EX-1.2|After the holiday
黒木との対面を終えた帰り道。
私は落ち込んでいた。
『やってしまった…。』
何をやってしまったかと言うと自分の感情を抑え込めずに暴走してしまったのだ。
私程度が暴走した所で周りに影響を与えるだとか、被害を出して狩場を消滅させるなんて事は無いけれど…。
自分へのダメージがすこぶるデカい。
そう。例えるなら、正月に実家に帰ったら母親が嬉しそうに寄ってきて「○○ちゃんの部屋を掃除していたら昔の絵が沢山出てきたからファイリングしておいたわよ。」と言って、何十年も前の痛い青春時代に書いた妄想爆発の下手っくそなショタ絵がジャンルごとに、とても丁寧にファイリングされて、母親による添削が添えられ手渡されたくらいのダメージだ。
当時の性癖やら稚拙な絵やら、今ではとても直視出来ない様な羞恥の数々を母親に見られただけでなく、綺麗にファイリングされて自分の目の前に置かれると言う恥辱。
それと同じくらい恥ずかしい出来事を自分で繰り広げてしまった。
それを思い出すと死んでしまいたくなるくらいに恥ずかしい。
裏返ってから百年。
この長い時間を裏返りとして生きてきた私ならば、本来は暴走など押さえ込める。
それだけの経験は積んできた。
だが、今回は不意を突かれた上に相手が悪かった。
まさか、ここで黒木に出会うなどとは思っていなかった。
不意に黒木に出会ってしまった為、抑えきれない感情が溢れ出した。
まあ、暴走した割には、ある程度は暴走を押さえ込めた方だろうとは思う。
でも、アレは無かった…。
私は自分を『魔人』と呼称している。
それは、「人」と「魔の者」の間に存在する者と言う意味合いが、自分の今の状態に一番近いと思っているからだ。
多くの者は、私達の様な者を『鬼』と呼ぶが、私としては少し違うと思っている。
この百年と少しの間に、『鬼』と言われる存在には何度か遭遇した事が有るが、鬼と聞いて想像する様な鬼とは遭遇した事がないからだ。
私が遭遇した鬼と言われる人々は、私と同じく表面上は人の姿をしていた。
普通の人間と違う所が有るとすれば狂っているだけ。
ツノが生えたいわゆる鬼ではなく、見た目は普通の人間だった。
故に『鬼』と言う呼称には違和感が有って『魔人』を名乗っている訳だ。
それなら『鬼人』でも良いのではないかとか言われる事も有るかも知れないが、こればかりは趣味的な問題なので、とやかく言われる筋合いはない。
やっぱり、鬼と言う以上はツノの一つも生えていて欲しい。
ケモミミ少女にケモミミが生えていなかったら、それはもうケモミミ少女ではなく少女であるのと同じで、やはり鬼もツノが生えていて初めて『鬼』と言えるのではないだろうか。
もしかしたら、いわゆる『鬼』も実在するかも知れないが、私達とは全く別物だろう。
いや。全く別物と言うのは少し違うか。
少なからず、私達が『鬼』と呼ばれる原因になりそうな特徴を持っている。
それが肌の色だ。
普段は普通の肌色だが、本気で能力を使う時に肌に現れる色。
それは『鬼』のそれと言っても良いだろう。
肌に現れる色は、裏返った原因により変わってくる。
怒りや嫉妬などで裏返った者は赤色。
劣等感や悲哀などで裏返った者は青色。
恨みや怨念から裏返った者は黒色。
その色は裏返った原因によって様々だ。
様々な色が裏返った原因によって現れる。
普段は普通に普通の肌の色で生活をしているが、リミットが外して能力を使うとなると、その肌の色は瞬時に変わって『鬼』と呼ばれる様な肌の色となる。
私をこれに当てはめるとするなら「赤鬼」と言う事になるだろう。
それ以外にも、情緒不安定で流されやすく暴走しやすいと言うのも『鬼』と言われる由縁かも知れない。
今回、私の様子がおかしかったのも、これが原因だ。
私達の感情は実にピーキーだ。
人間だった頃の事を考えると自分でも思いもよらない事でキレる。
そして、タガが外れた様に荒れ狂い暴走をする。
その規模は個体差によって様々だが「八百屋お七」の話の様に、裏返ったばかりの女が我を失い暴走をして街を焼き払ったと言う様な、大規模暴走をした話も後世に残っている。
現在では、価値観の多様化や教育の賜物なのだろうか?
はたまた、人を傷つけてはいけないと言う平和ボケなのだろうか?
自己完結するケースの方が多いようだ。
家庭内や自分を傷つける程度で暴走が終わる事が多いと聞く。
大規模暴走をしたとしても、たまに発生する猟奇事件程度で街や国を焼くほどの暴走は無い。
どこかに車で突っ込んで十数人が死傷なんて事件は中途半端に裏返った者の犯行だろう。
中途半端に裏返った者は何が起きたか理解も出来ずに暴走が終息する。
事の重大さに気が付き逃げたとしても、現在の社会では逃げ切れる訳もなく牢屋の中で中途半端に人間性を取り戻し「鬼」に成りきれずに狂った人間として処理される。
それが幸せなのか不幸なのかは分からない。
だが、裏返ったまま無為に長い時間を過ごすよりはマシなのかも知れない。
その暴走も、長い時間生きれば経験や試行から抑制出来る様になる。
私も最初は暴走を繰り返した。
特に私が生きていた時代には、女を下に見て苛立たせる人間も多かったので、全てを解き放たれた私は事あるごとに暴走をした。
それも経験を重ねたり、先達の教えに耳を傾ける事で制御する方法を知る事が出来る。
裏返っても生き延びる為には学びは必要なのだ。
経験をして学ぶ事で、私の様にしたたかに人の悪意や感情を餌として生きれる様になる。
だが、いくら経験を積み場数をこなしても今回の様な突発的なアクシデントには弱いのは裏返り達の性質だろう。
元来、私たちは流されやすい性質なのだ。
故に裏返る原因となった当事者と対峙すれば、狂った一面が表層に現れても仕方がない。
私が裏返ったのは百年以上前。
本来ならもう会う事もない。
会ったとしてもヨボヨボで死を待つだけの老人のはず。
そう思っていた黒木が当時の姿のままで現れたのである。
暴走するなと言う方が無理な話だ。
「まさか、黒木が魔の者だったなんて。予想して居なかった事もないが、本当にそうだったなんて。今になってあの時と同じ姿で現れるなんて。実力者を探して行き着いた先が黒木だったなんて。しかも、こんなに近くに居るなんて。」
誰が想像出来るだろうか。
大金を払って情報屋から得た「実力者」の住むと言うマンション。
ガセネタと言う可能性も覚悟して張り込んでみれば、中から出てきたのは今なら分かる魔の匂いをプンプンさせた黒木正義が昔と変わらない姿で現れたのだ。
あの時、お姉さまを騙し傷つけて消えた黒木正義が普通に現れたのだ。
あの時、私を騙して利用し彼女を傷つける為に利用した黒木正義が普通に現れたのだ。
鮮明にあの頃の記憶が呼び起こされ、私を苛立たせた。
そう。あの時の事を。
そう。私が裏返る少し前の事を。
初恋だった。
私はお姉さまと慕った商家の娘「草木フネ」と黒木を巡って争った。
いや。争ったとも言えない私の横恋慕だったのだろう。
当時の黒木は新進気鋭の貿易商だった。
先代から家業を受け継ぎ、彼の手腕で成り上がった黒木正義。
彼は世界を相手に対等に商売をして成功を収めた話題の人物だった。
大人の中には疎ましく思う者も多かったと聞くが、私達にとって世界を相手に商売を成功させた黒木はヒーローだった。
そんな、黒木と出会ったのはお姉様の誕生日のパーティー。
黒木と付き合いのあった、お姉さまの父親が彼女と黒木を引き合わせたのだ。
いわゆる、政略結婚の為に。
当時は政略結婚など普通の事。
歴史の有る商家の草木家の地位と黒木の財力。
家同士の思惑は一致していたのだろう。
でも、お姉さまは親同士の思惑など気にしてなかった。
お姉さまも私も黒木に惹かれるのに時間は掛からなかったからだ。
黒木が開国して間もないこの国の小娘達に聞かせる世界の話。
苦労は有っても世界の商売人と引けを取らず商売を繰り広げる黒木の話。
世間知らずな私達を魅了するには充分な魅力を黒木は持っていた。
でも、私も馬鹿じゃない。
その恋心は胸に秘めて長い人生を終えることを覚悟していた。
だって、そうだろう?
当時は親同士の決めた結婚は覆せるものではなかったのだから。
それに、歴史ある商家の娘であるお姉様と、どこの馬の骨とも知れぬ落ちぶれた武家の娘の私とを比べれば、黒木がどちらを取るかなんて言われなくても分かる。
単なる一般人の私にも優しくしてくれるお姉様と黒木の幸せを祈り、その二人の側に少し居させてもらえるだけで私は幸せだった。
たまたま同じ学校で、たまたま生徒会でご一緒しただけの私にも心を砕いて優しくしてくれたお姉さま。
歴史ある良家のご令嬢とは思えない様な気さくさと姉御肌と言っても良いような包容力を持った彼女。
でも、そんな姿とは裏腹に、少しドジな所もあって、実はお転婆で、大胆な事をしでかしてしまう人間味のあふれる彼女。
親しい者には、お嬢様とは思えない姿をも見せてくれる彼女に私は好意を持っていた。
それは、恋心と言っておかしくはなかった。
好きだった。
なぜ、私は女なのかと自分の性を恨んだ事もあった。
男だったとしてもお姉さまと私が釣り合う事など無いのに。
女だからお姉さまと出会えたと言うのに。
でも、そんな報われぬ私の恋心よりもお姉さまには幸せになって欲しかった。
黒木も気になりはしたが、お姉さまに幸せになって欲しいと心から思っていた。
あの夜までは。
黒木は私を抱いた。
本当は親同士の決めた結婚などしたくないと。
私が好きだと。
私だけを抱きたいと。
私は高揚した。
何でも持っている彼女ではなく黒木は私を選んだのだと。
決められた通りに結婚をする事になったとしても、黒木は彼女ではなく私を選んだのだ。
憧れていた彼女が欲しても、黒木の心は私が持っていて彼女が得られない唯一の物だと。
黒木と交わす快楽の中で私は優越感を感じていた。
でも、今になって思えば分かる話。
黒木が魔の者だと言うなら理解出来る話。
幸せだと勘違いした時間は長くは続かなかった。
それはそうだろう。
黒木は彼女や私の嫉妬や憎悪を増大させるために私に近づいたのだから。
黒い感情を引き出し餌とする為に近づいたのだから。
当時は、そんな事など考えもしなかった。
黒木の思惑通り私と彼女と黒木を巡って争った。
争ったと言っても表立って奪う訳ではない。
女の匂いをチラつかせ彼女の感情を煽り黒木を諦めさせようと画策した。
自分の身体を使って黒木を引き止め、黒木の悪い噂を彼女に直接吹き込み、黒木だけでなく彼女自身も私の物に出来ないかと画策した。
思えば私の一人相撲だったのかも知れない。
黒木の中に有る彼女を消し去れれば良かっただけなのかも知れない。
彼女の中に有る黒木を消し去れれば良かっただけなのかも知れない。
それは、好きな二人が結ばれてひとりぼっちになるかも知れないと言う不安だった。
その不安を感じたのは黒木が仕事を理由に私とあまり会ってくれなくなった時期。
久しぶりに私に会いに来た黒木が、私を抱いて帰る際の「いってきます」の言葉。
これは、彼女が大事にしていた言葉だった。
『こら!チヨ!家に誰も居なくても家を守ってくれる神様に「いってきます」と挨拶をしなさい!帰ってきたら「ただいま」もよ!』
ある日、彼女が私の家に来たいと言われ、うちのボロ屋にお招きをした際に言われた言葉。
この時だけでなく生徒会室や合宿でお世話になった部屋。
家や部屋など「場所」に対して感謝の気持ちを言葉に出して伝える。
これは彼女にとってのルールだったのだろう。
幾度となく怒られ、今の私にも受け継がれている行動。
まさかと思ったが、その言葉に彼女の顔がよぎった。
今となっては黒木が意図的に気づかせる為に言ったのか、彼女と一緒に居るうちに癖になって言ってしまたのかは分からない。
でも、私の不安を加速させるには充分な言葉だった。
不審に思った私は黒木の後を追った。
結果は言わずもがな。
笑顔で彼女の家に入っていく黒木。
同じく笑顔で黒木を迎える彼女。
表面上の婚約者である彼女の家に寄っただけだと信じたかった。
黒木の言葉を信じたくて、彼が自分の家に帰るのを待った。
だが、彼女の家から黒木が出てくるはずもない。
黒木は彼女の家に住み込んでいたのだから。
信じられずに私は彼女の家に忍び込み黒木を探した。
黒木が嫌だと言っていても、実質的に彼女は婚約者なのだ。
単に家同士の取り決めで彼女の家に住んでいるだけに違いない。
そう、信じたかった。
だが、全てを打ち砕かれた。
黒木の上で腰を上下に振るお姉さまの姿を目の当たりにしてしまう。
この時の気持ちは今でも忘れられない。
ドロドロとした気持ちが溢れ出す感触。
身体の穴と言う穴から黒くてドロドロとした物が溢れ出す様な感覚。
息も出来ず、口から身体がめくれ上がる様な感覚。
頭が真っ白になり、真っ白になった頭が黒で埋め尽くされていく感覚。
私の全てが停止した。
私が欲しかったお姉さま。
私が欲しいと言った黒木。
その二人がまぐわっている。
白く透き通った肌を上気させて
あの綺麗な瞳を潤ませて
あの長いまつげを揺らし
大きな胸を下品に上下させ
声を殺して腰を打ち付ける
どうして、私じゃないのだろうか?
どうして、私じゃ駄目なのだろう?
黒木へではなく、お姉さまへと敵意が募る。
どうやら、私は黒木ではなく彼女が本当に好きだったようだ。
好きだった彼女が、私を好きだと言った男の上で快楽を貪っている。
その光景に絶望をした。
そこから転がるのは早かった。
彼女を追い詰めた。
とことん彼女を追い詰めた。
彼女だけじゃない。
彼女の家族や会社も追い詰めた。
あれを見てからと言うものそれしか考えていなかった。
彼女から黒木を引き離す為に様々な事をした。
黒木を手に入れる為に様々な事をした。
結果、彼女は自分の家に火を放ち自殺をした。
夏休みに入り、私は彼女の家に泊まりたいと懇願して彼女の家に上がり込んだ。
そして、彼女の部屋で黒木とまぐわった。
あの日、私が見せつけられた様に私が上になって黒木を飲み込み腰を上下に振って。
それを見せつけ、彼女にこれまでの事を洗いざらい暴露した。
黒木が私をどの様に愛してくれたのか。
黒木のどこを責めれば感じるのか。
黒木が何をされると興奮するのか。
私達がどんなプレイをしてきたのかを。
それが悪かったのだろうか。
彼女は自分の家に火を放ち自殺をした。
この頃には、自分でも何をしたいのか分からなくなっていた。
黒木が欲しいのか。
彼女が欲しいのか。
そんな、根本的な事も分からなくなっていた。
何をしてでも二人を引き離したいと言う一心で行動していた気がする。
ただ、黒くドロドロとした感情だけが私を動かしていた。
その行動の全てが間違っていたと後悔したのは、彼女が屋敷に火を放ち燃え盛る炎の中で、彼女を探して彷徨っていた時だった。
ただ、二人を引き離せれば良かっただけだったのに。
ただ、私を見て欲しかっただけなのに。
ただ、以前の様に笑いあえれば良かっただけなのに。
ただ、彼女の隣を歩いていたかっただけなのに。
「ウガァァァァァァァァァ!!!オォォォォォッオッオッオゥ!!!アグァァァァァゥァァァァァァァァァァァァ!!!」
火が放たれ、炎に包まれて崩れ落ちる屋敷の中で私は裏返った。
後悔。怒り。悲しみ。嫉妬。
どうして、こんな事になってしまったのだろうか。
自分への怒り。黒木への怒り。お姉さまへの怒り。
怒り。怒り。怒り。
理不尽な怒り。
炎と共に様々なドス黒い感情が私を包み込み裏返った。
それは、私にこの世と言う地獄で永遠に後悔し続けろと言う彼女からの罰の様だった。
私は人間ではなくなった。
彼女が屋敷に火を放ち一週間経った頃だろうか。
私は病院で目を覚ます。
どうして私が生きているのかは分からなかった。
ただ、あの業火の中で私は生き延び病院に居るのだと言う事だけは分かった。
あれだけの事が有ったのだ。
病室には度々警察の人間が事情聴取にやってきた。
だが、事情は聞かれるものの、その事情聴取は形式的な物だった。
逃げ延びた使用人の証言からお姉さまが屋敷に火を放ったのは間違いなく、焼身自殺と言う事で事態は終結しているらしい。
使用人の証言を信じるなら、私は一度は外に出たものの、彼女を探して助け出そうと炎の中に飛び込んで行ったそうだ。
その証言も有ってか深く取り調べられる事はなかった。
あの時の記憶は曖昧で覚えて居ないが炎の中で彼女を探して彷徨ったのは確かだろう。
他の人間がそう見えたと言うなら、それが真実となってもおかしくはない。
一週間近く意識不明だったらしいが、大きな怪我も酷くはなく軽い火傷程度だった。
裏返った後の記憶が曖昧なので覚えていなかったが、二階から飛び降りた割には骨折もなく打撲だけで済んだのは運が良かった言われた。
その時の私は自分の状態を理解して居なかったので素直に受け入れるしかなかった。
裏返りを理解している今の私からすれば、この程度の怪我で済んで当然だと言っていただろう。
私は人間の基準では死ねない身体になっていたのだから。
理解していなかった事と言えば、事件までに溜め込まれたドロドロとした感情などは全く無くなっていた事。
不思議に思った。
あれだけ、溜め込まれたドロドロとした感情が全く無くなり清々しい気分だったのだから。
まさに憑き物が落ちた気分だった。
今の私なら何故そう感じたのかも理解出来る。
裏返った直後と言うのは全ての感情を吐き出した後なので清々しく冷静になる。
そう。ドロドロとした感情が全て吐き出されたのだから。
だが、すぐにそれどころでは無くなる。
だって、人間で言う所の栄養素を全て吐き出した状態なのだから。
裏返った者は、いくら普通の食事をしても飢餓感に苛まれる。
これまでの生物とは違った魔の者に成るのだから当然と言えば当然だ。
普通の生物の様に食事をするだけでは、その身体を維持できない。
いや。体は維持できるかも知れないが、その飢餓感を克服できず、精神を保てずに異形の者となるだろう。
否が応でも自分が人間で無くなった事を知る。
生存本能は自らが何を喰らえば良いかを身体が教える。
どうすれば自分が満たされるかを認識する。
多くの者は、その事実に苦悩し自我を崩壊させるのだ。
生きると決めた者も人を騙して人の感情を喰らうと言う生活に自我を変質させる。
どんなに可憐だった者だろうと行き着く果ては醜悪な鬼と化す。
ある意味、裏返った段階で討ち取られる方が幸せだとも言えるだろう。
だが、私はそれでも生き続けたいと願った。
それを決意させるだけの理由があった。
病室に通ってくる刑事の話を聞いて納得の出来ない点がいくつかあったのだ。
一つは彼女の遺体が発見されなかった事。
あれだけの大火事とは言え、骨すら残らないと言うことは考えられない。
私が裏返りに関して詳しく知るのはもう少し先の話。
だが、この時には既に自分の身体の異変について感じていた。
裏返った私の野生の勘とも思われる感覚が彼女の生存を教えていた。
後にある裏返りから『裏返り』について聞かされた時に確信した。
彼女は生きているだろうと。
彼女にたどり着く事は出来ないかも知れない。
彼女も裏返りになっているかも知れない。
彼女が醜悪な魔物に成り下がっているかも知れない。
だが、誓った。
自身の身体が朽ち果てるまで彼女を探し続けようと。
どんなに他人を傷つけ、自分が醜悪な存在になろうとも。
あと、刑事の話にはもう一つ、私が生きる理由となる話を聞かされた。
貿易商の黒木正義などと言う人物はこの世に居ないと言う事。
黒木の父親も実在しなければ、黒木正義と言う人物の痕跡は髪の毛一本ですら無いと言う。
しかも、黒木と会話した事のあるはずである、彼女の家に勤めていた使用人ですら黒木の事を覚えて居なかった。
常識的に考えるとそんな事が有るなんて考えられない事だ。
だが、自分の身に起こっている身体の変化が答えを導いてくれた。
跡形もなく人間一人の痕跡を全て消せる者が居る。
それが出来てしまう人間が居る。
どう言う理屈かは分からないが、この世の中には一般人が知る由もない世界が有る。
その常識外の世界に生きているのが黒木だと言う事を理解せざるを得なかった。
つまり、それは黒木が生きていると言う可能性。
いや。生きているだろうと言う確信。
生きているなら追い詰めよう。
生きているなら問い詰めよう。
生きているなら報復をしよう。
私はそう誓って生き恥を晒し続け、今を生きているのだ。
そ れ が だ !
今になって昔の顔のままで呑気にヒョコっとマンションから出て来られたらどうだ!?
せめて、待ち伏せをする私の後ろから喉元に刃物を突きつけて「貴様。何者だ。」とか緊張感の有るやり取りをするとかなら分かる。
それなら、もっとシリアスに私も対応出来ただろう。
何の警戒もなく、普通にマンションから出てきて、私が声をかけて初めて結界を張るとか油断するにも程があるだろう?
それに昔のまま「チヨ」なんて呼ぶから、こっちもつられて「まさにぃ」なんて昔の呼び名で呼んじゃうわ、久しぶりにメールアドレスなんて教えてもらったもんだから、嬉しくなって「やったー!」とか喜んじゃうわで、何なんだよ!おい!って感じだ!!!
最初に対峙した時の壊れ気味な私の感じは良いだろう。
あぁ。実に裏返りっぽくて良かったと言っても過言じゃない。
自分の感情を抑えられなかったのは反省点だが、壊れ気味だったのはセーフだ。
如何にも「鬼」と言う感じでギリギリセーフだ。
私の趣味ではないがセーフだったと言えるだろう。
だが、後半のアレは何だ?
「いやだ。もう。恥ずかしくて死にたい。」
黒木との契約が成立した気の緩みもあった。
やっと見つけたお気に入りの携帯に機種変して嬉しかったと言う事もあった。
普段は聞かれないメールアドレスを聞かれて嬉しなったと言う事もあった。
あったと思うが…
でも、あんな乙女と言うかギャルと言うか…
とにかくあんな反応は無いだろう?JK?
ダメだ。ダメだ。
思い出せば思い出すほど私のアイデンティティ的な何かが崩壊しそうだ。
黒木に処女を散らされた時の様に、犬にでも噛まれたと思って忘れるしかない。
「やばい…。それでも恥ずか死ぬ…。」
いや。待て。
それでも、伊丹妙子の件に関して魔術に精通している「実力者」を引っ張り込めたのだ。
それは大きな成果だと言えるだろう。
しかも、それが黒木なのだ。
少なくとも、この件が片付くまでは黒木とのコネクションが切れる事は無い。
契約によって一ヶ月と言う期限付きだが、その間に問題を解決して黒木を殺れないなら、その時はその時と言う事。
百年近く切望してきた機会が何の因果か転がって来たのだ。
黒木が実力者だと言うなら、失敗すれば私はどのみち死ぬだろう。
ならば、その機会を最大限に活用するだけだ。
幸い黒木との契約に奴を傷つけてはいけないや殺してはいけないと言う項目は無かった。
黒木が懐かしい顔を見て油断をしているなら、その油断を利用させてもらう。
伊丹妙子の件も気になるが確実に殺れる瞬間が有るなら殺ってしまうべきだろう。
そう自分に言い聞かせ恥ずかしさを拭いながら私は巣への帰路についた。
「いや。今日は頑張った。自分へのご褒美を買って帰っても良いだろう。」
そう思い直すと夕焼けが空を染める街の方向に足を向ける。
「そういや、好きな同人作家のショタ本が今日発売だっけか。今日はショタ祭りだな。」
そして、私は走り出した。
今は全てを忘れてお気に入り作家のショタ本を楽しむ為に。
そう。今は何もかも忘れる為に。
明日から気持ちを切り替えて前に進む為に。
長い裏返り生活で歪んだ趣味を満足させるべくショタ本を求めて走り出す。
「そう。私の戦いはこれからが本番なのだから!!」
EXエピソード「糸氏樹々」編 【完】
どうも。となりの新兵ちゃんです。
樹々さんの話は【完】じゃないです。きっと。
夕日に向かって走り出しちゃったので仕方なかったんです。
多分、第二部的な何かが始まると思います。
ってなワケで、今回のEXは樹々さんの過去話と黒木との過去話。
前にちょろっと出していた樹々さんが姉と慕っていた人もそれとなく出てくる話でした。
お姉さまが登場したと言っても酷い扱いでしたけどね…。
そのうち、お姉さまもどっかで出てきそうですが、どう言う展開で出てくるのかは悩み中です。
そのうち、繋げて行くと思います…。
と、言う事で。痴情のもつれから一般的に鬼と言われる存在となった樹々さんですが、黒木と言う協力者を得て、これからも伊丹妙子消失事件の真相に近づこうと行動します。
そう。この後、自分にどんな悲劇が降りかかるかも知らずに。
まあ、今作品の登場人物は基本的にポンコツなのでたいした事にはならないと思いますがお楽しみに!
と、言う事で今回もお付き合い頂きありがとうございました。
それでは、またいつか。




