第10話 崩落と、戻らぬ線
(エリアナ視点・街道の復旧現場)
雨は、止んでいた。だが、地面はまだ乾いていない。黒く湿った土は、踏めば靴底にまとわりつき、足を上げるたびに重さを主張した。
それでも、人は動いていた。前日にようやく通れるようになった道を、荷車がゆっくりと進む。 動きが戻る。それだけで、町の空気はほんの少し緩んでいた。
――昨日まで、皆が息を詰めていたのだと、今になって分かる。
エリアナは、川沿いの仮設路の端に立ち、流れを見下ろしていた。水位は高いままだが、前日のような荒れはない。音も、落ち着いている。
「今日は、引き上げですね」
隣にいた侍女・ミレーヌが、静かに言った。
「ええ。道は通れています。 ……あとは、片付けだけです」
声に、わずかな安堵が混じった。今日で一度、区切りがつく。
◇◇◇
引き上げ作業は、淡々と進んだ。エリアナは、現場を歩いて回る。堤防の一角で、地面の色が変わっているのが目に入った。
「……少し、水が染みていますね」
近くにいた年配の職人が、眉をひそめる。
「昨日より、来てるな」
エリアナは、その染み出した水の中心を凝視した。石積みの継ぎ目に、不自然に深く抉れたような傷がある。まるで、内側から押し広げられたような……
「念のため、近づかないようにしてください」
注意する声がかけられた。エリアナは慌ててその場を離れ、引き揚げ作業が再開された。
◇◇◇
――音が、違った。
それに気づいたのは、川沿いで縄を解いていた作業者だった。
低く、短い音。木が軋む音とも、石が割れる音とも違う。足元の地面が、沈む。
次の瞬間、冷たい水が一気に流れ込んできた。視界が揺れ、足を取られる。何が起きたのか理解する前に、体が持っていかれた。
◇◇◇
「――下がって!」
エリアナの声が響いた。
だが、水は速かった。堤防の一部が裂け、鉄砲水となって現場を飲み込む。
作業用の木材が流され、人が転ぶ。足場が崩れ、悲鳴が上がる。
エリアナは、橋の方を見た。水流が、橋脚を直撃している。
「橋から離れて!」
叫んだ、その瞬間だった。鈍い音とともに、橋の一部が崩れ落ちた。人影が、消える。その中には、数日前にエリアナと笑いながら煮込みを食べた、あの老人の姿もあった。
◇◇◇
水が引いたあとに残ったのは、壊れた構造物と、時間が止まったかのような静寂だった。
呆然とするエリアナの視界の端に、崩落した堤防の陰から音もなく去っていく「知らない顔」の男たちが映った。
男たちはすぐに見えなくなり、後には冷たい現実だけが残された。
「……被害状況を、王都に報告します」
今、この場で言えることは、それしかなかった。
◇◇◇
空気が変わった。怒鳴り声はない。だが、沈黙が続かない。残された人々が、同じ方向を見るようになる。
「……また、起きるかもしれねえ」
「王都へ行けば……話は、通るんじゃないか?」
それは、疑問の形を纏った結論だった。
「待ってください」
エリアナは、一歩前に出た。
「今、動くのは危険です。 道は不安定ですし、全員が動けば、何が起こるかわかりません」
視線が集まる。聞いてはいる。
「……もう、戻らない人がいます。だからこそ、同じことを繰り返さないために、進み方を選ぶ必要があります」
静かな声は、心から人々を案じていた。それでも、足は止まらなかった。エリアナを見つめていた女性が、彼女の手を両手で包んだ。
「お嬢様も、一緒に行ってくれませんか?王都に伝えてください」
その手は温かかったが、彼女を逃げ場のない「楔」へと固定する、呪いのようでもあった。
◇◇◇
止める側でいられる時間は、もう終わった。このまま進めば、王都側と衝突する。王都側とぶつかれば、人々が一番傷つく。
エリアナは、急いで状況を書簡にまとめ、ミレーヌを呼んだ。
「この書簡を、必ず、お父さまに直接渡して。あなたからも、説明を。お父様なら、この人たちを止められるはず」
「わかりました。間違いなく、届けます。お嬢様も、お気をつけて」
ミレーヌは静かにうなずき、その場を離れた。
◇◇◇
エリアナは、ゆっくりと歩き出した。彼女が動くと、ばらばらだった数百の足音が次第にまとまっていき、最後には一つの生き物のように追随した。
反論はない。賛同もない。ただ、巨大な人の流れが、彼女をその中心へと吸い込み、前へ押し出していく。




