第0話『生産性のない日々に』
湯を入れたカップ麺の待ち時間を忘れていて、麺はすっかり伸びていた。
その事実すらどうでもよくて、俺はズルズルと麺をすすった。
「……うまくもないし、まずくもない。てか、今何時だ?」
スマホを確認すると、午前10時を回っていた。
夜勤明け。誰とも話さず、何かをした感覚もないまま、一日が終わって、また始まる。
このループを“生きてる”って言っていいなら――まぁ、俺は生きてるんだろう。
ソファに沈み込み、天井を見上げた。
埃のひとつも舞ってくれれば、まだ何かが動いてる気がしたのに。
「……はぁ。今日も生き延びてしまった」
そんな独り言をつぶやいた、そのときだった。
「――不満そうだな」
誰かの声が、部屋の空気を割った。
……声?
思わず振り返ると、知らない少年が立っていた。
黒いパーカー、無表情。
目だけがやたらと深い青色をしている。
「……誰?」
「死神だ」
「……へぇ。そんで、何の用?」
「……いや。今日は君の命を回収に来た」
「…………」
一拍置いて、俺はポテチをひとつ、つまんだ。
「……今日?」
「今日」
「そうか」
「それだけ?」
「うん。……まぁ、いっか」
死神はまばたきひとつせず、こちらを見ていた。
あきらかに――困惑している。
「いや普通、もっと取り乱すだろ。泣くとか叫ぶとか、人生にしがみつくとか」
「うーん……特にやりたいこともないし、生きてても退屈やし。なあなあで生きてるだけだし。……まぁ、いっかなって」
「なんかムカつくな」
「なんでやねん」
死神は立ち上がり、俺の目の前にぬっと立った。
その小さな体からは想像できないほど、冷たい気配があった。
「お前、本当は、“何かを生み出す人生”を望んでたんじゃないのか?」
「は?」
「お前の“まぁ、いっか”はどこか引っかかる。きっと未練がある証拠だ。
俺の死神フィーリングが、そう囁いている」
図星だった。
“死神フィーリング”が何なのかはよくわからなかったが――
胸の奥で、何かがちり、と音を立てた。
「……小説。書いてたことある、昔。けど、才能ないって分かって、やめた」
「才能? くだらない。“書くこと”に必要なのは、命を燃やすことだけだ」
「お前、詩人かよ……」
死神はポケットから、小さな黒い手帳を取り出した。
「契約だ。これから毎日、小説を書け。百日間。
破れば、その瞬間、お前の命は俺がもらう」
「いや急やな!? そのテンションでブラックな契約持ってくんなよ」
「一日一作。字数は自由。ただし、“熱”がこもってなければ無効だ。俺が読む」
「……お前、読むの? 俺の小説」
「読む。死神の嗜みだ」
「変な死神……」
ぶつぶつ言いながら、俺はパソコンを立ち上げた。
白い画面が点灯し、ぽつぽつと明かりが灯る。
“書くために”この画面と向き合うのは、何年ぶりだろう。
ポインタが、静かに点滅している。
「さあ、何でもいい。まずは“お前自身の物語”から始めろ」
不意に落ち着いた声でそう言われて、俺は黙った。
どこか、遠くの誰かに言われた気がした。
「……俺自身の、か」
ふと、記憶の奥から、ひとつの雨の日が浮かんだ。
別れ話をした、あの午後。
最後に「小説、好きだったよ」って笑ってくれた彼女の顔。
心臓がトクンと跳ねた。
俺はキーボードに指を置いた。
深呼吸ひとつ。
そして、書き始める。
『コーヒーと、別れ話と、春の雨』
雨の日だった。たしか、彼女はミルクを多めに頼んでいた。
カタカタと響く打鍵音に、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
「ふむ。悪くない出だしだ」
「まだ1行しか書いてねぇわ」
「1行目にすべてが詰まるんだよ、物語ってのは」
「やかましいわ」
「……にしても、ここの表現、ふふ、意外と乙女だな、お前」
「うるせぇな、黙って読んでろ」
俺は画面に向かって、言葉を打ち続けた。
止まっていた時間が、少しずつ、動き出していく。
これは誰にも届かないかもしれない。誰にも読まれないかもしれない。
でも――今、俺は確かに、生きている。