと俺は考えている。
気象や地殻変動によりもたらされる災害。
星の行う生命活動に、抗う術を知らなかった人類は考えただろう。
何故、大地が揺れ、水が溢れ出し、山火事に身を焼かれたのか。
どうして仲間は死ななければならなかったのかと。
揺れる大地を何者かの攻撃だと考えたとしても仕方がない。
鳴り響く雷鳴を何者かの仕業だと考えたとしても仕方がない。
山火事で炎に身を焼かれ死んでいく仲間。
それを見て何者かが危害を加えたのだと考えたとしても仕方がない。
自分達の群れ以外と遭遇すれば命の取り合いが普通の時代。
仲間の死に直結する他の群れとの抗争。
災害を抗争などと同質の存在として勘違いしても仕方なかったのだ。
自然の強大なチカラの前に自分達よりも強い者を見た。
もちろん災害に乗じて他の群れを攻撃をする者も居ただろう。
それらが組み合わさり自分達を凌駕する存在を「神」と呼んでも不思議ではない。
今なら分かる話だが災害に人格は無い。
星がそこに生きて活動する上で発生する法則。
自転や公転など様々な星の運動が引き起こす現象。
人工地震や人工豪雨など気象や災害を兵器とする研究がまことしやかに噂として語られる事が有るが別の話なので今は無視するとして、純粋な災害や気象現象には初期人類が考えたような意思はない。
だが、それに「神」と言う人格を妄想した人類は何をするだろうか。
答えは簡単だ。
泣き叫び懇願して助けを求める。
何者か分からない何かに懇願する。
助けてくれと泣き叫ぶ。
動物だって人間に捕まれば鳴き声を上げるのだ。
救いを求めると言うのは動物ですら行う原始的で本能的な行為。
助けてくれ!!なのか。
死にたくない!なのか。
逃げろ!!!!なのか。
動物が上げる鳴き声に含まれる意味は俺達には分からない。
だが、初期人類も動物と同様に災害の中で叫んだだろう。
「死にたくない」と。
知能を持った初期人類はこう言ったかも知れない。
「家族だけは助けて欲しい」と。
災害や気象現象に永続性は無い。
溜まったエネルギーが排出されれば終息する。
願い続けた初期人類が、災害が終わった時に何を思うだろうか。
答えは簡単だ。
願いは神に聞き届けられた。
俺達は許された。
神により仲間は救われた。
そう思うに違いない。
晴れ渡った青空の下で。
雲間から降り注ぐ光の柱を見て。
その幻想的な風景に神を見たとしてもおかしな話ではない。
色々な場面で願いが叶った初期人類は次にどうするだろうか。
願いを願いとして願う。
そして、願いが叶えば感謝する。
これまでは単なる願望だった願い。
「腹いっぱい食べたい。」
「獲物をいっぱい狩りたい。」
「病気の家族を治して欲しい。」
「今年は水が溢れないで欲しい。」
「子孫を残したい。」
「他の群れに襲われたくない。」
「他の群れに勝ちたい。」
個々に思っていた事。
群れで何となく話していた事。
些細な願望。
だが、当時としては深刻な願い。
初期人類は日々願っただろう。
最初は些細な願掛けだったのだと思う。
最初は些細な願望だったのだと思う。
野を駆けて「獲物が狩れますように。」と言う。
山を歩き「木の実を沢山見つけられますように。」と言う。
敵と対峙し「この戦いに生き残りたい。」と言う。
願いながら日々の生活を送る事で、ある日ふと気がついた。
「願っていた方が獲物が狩れる気がする。」
当然、気の所為だ。
もちろん、一定のルーティンで集中力が増すことは有る。
ルーティンを行う事で冷静さを取り戻し的確に行動を行える。
焦って仕事をするよりも、落ち着いて仕事をする方がミスも少なく効率よく仕事をこなせると言うのは今では普通に言われる事だ。
何かに願うと言う行為が、当時の彼らのルーティンだったのかも知れない。
だが、それは獲物を見つけた肉食動物が息を潜めて距離を測り、風を感じて風下から近寄って、一気に獲物を仕留めるのと同じ。
単なる狩りの手順。
親から教えられた狩りの法則。
生きてきた中で経験から得た獲物を仕留めやすい方法。
ただ、それだけの事。
経験を経て狩りやすい方法を体で身につける。
身体の成長により運動能力が向上し獲物を狩りやすくなる。
ルーティンを行う事で冷静な判断が出来る。
ただ、それだけの事。
そこに神は介在しない。
だが、考えて欲しい。
なぜ、それに神を感じたのかを。
そんな普通な事に対して「願い」と「神」との間に関連性を感じたのか。
それは現代人にも言える事だ。
印象的な出来事に付随する行動に何かの関連性を感じないだろうか。
人は理由を欲する生き物だ。
例えばソーシャルゲームのガチャ。
普段は行わない行動をガチャを回す前に行ったとしよう。
そして、たまたま欲しかったユニットが排出されたとする。
あっと言う間に「○○教」の出来上がりである。
現代人は本気でそこに神が介在したり、行動によって欲しかったユニットが排出されたとは思わないだろう。
だが、印象的な出来事と行動。
関係無いとは思っていても忘れる事は出来ない。
それが偶然で単にガチャを回し続けた結果だと分かっていても。
幸運を反芻して同じ行動を繰り返すだろう。
例え、その幸運が外部からは見えないサーバー内部のプログラムで課金した回数と突っ込んだ金の合計額で確率が変動した事で得られた結果だとしても。
たった一回の大逆転で。
ちょっとした印象的な出来事を。
幸運だと思い込んでしまい延々と反芻できるのが人間だ。
願い続けながらガチャ回し続けるのだ。
願った物がたまたま手に入る事も有るだろう。
幸運に恵まれれば幸運な印象として脳に刻まれる。
そこに願いや行動との関連性は無いが、それが良かったのだと思いこむ。
そして、またガチャを回し続ける。
現代人ですら、そんな小さな「作られたかも知れない」印象的な出来事で、独自の意味がないルーティンを繰り返すのである。
初期人類が祈った事で獲物を得られて命を繋げられたと感じたならば、そこに神の存在を感じたとしても変な話ではない。
それが狩りの前の儀式として定着したとしても。
それが雨乞いの儀式として定着したとしても。
それが収穫を得るための生贄の儀式になったとしても。
初期人類がそれらを神に捧げる儀式としたとしても。
おかしな話ではない。
宗教の基本は恐怖と救い。
それは原初宗教においても同様だっただろう。
自分では解決できない困難に対して願い続ける。
この困難を克服できるようにと。
今では想像も出来ない常時サバイバル状態。
困難も多かった事だろう。
だから常に願い続けたのだ。
願い続ける中で幸運にも恵まれる事も有るだろう。
それは神による救いなどではない。
正に単なる幸運であり、単なる自然の恵みだ。
もしかしたら、他の群れの隠した食料を見つけただけかも知れない。
もしかしたら、手負いの獲物だっただけかも知れない。
もしかしたら、敵が連戦の後だったかも知れない。
だが、助かったと思う。
飢餓状態で水や食料が見つかれば。
簡単に獲物を狩る事が出来れば。
他の群れと言う敵に傷を負う事も無く勝てれば。
人間は思うだろう。
助かったと。
それは明らかな救いだった。
助かったと思ったら感謝する。
幸運に恵まれたなら感謝をする。
今日を生き延びられれば感謝をする。
誰に?
自分ではない何かに。
自分の実力以上の幸運に。
後の神と呼ばれる架空の存在に。
死への恐怖と生への執着。
宗教が成立する要素としては十分な材料だ。
最初は個人のルーティンだっただろう。
だが、群れで生きる初期人類に広まるのは必然。
集団に広がれば統一した様式になるのも当然。
自然に対する恐怖。
偶然に訪れる幸福。
常に願い続ける人々。
それらが積み重なれば様式となる。
自分では無い何か。
自分達とは違う強大な何か。
自然からもたらされる恵みと、自然からもたらされる苦痛。
生きたい。救われたい。滅ぼされたくない。
個人の願いが集団の願いとなり一つの儀式となる。
そう。「神」と言うのは単なる人々の願いなのだ。
都合良く聞き入れられる事のなどは無い。
たまたま、そうした事で食べる物に困らなかった。
たまたま、そうした事で狩りが上手く行った。
たまたま、そうした事で他の群れに勝てた。
ただ、それだけ。
それだけなのだが、願いが叶えば神との関連性を感じずにはいられない。
いや。神と関連付けた方が集団行動が上手く行くと理解した者が居たのだろう。
誰かが言った。
「■■■■に祈ったから今年は災害が無かった。」と。
「■■■■に祈ったから狩りは大漁だった。」と。
「■■■■に祈ったから▲に勝てたのだ。」と。
誰かが言った。
「■■■■に祈らないと災害が降りかかる。」と。
「■■■■に祈らないと飢餓にみまわれる。」と。
「■■■■に祈らないと●に滅ぼされる。」と。
そう言って、救いと恐怖を上手く利用した者が「王」であったり「司祭」となり、群れをまとめる道具とした。
それが「神」の正体だと俺は考えている。
神話などの神に人間性は感じるのはこの為だろう。
聖書や戒律に至っては単なる生活マニュアルでしかないと思っている。
牛を食べてはいけないのは、それしか原動力が無いのに美味いからと言って食いまくったからじゃないだろうか?
豚を食べてはいけないのは、生焼けで食べて食中毒になったからじゃないだろうか?
酒を飲んではいけないのは、飲んだくれて働かない者が大量発生したからじゃないだろうか?
無闇に殺生をしてはいけないのは、利益だけを追い求めて何も考えずに狩り尽くすと後に困るのは自分達だからじゃないだろうか?
他にも「休みはしっかり取りましょう。体や精神を壊すからね!」や「お父さんお母さんは大切にしよう!」や「人を殺しちゃいけません!」「無闇な性交渉はダメ!」「物を盗むな!」「他人を羨まない!」など。
今では広く普通に言われる倫理観だ。
人間が他者と摩擦無く生きていくための基本的な心構え。
初期人類やその子孫たちが、いかに自己の欲求で行動し、神の名の下に躾なければいけなかったかと言う事が分かる。
それはある意味「なまはげ」の様なモノ。
アレも元々は神様であり、鬼のイメージは後に付与されたと言う話も有る。
元々、なまはげ役は未婚男性に限られていた事を考えると夜這いと言うかお見合い的な役割もあったのではないかとも思うのだが…。今は置いておくとしよう。
近代化の過程で子供の教育に活用され、鬼と言うイメージを付与されたのではないかと言われているらしい。
それは、家庭で行われる「悪い子だと○○○が来て連れていかれるよ!」的な躾と同じ。それが地域で行う行事に移り変わっているだけである。
原初宗教においては、それを国や民族で行っていたと考えても良いだろう。
既にその役割は終えている気もするが、今もその教えを厳格に守る人々が居るのは悪い事ではない。
厳格に「神」の教えを守る人々が居なければ、人間としての基本的な倫理観はここまで広がらずに、今よりも殺伐とした社会が広がっていただろうと言う事は少し考えれば分かる話だ。
宗教が持つ悪い一面は、支配者層によって人々を支配しやすいように改悪・曲解された事による弊害であり、宗教の根本はちょっとした幸せを感謝し明日の幸せを願うと言う人々のささやかな祈りなのだから。
誰に告げるワケでもない小さな感謝を神に捧げる。
誰に感謝して良いのか分からない日々の幸せを神に捧げる。
本来、宗教と言うのはそう言うモノでないかと俺は思うのだ。
ただ。
人々が自然発生的に行ってきた祈りや信仰心。
それを利用しようとする者は人類の支配者以外には居ないのだろうか?
善きにしろ。
悪きにしろ。
人々をまとめるために宗教が利用されてきたのは事実だ。
人々を支配するために宗教が利用されてきたのは事実だ。
時には心の支えとして。
時には恐怖の対象として。
人類は。
世界が違えたとしても人々は。
「神」を敬い恐れながらも歩みを共にしてきた。
神を信じない者でも絶命の危機を感じた時、最後に思い浮かぶのは「神」か「お母ちゃん」の二者のみだと言っても良い。
実在しようと、実在しまいと、信仰が人間の支えとなったのは事実だ。
それを利用しようとする者は人間だけだろうか?
どの世界だろうと、その世界の人類以上にチカラを持った者が居た際に「神」と言う称号を利用しないと言い切れるだろうか。
それが、異世界人だか、異星人だか、未来人だか、エスパーだかは分からない。
最初から居たのか、後から来たのか、人々が祈る事で現れたのかは分からない。
だが、人々が祈ると言う行為で得られるエネルギーを活用出来る者が居たとするなら。
人が祈る事で発生するエネルギーを見過ごして放置するだろうか。
人が信じる「神」という幻想を活用せずに放置するだろうか。
今、俺達はその真実の扉に触れようとしていた。




