終幕
「灰利ー、次の講義一緒でしょー。それまで食堂で一緒にお昼食べよ」
昼の12時、2限目の刑事訴訟法の講義が終わり、教室からぞろぞろと大学生が出ていく中、隣に座る友人がお昼ご飯に誘ってきたが、私はフルフルと首を横に振った。
「昔の友達から、連絡あった。その子とお昼、食べる。今日は難しい。ごめん」
「あいよ、また今度誘うねぇ。それじゃ」
友人は私のぎこちない喋りにも慣れた様子で軽く流し、教室を出ていった。私は手を振って友人を見送り、席を立ち上がる。
楠木家の誘拐事件から7年が経った今、ゆうちゃんから久しぶりに会って話でもしないかと連絡があった。事件以来一度も会っていないので7年ぶりの再会となる。呼吸が乱れていくのが分かり、私はまた素数を数えて平静を保とうと努めた。彼女は今恐らく高校生になっているだろう。一体どんな姿に成長しているのだろう。また今のこんな私を見てどんな反応をするだろう。
不安半分期待半分。彼女はすでに私の通っている大学の食堂で待っているようだった。私ははやる気持ち抑えて食堂に向かって歩いていくが、気がつかないうちに駆け足になっていた。
食堂内は多くの学生で賑わっていたが、一般開放もしているので地元の方も多くここを利用している。人で溢れ返る食堂の中で、異彩を放った少女が1人、窓際の席に座りながらコーヒーを飲んでいた。窓際の席に座っているというゆうちゃんからの連絡から、恐らく彼女がゆうちゃんだろうと推測する。当時、普通の人間とは明らかに違う異質な雰囲気を漂わせていたことを、7年経った今でも覚えている。
「ゆ、ゆうちゃん?久しぶり」
幽霊のように血の気のない白い肌。
夕焼けを彷彿とさせる鮮やかな紅い瞳。
妖艶さを放つ美しい容姿。
当時より変わった部分が多く見受けられるが、ゆうちゃんこと夕闇鴉がそこに鎮座していた。
マグカップを傾けコーヒーを味わう仕草1つ取っても蠱惑的な妖しさが香り、私は久しぶりの友人との再会とは少し違う緊張感に息を飲んだ。
「みーちゃん、久しぶり」
ゆうちゃんはカップをテーブルに置き、にっこりと笑う。
「き、急に連絡きて、びっくり、した。どう、したの?」
「ううん、特別用事があったわけじゃないんだけどね、なんだか急にみーちゃんの声が聞きたくなったのよ。それとあの事件からどうしてるのかなって気になったりして。迷惑だった?」
「う、ううん。全然。あり、がとう。私引っ込み思案だから、自分から連絡入れるってこと、できなくて」
ゆうちゃんは私のたどたどしい語り口を特に気にせず、落ち着いた様子で耳を傾けてくれた。異様な雰囲気は相変わらずだけど、当時から変わらぬ優しさを持ち続けているのが分かり安心した。事件以来、別人のように変わってしまった私と違って、彼女はちゃんと夕闇鴉を生きている。
「みーちゃんはあの事件から日常に戻って、楽しく暮らしているのかしら?雰囲気はだいぶ変わっているように感じるのだけれど」
ゆうちゃんは心配そうに私の瞳を覗き込む。心の奥を見透かされているような気がして、私は目を伏せた。
私は、あの事件以来様変わりしてしまった。
楠木家で生き残る生存戦略として、私は楠木雀になりきるためのマニュアルを作り、それを守ることを徹底してきた。マニュアルを守ることが生死に直結する極限状態。事件が明けてもその毒が抜けきることはなく、私は日常のあらゆる場面でマニュアルという存在を求め、決められた手順やルールを遵守することに異常なまでに固執し続けた。マニュアルに当てはまらないイレギュラーな事態が起きたとき、私の脳はオーバーヒートし思考がすぐに乱れてしまう。だから、規則的な物を脳内に並べて落ち着かせるために素数を数えるように習慣づけた。
事件から戻った私を優しく迎え入れてくれた家族は、心のネジを失くしてしまった私を気味悪がり、遠ざけた。居場所であったはずの家族が、私の居場所でなくなってしまった。
美水灰利はここにいるよ。
そんな魂の慟哭に耳を傾けるものなど周囲からいなくなった。
私は美水灰利なのか、それとも未だに楠木雀なのか。
自身に対する問いかけに、自信をもって答えることができない。
事件から今に至るまで。そしてこれから一生。私の心から楠木雀が消え去ることはない。
せっかく7年ぶりに再会したというのに、いきなりこんな鬱な話を聞かされて気分を害しただろうなと気まずさを感じながら彼女の顔色を伺うと、彼女は痛ましさに顔を歪めながら胸に手を当てていた。
「ごめんなさい、もっと早く気づいてあげられなくて」
「ううん、大丈夫。話を聞いてくれただけでも、嬉しい。大学だと、友達できた。…………少ないけど」
「それは、あなたの心の居場所になりえるのかしら」
それは…………と言葉に詰まる。
友人と言えば聞こえはいいが、それは薄い繋がりでしかなく、吹けば飛ぶような儚い関係。
「みーちゃんは今、幸せ?」
幸せ…………私にとっての幸せってなんだろう。大学に通って勉強し、サークルに顔を出し、バイトでお仕事をして、家に帰る。この繰り返し。至って普通の大学生。それなのに、この繰り返しの日常の中で美水灰利が居場所と思える所が1つも見当たらなかった。私の心は、あの事件ですでに死んでしまった。壊れた心の残骸を無理やり繋ぎ合わせてなんとか美水灰利を形作っているだけで、中身はただの伽藍洞。
「幸せ…………じゃない、かも」
空虚な私の頬をゆうちゃんは優しく撫でる。
私の顎を軽くつまみ、自身の顔へと近づける。
そして、美しい旋律を奏でる様に言葉を紡いだ。
「生き残ったはいいものの、あなたの心は空っぽになってしまったのね。無理もないわ。あんな地獄を経験したんですもの。でもね、身体は生きていても、心の置き場がない、居場所のない人間は死んでいるのと同じなのよ。……残念だけど、この世界にあなたの居場所はどこにもないのだわ」
冷たく突き放したかのようなゆうちゃんの物言いに、目の前の世界が真っ暗になってしまったかのような錯覚に襲われる。どこを見渡しても暗闇が広がり、そこには私1人しかいない。泣いても喚いても誰にも届かない。でもそれは、誰からも危害を加えられることもなく、自分を迫害する人間もいないということ。自分の世界にずっと没頭できる孤独で安全な閉鎖的世界。そんな暗黒の中に佇む私の手をゆうちゃんが掴んでくれた。
「あなたという存在を侵害して犯すようなこんな世界なんて捨てて、今よりももっと幸福な世界にあなたを連れて行ってあげる」
私は彼女の手を取った。
彼女の手は体温が感じられないほどに冷たかった。
それなのに、温かさを感じた。
欠けてしまった心。
消せない罪の意識。
私を迫害する人間達。
何もかも放り投げて。
連れて行ってほしい。
こんな世界から逃げ出したい。
「美水灰利。あなたの思い描く幸福な世界を教えてほしいの」
――私の幸福は、物語の世界に没頭すること。
――図書館でずっと、本を読んでいたい。
――誰にも邪魔されない静謐な空間で、永遠に。
――人の作った身勝手なルールも醜い欲望も届かない幻想の世界に意識を埋没させていたい。
「分かったわ。あなただけの閉じられた幸福の世界。肉体の縛りのない幽世の裏世界へ、行きましょう」




