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其之一|第一章|ニートじゃない!引きこもりだ!

2017年06月07日 加筆・修正

 久しぶりに外へ出るとギラギラとした太陽が容赦なく顔を照りつける。

 気温は暑いが風が吹いているだけマシだろうか。

 生温い風が頬を撫でて吹き抜けて行く。

 コンクリートジャングルの都会とは違って、この辺りは緑が豊富な分、涼やかと言えるだろうが、『夏は暑い』と言う法則はどこの土地でも同じなようだ。

 程なくして煌めく川の流れが涼しさを運んでくれる。


「ふぅ。ここまで来れば少しはマシか。」


 川に沿って植えられている木の木陰に入って一息をつく。

 正直、このまま木陰で眠っていたい。いや。家に帰って地下の工房でひんやりしていたい。


「行かないといけないのは分かっているが、家に戻って工房で引きこもってたいな…。」


 一人、つぶやくと街の方へ歩きだした。


 早いもので、こっちに来てから十年。

 あの女に拾われ、命を救ってもらってから随分と時間が経った。

 睡眠薬を飲んで自殺しようとした十年前の俺は、こんな場所で暮らしてるなんて想像だにしていなかっただろうな。

 あれから、あのコスプレ魔女こと、師匠には色々な事を教わり、この土地での生きる術を学んだ。

 今、この街で商売をしつつ、『半引きこもり生活』が出来ているのも彼女のおかげだ。


 元から勉強や技術の習得など地道な作業が得意な俺は、師匠に教えを請うて三年で必要な技術や仕組みを習得して、彼女より免許皆伝の許しを得る。

 これには彼女も驚いた様で「本来なら最低でも四年でルーキー、十年で使い物になるかって所なのにヤルね~。」とのお褒めの言葉を頂いた。

 どうやら、俺には元来の性分も含めて、こっちの才能があったみたいだ。

 元の生活では役立たない技術だと思うので、こんな可能性が俺の中に有ったなど知る由もなかったが、環境が変われば必要なスキルも変わる。新たな一歩が踏み出せた上に目標も出来た。まあ、引きこもり生活を継続したいと言うどうしようもない目標だが師匠から教わった事を活かして誰に迷惑をかける事なく引きこもれるなら良いじゃないか。誰に保護されるワケでも無く自分で生活できているなら。


 師匠の元を離れてからも色々な事があったが、これはまた別の話だ。

 取り敢えず、俺はこの街で何とか自分の居場所を作り生きている。

 サラリーマン時代に、色々な事に巻き込まれ人を信じられなくなり引きこもり挙句の果てに睡眠薬で自殺をした俺がここまで回復出来たんだ。それを成長と言わず何という!おめでとう!俺!


 まあ。まだ目標の『完璧な引きこもりライフ』に至るには遠い道のりだが、計画は着実に実行中である。何年かすれば軌道に乗って自動で金を稼ぎ出してくれるだろう。そうなれば俺の勝ちだ。師匠を同様に好き勝手に生きれるだろう。


 正直、未だに人と話すのには抵抗がある。

 あの頃の心の傷は癒えていない。

 ある程度の会話が出来ても、心から笑ったり本音で人と付き合う事は出来ないと言うのが本音だ。人と話していると武者震いの様にプルプルと震えてしまったり、大量の汗をかいたり、気分が悪くなって吐いてしまう。

 会話の時間がが長くなればなるほど、脳の中が掴まれる様な感覚がしてクラクラとしてくる。


 この街で数人だけど話せる相手はいるが、本音を言うと不安だ。

 気軽に接している様に見えるかも知れないが、いつ裏切られるかも知れない。いつ居なくなるかもしれない。そんな不安がいつも頭の中にこびりついている。

 師匠の様に衝撃的な出会いでもしない限りはココロの垣根を取り外すのは難しいんじゃないかと思う。

 そいつらは良い奴らなのだが、まだどうにもならないと言うのが現状だ。

 良い奴ら…?うん。取り敢えずは良い奴らと言う事にしておこう。


 まあ、そんな感じで人との関わりは未だに苦手。

 街中に溢れる「人の視線」「人の声」「誰かに対する罵倒」「ヒソヒソ声」「気安く触ってくる店の呼び込み」「誰かへの悪意」

 俺に向けられていないと分かっている。分かっては居るが、街を歩いているだけでも精神的に不安定になり「うー。部屋が恋しい!早く帰って、にゃんこ様と一緒にゴロゴロしながらゴロゴロしたい!」と、言うようなキモイ独り言が声に出てしまう事がある。

 意識して止めようとはするがブツブツとブツブツと俺の口から溢れ出す。


 酒場や食堂など他人がメシや酒に集中していて、俺の事など気にしていないであろう環境なら、そう言う雑音を聞いても精神状態はまだマシだ。

 人が苦手だと言っても、集団の中に居る安心感は俺の中にも有る。

 そう言う場所で、ワイワイガヤガヤと言う喧騒を聞きながら、美味いものを食う事で何となく心が安らぐ事もある。


 だが、長居はできない。部屋から出ている時間が続けば続くほど不安が忍び寄ってくる。

 脳が締め付けられるような感じがしてモヤモヤする。 そのモヤモヤは口から溢れ出し気がつくと「うー」っと唸っていたりブツブツと呟いてしまう。

 三十代も半ばを過ぎた童貞のオッサンが「うー」とか言ってるのは、自分で言ってても気持ち悪い。

 気持ちが悪いのは百も承知だが、こうやって少しでも声を出して発散しないと潰れそうになってしまう。

 だから、普段は家の工房に引きこもっている。

 こんな状態で引きこもっているから、この街での信用はあまり無い。


 師匠に習った技術の一つ。『薬』を調合しては売って生計を立ててはいるが…。

 それを売るにも、ある程度の信用は必要になってくる。


 この街は、新しく開墾された街で、俺は土地の開墾にも参加し、街の設計やルール作りなどにも関わっていた。

 六年前の開墾の時から尽力した古参の住人と言う功績のお陰で多少の信頼は有るのだが、街の整備も終わり落ち着いてくると、必死に開墾していた時とは違い余裕が出て来る分、人の粗も見えてくる。


 俺の場合は、引きこもりで人が苦手な街中でブツブツ言ってるキモイ人。


 開墾当初から知ってる人間はそっとしておいてくれるが、開墾が終わって次の土地へ稼ぎに出た人間も多ければ、入れ替わりに新しく入ってくる人間も多い。

 この街が造られる初期から、街の建造にも関わっている人間だとは言え、虚ろな目でブツブツと呟きながら街を歩いている気味の悪い人間を、それだけの理由だけで受け入れてくれる人間は少ない。

 特に民族的にも完全に余所者の俺は信用を得るにも難易度が上がる。


 だから、こうやって暑い中、引きこもっていたい気持ちを抑えて『自治組織の顔役』なんてやりたくもない仕事を全うする為に人混みの多い街中まで出張って来ているのである。


* * * * *


 目的地に着くと脳がモヤモヤした感じになり少し立ちくらみがする。

 いつもの事とは言え自分で自分が情けないが、こればかりはどうにもならない。

 大きく息を吸い込んで吐き出す。

 まあ、これで何かが変わるワケじゃないが少しはマシになる。

 何度も深呼吸をした後に意を決してドアを開いた。


 中に入るといい大人が昼間から集まって談笑している。

 メンバーは…。まだ、三分の一しか集まってない感じか。

 五分前ギリギリに着いた俺が言うのもなんだが、この土地の人間は時間に結構ルーズだ。

 まあ、メンバーの多くは商売人なので、忙しくて抜けられない場合も有るから仕方ないのだが、早く終わらせて帰りたいと言う個人的な理由で少しイラッとしてしまう。


 最近は街の発展のおかげで、新しく移り住んできた人も多くなり、当初より多くの人が自治組織に参加してくれているので、この土地独自のノンビリとした感じは薄れつつあるが、それでも主要メンバーは昔から居る連中の方が多いので、この有様である。


「よう。薬屋。調子はどうだ?」

 自分の席で机に身を預けうつ伏せていると、組合の横で食堂を営んでいるオヤジが声をかけてくる。


「ボチボチですよ。相変わらず人も苦手ですし、今日もこのまま帰りたいです。」

 開墾当時からの仲と言う事も有り、つい本音を漏らしてしまう。


「まあまあ。そう言うなって。知ってるだろ?お前さんしか、ろくなアイデア出すヤツがいねーんだからよ?」

 スキンヘッドにサングラス。黒く日焼けした顔から覗く歯をニカっと見せながら、俺の横の席に座る。


「アイデアくらい出しますし、何でも屋みたいに便利に使われもしますけど、今日みたいなどうでも良い議題で呼び出されるのは勘弁して欲しいのですが。アレですよね?アイデア出しても最後には面倒だって、いつもと同じ事するんでしょ?去年の祭りでもそうだったじゃないですか。今年もそうなんでしょ?」


 本当に勘弁して欲しいものである。この街が発展すれば人が増える分、俺の商売も早く軌道に乗る可能性も増えるから力は惜しまないが、俺だけが散々アイデアを出さされた挙句に、多数決で一昨年と同じ内容で行こうって事になった去年の事を思い出すと頭が痛くなる。


「まあ、そう言うなって!会長!今年は去年の反省を踏まえて、いつものプラス、目玉のイベントを新しく考えるって決めたじゃねーか?この前よー!」


 と、名ばかり会長の俺に、実質的に仕切ってる食堂のオヤジが顔を近づけてくる。

 うん。色々と気分が悪くなるのでやめて欲しい…。


「本当でしょうね?副会長?いつもの『ミスコン(ポロリもあるかも!?)』は、男女ともにあまり評判良くないんですよ。ポロリの部分を参加する女性が当日初めて見てキレるわ、ポロリがないから野郎共がキレて暴れるわ、優勝はあんたとこの娘とウェイトレスが毎年かっさらって行くから、あんなのに参加するのは街に来たばかりのカモだけだって評判ですよ?まあ、優勝と準優勝は実力なのは分かりますけど・・・。今年こそは他のイベント考えないと信用に関わりますよ?」

 自分とこの娘が褒められて嬉しいのか「デヘー」とニヤけるオヤジに一抹の不安を感じる。


 この街の発展は、俺が『調合した薬を売る為』にも『本業を円滑に行う為』にも必要なので協力するのは、やぶさかではないが…。去年の様な事になって精神的に疲弊し、会議の帰りにブツブツ独り言を言って街を歩いて、信用度を上げたそばから失ってプラマイゼロなんてのでは意味がない。

 せめて、他にアイデアを出してくれる人がいて、それを実行してくれる人が居るなら違うアプローチでサポートが出来るのだが…。


「そうそう!俺もアイデア考えたんだ!聞いてくれよ!」


 娘の自慢話をしつくしたのか、その娘自慢のせいで一人の世界に入りそうになっている俺を引き戻すかのようにオヤジが話し出した。


「この街の名物料理コンテストってのはどーだ!?アレを使って冷やっこい料理とか出せば、この街のヤツも、外から来るヤツらも飛びつくってもんよ!」


 これでもか!と、言うほどのドヤ顔をキメるオヤジ。


 だが、アイデアは悪くない。安易な考えで数々の名物料理と称される料理達が闇に葬られてきたのは知ってるが、この地域では有りだろう。定番すぎて思いつかなかったがオヤジのアイデアにしてはホームランだ!


 俺はサムズアップしてオヤジの背中をバシンと叩く。「なにしやがるんだ!」とご立腹だが良い。良いぞ!このアイデア!


「良い!良いよ!そのアイデア!どうせ、他にアイデアなんて出ないんだ!さっさと会議なんて終わらせて準備を進めよう!」


「そうだろ?そうだろ?」と、まんざらでもない様子で照れるオヤジを無視して、だいたい集まった自治組織のメンバーにオヤジのアイデアを披露する事にした。


* * * * *


 オヤジのアイデアが優秀だった事もあるが、面倒ごとから早く開放されたいと言う総意のもと、会議は順調に進んだ。

 開催される祭が収穫を祝う祭だと言う事もあって、コンセプトも合っているし、異論を唱える者も少なく、時間も早く終わり、俺としても満足な結果だ。

 会長なんて面倒事を押し付けられて数年が経つが、ここまで順調に会議が進んだのは初めてじゃないだろうか?


 ただ、オヤジに「でも、これって単におやっさんの店の宣伝じゃないよな?」と聞いた時の「俺は街のために考えたんだ!」と言つつ見せたヤケに爽やかな笑顔が気になるが「優勝した名物料理のレシピは皆に公開しよう」と自分から言ってたので問題はないだろう。


「しかし、疲れた。」


 元サラリーマンで営業職だったから会議を取り仕切ったり、プレゼンしたりはスキルとして体が覚えてはいるが、人と接するのが苦手となった今では、心に来る負担が半端じゃない。

 会長として、会議を取り仕切ってると、どうしても人の視線が集まり、会議に集中していない人間のボソボソと話してる私語がやけに耳に付く。

 会議中は、そこまで意識しないように集中しようとするのだが、終わった後にその反動が一気に押し寄せて吐きそうになる。


「仕方ない。これも仕事のうちだ…。」

 そう、自分に言い聞かせ気持ちを落ち着ける。


「そうだ。街に出たついでに本職で必要な物を買って帰ろうと思ってたな。」


 気持ちを切り替えてマーケット向かおうとした時、「おー!ニート!今日はどうした?買い出しか?」と、聞き覚えのある馴れ馴れしい声が後ろからした。


 振り返ると、ガタイの良い金髪のニィちゃんがこっちを見ながらニヤニヤと笑っている。

 彼は、リック=グランリバー。

 年齢は20代の半ば。金髪碧眼の変態マッチョだ。

 半年前に傭兵団と一緒にこの街にやってきて、今は夜に酒場の用心棒で小遣い稼ぎをしている。

 俺が調合する薬の材料集めを依頼して以来、何かと馴れ馴れしく接してくる。

 この街で自ら俺に声をかけてくる希少な人物の一人だ。


 悪いヤツではないのだが、問題点としてはとてもウザイ。

 話す時に顔をすごく接近させ大声で喋ると言う事を筆頭とし、隙が有れば俺のケツを触り、隙が無くとも俺のケツを触る…。

 他にも色々有るのだが、とにかく身体に触れようとするのだけは止めて欲しい。 

 こんなヤツでもなぜか人望があり、人気もあるのであまり無碍にはできない。


 仕方がない。取り敢えずいつも通り相手をしてやるか。


「相変わらず失礼なヤツだな!俺はニートではない!俺は引きこもりだ!」


 失礼な物言いに対し、いつもの様に答える。まあ、挨拶みたいなものだと諦めている。


「まあ、そんなこったーどうでも良いって話よ!で、そのニートがこんな所で何してんだ?」

 この男は、いつもいつも。分かっていてからかっているのだと思うが、それだけに質が悪い。


「いいか? 俺は誰の世話にもならず、親のスネをかじっているワケでもない。自分で生計を立てている上で、家で一人で過ごす方が心安らかだから、必要以上に家の外に出ないだけだ!金も無いのに無駄にブラブラしているお前と一緒にするな!それに今から仕事の材料を買って買える所だ!仕事もしてない人間にニート呼ばわりされる理由はない!」


 と、言い放ってその場を後にしようとすると、ニヤニヤしながら俺を引き留めようとする。


「わるい!わるい!なにが悪いかわからんが親友だろ?機嫌なおせよ!ニート!」


 単にコイツがジャレているのは分かるが、こうもニートニートと連呼されては頭にくる。俺の反応がコイツにとっては面白いのだろうが、言われる方はたまったものじゃない。悪意があってジャレてただけとか言い訳するクズならチカラで分からせる所だが、純粋に悪気なくただ友達とジャレるのが楽しいだけと言うのが質が悪い。分かっているが腹が立つ。


「良いか?リック?俺の名前は新戸晴人だ。そしてニイドはファミリーネームだ。お前が発音しにくいのかは知らんが呼ぶなら『ニイド』とちゃんと呼べ。それに俺の元いた国ではファミリーネームが前に付くんだって前に言ったよな?俺は思ってないが、お前にとって俺が親友だと言うなら、どうしてファミリーネームで俺を呼ぶ?お前がニートニートと言うから『ハルト』と呼んで良いと許可しただろ?人がファーストネームで呼ぶのを許しているのに勝手に親友認定してきたお前がなぜ『ハルト』と呼ばない?お前、俺のことを親友だと思ってないだろ?ナメてんのか?簀巻にして井戸に放り込むぞ?」


 あまりのしつこさに、キレて一気にまくし立てた。

 すると、さすがに堪えたのかリックがガックリと肩を落としフルフルと震えだした。

 しまった。少し言い過ぎたか。こう見えてガタイは良いクセにリックは少しナイーブな面がある。


 教会に勤めている司祭のシーナにフラれた時には、二週間くらい行方不明となり街に戻らずに姿をくらませ、心配した優しき司祭シーナが俺の工房まで行方を聞きにきた事があった。

 その後、何事もなかったようにフラリと街に帰ってきたらしいが、その間の事は誰にも話そうとしなかったそうな。

 後に、リックから聞き出した話によると「山で泣きながら修行をしてた!きっと俺の筋肉が足りなかったからシーナにフラれたんだ!まだまだ鍛えるZE!」だ、そうだ。


 なんかよくわからん所で分からん方向に暴走するので扱いに困る。

 まあ、泣き出すくらいに反省したなら許してやるか。

 リックの肩に手を置いて慰めてやる。


「リック。すまない。少し言い過ぎた。簀巻にはしない。前にも言ったがニイドと呼びにくいならファーストネームで…」


 と、そこまで言った時、リックが素早く立ち上がり俺の脇を両手でホールドする。

 腕を上げ高い高いをする様に抱き上げられた!


「だはははははは!そーか!そーか!ハルトは俺にハルトと呼んで欲しかったんだなー!それならそうと早く言えよ!ハルト!ハルト!ハルト!高い高~い!」


 クソ!油断した!騙された!なんだ?この羞恥プレイは!!!!!

 ダメだ!さすが元傭兵団だけあって握力だけでガッチリとホールドされている!

 抜け出せない!抜け出せない!抜け出せない!抜け出せない!


「クソ!離せ!この筋肉ダルマ!お前!リック!握力だけでホールドするな!クルクル振り回すな!上下に揺らすな!吐くぞ!吐くぞ!吐くぞ!吐くぞ!」


「あーはっはっっは!ハルト!ハルト!ハルト!」


「お前!人の話を聞け!離せ!マジやばい!出ちゃう!出ちゃうから!口から酸っぱいのが出ちゃうから!」


「ひゃっほーい!たかいたかーい!」


「はーーーーなーーーーーせーーーーー!!!!!」


 この後、俺は30分くらいリックのおもちゃにされた…・


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 リックに開放された後、1時間ほど木陰で休んで体力を回復し、やっとの思いで工房に戻った。

 本当なら『会議の帰りに必要な物をマーケットで買って工房に帰ってくる』だけの簡単なお仕事だったはずなのに何でこうなった。


 あいつのせいで帰宅が2時間近く遅れてしまった。


 街なかであいつに絡まれるだけでも良い方向に転がる事はないのに、この俺が噴水の様にゲロを撒き散らすとか何のお仕置きだ…。

 吐瀉物が掛かっても気にせず振り回し続けるとか何考えてんだあいつは。

 ただでさえ俺の信用度は低いのに、俺以外の原因で無駄に好感度もダダ下がりだ。


 終わった事は仕方ないが、あいつとの付き合いは考えよう。次からは取り敢えず逃げよう。

 工房に戻った俺は、洗濯ついでに身体を洗いつつリックへの怒りが収まらずにいた。

 帰ったらすぐにマーケットで買った材料を使い仕事をするつもりだったが、とてもそんな気分になれない。


 帰ってきた俺ににゃんこ様が擦り寄ってきてくれているが、今はお相手をする気力もない。


 取り敢えず喉が渇いた。


「仕事は後回しにするか…。」


 ひとりごちると、喉の渇きを癒すために井戸で冷やしていた紅茶を引き上げてグラスに注ぐ。


 程よく冷えた紅茶が今日の疲れを取り気分を落ち着けてくれる。

 飲み物が冷えていると言うのは本当にありがたい事だ。


 物を冷やすと言う行為は意外とコストが掛かる。

 こっちでは、冷蔵や冷凍でトラブル無く物の鮮度を保とうとすると、物を冷やす仕組みに街の月間予算くらいの金が掛かり、維持費にこの地域の何十人分の人件費と同じ様な金が掛かる。

 家庭用冷蔵庫みたいな簡易的な物を入手する事も出来なくもないが、これも高価で一般人が手にするにはオーバーコスト。それを動かすエネルギーを継続的に確保するのも難しい。

 と、言うか面倒くさい。

 そんなコストを払うより、飲み物なんかは井戸や川で冷やすほうが懸命なのだ。

 幸いにもこの辺りの地下水は冷たく清らかな軟水で飲んでも美味しい。


 この地域は、自然と言う点では恵まれているとも言える。

 文明の利器を使えない事に不自由を感じる事はあまり無い。


 元の生活では『物を冷やす』と言う行為が普通に行えて当たり前だと思っていたが、実は物を『継続して冷却し続け鮮度を維持する』と言うのはとんでもない事なのだ。


 物を温めるなら火を起こせば良い。

 人類が火を使い始めた事で暖を取り、安全に物が食べられるようになり、料理と言う美味しく物を食べる文化が生まれた。

 火の獲得は人類にとって大きな出来事だったが、仕組みさえ分かれば火は簡単に使える技術であり使いやすい。

 摩擦を利用して火を起こし、その種火を移して焚き火にする。

 更には元の焚き火を残したまま薪や松明で別の場所に持っていき増やす事も出来る。

 火は火を起こす方法さえ知っていれば、火を発生させて簡単に運用出来る。


 だが、冷気はそうもいかない。


 考えて欲しい。無人島で周りに有る道具を使って良いから冷気を発生させろと言われて方法が思いつくだろうか?また、それを移動させ増やせるだろうか?

 冷気が発生する仕組みを知っていても、冷気を発生させるのは簡単ではない。

 材料があったとしても、それを組み立てて冷気を発生させられる人は少ないだろう。

 普段、当たり前だと思っていた『物を冷やして保存する』という行為は、非常に贅沢なのだ。


 まあ、簡単に発生させられないような技術と言うのは余剰な技術である事が多い。

 『生きる』や『生活をする』と言うだけなら、無くても意外と問題はない。

 元の生活と比べれば不自由はあるが、無ければ無いで何とかなるものだ。

 まあ、冷蔵庫などは無くても何とか生きていけるのである。


 どちらかと言うと、この地域の特有の問題の方が深刻だ。

 たまに近くの地域のドンパチのせいで、物流が止まって手に入る物の種類が減るのは勘弁してほしい。

 それが何ヶ月も継続する事もある。

 それに比べれば冷蔵庫が無いなんて事は小さな問題にすぎない。


 最近はこの街でも対策をしていて、この街周辺だけで農作物くらいは回せるよう農業や酪農にチカラを入れているので、随分とマシになったが、まだ改良の余地はあるだろう。

 必要な物さえある程度 有れば街は回る。文明の利器は無いがこの街は意外と快適だ。


 あとこの街は他の街と比べて清潔で、衛生面などにも意識が高い。

 これがまた重要だ。

 この街が造られる際に、俺がその辺りのルールには徹底的にクチを出したから当然と言えば当然なのだが。飲食店での衛生管理から、農作物の肥料に糞尿を使わないや家畜の衛生管理などに至るまで一定の基準を満たしている。

 そのおかげで、第一次産業が活発化しつつある今の状況でも、先行して畑や畜産を行っていた農家の人が後輩にしっかり指導をし安全な作物を作ってくれている。

 現代農業と比べれば完全に安全とまでは言えないが、食い物で腹を壊すような事は少なくなった。


 こっちの食い物は凄く美味いので、これに安全が加わると言うのは大きい。


 衛生的で安全と言っても、この地域では限度が有るがとにかく美味いのでその点では満足をしている。

 スーパーで売ってた肉やら野菜なども農家や酪農家の人たちが美味しい物を安定して提供しようと努力をしているのは理解しているのだが、こっちの食べ物はとにかく味が美味いのだ。

 自然の中で育てられているからなのだろうか、それぞれの味が何と言うかとにかく美味い。

 素材の味がダイレクトに舌から脳に伝わり満足感が高いのだ。


 もしかしたら、調理方法などにも理由が有るのかも知れないが絶品なのである。

 この街は色々な地域や民族が集まる仕組みを作り、誰もが簡単に商売出来るような政策を行っている。

 特に飲食関連と農業関連は優遇されており、色々な地域から色々な人が集まる事で、色々な地域や民族料理が入り混じり、それらが交流する事で新たな料理が生まれ、比較的豊富な食材と店舗数のおかげで安い値段で色々な料理が楽しめる。


 そう言う事情もあって、多くの人間は外食やテイクアウトで食事を済ませる事が多い。

 外食が増えると言う事は、安定した価格で店側も料理を提供が出来る。

 安定して売れると言う事は、それを狙って店が増える。

 店が増えれば、ある程度の価格競争やメニューの開発が発生する。

 外食でのメリットが増えれば、家で料理をするよりトータルコストが下がり外食で済ませる人間が増える。


 結果、安売りで肉やら野菜を買い貯めして保存しておくなんて事をする必要もなく、ここでの生活では冷蔵庫はあまり必要がないと言う答えにたどり着くと言うワケだ。


 美味い物を食えると言うのは心に幸せを与えてくれる。

 関係ない人間だとしても、周りに人がいる中で美味い食事が出来ると言うのは、こんな俺にとっても多少の癒やしを与えてくれる事もある。


 今も他人と関わるのはしんどい。

 今も他人と関わるのは辛い。

 今も他人と関わるのは怖い。


 だが、誰も俺を気にせず美味い料理を楽しむ声と美味い食事は、少しだけかも知れないが自分が生きていると言う実感を与えてくれる。


 まあ、調子に乗って長居をしてると気分が悪くなるのだが。

 こう言う小さな関わりから、心が少しずつ癒される事もあるのではないだろうか。

 今はまだ他人との関わりが苦手で体調が悪くなる俺だが、こう言う小さな安らぎから少しずつ変わっていければ嬉しいと思う。


 以前のように人と普通に接する事が出来るようになるならそれは幸せだと思う。

 何かの切っ掛けで変われるかも知れないし、何年も何年も時間がかかるかも知れない。


 だが、『引きこもり』だった俺がこっちに来て師匠に拾われ少しずつでも前に向かっている様に、気がつかないほどの変化でも少しずつ変わっていければ良いのではないだろうか。


 いつかは、師匠との呪い〈やくそく〉が無くとも、生きていければ理想だ。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 などと、色々考えていたら外はすっかり真っ暗だ。

 いかんな。トシのせいだろうか。考え込んでいると時間の感覚があいまいになる。

 サラリーマンだった頃は時間を意識しなかった事などなかったのだが。

 この土地のせいかも知れないが、最近こういう事が多い。


 取り敢えず、ストックしてる物で簡単に夕飯を済ませて仕事をするか。

 今日中に本業の準備をしておかなければならない。


「リックのせいで今日はクタクタだが、もうひと仕事だな。」


 そう独り言をつぶやき、台所に向かう。

 ソーセージとパンが残っていたな。それを食ったら地下の工房に向かおう。

 そう決めると椅子に根の生えた重い腰を上げた。

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