第8話 予期せぬ足音
(エリアナ視点・町の広場)
広場を埋め尽くす人の波は、エリアナの知る「群衆」とは別物だった。
ループ前の彼らは、泥にまみれ、疲れ果て、ただ生きるために歩いていた。けれど目の前の彼らは、宰相の工作員による巧みな煽動を受け、狂信的なまでの熱を帯びている。
「お嬢様、これ以上は危険です! 宿舎を閉鎖し、王都への脱出路を確保します!」
ダニエルがエリアナの腕を引くが、彼女は動けなかった。群衆の先頭に立っている男たちの顔に、見覚えがあった。ループ前、エリアナの隣で煮込みをこぼし、「次に来る時はもっと美味いものを出す」と笑った老人の、息子たちだ。
彼らの目は、真っ直ぐで、純粋だった。
地方を愛し、誇りを守るために、命を捨てる覚悟ができている者の目だ。
「……あの人たちは、本気なのね」
エリアナは呟いた。
宰相オルフェン。彼は、エリアナが「未来を知っている」ことを前提にしたかのように、盤面を書き換えてきたのだ。
「エリアナ様、どうされますか」
ミレーヌの声が震えている。
「……このまま彼らが王都へ向かえば、お父様と、アレクシス殿下の軍が迎え撃つことになる。ループ前と同じ……いえ、殺気立っている分、もっと凄惨な殺し合いになるわ。……それは、絶対に避けなくてはならない」
ループ前、エリアナは流れに身を任せる「楔」だった。けれど今度は、彼女がこの濁流の前に立ち、その「流れ」を導かなければならない。
「ダニエル、ミレーヌ。……準備をして。脱出するためではなく、彼らと『対等』に向き合うための準備を」
◇◇◇
町を埋め尽くしていた群衆が、王都へ向けて一斉に動き出した。その先頭が町の外へと差し掛かったとき――
彼らは、その足を止めざるを得なかった。
街道の真ん中。土埃が舞う荒れた道の先に、たった一人で立つ影があった。
それは、泥に濡れた作業着姿の令嬢ではない。白磁のような絹のドレスを纏い、公爵家の格を示す豪奢な刺繍を施した外套を羽織った、凛然たる「正装」のエリアナだった。
陽光を浴びて輝く髪飾り。一点の曇りもない立ち姿。殺気立っていた男たちが、毒気を抜かれたように立ち尽くす。
「……あのお嬢様、堤防のところにいた……」
誰かが呟く。エリアナは、将来の王太子妃としての威厳を以て、静かに、けれど広場中に響き渡る声で告げた。
「地方の皆さま。……ここから先は、王族の領分です」
彼女はあえて、堤防を守った功績を口にはしなかった。それが既に「王都側の自作自演」という毒を混ぜられ、利用されていることを知っているからだ。
「皆さまが手にしているのは、農具であって武器ではありません。……これ以上進めば、皆さまは『民』ではなく『賊』として歴史に記されることになります。そうなれば、守りたかった家族も、土地も、すべてが失われる」
「じゃあ、このまま黙って死ねと言うのか!」
最前列の男が怒鳴る。エリアナは目を逸らさなかった。
「いいえ。私が、皆さまを率いて王都へ行きます。……反乱軍ではなく、この国の歪みを正すための『請願団』として」
ざわめきが広がる。
「信じられるか! 王都の貴族が我々を救うはずがない!」
「ならば、約束しましょう。……もし王太子殿下を動かすことができなければ、その時は私の首を、皆さまの手で落としなさい。その覚悟を以て、私は今、ここに立っています」
一歩も引かないエリアナの瞳に、群衆の熱気がわずかに揺らいだ。
「とりあえず、この娘の話を聞いてみよう」という、一抹の希望が生まれた瞬間だった。
◇◇◇
その光景を、離れた場所からダニエルとミレーヌが見守っていた。
「……行きますよ、ダニエル。アレクシス殿下と、閣下の元へ」
「ああ。網は張られた。あとは殿下をこの場へ引き摺り出すだけだ」
二人は影に紛れ、王都へと馬を飛ばす。
一方で、遠巻きに様子を伺っていた宰相の手下たちは、正装で反乱軍の先頭に立つエリアナを見て、「計画通り、令嬢が神輿に担がれた」と確信し、誤った報告を携えて王都へと向かっていった。
エリアナは、重いドレスの裾を踏みしめ、前を見据えた。
彼女は今、濁流の先頭に立つ。背負うのは、数千の命と、この国の未来。
歴史の歯車は、もはや誰にも止められない速度で回り始めた。




