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へんな怪談集

砂場の蟻

作者: 夏野 篠虫

 5月だというのに部屋の湿度は高く、寝苦しさに唸りながら目が覚めた。

 部屋の中は静かで、外の車の音すら聞こえない。寝汗がにじんでいた。肌が妙にざらついている。足の裏をさすると、親指にざらりとした粒がついた。

……砂?

 まさか、と思って床に足を下ろすと、ジャリ……と音がした。ほんのりと月が照らす暗がりで、裸足に伝わる感触は、確かに細かく乾いた砂粒だった。

 そのとき、スマホが鳴った。

 ベッド脇の充電コードにつないだままの画面に、着信の表示が出ている。

『蟆乗棊豬ゥ螟ェ』

 文字化けしている。けれど拒否しようという気になれなかった。

 重い頭をもたげたまま、無意識のようにスライドして通話を取る。


「……暗い」


 低い男の声だった。妙にくぐもっていて、部屋の空気と混ざるように耳に響く。

「……風が強くて……帽子を取ったら、すぐ戻るつもりだったんだけど」

 聞き覚えのない声。だがその言葉の断片に、どこかで聞いたような既視感がじわじわと這い上がってくる。

「名前、呼ばれたの、覚えてる。……何回も振り向いたけど、塞がれて、声が出せなくて」

……公園。

 記憶の底の方から浮かんできた。

 幼いころ、誰かと通っていた近所の公園。よく砂場で遊んでいた。親は少し離れたところで談笑してて、僕たちは裸足で山を作って、蟻の行列を辿って巣を崩して、ケラケラ笑った――けど、それ以上は思い出せない。

「後ろから誰かに、肩、掴まれた。熱くて、すっごく力が強くて」

 相手は、ぽつりぽつりと、途切れながら話し続けた。

「でも帽子は拾えなくて。靴も片っぽ落としちゃって……車に乗せられた」

 声の調子が一定で、抑揚がない。思い出したくない記憶を再生しているような、心が追いついていない語り方。

「長かったよ……暗いところで、ずっと……何年も」

 私はただ黙って聞いていた。身体がだんだん冷えてくる。

 なにかがおかしい。気づけば、足元にあったはずのスリッパが見当たらない。

 代わりに、床にこぼれたように、砂が広がっていた。

 鼻の奥に湿った土と金属の匂い、咳き込むほどに埃っぽく、時が止まったような古びた地下の澱んだ空気が部屋に充満する。

 そして、シャッ、シャッ……と砂を踏みしめる音が聞こえてくる。


 スマホ越しに聞こえるノイズに混じって、小さな風の音、かすかな口笛。

 不安定な旋律。覚えている。小さな頃、誰かがそれをよく自慢げに吹いていた。

 耳の奥がずきんと痛む。なにかが、崩れそうだ。

「……帰れなかった。おうちに帰りたかった」

 通話の向こうで、相手がぽつりとこぼす。

「ずっと待ってた。何年も、助け、呼んで、でも……」


――記憶がつながる。

 初夏の公園。大きな樹の下にある砂場。

 急に早い風が吹いて帽子が飛んで、「ぼくが行くよ」と彼は垣根の向こうまで取りに行った。

「わかった」と自分は砂場の側で、誰かが落とした飴玉に群がる蟻を見ていた。小さな蟻たちが顎で飴を削ってせっせと運んでいく様子を熱心に眺めていた。時間はあっという間に過ぎた。気づいたときには日が傾いていた。母親たちがやってきた。そのときようやく彼が戻ってないことに気づいた。


 それっきりだ。彼の母親はパニックで、公園の隅で僕の帽子と彼の靴が片方だけ見つかった。パトカーが街中にサイレンを鳴らした。僕は家に帰って……その日から彼の話をすると大人たちは口をつぐんで、誰も名前を言わなくなった。


 もう20年が過ぎていた。

 なぜ今、連絡が来たのか。それはわからない。

 ただ、彼の声は、もう多くを伝える力を失っているようだった。


「なあ……名前、覚えてるか?」


 その問いに、胸の奥が熱くなる。

――名前。そう、コウタ。

 一瞬、景色が反転するような感覚。鮮やかに浮かぶ、えくぼのついた笑顔、砂まみれの手、夕陽に照らされた白いTシャツ……急発進する車のエンジン音。


「……コウタ、だよな……」

「ありがとう」

 感謝を告げる相手の声は穏やかだった。今までで一番、近くに感じた。

「じゃあな。もう、行くよ」

「待って、まだ……」

 言い終わる前に、通話は切れた。

 画面には【通話時間:00:05:41】

 相手の名前は『小林浩太(こうた)』と表示されていた。



 静けさの中、背中にじんわりと汗が滲む。

 ふと気づくと、部屋のフローリングの上に、うっすらと裸足の小さな足跡がついていた。水滴がついている。スマホの裏面には、泥のようなぬめりと、乾いた砂粒がこびりついていた。

 その足跡を追うようにベッドの脇から赤い小さな蟻が一列になって這っていた。


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