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現代短編

磯撫で(いそなで)

作者: コーチャー

「奥方、いま株式投資といえばやはり電気鉄道か紡績がよろしいと存じます。幸か不幸か欧州で起こりました大戦のおかげで我が国は未曾有の好景気に包まれております。紡績業は軒並み好成績をあげ、工場で作られた製品を運ぶ電気鉄道は各地で新路線が開通されております」

 私の話をひと通り聴くと、女は「ほう」、と小さく感嘆をあげた。女の年頃は二十代後半から三十代前半、花模様の刺繍が入った白いバチストが上着の間から見えている。ジュボンは上着と同じ紺色である。洋装の男性は役所などにいけばよく見るようになったが、女性の洋装はまだ珍しい。華族の後家が金を余らせているという噂は本当だったかもしれない、と私は心の中で哂った。

「これは内密の話ではありますが……」私が声を顰めると、女は私の方へ身を乗り出した。私の顔に女の顔が近づくとほんのりと甘い香りがした。これは札束の香りだと私は思った。「大阪の阪神軌道社が大阪と堺間の新路線開発をひと月後に発表します。発表があれば阪神軌道社の株価は三倍、いや四倍には跳ね上がるでしょう。百円投資されれば四百円に、千円投資されれば四千円になります」

「それは善いお話です。さすがは宮垣子爵のご紹介の方です」女は微笑むと乗り出した身体を元に戻した。甘い香りがすっと消えていった。「すぐにでもお金を用意させましょう」

 垣内子爵は、公家華族の一人で関西を中心に事業を展開する資産家である。彼は理想的なカモだった。資産家らしい疑い深い性格の反面、一度信用させれば何度でも金を吐き出す。彼のような自尊心の高いカモは騙されたと気づいても、警察に訴えることはない。周囲から「垣内子爵は詐欺にあった」など噂されるのに耐えられないからだ。

 また、垣内子爵は何かと契約書を書くことを好んだ。少額の投資であっても契約書を求めるのには辟易したが、おかげで垣内子爵の署名から印章まですっかり写し取ることができた。写し取った署名と印章で大量の紹介状を作るのは簡単だった。

 金持ちというのは兎角、権威や肩書きに弱い。普通なら私のような胡散臭い者の話を聞かない連中も誰それの紹介です、と一筆を出すだけで話を聞いてくれる。話ができれば、あとは坊主に終わるのも大魚を釣り上げるのも技量次第である。

「お妙、ちょっとおいでなさい」

「なんでしょうか、奥様」

 お妙と呼ばれた女中は、小紋に白い前掛けをつけた十代後半の小柄な少女だった。おそらく行儀見習いとして奉公に出されているのだろう。

「耳をかしなさい」女が耳打ちをすると少女は頷いて部屋をあとにした。女は私の方に眼を向けると言った。「今日は三百円でよろしいでしょうか」

 華族の奥方が投資する金額としてはまぁまぁの金額だった。「滅相もございません」と私が恐縮するフリをしていると女中が盆を持って戻ってきた。卓上に置かれた盆の上を見れば、百円札が三十枚と一枚の写真があった。

「三百円ではなかったのですか」

「ええ、今日は三百円です」女は盆から紙幣を三枚取り上げると私の前に置いた。「ですが、とても善いお話ですのであと二千七百円投資したいと私は思っています。」

「それは結構なお話をありがとうございます」事実、華族であっても三千円は随分と張り込んだ金額である。「では、残りも私が責任をもってお預かりいたします」

 私が盆に手を伸ばすと、女はすっと盆を遠ざけた。

「今日は三百円と申しましたでしょう。残りをお渡しするのには条件がございます」

「条件ですか……。なんでしょうか」

「実は、この二千七百円は主人のものであって私のものではございません。このお金を投資するためには主人を説得する必要があります」そう言うと女は一枚の写真を盆から取り上げ私に手渡した。「主人はある事情からその茶碗を欲しています。それは十年前に破産された守谷子爵が所蔵されていた茶碗でいまは貿易商の宮部様がお持ちです。主人は何度となく宮部様に売って欲しい、と打診しているのですが色よい返事はいただけません。主人に変わり茶碗を手に入れてきて頂けませんか」

 私は悩んでいた。茶碗一つで三千円かと思えば随分と割のいい話のように思える。とはいえ、この世には相場がわからないものがごまんとある。その代表は骨董品である。現に昨年、競りに出された曜変天目茶碗は十三万八千円の高値をつけた。もし、そのような品である場合、正攻法では難しい。だが、私はこれを受けることにした。なぜか、それは正攻法だけが物を手に入れる方法ではないからである。

「分かりました。微力を尽くしましょう」


 それから二十日後、私は再び女のもとを訪れた。

「そのご様子ですと、上首尾のようですね」

 女が微笑む。

「はい、こちらがご所望の茶碗になります」私は卓上に木箱を置くと中から茶碗を出した。白地の釉に点々と朱色の地肌が浮かぶ茶碗は、無骨な地侍を連想させた。「これを手に入れるのに大変難儀いたしました。一万円積まれても売らん、と宮部様に言われたときはどうしようかと思いました」

「大変なお仕事をお願い致して申し訳ございませんでした。お妙、あれを」女中が盆を持ってくる。盆の上を見て私は驚いた。盆には三千七百円が置かれていたからである。「追加の千円は手数料です。お収めください」

「これは……ありがたく頂戴いたします」私は出来るだけ冷静を保って、盆から札束を取り上げた。「難儀ではございましたが、天佑がありまして宮部様には快く茶碗を売っていただきました。これも日々の行いのお陰でしょうか」

「どこにも目はあるものです。良いことをする方には良いことがあるのでしょう」女は楽しそうに笑うと私をじっと見つめた。「宮部様は日々の行いが悪かったのでしょう。まさか、金山投資の詐欺にあわれて破産されてしまうなんて」

 女は卓上にあった新聞の一面を指差していった。金山投資詐欺被害額十万円と大きな文字が紙面を飾っている。

「悪銭身につかず、とはよく言ったものです。宮部様は阿漕なご商売をされていると有名でしたから天罰が下ったのでしょう」

「まぁ、お互いに気をつけることと致しましょう」女は口に手を当てて笑った。「でも、私には後ろめたいことはないわ。あなたもそうでしょう」

「まったく、その通りです」私は少し呆れたように頷いた。


 詐欺師がかえったあとお妙が憂いた顔で言った。

「良かったのですか。あのような者に四千円も払って……」

「一万円の茶碗が四千円で買えたのだから安い買い物よ。それにしても十年かかったのね。お父様が破産されて手放した茶碗が戻ってくるまで……」

 女はしばらく複雑そうな顔で茶碗を眺めていた。 


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