『真実の貌』14
真っ白な墓石に似た無数の柱体が整列し、堅牢な壁となりフロアへ進入せんとするものを拒んでいた。しかしアナトが指を触れると、そのうちの一つがあっけなく引き下がっていく。それから連弾を奏でるピアノの鍵盤のように波紋が広がっていき、やがて墓石の群れはアーチ状の通路へとひとりでに変形する。幻獣のみに先へ進むことを許す、高度な魔術で構成された結界。現地へ最初に到着した設営を担当する幻獣によるものだ。もしその幻獣がクル・ヌ・ギアの傘下へ堕した者であったなら、敵地へ淡々と足を踏み入れる今のアナトは、さながら飛んで火に入る夏の虫といったところか。
一時間前、パブに残り一人酒を嗜んでいたアナトの許に、名刺ほどのサイズのカードが投げ込まれた。カードには文章が添えられており、独特の硬い筆跡、顔を合わせられない事情などから、シルヴィアが放ったものであるとすぐに察せた。記された文章は短く、“多くの間諜が潜んでいる。クル・ヌ・ギアの罠”とだけ。仮にこれが虚報だったとして、アナトがその程度で揺らぐような容易い相手でないことはシルヴィア自身が理解しているはず。加えて、少なからず予期していた事態だ。まず疑う理由は無いだろう。
袂を別ちエーデルワイスを奪い合う敵となった自分にわざわざ忠告をくれてやる、そんな年相応の未熟さがアナトには哀れに思えた。おそらく今晩限りは義理を守り通すつもりだろう。アナトのほうは出発する前からシルヴィアを欺いていたというのに。
遠征の末に辿り着いたこの西欧風の古臭い街は、実のところ西欧とは程遠い、モンゴルの山間奥地に位置している。単純な距離としては、ヨーロッパよりも遥かに日本に近いのだ。
無数の転移を繰り返した理由を、魔法少女たちには『クル・ヌ・ギアの尾行を阻止するため』と説明した。それも嘘ではないのだが、真意は別にふたつある。
一つは、対立することが予測されていたシルヴィアを予め攪乱しておくため。もう一つは、クル・ヌ・ギアに下った組織を炙り出す為の、いわば撒き餌だ。そして見事に、その撒き餌につられてアナトたちと接触を図ってきた組織がいた。
柱体のアーチを抜け、遂に会談が開かれるフロアへとアナトが辿り着く。半径にして五〇メートルは優に越える、円形の広大な会議室。その中心にはやはり円形の大きなテーブル。座席は三〇。すでにアナトを除く全ての幻獣たちが着席していた。なにやらざわついていたが、話題については大方予想がつく。それぞれの顔を確認しながら、更に一歩踏み出してアナトは告げた。
「予定よりも早く集まってもらって申し訳ないね。けど皆も知っての通り、状況が状況だ。全員が揃ったことだし、早々に始めさせて貰おう」
「イシュタルの本部がやられたってのは本当なのか。それに、エーデルワイスが見つかったって話もあるぞ」
ひときわ大柄な熊の獣人が立ち上がり、語気も荒々しく問う。
「その件なら確かに、ボクの耳にも届いている。おそらく事実だろう。そちらについても対処は必要になる」対してアナトの返答はひどく抑揚に乏しく、冷たい声音だった。同時に幻獣たちのざわめきは一斉に静まり、代わりに緊張の眼差しが集まった。「それより重要な問題があるのさ。協定に背を向け、クル・ヌ・ギアの手先に堕した者がいる。そうだろう? フラムトゥグルーヴ代表……シャレム」
アナトが言い終わるより早く、シャレムがマジカライズステッキを掴む。ステッキはあっという間に変形し、リボルバーの姿をとる。だが、それが発射されることはなかった。
円筒状に吹き抜けた会議室に銃声が轟き、先んじてマジカライズリボルバーを形成していたアナトの殺意がシャレムの胸を貫いた。
「合流したとき、ボクたちの頭上を鷹が飛んでいたね。キミが使役するゴーレムだったんだろう。狙いとしては、進行を急がせて魔法少女たちの疲弊を誘うってところかな? 術式不干渉結界を仕込んだボクが、その程度の小細工を感知できないとでも思ったかい?」
「……容赦なし……か。悪鬼め……」
「お互い様だよ」あっけらかんと言い放ち、躊躇いなくとどめの第二射をシャレムの頭に撃ち込む。砕けた頭蓋から鮮やかな血飛沫を散らし、“シャレムだったもの”は壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
続けてマジカライズリボルバーを静観していた幻獣たちに向ける。十数名は席に着いたまま凍り付き、その他は即座に立ち上がり銃を向け返していた。裏切り者が半数に達している。予想よりも多い。
「エレシュキガルに何を吹き込まれたのかは知らないけど、キミたちも愚かだね。人類社会を利用する手段を確立し、穏便にエーデルワイス争奪戦を終わらせ得る体制を創り上げたというのに」
「そう言いながら、お前、エーデルワイスを隠し持ってたんだろ」
先程の熊の幻獣が唸るような声で反論する。直前まで素知らぬ顔で質問をしていたというのに、今は誰の眼にも明らかな憮然とした態度だ。演技が達者なようだが、名前は記憶にない。おそらく協定に属する組織でも比較的下位の者だろう。
「だから何だって言うのさ? 皆を代表してエーデルワイスを殺し、キミたち全員が納得する新世界を選ぶ義務がボクにはある。無意味な疑心暗鬼を招かぬ為に隠していたというだけさ」
「どのみちエーデルワイスはエレシュキガルの手に渡った。お前の詭弁に耳を貸す奴なんていない」
「それはどうかな? エレシュキガルが既にエーデルワイスを得たというのなら、なぜ巷では大災害だなんて報道が飛び交っているんだろうね。情報操作されているが、どう見てもあれはエーデルワイスによる殺戮だ。彼女はイシュタル本部にいるはずだけど……それが外に出て暴れたということは、取り逃がしたと見て間違いないだろう」
『よく弁えているではないか。だが時間の問題だ。それに幾ら弁明を重ねようとも、こやつらは聞き入れぬであろうな』
低く、凛々しい女の声。アナトのよく知っている声だ。
円卓の中央にホログラムが突如として展開され、青白く発光する。光は狐の面貌をたたえた獣人、幻獣エレシュキガルの姿をその場に投影した。
「やあ、久しぶりだね。キミに唆される愚者がこれほどいるとは思わなかったよ。存外、潮時だったのかもしれない」
『愚者は貴様とて同じだろう。むしろ聞こえの良い言葉で惑わす偽善者ほど、始末が悪い』
「キミほど露悪的でもない。彼らの気が知れないよ。キミはただの扇動者だ」
二人の口論は今まさに命を賭けて敵対する者同士でありながら、毎日顔を合わせる友人同士がつく悪態のようにも見える。さりとて互いが瞳に宿した殺意には一点の曇りもなく、ひどく不思議な光景だった。
『勘違いをしているな。こやつらは我が手駒となった訳ではない。協定によって保たれてきた仮初の秩序を突き崩す、そのための一時的な団結だ。もとより我ら星の眷属は地上の覇権を奪い合うため生を授かった身。公平、協調を約束する合意など、新たなエーデルワイスを前にした今では欺瞞にすら至らん児戯よ』
「確かに、こうも理性を欠いた馬鹿ばかりなら、協定にも意味はなかったかもしれないね」
彼女の唱える理念は受け入れ難いし、それに惑わされた馬鹿どもへの失望は輪をかけて大きい。故に反論にも熱が入り感情的になっていく。だがそれは半分、芝居のようなものでもあった。エレシュキガルがこちらの言葉に返すかぎりは他の幻獣たちも銃のトリガーを引きはしないだろう。そして彼らの視線と意識はアナトが一手に集めている。好機だ。
呆れたふうに肩をすくめる、わずかな一刹那。明確な意図を含んだ視線を、席に固まったままの幻獣たちに送る。意図は相違なく伝わったらしく、味方側の幻獣たちはすかさず立ち上がり、手にしたマジカライズガンで裏切り者たちに不意打ちを試みた。
再び銃声と閃光が迸る。当然ながら、彼らの不意打ちが成功することはなかった。十数名の殆どが銃を構えようとした時点で感付かれ、殺意の銃弾に倒れた。だがそれでよかった。始めから彼らが形勢逆転してくれるなどと期待してはいない。重要なのは、敵の意識が僅かでもアナトから逸れたことにある。
マジカライズリボルバーを散弾銃の形態に変化。身をすこしだけ屈め、最小の挙動で体重を移動し、慌てて振り向き直した間近の幻獣の頭に銃口をあてがう。トリガーを引くと同時に相手の頭が砕け散った。脳漿とない交ぜになり濁った大量の血液が飛び散り、ほかの幻獣たちの視線を更に遮る。
血飛沫によって生じるほんの小さな死角。存在しないに等しい、コンマ一秒と待たないノイズ。それさえあれば充分だった。
ショットガンを左手に持ち替え、空いた右手に新たにマジカライズリボルバーを召喚する。左手は敵味方の区別なく掃射し、右手で撃ち漏らした手合いを狙撃する。
味方であろうと、この場に揃った者を生かすつもりなど毛頭ない。勢力図が分断されてしまった以上、協定が有する権威は遅かれ早かれ失墜する。一度でも綻びが生じた時点ですべて無に帰すのだ。ならば、新世界の覇権を妨げる存在となりうる分子は早々に片付けたほうが都合が良い。
撃ちながらも安全圏の確保は欠かさない。円形の間取りに円形の座席配置。一つの標的を一斉に狙おうとすれば必ずどこかが障害となる位置関係だ。射線も限られる上、迅速に処理し続けていれば、どれだけ配置が変化しようともある程度は対応可能だ。
銃撃戦が終わるのに、二〇秒とかからなかった。二八名もの幻獣――――異能社会の顔役とも言うべき有力者たちがあっという間に死に絶えた。
あまりの呆気なさに落胆さえ覚える。アナトが齎した安寧は、生態系の長たる幻獣たちを腑抜けへと変えてしまっていたらしい。
『悪鬼とは言い得て妙だな』顛末をホログラム越しに見守っていたエレシュキガルが、苦笑交じりに口を開いた。
「キミにとっても丁度いい厄介払いになっただろう?」
『ああ、お陰で計画通りだ。障害は一掃され、のこる在野の幻獣どもも雑魚ばかり。これで存分に貴様とやり合える』
「エーデルワイスは再び野に放たれた。ここからが本当の争奪戦というわけさ。首を洗って待っているといい」
アナトは手にしたマジカライズリボルバーの照準をテーブル中央に貼られた術式符に定める。近い将来に訪れるであろう結末を予告するように、ホログラムごとエレシュキガルを撃ち抜いた。