其之一|第二章|死のうと思って死ねるならとっくに死んでるよね
2017年06月07日 加筆・修正
その夜、伊丹妙子は眠れずにいた。
今夜だけでない。ここ数ヶ月の間に熟睡出来た夜は数えるほどしかないだろう。
隣の競売物件に定年オヤジが住み着いて数ヶ月。
そのオヤジは二十四時間ラジオを大音量で垂れ流し、何メートルも先まで聞こえるその音のせいで、静かな夜が無くなった事も大きい。
だが、それよりも大きな問題を彼女は抱えていた。
基本的には優等生で人に優しく模範的な彼女だが、十七歳と言う年齢の彼女にとって、歪んだ人間関係は大きな悩みとなる。
これまでまともに悪意をあびせられた事のなかった彼女にとって、その心への負荷は深刻だ。
特に今日は、その影響は大きく、制服を着替える気力も無くなり、食事もまともに喉を通らない。
何時間ベットに身を投げ出し、こうやって悩んでいるのかも分からなくなりそうだ。
「はぁ。私、何かしたのかな…」
ベッドから動けないまま独り言を呟いた。
人は知らない間に人を傷つけてしまう事がある。
妙子もその事は知っているし、無意識に自分が人を傷つけた事もある。
そうならないように気をつけても居るし、自分の非に気がつけば素直に謝る。
そうやって、これまで人間関係のバランスを取ってきたのだ。
「死んだら私どうなるんだろう。死んでしまった方が楽なのかな…。」
無意識にこぼれた言葉にハッとなる。
どちらかと言うとポジティブだった自分が、自分の死を意識し、それを言葉にするなんて事は今までなかった。
優しい両親が居て、全てが満足とは言えないものの不自由の無い生活。
家には小六の夏に友達から譲り受けた雑種のわんこ「ハチ」も居て、慎ましくも幸せなはずなのに。
あんな事くらいで自分が弱くなっている事を再確認する事となり血の気が引くのを感じる。
死を意識した事なんて、これまであまり無かったのに。
身近で死を意識した事があったとすれば、以前の隣の家に住んでいた住人の前田のおばあちゃんが亡くなった時。
あの家で前田のおばあちゃんとお別れをした時だ。
現在は24時間大音量でラジオの音を垂れ流す定年オヤジが住んでいる、あの家で前田のおばあちゃんが一人で住んでいた。
小さな頃から妙子に優しくしてくれて大好きだった前田のおばあちゃん。
お葬式で花を添えた時に涙が溢れてきて、もう前田のおばあちゃんとは話せない事。前田のおばあちゃんと約束した事。挨拶をすれば優しく微笑んでくれた笑顔がもう見られない事。
死と言う別れがこんなにも辛いものだとは思わなかった。
だが、同時にそのお別れは、今を生きると言う事の大事さを教えてくれた。
おばあちゃんが亡くなっても心に残る言葉や人に優しくする事の大切さ。
そして、命の大切さ。命を大事にする優しさ。
それは今も妙子の心に息づいている。
はずだった。
でも、自分の命を自分で絶ちたいと思ってしまっている。
命は大切だと分かっているのに大きくなる自殺願望。
自分がこんな事で死んだら両親や友達が悲しむだろうと言う事は容易に想像出来るのに。
「死んでしまいたい」
と、少しでも思ってしまっている。
その事に大きなショックを受けた。
「死のうと思って死ねるならもうとっくに死ねてるよね」
少なくともこれまでは何とか耐えていた。
自分が死ぬ事で親や昔からの友達がどんな思いをするのか想像が出来るからそれだけ絶対にしないと思っていた。
だから、余計に自分の言葉がショックだった。
「いっそ、学校になんて行かなければ良いのかな…」
そうだ。いっそ、何もかも捨てて引きこもれればどんなに楽だろうか。
でも、それはできない。
両親に心配をかけてしまう。
何も知らない他のクラスの友達に、自分がイジメられているのを知られてしまう。
「そんなのは嫌だ。そんな事になっている自分を知られるのが怖い。」
これまでの妙子はどちらかと言うとクラスのムードメーカーで信頼も人望も有るタイプであり、ちょっとした天然の部分が人に愛され、問題が有っても解決の出来る人間である。
本来はこんな事で挫ける事のない妙子にとって、両親や友達に自分が虐められている事を知られると言うのは、自分が虐められていると言う事実以上に苦痛であり恐怖でしかなかった。
妙子へのイジメは実に巧妙に行われている。目に見える派手な行為は一切行われない。ネチネチと、見えないように、精神的に攻撃をしてくる。
いっそ、誰にでも分かるようにイジメてくれればどんなに楽になれるだろうか。
毎時間の様に耳元で「死ね」と囁かれ、見えない所をツネられて、髪の毛を引っ張られ、自転車のサドルを抜かれて毎日のようにカゴに入れられ、体操服を綺麗なまま隠され、スカートを綺麗なまま落とし物箱に入れられ、自動販売機では勝手におしるこのボタンを押されて、私の名前で先生にラブレターを送られ、本気にした先生に押し倒されそうになったり、私の名前を勝手に使ってツイートしたり、本当にネチネチネチネチネチネチと…。
最初は冗談っぽく流していたし、イジメの首謀者を呼び出して本気で怒ったりもしたけど、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべるだけで相手にされない。
「ホントウ ニ キモチ ガ ワルイ」
普通の相手なら対処の仕方もあるのだろうけど、証拠を残さず、誰かに気が付かれても冗談で済ませられて、今のところ大きな被害はない。
徐々にクラスの中で私を孤立させて、イジメに気が付いてすら居ない妙子に友好的な人との接点も小さくさせられる。
次第にその雰囲気はクラスに広がって行き、教室は妙子にとって居心地の良い場所では無くなった。
イジメに加担している人は少数で、クラスの人に話しかければ普通に話してくれる人も多い。
誰が見ても分かる様な大規模なイジメを先導して仕掛けてくるワケでもなければ、私と話したからと言って、私と話した人がイジメられるワケでもない。
傍から見れば、どこか余所余所しいだけで単に浮いている生徒として見えるだろう。
物理的に何かをする時も、イジメの首謀者は基本的には自分で行わず他人に行わせて安全圏から見ているだけ。
それを遠くからニヤニヤして見ているだけ。
関係無いとは思うけど、隣の定年オヤジが大音量でラジオの音を垂れ流すのもあいつが何か仕掛けているんじゃないかと疑いたくなる。
普通の高校生にそんな事が出来るはずもないのに。
そんな関係ない事すら、あいつがやってるんじゃないかと思うくらいに巧妙に嫌がらせをしてくるのだ。
自意識過剰になっているのかも知れないと思った事もあった。
あいつは、クラスの人を全て動かせる様なカリスマ性の有るタイプじゃない。
あいつだって、隣の定年オヤジのラジオの音量を操作出来るワケがない。
でも、今は全てをあいつが操っているんじゃないかと思ってしまうくらいに疲れ果てている。
隣の家からのラジオの音量が上がる。
「ホントウ ニ モウ ヤメテ」
ラジオからは悩み相談のコーナーが聞こえてくる。
「次のお悩みは匿名希望の17歳女子高生さんから!うちの学校では最近イジメが流行っているかも知れません。大した事はしていないので注意するにも出来なくて。一人の生徒に毎日「死ね」と言うゲームみたいになっていて、みんなが言うには愛想が悪いから感情を引き出して本当の彼女を知って仲良くなりたいみたいな事を言っているんですけど、これってイジメですよね?私はどうしたら良いのでしょうか?と、言うメールですが…」
パーソナリティーの話は続いているが内容が耳に入ってこない。
「まるで、私の事のようだ。」
ただ、ぼんやりとボンヤリとそう思う。
毎日毎時間言われる「死ね」と言う言葉は暗示か呪いじゃないかと思えるくらいに精神的にキツイ。
どんな事よりもキツイ。
人に悪意の有る言葉を投げかけられるのが、こんなに辛いとは思わなかった。
本当に人を追い込もうと思えばこんな小さな事で十分なのだと実感する。
目に見えるイジメと言うのは加害者にとっては単なる娯楽なのだと。
本当に人を追い込もうと思えば大掛かりな事をせずとも最小の労力で人は追い詰められる。
今の私の様に。
「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。」
いつの間にか自分で呟いている「死ね」と言う言葉。
溢れ出す憎悪。
生温い風と一緒に窓から入ってくるラジオの大音量。
「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。」
軽々しく人に言ってはいけない言葉。
軽々しく自分に言ってはいけない言葉。
なのに気がつけば自分の口から漏れ出している。
「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。」
思わず大声で泣き出しそうになる。
声を堪えるが涙が止まらない。
マクラで口を塞いでないとドロドロと体の奥から、心の奥から嫌な物が這い出してきそうな感覚。
「死にたくない。死にたくない。死にたくない。」
どうしても止まりそうにない黒い感情と、心配をかけたくない、逃げ出したい、人と仲良くしたい、楽しく生きたい、様々な感情が入り混じって妙子の中に渦巻く。
そんなチグハグな感情に笑いがこみ上げてくる。
「アハハハハハハ」
何が何だかわからない。
どうしたいのだろう私は。
どうしてこんなに悩んでいるのだろう。
誰にも話せず、誰にも気が付いてもらえず、このままずっとこのままなのだろうか。
「ククク…」
考えるのが面倒になる。
去年までは楽しかったのに。
これまでは普通だったのに。
どうしてこうなっちゃったのかな。
「もう嫌だ…。」
何かが頭の中で弾けた。
「もういいや。」
何だか疲れた。
出来るだけ苦しくないのが良いな。
妙子はスマホのブラウザを立ち上げ検索する。
「意外と苦しくないのが色々あるんだ。」
検索結果を見るとずらりと並ぶその方法。
これまでは、検索しようとも思わなかったフレーズ。
「はぁ。どれも用意出来ないな。」
簡単で苦しくないと言われる方法の多くは、高校生の妙子が材料を用意するのが難しい物や家族に迷惑のかかる物が多い。
自分がそうする事で親が悲しむのに、それ以上の迷惑は掛けたくないとボンヤリと思う。
その衝動は抑え込めないが、何となく必要以上の迷惑は掛けたくない気がする。
「あ。これだったら私にも出来るかも。」
ある方法を見つけ少し嬉しくなる。
何だかおかしい。
こんな方法を見つけて嬉しいなんて。
でも、嬉しさと反比例して衝動は膨らむ。
やっと、楽になれるんだと冷静に考えている。
スル…。
さっきまで妙子の首に締められていたネクタイを外す。
「良かった。これが金具で止めるタイプのネクタイだったら丈夫な紐とか探さないといけなかったもんね」
大好きだった制服。
可愛いブレザーで、チェックのスカート。
リボンとかじゃなくて、このネクタイが良いなって思って選んだ高校。
「制服じゃなくて、もっと考えて高校選べば良かったな…」
不思議ともう涙は出ない。
こんな状況で、これから何をするのか分かっているのに冷静な自分が笑えてくる。
そうだ。お父さんとお母さんにくらいはお別れを残しておかないと。
でも、何を書いて良いのか分からない。
冷静になりすぎて、あいつの事を書きなぐる気にもなれない。
ここまで来て少し困った。
『もう、イジメや色々な事に耐えられません。お父さん。お母さん。ごめんなさい。それからありがとう。ハチの事。よろしくお願いします。』
うん。もうこれでいいや。
自分の書いたメモに満足すると、妙子は制服のネクタイ輪っかにしてドアにノブに括り付けた。
「他には何もやり残してないよね。」
自分に問いかける。
何も思いつかない。
さっきまで悩んでいたのが嘘の様にスッキリとした気分だ。
「よし。」
ドアに括り付けたネクタイの輪っかとは反対の輪っかに首を通す。
頸動脈に沿うよう位置を確認して固定する。
後は全身の力を抜けば良いだけだ。
「さようなら。」
最後の言葉を口に出して、妙子は全身の力を抜いた。
パタン
お尻にあたる床の感触。
全然絞まらないネクタイ。
「失敗・・・した・・・」
頸動脈にネクタイを当てる事だけに、気が行っていて長さとか確認していなかった。
「失敗した…。失敗した…。」
気が動転して何も考えられない。
もう一度、長さを調整して行えば良いだけなのだが、動く気になれない。
ショックで思考が停止する。
妙子の瞳から流れ出す涙。
ポロポロと溢れ出て視界が歪む。
「どうして…。どうして…。やっと楽になれると思ったのに。」
全身の力が抜ける。
溢れる涙が床を濡らす。
そして、光る床。
「あれ?光る床????」
その瞬間、部屋が青白い光に包まれた。
何が何だか分からないまま視界が歪む。
涙とは違う。空間が歪んでいる感じがする。
「え?なに?なに?なにこれ?」
一瞬、前まで自殺に失敗した自分に対して複雑な感情でいっぱいだったはずなのに、意味の分からない状況に困惑しているのだけは冷静に把握できている。
そして、気がつく。
おかしい!おかしすぎる!!普通じゃない!!!
「いやぁあああ!なに?なにこれ~~~!!!」
おかしい。床が光るなんておかしい。ありえない!床?床が光るって!?うちは普通の畳なのに?いやいや。フローリングだって光らないってばよ!
あれ?もしかして本当は本当に死んでいる?
本当は私って死んじゃってる??
死んじゃってるゆえの超常現象!?
でも、聞いてたのと違うし!
三途の川とお花畑はどこ!?
落ち着け~。落ち着け妙子!
ハチマキ頭に巻くと落ち着いて集中力がアップするって聞いた事がある。
ギュッと頭にネクタイを巻く。
今は集中して落ち着いて観察するんだ。
さっきまで頸動脈に巻いていたネクタイを頭に巻いて何とか落ち着こうとする…。
ハッ!これは!?もしかして成功していた!?
「現実にこんな事あるはずないもんね!本当は自殺に成功していたんじゃない?」
おばあちゃん!前田のおばあちゃん!妙子はここだよ!お迎えカモーーン!
妙子の混乱をよそに、床はさらに光を放つ。
「・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・よ。」
何か声が聴こえる!
これは!これは!もしかして!?
おばあちゃんの声!?
やっぱり自殺に成功してたんだ!
「前田のおばあちゃ~ん!妙子はここだよ~!ここだよ~!」
そして、光は妙子の視界を全て奪い尽くす。
「うわぁ!これが噂に聞く死後の世界のお迎えぇぇえぇぇぇぇ???」
声にならない声が出る。
いくら叫んでも、周囲には聞こえない声が。
ゆっくりと光は引いていき、ふたたび外からラジオの音が妙子の部屋に入ってくる。
だが、その音に妙子が苛立つ事はもう無かった。
深夜二時二十二分
伊丹妙子はこの世から消失した。