第1話『コーヒーと、別れ話と、春の雨』
雨の日だった。たしか、彼女はミルクを多めに頼んでいた。
窓の向こうで、しとしとと雨粒がガラスをつたっていく。
ビニール傘の骨が折れたままの男が通り過ぎ、そのあとを小さな猫が横切った。
彼女はそれをぼんやりと眺めながら、スプーンでカップの中をくるくると回していた。
「……ねえ」
沈黙を破るように、彼女が小さく口を開く。
「別れよう、って言ってほしいの。たぶん、あなたのほうから」
俺は何も言えなかった。
この日が来ることは、なんとなくずっと前からわかっていたのに。
いざその言葉を目の前で聞くと、喉に何かが詰まったみたいで、うまく声が出なかった。
「あなたから言ってくれたら、少しは楽になれる気がした。
でも、たぶん、それを期待すること自体が、もう無理なんだと思う」
彼女の声は、雨音と同じくらい静かだった。
でも、不思議とよく聞こえた。
たぶん、優しさだったんだと思う。
この喫茶店も、今日の時間も、俺たちの関係も。
全部、どこか優しくて、どこか中途半端だった。
「……ごめん。うまく言えない」
それだけが、やっとの思いで出た言葉だった。
でも彼女は、ほんの少し笑った。
「うん。そういうところも、ちゃんと知ってるよ」
その笑顔が妙に大人びていて、ほんの少しだけ、寂しかった。
彼女はカバンから何かを取り出す。
くしゃっとなったコピー用紙の束――
俺が昔、書いていた小説だった。
「引っ越しの準備してたら出てきたの。……今でも、たまに読むんだよ」
懐かしさと気恥ずかしさが入り混じって、心臓がきゅっと鳴った。
「あの頃のあなた、好きだったな。
不器用だけど、ちゃんと何かを生み出そうとしてた」
紙の束をそっとテーブルに置いて、彼女は続ける。
「今のあなたも、嫌いじゃないよ。でも――やっぱりちょっと、寂しい」
「……ごめん」
「ううん、もう謝らなくていいよ」
窓の外では、雨が少しだけ強くなっていた。
人々が足早に行き交うなか、俺たちの時間だけが、どこか止まっているようだった。
彼女はカップを飲み干して、静かに立ち上がる。
「じゃあ、行くね」
「……うん」
傘をささず、彼女は店を出ていった。
濡れていく背中が、ゆっくりと小さくなっていく。
それを見つめながら、ふと思った。
“ちゃんと終わらせる”って、難しい。
まるで、いつまでも最終ページをめくられないままの小説みたいだ。
きっと俺たちは、“終わり方”を知らなかったんだと思う。
だから今、こうして俺は書いている。
いつかの彼女に、ちゃんと「終わったよ」って伝えるために。
そして、いつかちゃんと、笑って思い出せるように。
君の笑顔が、春の雨みたいに、静かに僕を洗っていった。