十六光年で恋をして
時系列的には次話「雨降る日の物思い」「その翌日の話」より二週間後になります。
――キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴る。
「はい鉛筆おいてー、後ろから回収ー」
試験官の先生の掛け声とともに、みんながいっせいにシャーペンを机の上に転がす音が響き渡った。俺はみんなよりいっそう勢いよく、まるで投げ捨てるようにシャーペンを置いた。この後のことを思うと、心が落ち着かなくて、俺は意味もなく伸びをしたり貧乏ゆすりを繰り返した。
テスト四日目、四限目、数学Ⅱ。
最終日の、正真正銘最後のテストが終わって、みんなが開放感に包まれている。もちろん俺もそうなのだけれど、俺は今日の放課後、スペシャルな予定が入っていたから特に心が浮き足たっていた。
実は、日鞠さんと会うのだ。日鞠さんは今日はテスト期間ではないけれど、職員会議があるとかなんとかで俺と同じ午前帰りらしい。
彼女とはかれこれ三週間近く会っていない。二人のテスト期間が見事にズレてしまったからだ。
彼女の期末テストが六月の最後の週で、俺の六月考査が七月の頭にあった(六月考査なのに七月にあるのは大人の事情である)。その二週間は一度も会えなかったし、その前の週は俺が風邪をひいて体調を崩していたために会えなかった。ハンカチを返す約束をしていたのだけれど、それも先延ばしになってしまっている。
カバンの中の筆箱にシャーペンをしまうついでに、いつでも返せるようにとずっとしまいっぱなしだったハンカチをポケットに移し替えた。水色の地に小花の刺繍が施されたタオル地のそのハンカチは、雨の日に日鞠さんが貸してくれたものだった。
「里中! 飯食いにいかねえ?」
隣の席の倉橋が誘ってくるが、俺はそっと首を横に振った。
「先約があるんだ」
飛び出すように学校を出て、日鞠さんの家に向かう。日鞠さんの家は、ここから十分ほどの距離にある。いけないと思いながらも歩きスマホをしながらMINEを確認したら、すでに家についたようなことが書かれたメッセージが来ていたので、『俺も今からむかいます』とそう短く返信した。
道中、パックジュースの自販機を見つけて俺は立ち止まった。暑くて、何か飲むものを買わないと死んでしまいそうだ。選んでいたらふとバナナオレが目に止まった。あ、日鞠さんだ、と思った。日鞠さんはバナナオレが大好きなのだ。
思わずバナナオレを押してしまう。
試しに飲んでみたら予想以上に甘ったるくて、人工的なバナナの甘味がいつまでも舌にこびりついて、ああ、日鞠さんの好きそうな味だなあと思った。早く会いに行こうと思った。
ストローの口をがじがじかじりながら、また歩き出す。
「あっちぃ……」
手でひさしをつくって、俺は思わずそう呟いた。
コンクリートの照り返しで顔がじりじりと焼かれているのが感じられる。
つい最近まで雨が続いていたのに、テスト期間に入ってからそれを裏切るように晴れの日ばかり続いている。梅雨の次には夏が来るものだ。日照時間とかもろもろの関係でよいことなのだろうけれど、暑いのは嫌だ。ただでさえ俺は少食でバテやすく、夏は過ごしにくい季節なので、あまり早くやってこられても困る。
太陽が暴力的なまでの光を目一杯世界に降り注いでいる。ネクタイを緩めて、第二ボタンをあけて、長袖シャツの腕をまくって……とだんだん制服ばかりが着崩れていく。
日鞠さんの家に着く頃には、スラックスの裾までまくっていた。そんな俺を見るなり、日鞠さんは「エアコンついてるわよ」とさらりと言い放った。
「康徳みたいなかっちり系の制服は、着崩すと逆にダサいね」
日鞠さんが俺の荷物を受け取る。なんだか新婚さんみたいでむず痒い。日鞠さんはまったく気にしていないみたいだけれど。
「俺、今、ダサいですか?」
「うんダサい」
慌ててまくったスラックスと長袖シャツの裾をもとに戻して第二ボタンをしめてネクタイをきつくする。そこまでしなくてもいいわよ、と日鞠さんがおかしそうに笑う。ウサギの足跡みたいなえくぼが愛らしい。
「何飲んでるの」
「バナナオレです」
「いいなあ」
日鞠さんが言うから、ポケットに入れたハンカチと一緒に彼女に差し出した。
「一口飲みます?」
言ってから気づいた。これじゃ、間接キスしましょって言っているようなものだと。
「なんちゃって」
慌てて否定したが、日鞠さんは少しかがんで、バナナオレのストローに当たり前のように口をつけた。俺はバナナオレを捧げるように持って固まる。日鞠さんがかがんだ拍子に耳にかけた髪の毛がさらりとおりてきて、シャンプーがほのかに香ったのにもまたドキドキさせられて、俺の頭の中はもう真っ白だった。
たぶん時間にしてみれば一秒程度のものだったんだろうけれど、想像以上に長い一口だった。
日鞠さんが俺の手からハンカチを抜き取り、
「ありがとね」
颯爽とリビングに消えていく。
俺はしばし呆然としていたが、リビングから日鞠さんが俺を呼ぶ声が聞こえて、慌てて彼女のあとを追った。
リビングは日鞠さんが言ったとおりクーラーが効いていて、外の暑さが嘘のように涼しかった。入口脇に置かれた扇風機が規則正しく首をふって、室内の空気を循環させている。
涼しくて、そのうえ日鞠さんがいる。
ここは天国か。
日鞠さんはというと、テレビの前のテーブルで何やら工作をしていた。色とりどりの長方形の紙にパンチで穴を一つあけて、そこに糸を通しているのだ。脇にはカラーペンがこれでもかというほど並べられている。何をしているのだろう。不思議に思ったが、すごく一生懸命な顔をしているから、声をかけるのがはばかられた。
「里中くんも、やろうよ」
半分振り返った日鞠さんが手招きする。
「何してるんですか」
日鞠さんが黙ってテレビを指差す。ちょうどお昼の情報番組が七夕祭りのことを報道していた。
……そうか、今日は七夕か。
どうやら日鞠さんが作っているのは短冊らしい。
「でも肝心の笹がないじゃないですか」
「それは観葉植物で代用する」
テレビの脇の観葉植物が「まかせろ!」といったようにわさわさと葉っぱを茂らせていた。よく病院に置いてあるような小さな木のような観葉植物で、なるほど、代わりにならないこともない。日鞠さんの発想には驚きだ。
まさかこの年になってまで短冊をつくることになるとは。パンチで穴をあけた短冊に糸を通しながら思う。隣の日鞠さんを見ると、彼女は「願い事は一人三つまでよ」と言った。そのわりには短冊の数が多すぎる気がするのだけれど。
二十枚くらい短冊を作ったあと、俺と日鞠さんは二人でお願い事を書いた。
最終的に観葉植物に吊り下げることになるのだけれど、なぜだかお願い事を書いているのを見られるのが恥ずかしくて、お互い小学生みたいに腕で短冊を隠しながら書いた。先の潰れた、なかなかインクの出ないマッキー。かすれた文字でしょうもないお願い事を綴る。
『頭がよくなりますように』
『健康でいられますように』
最後の一つを何にしようか迷って、しばしペンを止める。
「織姫と彦星って実は恋人同士じゃなくて夫婦だったんですねぇ!」
つけっぱなしのテレビからキャスターの大げさな相槌が聞こえてくる。
「へぇ、夫婦だったんだ」
日鞠さんもペンを止めた。
「織姫と彦星の距離は十六光年もあるんですよぉ!」
「コウネンってなに、里中くん」
「光の速さで走って何年かかるかってことですよ。つまり十六年ですね」
「わたしたちが生きてきた人生と同じくらいじゃん。マジか」
日鞠さんがまた短冊に目を落とす。彼女の脇にはすでにお願い事が書かれた短冊がいくつも積まれていた。……三つまで、って言ったくせに。
「……一年に一回かぁ」
「ものすごい遠距離恋愛ですよね」
俺もまた短冊に目を落として相槌をうつ。
「わたしさぁ」
「はい」
「三週間会えなくて、寂しかったよ」
不意打ちのようなその言葉に、思わずマッキーが手から落ちた。短冊にほくろができる。思わず日鞠さんを見たら、彼女は特に表情を変えることなく短冊に熱中していた。
日鞠さんがそんなことを言うなんて珍しかった。いつもお互い会うときは何か口実を作っているから、純粋な気持ちで「会いたい」と言うことも言われることも、それから会えないことに対して寂しいと言われることだってまたなかった。口実があれば会うけど、なければ会わないだけ。それだけなんだと思っていた。
俺は口元を隠して俯く。
今、たぶん、超だらしない顔してる、俺。
日鞠さんにとっては、雑談の一環なのだろう。沈黙を埋めるだけの何気ない言葉なのだ。それはわかっている。わかっているけれど、浮かれてしまうのはいけないことだろうか。
「お、俺もです」
思わず声が震えた。落ち着かなくてバナナオレのストローをがじがじとかじる。日鞠さんがそれに気づかなければいいなと思った。
「三週間だけでも寂しかったのに、織姫と彦星みたいに一年も会えないのは耐えられないなあ。だから」
「だから?」
「だから、会いたいときに会える距離にいることに感謝だね」
日鞠さんのその一言で、最後のお願い事が決まった。
俺は机の上に転がるマッキーを手に取って、さらさらと短冊にお願い事を書き付けていく。
ずっと、を文頭に付け足そうか迷って、結局やめた。いつか俺たちはお別れをするかもしれない。別の相手と一緒になるかもしれない。未来のことなんて何一つわからないのだ。
けれども、今は。せめて、今は。
『一緒にいられますように』
隣を見たら日鞠さんも同じことを書いているだとか、そんな俺にとって都合のよすぎる奇跡は起こっているはずもなかった。でも、『三回に一回でいいからアイラインがうまく引けますように』という彼女のお願い事があまりにのんきだから、思わず笑ってしまった。
「あー、見たな?」
盗み見しているのが日鞠さんにバレて、腕をぽかぽか叩かれた。
そんな、七夕の日のことだった。
(十六光年で恋をして)