第2話 共闘の誓い
(エリアナ視点・公爵邸 執務室)
夜の執務室は、ループ前の記憶と同じように静まり返っていた。高い窓から見える月は冷たく、机の上の書類を青白く照らしている。
エリアナは扉を叩いた。控えめで、けれど迷いのない音。父・ルーカスが顔を上げるより早く、彼女は中へと足を踏み入れた。
「お父様」
ルーカスはペンを止め、眼鏡を外した。その視線には、夜遅くに訪ねてきた娘への、戸惑いと僅かな慈しみが混じっている。
「エリアナか。……お茶会の疲れが出たのではないか。顔色が少し硬い」
「いいえ。むしろ、目が覚めた心地ですわ」
エリアナは父の正面、かつて「線のこちら側」に留まるよう諭されたあの椅子に座った。ルーカスは何も言わず、娘の次の言葉を待つ。
「お父様、単刀直入に申し上げます。……宰相オルフェン卿が、地方の不満分子を扇動し、王都への『反乱』を仕立てようとしています」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。ルーカスの目が、鋭い刃のように細められる。それは父親の目ではなく、公爵家の当主、あるいは王国を支える一翼としての目だった。
「……何の話だ、それは」
「これから起こる『事実』です。山越えの街道では、間もなく工作員による倒木が始まり、物流が滞ります。さらには、豪雨に乗じて堤防が決壊させられるでしょう。それらは自然災害ではありません。すべて、地方の力を削ぎ、中央の権威を絶対のものとするための筋書きです」
ルーカスは立ち上がった。机に手をつき、エリアナを射抜くように見つめる。
「エリアナ。お前が何を言っているのか分かっているのか。それは、宰相を……現政権の筆頭を逆賊と呼ぶに等しい」
「分かっております。ですが、お父様。……私には、『見えて』しまうのです。このまま進めば、お父様が愛したこの国が、自らの手で自らの手足を切り落とす結末が」
エリアナは逃げなかった。
断頭台の冷たさを知っている。父の「愛している」という言葉を胸に、一度死んだ身だ。今さら何を恐れることがあろうか。
長い沈黙が流れた。ペンが紙を走る音も、侍女が茶を運ぶ気配もない。ただ、月明かりの下で父娘の視線が火花を散らす。
「……アレクシス殿下には、どこまで話した」
「物流の淀みと、その先にある危機感までを。殿下も、違和感には気づいておられました。今後は私が、殿下の『目』となり、情報を繋ぎます」
ルーカスはふっと息を吐き、再び椅子に腰を下ろした。その肩から、微かに力が抜ける。彼は悟ったのだ。目の前にいる娘は、もう自分が「守るべき無垢な小鳥」ではないことを。
「……お前がまだ幼かったころ、教会を訪問したことがあったな。おびえる子供たちと協力して、お前が野良犬を追い払ったことを思い出した。あのとき、私はお前に言ったな。線のこちら側にいろ、と」
「はい。覚えていますわ」
「だが、お前はすでにその線を、自分の足で越えてしまったのだな」
ルーカスは引き出しから一通の書類を取り出し、エリアナの前に置いた。そこには、まだ公式には上がっていない地方の不穏な動向が、断片的に記されていた。
「私も、何かが狂い始めているとは感じていた。だが、それを『線』として繋ぐための確証がなかった。……エリアナ、いや、わが公爵家の『共闘者』よ」
その響きに、エリアナの胸が熱くなった。
父は、彼女を「娘」として愛し続けながらも、同時に「対等な一人の人間」として認めてくれたのだ。
「お前の見えている『事実』と、私が持つ『権力』。これを合わせれば、宰相の蜘蛛の巣を破れるかもしれない。……怖くはないか?」
「独りではありませんもの」
エリアナは微笑んだ。ループ前の孤独を思い出し、けれど今の自分には、背中を預けられる父がいることを確信する。
「ミレーヌを動かします。彼女なら、私の目として王都の裏側まで歩けます。お父様は、中央派の動きを封じてください」
「うむ。……わかった。この国の影を払うのは、公爵家の、そして我ら親子の責務だ」
ルーカスは再び眼鏡をかけた。その横顔には、かつての冷徹な為政者の威厳に加え、どこか誇らしげな色が宿っていた。
窓の外、雨の予感はない。けれど、歴史という名の巨大な水流が、エリアナの言葉によって、確かにその進路を変えようとしていた。




