無給の帳簿係をしていた私は、婚約解消の席で請求書を差し出しました
その夜、ベルク伯爵家の応接間で、婚約者のロドリック様は私の顔を見ずに言った。
「エルマ。君との婚約は、白紙に戻したい」
手元の帳簿から顔を上げる。今月の食料品店への支払いを締めていたところだった。
「理由をうかがっても?」
「君は帳簿ばかりだ。セシリアは違う。僕の話を聞いて、笑って、一緒に悩んでくれる」
セシリア・ノイマン。男爵家の令嬢で、ロドリック様の幼馴染だ。ここ半年、屋敷に出入りする回数が急に増えていた。
向かいで扇を揺らしていた伯爵夫人も、当然のように頷く。
「あなたは数字には強いけれど、妻としての華がないのよ。でも安心なさい。家計のことは、これからもあなたが見てくれて構わないわ。嫁入り前の練習として三年も続けたのだから、今さら手放すのも惜しいでしょう」
惜しい。今、そう言った。
私は帳簿を閉じた。
「つまり、婚約は解消。ただし家計の管理は、これまで通り私が無償で続ける。そういうご提案ですか?」
「無償だなんて人聞きが悪い」とロドリック様が眉を寄せた。「君は数字が好きなんだろう。好きでやっていることに、金を払う必要があるか?」
三年前の顔合わせの日、彼は確かに言った。
――エルマは計算が得意だそうだね。うちの家計を見てくれないか。嫁入り前の練習だと思って。
練習。私はそれを、家に入る者の務めだと受け取って、引き受けた。
毎朝、伯爵家に通い、請求書を仕分け、支払い期日を管理し、領地からの収入を帳簿に落とす。ロドリック様が遊興費で穴を開けた月は、翌月の収入を前借りして帳尻を合わせた。足りない時は、子爵家の私の持参金積立から立て替えてきた。
その全部が、「好きでやっていること」だったらしい。
「承知しました」
私が言うと、ロドリック様は目に見えてほっとした顔をした。夫人も満足げに扇を閉じる。
違う、そうじゃない。
「婚約解消は承ります。そして今夜をもって、家計の管理もお返しします。ただし」
鞄から、薄い紙の束を取り出した。三日前から準備していたものだ。この婚約が長くないことは、数字を見ていれば分かっていた。
「精算をさせてください。婚約解消の際に、貸し借りは清算するものでしょう」
紙の束を、卓の上に置く。
一枚目の表題は、こうだ。
『立替金明細および事務業務報酬のご請求』
ロドリック様の笑顔が固まった。
私は子爵家の三女で、持参金の額は決して大きくない。けれど、その積立から伯爵家のために出した金は、三年間で銀貨にして一千二百枚を超えていた。
食料品店への不足分。馬車の修理代。ロドリック様がセシリアに贈った耳飾りの、支払いが間に合わなかった分。すべて日付と相手先、領収書の写しを添えてある。
「立て替えた金は、返していただきます」
「そんな、君が勝手に――」
「勝手に、ではありません」
もう一枚を差し出す。ロドリック様自身の筆跡で書かれた走り書きの手紙だ。
『今月も足りない。エルマ、頼む。必ず返すから』
日付は一年前。署名つき。同じ文面が、十一通ある。
「返す、と書いてあります」
ロドリック様の喉が小さく鳴った。
「それから、事務業務報酬です。三年間、週に六日、一日およそ四時間。商人ギルドの標準的な書記料で計算しました。こちらに根拠があります」
三枚目は、昨日、商人ギルドで書き写してもらった標準料金表の写しだ。
無報酬とする約束は、書面にも言葉にも残っていない。「練習だと思って」は、報酬を放棄するという意味ではない。ギルドの書記官も、そう言った。
「そんな金額、払えるわけがないだろう!」
「そうでしょうね」
私は静かに頷いた。
「ですから、家計の帳簿を今夜、全部お返しします。すべて整理済みです。次の支払い予定も、借入先ごとの期日も、巻末に一覧にしてあります。引き継ぎに不備はありません」
夫人が眉をひそめた。「なら、問題はないじゃないの」
「ええ。ただ、帳簿をご覧になれば、伯爵家の家計がどういう状態か、お分かりになるはずです。請求書の支払いは、今月末までにお願いします」
一礼して、部屋を出た。
背後で、ロドリック様が何か叫んでいたが、聞こえないふりをした。
◇
翌朝、私は商人ギルドの門をくぐった。
受付で名を告げると、奥から見知った青年が出てきた。栗色の髪をした書記官、テオ・ヴェンデルさんだ。昨日、料金表を写させてくれた人でもある。
「ハーゼ嬢。本当に請求書を出したんですね」
「出しました。出すと決めたので」
「あの家に三年ですか。……いえ、失礼。算定書を作りましょう。ギルドの正式な書式で出せば、あちらも無視できません」
テオさんは私の書類を一枚ずつ確かめ、ときどき小さく唸った。
「領収書の整理が完璧ですね。日付の抜けもない。ここまで揃っている請求は、ギルドでも滅多に見ません」
「帳簿は、後から人に見せるものですから」
「ですよね。見せる人がいる前提で書いてある」
彼は嬉しそうに言って、羽根ペンを走らせた。
算定書が仕上がったのは、昼過ぎだった。立替金が銀貨一千二百四十枚。事務報酬が金貨三十六枚。ギルドの印が押された、正式な書面だ。
「これを伯爵家に送ります。支払いがなければ、ギルドの調停にかけることになりますが」
「お願いします」
返事をしてから、ふと気づいた。
「テオさん。今日の算定の手間賃は、どうお支払いすれば」
「ああ、それは」
彼は少し照れたように笑った。
「ギルドの規定では、算定の手数料は請求額の百分の一です。つまり、あなたが回収できたら、そこから引かせていただきます。回収できなければ、取りません」
「成功報酬、ですか」
「ええ。働いた分は、ちゃんと払うのが筋でしょう?」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
私が三年間、一度も言ってもらえなかった言葉だった。
◇
十日ほど経った頃、ベルク伯爵家は大変なことになっていた。
らしい、という噂は、ギルドの廊下を歩いているだけで耳に入る。
帳簿を引き継いだ伯爵夫人は、最初の一週間で音を上げた。支払い期日の管理が分からない。どの請求書が、どの店のものなのかも分からない。巻末に一覧を付けてあるのだが、そもそも読んでいないらしい。
三日前に、肉屋と酒屋への支払いが滞り、取引停止になった。
先月まで、そんなことは一度もなかった。私が期日の前日に、必ず払っていたからだ。
さらに悪いことに、帳簿を開いたロドリック様が、気づいてしまった。
自分がセシリアに贈った装身具の総額に。
そして、私が穴埋めしてきた金額の大きさに。
ギルドの調停室に、ロドリック様が飛び込んできたのは、期限の前日だった。
隣にはセシリアの姿はなかった。
「エルマ! 話がある」
私は調停室の椅子に座ったまま、顔を上げた。テオさんが、そっと私の前に水の入った杯を置いてくれる。
「どのようなお話でしょう」
「請求を取り下げてくれ。あんな額、うちでは払えない。それに、君は僕の婚約者だったじゃないか。家族みたいなものだろう?」
「家族に、三年分の事務報酬を請求するのは、おかしいということですか?」
「そうだ!」
「でしたら、先日、家族ではなく他人だと仰ったのは、ロドリック様のほうです」
彼は言葉に詰まった。
「それに、立替金は返済のお約束がありました。ご自身の字で、十一通」
「……戻ってきてくれ」
絞り出すように、ロドリック様が言った。
「帳簿が、分からないんだ。母上も、僕も。君がいないと、何も回らない。頼む、戻ってきてほしい。君が必要なんだ」
必要。
その言葉を、三年前に聞きたかった。
「私が必要、というのは、帳簿を管理する者として、ということですよね」
「それは……そうだが、君にしかできないことで」
「でしたら、雇用契約をご提示ください。月に金貨一枚の報酬と、週の休日、期日までの支払いの確約。それをお出しいただけるのでしたら、お話は伺います」
「そんな……婚約者だったのに、他人行儀な」
「ええ、婚約者でしたので、無償で働きました。他人になりましたので、有償にします」
ロドリック様は、それ以上何も言えなかった。
代わりに口を開いたのは、調停官だった。
「ベルク伯爵家は、期日までに、立替金銀貨一千二百四十枚と事務報酬金貨三十六枚をお支払いください。支払えない場合は、領地収入の差し押さえに移ります」
ロドリック様の顔から、血の気が引いていった。
その後のことは、ギルドの記録に書いてある通りだ。
伯爵家は、手元の金を全部かき集め、先祖伝来の絵画と、ロドリック様がセシリアのために買い込んだ宝飾品を売り払って、ようやく支払いを済ませた。
セシリアは、宝飾品が買い戻されないと知った途端、ノイマン男爵家へ引き上げていったという。
幼馴染の絆は、思っていたより軽いものだったらしい。
◇
支払いが完了した日、私は手数料を引いた残りの金貨を受け取り、ギルドの窓口で数えた。
きっちり、揃っている。
三年間、帳簿をつけ続けた手が、いつもの癖で、金貨の枚数を二度数えていた。
「ハーゼ嬢。お疲れさまでした」
テオさんが、窓口の奥から出てきた。
「ひとつ、お願いがあります」
「お願い、ですか?」
「ギルドの会計監査官が、ひとり不足しているんです。求人票は何度も出したんですが、あなたほど領収書の整理が丁寧な人は、まず来ない」
彼は懐から、一枚の紙を取り出した。
雇用契約書。月給は金貨二枚。週に一日の休み。支払いは毎月末、必ず期日通り。
私は、思わず笑ってしまった。
「条件が、ずいぶん細かいですね」
「前の職場の話を聞いたあとですから。条件は、最初に書いておくのが筋でしょう」
契約書の末尾には、ギルド長の印と、テオさんの署名。
それから、小さな字で一行。
『なお、書記官テオ・ヴェンデルは、この契約と別に、ハーゼ嬢を昼食に誘うことを、あらかじめ申告しておく』
「……これは、契約条項ですか?」
「申告です。無断で誘って、また無償で働いてもらっては困りますから」
笑いながらも、彼の耳は赤かった。
私は羽根ペンを取り、署名欄に自分の名を書いた。
エルマ・ハーゼ。
三年間、一度も給金をもらえなかった帳簿係の手で。
「お受けします。昼食も、条件次第で」
「条件?」
「割り勘ではなく、お代はそちらで。私、今日から有給の身ですので、立替はしません」
テオさんは一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
ギルドの窓から差し込む光の中で、金貨が三枚、机の上で小さく鳴った。
それは、私が初めて受け取る、働いた分の音だった。
来月の月末には、きっと、給金が支払われる。
期日通りに。
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