語らぬ灯
月影が障子越しに滲んでいる。
灯籠の火はゆるやかに揺れ、部屋の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
白木の床には座布団と、二人分の湯飲み。湯気はもう、立っていない。
「和泉……」
静かに名前を呼ぶと、布団の中で彼が微かに反応した。
息は細く、体は軽くなりすぎていて、触れたら壊れてしまいそうだった。
「……起きているのか?」
返事はない。けれど、眠っているようにも見えなかった。
清隆はその枕元に膝をつき、和泉の髪にそっと指を通す。昔と変わらない、やや癖のある柔らかさ。
幼い頃、同じように梳いた記憶が脳裏をかすめた。
部屋の片隅にある、小さな行灯に目を向けながら言った。毎夜欠かさず灯してきた灯火。
それは、和泉との約束のようなもので、今では彼の命の痕跡のように思えた。
和泉の唇が、かすかに動いた気がした。が、それは風が彼の体を撫でただけだったのかもしれない。
よくわからない。
「……寒くないか?」
布団をかけ直す。そして優しく和泉の額に手を当てた。
あとどれほどの時間が残されているのかを考えることが、清隆はとても恐ろしかった。
「……お前にまだ言ってないことがあるんだ……だから……」
口にすると、言葉はすぐに喉に絡みつき、苦しくなった。
好きだ。ずっと大好きだったよ、和泉ーーでも、言えなかった。
行灯の火がわずかに揺れる。その揺らぎが、和泉の呼吸に重なった。
「和泉……?」
呼びかけても、彼はもう返事をしなかった。
ただ、口元に、かすかな微笑が浮かんでいた。
清隆はその頬に手を当てた。暖かさは、まだほんの少しだけ残っていた。
「………和泉……逝くな……逝くな、和泉!!」
そう言ってから、彼は肩を震わせ、声もなく泣いた。
その夜、灯籠の火は消えなかった。
清隆は朝まで座ったまま、和泉の手を握り続けていた。
何も言わず、何も決めず、ただ時の流れに体を預けながら。
命の火が消えても、灯はまだそこにあった。だから、清隆はその灯を、これからも守るだろう。
一人で、ずっと。この先も、ずっと。
**
行灯の火は、今日も静かに揺れていた。
灰白の障子越しに射す陽も、もう随分と柔らかい。
時がどれほど経ったのか、清隆にはよくわからなかった。
和泉が息を引き取ったあの日から、季節は二度、巡った。
今も変わらず行灯の火を点し、庭を掃き、湯を沸かす。
けれどそのすべてが、まるで色を失った風景のように感じられた。
「……寒いな」
独りごとのようにそう呟いて、湯飲みに手を伸ばす。湯気の向こうに、ふと面影が揺れる。
傍に座っていたはずの男。何も言わずに茶を啜っていた、あの穏やかな気配。
清隆は今もその面影を探し続けている。
清隆は、納戸に仕舞われていた小箱を取り出すと、木蓋を外し、そっと中を覗いた。
白い布に包まれていたのは、桔梗の押し花。和泉がまだ元気だった頃、清隆にくれたものだった。
清隆には必要ないものだったが、それでもとても大切にしていた。
他でもない、和泉がくれたものだから。
手に取ると、指先が震えた。
これを渡してきた時の、和泉のぶっきらぼうな少し照れたような顔が浮かんだ。
床の間には、香を焚いた白木の仏壇。供えられた茶と、季節外れの桔梗の花。
清隆はゆっくりと膝をついた。
掌を合わせ、目を閉じる。
「……ごめんな」
それが誰に向けての言葉か、自分でもわからなかった。
運命に対してか、自分自身か、それとも和泉にか。
ただ、その言葉だけが、灯火の揺らぎに消えていった。
ーーその夜も、行灯の火は絶えることなく灯っていた。
薄暗い部屋の中、清隆は独り、じっとその灯を見つめていた。
何を想うでもなく、ただ燃える光の先に、失われた時間を重ねるようにして。
「……和泉」
その名を呼んでも、返る声はもうない。
けれど、彼がそばにいるような気がして、清隆は肩を小さく震わせた。
机の抽斗を開けると、墨壺と硯が出てきた。
和泉が学問所へ通っていた頃に使っていたものだ。和泉はとても真面目な子だった。
だが、一度だけ。和泉は半紙の隅に、筆でしたためたことがあった。
”清隆”
名前だけ。それ以外、何も書かれていない。
けれど、その一文字には、和泉のすべてが込められていた気がした。
清隆はその半紙をそっと取り出し、灯にかざした。
墨はすこし褪せ、紙も黄ばんでいた。
それでも、その名前が呼ばれたように思えて、清隆の胸はきゅうと軋んだ。
「……ずっと好きだったんだ………ずっと、ずっと……」
誰にも明かせなかった想い。
声にするには脆すぎて、抱くには重すぎた感情。
それをただ、名前一つで伝えようとしたあのときの和泉を、今なら、ほんの少し、理解できる気がした。
**
縁側に草履がひとつ、置かれていた。いつも和泉が履いていたものだ。
あのとき、和泉の手を取ればよかったーー。
だが、過去にはいくら手を伸ばしても、届かない。
和泉の優しく温かな眼差しだけが、今も鮮やかに瞼の裏に焼きついて離れない。
「……おまえに会いたいよ」
掠れた声が漏れたが、それも灯火に吸われて消えた。
**
杉木立に囲まれた谷間の武家屋敷には、ひとりの少年がいた。
名を、藤堂清隆という。無口で、感情表現が苦手な少年だった。
そんな清隆のもとへ、ある春の日、ひとりの少年がやって来た。
名は、如月和泉。気品を纏いながら、美しい容姿をした少年だった。
だが彼の眼差しは、どこか憂いを帯びていた。
同じ年頃なのに、随分と大人びて見えた。
清隆は、そんな和泉に一目で心を奪われた。
「お前、名前は?」
「……如月和泉」
それが、二人の最初の会話だった。
和泉は幼い頃から病弱で、口数の少ない子供だった。清隆もまた、言葉の扱いが得意ではなかった。
だが、不思議と一緒にいることは苦ではなかった。
並んで縁側に座っても、気まずさはない。
和泉は庭の桜の木を見ていて、清隆は、そんな和泉を見ていた。
ときおり、目が合うと、和泉は視線を逸らした。
ーー夏の夜、風鈴が鳴っていた。
火照った体を冷やすために、二人は縁側に腰掛けていた。
「おまえ、どうしていつも黙ってるの」
清隆が先に口を開いた。
和泉は少し考えてから、「何を話していいかわからないから……」そう答えた。
「そうか……」
清隆は何かを言いかけて、口を噤んだ。そのまま、二人で虫の声に耳を澄ませていた。
ーーそして、ある夜。
和泉が小さな紙片を、そっと清隆の枕元に置いていった。
“清隆”
ただそれだけが、墨で書かれていた。
その時、清隆はなぜ和泉がこんなことをするのかわからなかった。
それでも和泉が自分の名前を書いてくれたことが嬉しかった。
桔梗の押し花と一緒に大切にしまった。
ーー和泉と清隆は、十六を迎えた。
背は伸び、声は低くなり、肩幅も広くなった。
だが――ふたりの間に流れる空気は、あの日と変わらぬままだった。言葉少なに過ごす、静かな日々。
それでも、確かに何かが変わっていた。
たとえば、目が合ったときに逸らす速さ。
たとえば、指先が触れたときの沈黙の重さ。
たとえば、夜更けにふと名を呼びたくなる衝動。
「………今度……縁談があるんだって?」
和泉がぽつりと呟いた。
「……あぁ」
清隆は目を伏せた。
「もう会ったのか?」
「いや……でも、多分、断れないと思う」
和泉は庭の焚き火に枯葉を放り込んだ。
火がぱちりと弾けた。その音が、会話の終わりを告げた。
ーー次の年の春、清隆の婚約が正式に決まった。
相手は、隣町の武家の娘。
面識もなく、清隆には相手への感情もない。
ただ、家同士の都合で、そうなるべくして決まった話だった。よくあることだ。
清隆には和泉だけが全てだった。
ーー夜、和泉と清隆は、縁側に並んで座っていた。
蛙の声が遠くで響いていた。
「なぁ、和泉……」
「ん?」
「……このまま、ずっとこうしていられたらって、思ったことあるか?」
和泉は答えなかった。ただ、月を見ていた。
今まで見たことがないほどに、憂いを帯びた横顔だった。
その静けさが、何よりの返答だった。
「……これ、返す」
和泉が、かつて清隆の枕元に置いた紙を差し出した。
“清隆”とだけ書かれた紙。大切にしまっておいた紙切れだ。
「なんで、いま……」
「……婚儀の支度もあるし…これからしばらくの間、戻れないと思う」
沈黙。
和泉は、清隆が部屋に戻った後も、”清隆”と書いた紙切れを胸に抱いたまま、朝まで縁側に座り続けていた。
**
「言えなかったんじゃない、言わなかったんだ」
だからこそ、今もこの胸に、あの日の灯が、燃えている。
部屋の中には、風が通っていた。
格子窓の隙間から差し込む月光が、畳に淡い模様を描いている。
清隆は、ひとり膝を折っていた。灯籠の芯に火を移す手は、慣れたものだった。
それはもう、毎夜の習わしになって久しい。
小さな炎が、ちろちろと揺れていた。その光に照らされた机の上。
そこに並ぶのは――和泉が遺していった数々のもの。
古びた風呂敷に包まれた木彫りの狐。幼いころ、神社の裏山で拾った朽ちた小石。
そして、桔梗の押し花と、あの夜、和泉に返した紙切れ。
和泉がいなくなっても、世間は何事もなかったように時を進めた。
清隆もまた、形ばかりの婚姻を済ませ、何事もなかったかのように過ごした。
けれど――
夜になると、心が締め付けられるようだった。
和泉と語らった縁側。触れられなかった指先。一緒に見上げた空、隣にいた彼の気配。
それらが、毎夜、灯の明かりに浮かび上がってきた。
「なあ、和泉……」
誰に聞かせるでもない声が、ぽつりと漏れる。
「ほんとは、あの夜……おまえに好きだと言いたかった。ずっと共にいてくれと……言いたかった」
行灯が静かに揺れた。
思い出すのは、最期の報せが届いた日のこと。和泉の遺した手紙に、墨のにじんだ一行があった。
「先に逝って待ってる。ずっと、清隆を待ってる。だから、いつかまた会おう」
それが、彼の最後の言葉だった。
清隆は、その手紙を燃やさず、しまわず、ただ毎夜灯の傍に置いている。
何度見返しても、涙が溢れる。
泣くことなんてないはずだ。また会える。また会えるんだから。
「なあ、どっちが辛かったと思う?残されたおれと、先に逝くおまえと……」
行灯の炎が、かすかに揺らぐ。
その明かりの中で、和泉の声が聞こえたような気がした。
”おれの魂は、ずっと清隆と共にある”
清隆は、微かに笑った。
「………おれも早く連れて行ってくれよ………お前のところに……」
そう言って、そっと灯の芯を新しく足した。
炎はまた、強くなった。
そして、彼は何も言わず、灯の前に座り続けた。
そうして、今日もまた、ひとつの灯が夜を照らしている。
誰にも知られず、誰のためともなく。
けれど――それは確かに、あの夜、言えなかった想いのかわりに、静かに燃え続けていた。
いつかまた逢える日まで。
いつまでも心に愛しさを抱えたまま、きっと今日も生きていく。