第11話、蹉跌
俺は独りになっても威勢良く、勝利、勝利と自らに言い聞かせる。
素直に白状すれば、海軍という大組織を束ねるレーダー元帥との初見は、元々28歳だった俺に想像を超えるストレスを残していた。
今必要なのは、明らかに安らぎだ。
例え性格に難があっても、日本語で話し合える爺さんの存在しか思いつかない。
机の上にある電話を使い、秘書に命令を下せば直ぐに連れてくるだろう。
そこで一旦急停止した俺は、正しい使い方を知らない電話機を一瞥する。
そして、もっと確実な方法を取ることを選ぶ。
……この手で執務室の扉を開けたのだ。
そこには、目的の女性秘書と黒い軍服を着た年配の男が居た。
彼は俺に気づくと拳を上げた。
「ハイル・ヒトラー!」
気合いの入った挨拶に、面食らいながら俺も反射的に手を上げた。
「……ああ、おはよう」
「おはようございます。我が総統」
名前を知らない男は、制服からして軍人なのだろう。
困ったことに、彼に関するアドルフの記憶が見当たらない。
仕方なく目を細めて、気分だけでも鋭い視線で彼を観察してみる。
どうやら目の前に立つ人物を、軍人と結論付けたのは時期尚早だったようだ。
一見すると黒い軍服なのだが、左腕に鍵十字のワッペンがついている。
ハーケンクロイツはナチスの証であり、挨拶もナチス式敬礼。
それらを考慮して俺は断定した。
彼はヒムラー以外の数十万人いる親衛隊員の誰かであると。
ふっ、何故ヒムラー以外だって、自慢じゃないが、俺はヒムラーの顔を知っているのだ。
もっとも、シャーロック・ホームズでない俺の推理は、ここで行き詰まってしまった。
「海軍総司令官は良い報告でも持ち込みましたかな」
彼はレーダー元帥のことを聞いた。
「な―に、フランスにいる艦隊のひとつが、出撃準備を整えたという報告を持ってきただけだ」
俺は事実を曖昧に口にしながら、仕方なく彼を執務室にいざなった。
口の中は苦い。自由時間どころか、爺との会話時間すら得られなかった。
「ほう、ひょっとしてツェルベルス作戦のことですかな」
「そうだ。作戦の準備は幾つかの障害を除き、整いつつあるあるそうだ」
「それは何よりの朗報。おめでとうございます」
何がめでたいのか、俺にはさっぱり分からない。
「それで、何の話だ」
「はっ、日本軍のシンガポール進撃について、国際的な影響の調査報告をお持ちしました。
マレー半島の戦況の方は、国防軍作戦部長ヨードル大将が持ってまいります」
「そうか。ご苦労だった。
日本はどうなっている」
やはり祖国は気になる。そして彼が、何故か一瞬ためらい見せたことも気になる。
「申し訳ありません。
駐日本大使館の失態については、外務長官として総統にお詫びするしかありません」
外務省長官……。
まさかこの男がソ連と不可侵条約を結んだ、あの有名なリッペントロップだったとは。
いや、外務長官が親衛隊の制服を着ているとは普通思わないよな。
「失態か」
「はい昨年10月以来のコミンテルンスパイ行為発覚で、ゾルゲ一党の暗躍を許した日本大使館は混乱をしています。
目下、この件に関して外務省は、現地の防諜を取り仕切る親衛隊情報部と共に、全力を挙げて調査を進めている所です」
はっ?。ゾルゲってもう逮捕されていたのか?。
いや、まさか、あれだけ偉そうに日本再生計画を語っていた爺が、ゾルゲの逮捕日を知らなかったとは……。
どれだけ抜けているんだ、あの爺さん。
まあ、爺さんが何もしなくても、まだ日本は快進撃を続けるだろう。
「リッペンドロップ外務長官は、駐日本大使館について、確実な調査を急いで進めてくれたまえ」
「はい。お任せ下さい」
この後、リッペントロップは去ったが、ゾルゲ逮捕の事実を知った今、爺さんと話をするのもストレスになりそうだ。