第3話「記憶を巡る影と令嬢の交渉」
朝の市場は、昨夜の小雨の名残で湿っていた。通路に撒かれた消毒液の香りが鼻をくすぐる。莉乃は巡回表を片手に、改めて屋台を点検して回っていた。
「おはようございます、莉乃様!」
声をかけてきたのは、花屋の少女シエル。小さな手で花を抱え、にこやかに微笑む。だが、彼女の目には昨夜の出来事に関する不安がちらついていた。
「どうしたの?」
「昨日、兄が屋台で働いていたはずなのに、私、全部忘れてしまって……」
莉乃は眉をひそめる。やはり、記憶欠落は夜市のあちこちで起きているらしい。昨夜の小さな子どもたちだけでなく、成人も巻き込まれていた。
「わかった。まずは情報を整理しよう。誰が、いつ、どこで記憶を失ったのか、マッピングするの」
莉乃はノートにマス目を作り、感染症の疫学データのように、記憶欠落の発生箇所と時間を記録する。
「これは……偶然じゃない」
明確なパターンが浮かび上がる。特定の商区で、決まった時間に発生している。つまり、何者かが意図的に関与している可能性が高い。
その午後、莉乃は二つの主要ギルドの代表と交渉に臨んだ。
目的は二つ。
記憶欠落の調査協力
夜市の新たな監視システムへの参加
「令嬢、何を提案するつもりです?」
「協力を求めるだけです。特別な指示や負担はなし。問題の発生を報告してもらうだけで構いません」
しかし、ギルド代表の一人、ダルクは腕を組み、難色を示す。
「令嬢、我々は商人であって、探偵ではない」
「でも、市場が崩壊すれば、あなた方の利益も消えるわ。放置は得策ではない」
莉乃は冷静に数字を示す。疫病による売上減、偽札による損失、記憶欠落による取引停止――全て計算し、現状を可視化する。
「見てください。このままでは夜市全体の利益が三割以上失われます。協力しない理由はありません」
ダルクはしばらく黙り込み、ため息をつく。
「……わかった。協力しよう」
こうして、二つのギルドは渋々ながらも情報提供に応じることとなった。小さな一歩だが、夜市を守るためには必要な布石だ。
莉乃は夜、市場の奥へ向かった。霧の立ち込める通路。灯りに照らされた影は、夜市の古い契約書類を守る守護者のように、静かに動いていた。
「……これが原因かもしれない」
彼女は古びた倉庫で、古い契約書を見つける。魔法の印が施され、人々の記憶に影響を与える仕組みが隠されていた。
筆跡や印の位置を解析すると、夜市の成立初期に結ばれた契約であることが判明する。すなわち、夜市が活気を失った時、契約の影響で記憶が欠落する仕組みだ。
「……これ、解除できるかもしれない」
莉乃は紙とインク、簡単な魔法式を使い、契約の解除手順を書き始める。
だが、それには屋台やギルドとの協力が不可欠だ。小さな調整を一つずつ積み重ねるしかない。
翌朝、市場の一角で、記憶欠落の現象が再発した。だが、莉乃が設置した観察点と報告制度により、原因箇所は特定され、即座に対処できた。
被害者も最小限に抑えられ、ギルドや住民から感謝の声が届く。
「……少しずつでも、改善している」
莉乃は心の中でつぶやき、次の課題に向かう。
監視の影、古い契約、そして夜市の未来――全てを取り戻すために、令嬢の戦いは続く。




