第3話 静かなる軍備
父の執務室を辞したあと、エリアナは自室へと戻った。扉を閉めると、控えていたミレーヌが静かに歩み寄る。
「……お疲れ様でございました、エリアナ様」
その声はいつも通りの侍女のものだったが、エリアナは彼女の両手をそっと握った。
「ミレーヌ。あなたに、どうしてもお願いしたいことがあるの」
ループ前の世界で、ミレーヌはエリアナの言葉を父に届けるために走り、そして二度と戻らなかった。あのような孤独な死を、二度と繰り返させてはならない。
エリアナの瞳に宿る真剣な光に、ミレーヌの背筋がわずかに伸びる。
「何なりと。私は、エリアナ様の影でございますから」
「これより、王都に潜む『毒』を探し出します。地方の不満を煽り、暴動を仕組もうとしている者たちの尻尾を掴むの。……ミレーヌ、あなたにはその指揮を執ってほしいの」
「指揮、でございますか? 私のような侍女に……」
ミレーヌが戸惑いを見せたその時、部屋の隅の影が、ふわりと揺れた。音もなく現れたのは、質素な従僕の服を着た、体格のいい男だった。
「――お呼びにより、参上いたしました。公爵令嬢エリアナ様」
男は低く、抑えの効いた声で一礼した。
名をダニエル。公爵家が代々抱える諜報部門の中でも、実戦と隠密行動に長けた手練れである。父ルーカスが、娘の護衛と実働部隊として、すぐさま手配した男だった。
「ダニエル、お父様から話は聞いているわね」
「は。閣下より『本件の最優先権限はエリアナ様にあり、現場の判断はミレーヌ殿に従え』との厳命を預かっております」
ミレーヌは驚きに目を見開いた。一流の諜報員が、一介の侍女である自分に従うというのだ。
「ダニエル。あなたは男性にしか入れない場所や、荒事の対処を受け持って。ミレーヌは、王都の貴族街から市井まで、女性特有のネットワークを使って情報を集約してもらうわ。……ミレーヌ、あなたにしかできないことがあるの。信じてもいいかしら」
エリアナは、ミレーヌの目を真っ直ぐに見つめた。ループ前では、彼女に無理をさせた。情報を託して送り出すしかなかった。けれど今度は、一流の「手足」を与え、自分も共に戦う。
ミレーヌは深く、深呼吸をした。そして、侍女としての柔らかな笑みを消し、凛とした一人の「共闘者」の顔になった。
「畏まりました。このミレーヌ、持てるすべてを賭けて、王都の濁りを取り除いて見せましょう。ダニエル殿、よろしくお願いいたしますね」
「……御意。指示を」
ダニエルは短く応じ、ミレーヌの半歩後ろに控えた。彼の存在は、ループ前にはなかった強力な盾であり、武器だ。
「まずは、物流の拠点となる北の倉。そこに、出どころの知れない『知らない顔』が混じっていないか調べて。それから――」
エリアナは、記憶の糸を解き始めた。
ループ前の群衆の中にいた、あの不気味なほど整った身なりの男たち。彼らがどこの宿に泊まり、誰と接触していたのか。未来の知識を「予測」という形でダニエルたちに与え、先手を取る。
「数日以内に、街道で『事故』を装った倒木が起きます。それを起こそうとする者たちを、現場で押さえるのよ」
「……合点がいきました。網は、我らで張っておきましょう」
ダニエルが再び影に溶けるように消える。ミレーヌはエリアナのために新しい茶を淹れながら、静かに、けれど力強く言った。
「エリアナ様。もう、独りで窓の外を眺めていただく必要はございません。私たちが、皆様の足元を照らしてまいりますから」
ループ前の孤独な夜とは違う。エリアナの心には、確かな熱が宿っていた。
復讐でもなく、独りよがりの犠牲でもない。
見えない逆襲の陣容は、ここに、静かに整った。




