最後の願い
“でもな、痛いんだよなぁ。生きている間に聞かないとダメなのか?”
テトがカイに確認する。
“今聞きたいのか。仕方ないな。本当に我侭だな。仕方ない、やるか。”
テトがぶつぶつ言いながらそういうと、カイの眼が輝いた。
ナタリーの声が聞きたい。愛しいわが子の声。
どれだけ聞きたいと思っただろう。
君の笑い声。君の泣き声。僕を呼ぶ声。色んなことを話したかった。
カイがテトに訴えた。
“わかったよ。カイ。”
決心したようにテトがいった。
“ジル、僕の羽の一部をきりとってカイの右耳に入れて”
“羽を切り取る??痛くはないのかい?”
“痛いにきまっているだろ”
怒った様にテトは言った。
“君は指を切られて痛くないのか?
くだらないことを聞かないで早くやれよ”
テトは本気で怒っているようだ。
光がくるくるまわっている。
ジルは痛みを我慢しているテトをなるべく傷つけないように羽の一部を小さく切り取った。
“ふう、さあ、早く右耳に入れて”
痛みに耐えるようなテトの声に急かされてカイの耳に羽を押し込む。
テトは痛みに耐えて少し震えている。
テトの羽を耳に入れると、カイが涙を流し始めた。
自分の耳を指差して、聞こえる。聞こえる。という合図を必死にしている
“ダディー聞こえるの?私の声が?”
ナタリーが涙声で言う。
ああ、なんて素敵な声。
サラの声に似ているのかな。僕はなんて幸せなんだ。
愛しい娘の声が聞こえるなんて。ナタリー、あの曲を歌って。
虹の歌を。
僕が子供の頃聞いて唯一覚えている歌なんだ。
テトになのかナタリーになのかわからないが必死にカイが訴える。
“ナタリー、虹の歌を歌ってってさ。”
テトが言う。
“虹の歌。ああ、あの曲ね。”
立ち上がったナタリーが静かに歌いだす。
“Somewhere over the rainbow…..”
こんな歌詞だった。
虹の向こうのどこか空高く、子守唄で聞いた国がある。
虹の向こうの空は青く、信じた夢は現実となる
いつか星に願う、目覚めると僕は雲を見下ろし、
全ての悩みはレモンの雫となって
屋根の上へ溶け落ちていく
僕はそこへ行くんだ。
虹の向こうのどこか遠くへ
青い鳥は飛ぶ
虹を超える鳥たち、
僕もそこへ飛んでいくよ。
優しい歌声が月夜に響く。
ああ、虹の歌。
僕が唯一覚えていた虹の歌。
ナタリー、子供の頃、いったよね。
君は虹のふもとに何があるか見たいといって、
マノアにかかる虹のふもとまで何度もいったね。
今度虹を見たら僕を思い出して。きっと虹のふもとにはダディーがいるから。
ナタリー愛しているよ。ずっと見守っているからね。だんだんカイの意識が遠のいていく
“Somewhere over the rainbow……”
“この歌の通りだ。カイはそこへいくよ”
テトが家を懐かしむようにそういったので、ジルは静かな死を祝福できる気がした。
そんなに素敵な場所に帰れるなら、80年生きて帰れるなら、最愛の娘に看取られ、
その声を聞きながら静かに旅立てるならこの死は祝福すべきかもしれない。
ジルの心も穏やかになった。立て続けに死に遭遇して疲れた心も癒されたようだった。
ナタリーの歌声とともに、カイはナタリーに静かに微笑むとすっと息を引き取った。
ナタリーは静かに涙を流しながらけれど歌をやめなかった。
テトがカイの胸元にすっと手をかざす。
すーっと一筋の光がカイの胸から天へ伸びて吸い込まれた。
“ダディー。ダディー。どうだった私の声。聞こえた?虹を見たらダディーを思うわ。
マノアは虹がたくさんかかるからダディーにたくさん会えるわね。”
歌い終えてナタリーがカイに話しかける。
静かな死だった。
偉大なカフナにふさわしい美しい死。
苦しまず、静かに旅立った。
ジルの眼にも清らかな涙がこぼれた。
僕もこうやって人生を終えられたら幸せかもしれない。
悲しいけれど、満ち足りた死。
こんな死もあるんだな。カイの優しい表情をみているとそんな風に思えた。
幸せな死を喜べないのか?テトが言った言葉を頭の中で繰り返す。
こんな風に死ねたら確かに幸せかもしれない。ジルは心からそう思った。
カイの胸にまた純度の高いピュアソウルの結晶が光った。
ふと夜空を見上げるとマノアの山に夜なのに虹がかかっている。
テトの羽の光に似た7色の淡い光。闇夜に幻想的に浮かび上がっている。
“ああ、虹よ。ナイトレインボー。ダディーだわ”
ナタリーが感嘆の声を上げる。
“ナイトレインボー。”
ハワイには夜でも虹がかかる瞬間がある。
けれどそれを見られることはほとんどない。
虹を見たら神様の祝福と考えるハワイアンの中でもナイトレインボーを見たものは少ない。
“ダディー。ありがとう。ダディー。虹を見たらダディーを思うわ。”
ナタリーはもう一度そういった。
“雨が降るのが待ち遠しいわ。きっと虹がかかってダディーに会えるわね”
ナタリーの優しい声がいつまでもジルの心に響いた。
優しいフルムーンの夜。老人の人生が終わった夜。けれどこの清清しさはなんだろう。
清らかに生きた人は死さえも美しい。
“カイ、僕はしばらく飛べそうにないよ”
情けない声でテトが言った。
“ああ、わかっているよ。ピュアソウルが言った我侭の一つぐらい聞いてやるさ”
カイと話しているようだった。
“テト大丈夫かい?そんなに痛いのか?”
ジルがテトに話しかける。
“まったく、人間ってやつは待つのが苦手だよな。
体を抜けたらいくらだってナタリーの声が聞こえるのにさ、まあ、いいさ。今がこの瞬間が大切なときもある。”
傷ついた羽を気にしながらテトが言った。
“君は本当に優しい妖精だな。”
“人間の基準でなんでもいうなよ。僕は妖精の中じゃ冷たい方なんだ“
テトがふてくされたように言ったのでジルはおかしかった。
“テト、ぼくはカイの死を祝えるような気持ちがするよ。”
テトは不思議そうにジルを見た。
“さっき、人には無理だっていったばっかりじゃなかったか?
そんなにすぐに気分が変わるのもなのか?
まあいいさ、真実に気づいたらそこから幸せが始まる。
人間ってのは何回生まれ変わっても色々忘れちゃうからな。進歩が遅いよな。
お前の魂は色々知っているのに、気づくまで時間がかかるんだ。一つずつ思い出すしかない。”
魂は真実を知っている。なぜ色んなことを忘れて生まれてくるんだろう。
“能力の問題だ。仕方ないさ、訓練するしかないんだ。”
“テトは神様のようだな”
“なんで妖精が神なんだ、お前意味わかんないな。”
テトはおかしそうに笑った。
“そういえばさ、服また替えてくれる?飽きちゃったんだ。”
“まったく”
テトは呆れたように笑って指をぱちんと鳴らした。
今度のアロハはベージュにシダの柄のビンテージ柄だった。
“色んなレパートリーがあるんだな。”
“ああ、アロハシャツ辞典とかいったかな?そこから順番に真似ている。”
テトが言ったのが、なんだかおかしかった。
“本を真似ているのか?”
“本、記憶が悪い人間が生み出した傑作だ。あれは便利だな。誰でもめくれば誰かの記憶を覗けるんだから。”
妖精が関心したように言った。
“本当に人間って記憶が悪いのかもなぁ。僕も少しは生まれて来る前のこと覚えていたかった。”
“まあ、ふとした瞬間に思い出すかもな。魂は忘れてないんだから。思い出すかどうかの問題だ”