『真実の貌』09
どれほどの距離を進んだのかもわからず、満身創痍のうえ全力で走り続けたために緋桐の身体はボロボロだった。痛みすら感じないほど感覚が麻痺しているから、どちらの足を前に伸ばしたかもわからなくなる。
両脚を同時に進めようとしてもつれる。もはや受け身を取る気力すらもなく、顔を地面に叩きつける形で緋桐は倒れた。
そんな有様を見かねたのか、訝しげな面持ちで緋桐を避けて歩いていた人々から一人、女性が駆け寄ってくる。
「ちょっとあなた、大丈夫? 意識はあるかしら、返事できる?」
女性が心配そうに緋桐を抱き上げる。こんなおぞましい風貌の相手でも関係なく、善意から介抱しようとしてくれている。だが今の緋桐にはその優しさが怖かった。
「……めて……」
「あぁ、良かった、意識はあるみたいね。今すぐ救急車を……」
「……やめて……近寄らないで……」
「えっ?」
優しい人なら殊更に巻き込みたくない。だから少なくとも善意のつもりだった。しかし女性を突き放そうと伸ばした腕が緋桐の理性を無視して殺意を纏っていることに気付いた時には、とうに手遅れだった。
女性の上半身が瞬く間に消し飛び、取り残された下半身の切り株から赤い花が咲く。
尋常ならざる光景を目の当たりにして皆理解が遅れたのだろう。一瞬の沈黙の後、街は阿鼻叫喚に包まれた。
緋桐もまた絶叫した。
自ら伸ばしたこの腕が、おぞましくも確たる手触りを伴って女性の命を絶った。魔法少女や裏社会の事情などにはおよそ関わり合いのない、ただそこに居たというだけの人をだ。今度ばかりは弁解のしようがない。
半ば予測できていた結末とはいえ、腸をぐでり、とぶら下げるその切株をいざ眼前にすると、ひどく息が詰まる。鼻を突くその異臭を避けようと思ったら、不思議とまた足が動き出した。
緋桐の心中に、先程までの混乱や迷いはない。人殺しになったという至極単純な自覚と、繕いようのない純粋な罪悪感だけだ。
人々が放つ悲鳴とざわめきを、通り過ぎたそばから崩れ落ちていくビルの轟音が掻き消す。意識と完全に切り離された緋桐の本能的な破壊衝動は、無数の衝撃波を放ち街を空爆していく。
――――あぁ、どうしてこうなってしまったんだろう。
「どうしてって。エーデルワイスは大いなる災厄なんだから、破壊することが本能なんでしょ?」
我知らず呟いた緋桐の言葉に、緋桐が答える。まるで天使と悪魔の囁きのように思えたが、今ではどちらか天使なのかもわからない。現にこうして歩くだけで人を殺し街を壊している化物に、善の心などあろうものか。
「それにしても、救仁郷緋桐の姿でずいぶん好き勝手してくれたよね。それは私のものなんだけど」
一方の声がより大きくなって再び発言する。幅広の河川に跨る橋に踏み込むと、こんどは足音まで二倍、三倍と増えていく。どうやら緋桐の幻覚などではないらしい。
然る後に橋の中腹にまでたどり着いた緋桐を、反対側から渡ってきた声の主が迎える。
「人から盗んだ顔と記憶と居場所で過ごした時間はどうだった? エーデルワイス…………偽物さん」
クル・ヌ・ギア独特の白い魔法衣に褪せた茶髪をたなびかせ、目元に昏い闇をたたえても尚、その顔の輪郭が全く同一人物のものであることは容易に見て取れる。橋の反対側を渡ってきたのは、紛れもなく救仁郷緋桐だった。
「わた……し……? にせ…………もの……?」
「こいつ、この期に及んでまだ自分が偽物だって分かってないみたいよ、緋桐」
「っ………………」
「よくもこの私を騙してくれたわね! 死ね、クズ!」
もう一人の緋桐に続いて現れたのは、同じくクル・ヌ・ギアの魔法衣を纏った高千穂ゆずであった。その顔は最後に会った日とは対称的に、蛆虫でも見るような表情を浮かべている。とてもかつての親友に向けるものとは思えない。
胸の奥が押し潰されそうだ。状況に対する理解はまったく追いつかないのに、親友だと思っていた人からこの上なく軽蔑されていることだけは手に取るようにわかる。
――――私がゆずに何をしたって言うの?
彼女は今日まで自分が救仁郷緋桐だと思って生きてきた。しかし両親の愛を受け、親友と過ごしたこれまでの全ての時間は、エーデルワイスという化物が模造した独りよがりな妄想に過ぎなかったのだというのか。
「まぁ、やめてあげよ? 哀れすぎて見てられないから」
嘲笑しながら、もう一人の“本物の緋桐”が拳を構える。
敵意。訳もわからぬまま直感的にその感情を嗅ぎ当てた本能が、またエーデルワイスの意思に反してどす黒い瘴気を放つ。瘴気は槍状に凝固し、二人へ向けて射出された。
「だ……めっ…………避けて!!」
泣きながら、エーデルワイスが叫ぶ。だが二人は避ける素振りすら見せない。その代わり“本物の緋桐”は懐から宝玉を取り出した。瀬川恭参が殺害された時、クル・ヌ・ギアの魔法少女が盗み出したマジックアイテム。砂垣匠の殺害現場で術式痕を抹消したあれだ。
宝玉は彼女の腕に展開された術式陣と連動し、氷海よりも冷たく深い青の光を放つ。直後、二人を射抜かんと飛び掛かった瘴気の槍は見えない手に掴まれたようにぴたりと動きを止め、ほどなく粒子となり風に溶けてしまった。
「イシュタルや砂垣さんは術式痕を消し去るアイテムだと思ってたみたいだけど、これは違うんだよね。アカシックレコード……この世の理との繋がりに割り込んで、対象の異能力を絶つ。それがこの“礼拝絶嗣”が持つ力。星の意思に遣わされているエーデルワイスも、繋がりを絶たれれば無力なただの獣っていうこと」
宝玉から放たれた光に侵食されるように、エーデルワイスの全身を覆う術式陣もまた青く染められていく。心なしか殺人衝動も鳴りを潜めてきたかもしれない。両手足に錘を付けられ深海へと沈んでいくような、全身が弛緩し意識が遠のいていく感覚。
“本物の緋桐”が言ったことの意味は殆ど解せなかったが、少なくとも自身の力が失われていることだけは理解した。そして同時に安堵する。これでようやく無関係な人々が死なずに済む。
二人から向けられる死にかけの虫けらを眺めるような視線を一身に浴びて、エーデルワイスはふと思った。
――――私の正体を知ったら、シルヴィアちゃんも同じような目をするのかな。
せめてシルヴィアにだけは知って欲しくない。シルヴィアにまで見捨てられたくはない。ならばその前に死んでしまうのが一番だ。そうすれば大切な人たちを手ずから傷つける事もなくなる。
「…………ごめん……なさい」
「うん?」
「生まれ……てきて……ごめん、なさい」
「………………貴女はエレシュキガル様に殺してもらう。この世界はより良いものへと再構成される。せいぜい次に生まれ変わる先を考えながら、死んで」
拘束魔術が詠唱され、エーデルワイスの身体を鉄の蛇が縛り上げる。ほんの一瞬だけ憐れむような表情を露にしながらも、すぐにそれを掻き消した“本物の緋桐”は一歩、一歩と迷いなくにじり寄っていく。
ようやく終われる。どうしようもなく哀しみだけを焼き付けたこの胸が、やっと鼓動を止められる。
だがそんなエーデルワイスの決心に、またもや横槍を入れんとする人物がいた。
「エレシュキガルの手に落とされては困る。貴様を殺す者は奴ではない」
唐突な浮遊感、眼前には血まみれの掌。それが粛清者のものであると気付いたころ、エーデルワイスの身体は遅れて吹き飛んだ。
「粛清者っ!?」
「もう! どこまで邪魔をすれば気が済むのかしら! どきなさいゴミ虫!!」
「フン。ゴミ虫は貴様らだ、魔女」
もはやずたぼろの大きな背中が、だがやはり弱る事を知らない華麗な身のこなしで二人の攻撃をかわしている。その光景が徐々に遠ざかり、水に呑まれ、朧になっていく。
――――どうして!? 早く私を殺してよ!!
エーデルワイスの悲痛な叫びは川の奔流に攫われ、消えていった。