第1話「令嬢、夜市を見下ろす」
東京の夜。雨に濡れたアスファルトに、街灯の光がぼんやりと反射していた。綾瀬莉乃は残業の資料を整理しながら、疲れた目を擦る。都市計画課で働く彼女にとって、明日の会議は重要だ。だが、どうしても目の前のデータが頭に入らない。
「……またこの夢か」
莉乃は目を閉じる。いつもと同じ、夜の路地、手元の書類が突然光りだす夢。目覚めると、そこは――異世界だった。
視界に飛び込んできたのは、空に浮かぶ奇妙な市場。色とりどりの屋台が張り巡らされ、光と香りが混ざり合う。風には異界特有の甘い香料と金属の匂いが混じっていた。
「……ここは……?」
振り向くと、そこに立つのは少女の姿。淡い水色のドレスを着た、王族らしき女性だ。胸元には二つの勲章――どうやら身分は、第二令嬢らしい。
「莉乃、ようこそ境界夜市へ。あなたには、この町を任せたい」
莉乃は目を見開く。まさか、異世界転生――しかも令嬢として? そして、目の前に広がるのは、崩壊寸前の商人の町だ。
まず目に入ったのは、屋台のほとんどが閉店している現状。疫病の影響で客足は遠のき、偽札の横行で取引は停滞していた。さらに、一部のギルド同士の争いが街角で起き、警備の魔法も不十分だ。
「……これは……行政改革案件だな」
莉乃の都市計画の経験が、無意識に判断を下す。彼女はまず、市場の中心部の安全を確保することに決めた。簡単な看板と通路の整備、夜市の監視と記録、取引のルールを整理するだけでも、混乱は減らせる。
その夜、莉乃は市場の小屋に腰を下ろし、手元にあった紙片に計画を書き込む。
商区の再編:安全通路を確保し、混雑を分散
税制の見直し:偽札対策と取引記録の統一
治安プロトコル:警備魔法と巡回時間の最適化
「……まずはここからだ」
一方で、屋台の主人たちは警戒心を露わにしていた。彼女の言葉に半信半疑ながらも、少しずつ耳を傾ける者が増える。
その夜、市場の小さな改善から始まった改革は、静かに波紋を広げていった。
だが、莉乃が気づいたのは、屋台の奥に一部の人間が「記憶の欠落」を訴えていることだった。失踪者や、突如として過去を思い出せない商人。
夜市の混乱の背後には、まだ誰も知らない「古い契約」が存在している――。
「……これは、想像以上にやっかいかも」
莉乃は淡々と、しかし確実に頭の中で計画を練り直す。剣も魔法も持たない令嬢が、この町を救うためにできること。それは、仕組みを変えることだった。
雨の匂いと屋台の香りが混じる境界夜市で、莉乃の戦いは、静かに始まった。




