ひよ子の裏切り
その日の夕方、父母が車で帰ってくるのを2階の自室から目にした。車から出てきたのは、大量に買い込んだ食材や日用品の買い物袋を持つ父母、そして恐怖に慄く絵長さんがいた。なぜ絵長さんが……。私達と家で留守番をしていたはずではと思いながら目を凝らして見ると、絵長さんの手には1枚の手紙を持っていた。
手紙を見てすぐに絵長さんが何をしようとしたのか察した。彼女の汗だらけの身体。手紙を投函する最寄りのポストまで何キロあるのか知らないが、助けを呼ぶその手がポストまで届くことはなく、帰宅途中の父母に見つかり、強制送還されてきたのだと悟った。
夕食時、食事をしているのは父母の2人のみ。絵長さん、私、ひよ子の3人は床で正座をさせられている。なぜ私とひよ子まで巻き添えを喰らうのかと怒りが滲んだものの表情には出さなかった。いかなる理由があろうと父母への反抗は楠木家のルール違反。ルール違反者には罰が下る。心に蓋をして自分を抑え込む。
「おばあちゃんは私達家族を裏切りました」
大きく見開かれた両目、額に走る青筋。鬼の形相で、口調は冷淡に、量刑を言い渡す裁判官のように絵長さんのしでかした行為を述べていく。
「おばあちゃんは私達の許可なく勝手に手紙を書いてポストに投函し、外部の者と接触を図ろうとしました。ひいては、私達家族の大切な絆を脅かそうとしました。どんな罪の言葉を書いたのか自分自身で読み上げてください」
今にも襲いかからんばかりの勢いで捲し立てる母に気圧されながら、絵長さんは正座をしながら手紙を開いて読み上げていく。
「け、警察の方へ。た、助けてください。私は今、2人の男女に襲われて家に監禁されております。襲ってきた男女2人は私の家に潜り込んで勝手に住みつき始めました。彼らはどこからか子供たちを誘拐してきて私と同じように家に監禁しています。虐待もしております。電話回線は切られてしまい、スマートフォンも没収されてしまいました。パソコンもございません。外の人との連絡手段が他になく、こうして手紙で100番しました。助けてください。お願いします」
手紙を読み進めていくたびに母の眉間に寄る皺が増えていく。絵長さんは悲鳴を漏らし、ごめんなさいと何度も謝った。母が激高して机を激しく叩いたことで、お皿に盛られたパンが1つ床に落ちてしまった。それは隣に正座で座る、お腹を空かせたひよ子の目の前へと。案の定、転がってきたパンを摘まみ上げたひよ子は、私が制止を呼びかける前に口に運んでしまった。
床に一度落ちてしまった汚いパン。そんな汚いパンを口に頬張って喜ぶひよ子を母がほっとくわけもなく。空腹をほんの僅かばかり満たしたひよ子の笑顔が思い切り吹き飛んで床を転げていき、私も絵長さんも、当人のひよ子も何が起きたの分からなかった。
遅れて理解が追いつく。はしたない、品性のかけらもないひよ子の横っ面を母が蹴り飛ばしたのだ。絵長さんへの裏切り行為に対する怒りも重積されていることは明白で、ひよ子は痛みに泣き喚く以前に、顔に手を当て、自分に何が起きたのか未だ理解できずに茫然自失としていた。
「おばあちゃんの裏切り行為について家族会議をしているという中、あなたは何をしているのひよ子!楠木家の娘はそんな意地汚い事は決してしない!毎日毎日、罰を与えているのに反省もない!成長もない!あなたに楠木家の娘という自覚はあるの?楠木ひよ子という人間はお淑やかで利発的な子なの!!あなたにはそのどれもが欠けていると言わざるを得ないわ!!」
聞くに堪えない。母の口から次々と吐き出されるヘドロが耳に不快でたまらない。呑気に食事をしながらこちらを見下ろす父の視線も不快でたまらない。耳を塞ぎたい目も閉じたい。蓋をしたはずの心にヘドロが流れ込んで息が苦しくなってくる。
「ひよ子に対するお叱りは一旦これくらいにして、おばあちゃん。まず自覚してほしいことは、私達は大事な家族だということ。そして家族を維持するのには、この家と家主であるあなたが必要だということ。理解していただけますか?」
絵長さんはコクコクと急き立てられるように何度も頷く。
「よって、身代わりとして罰を受けるのは、雀かひよ子のどちらか。どちらにするかをおばあちゃんに選んでもらいます」
母が下した量刑に絶句する。絶句したのは私だけではなく、絵長さんとひよ子も同じだった。
「そ、そんなのあんまりだ。この子達は関係ない。私1人が罰を受ければいいじゃろうて」
「この子達に罰を与えることがあなたへの罰になります。あなたが過ちを犯すたびにこの子達が罪を贖わなければなりません。さて、2人のどちらにするか、決めてください」
理不尽極まりない罰に絵長さんは硬直し、やがてバツが悪そうに私とひよ子へ視線を移す。私とひよ子のどちらにすべきか苦しそうな申し訳なさそうな顔で比較する。ひよ子は蹴られた顔を痛そうに手で抑えて涙を浮かべる。私はなすすべもなく俯く。おばあちゃんは悩まし気に私とひよ子を何度も見比べて。
ごめんよ、絵長さんは悲痛な面持ちで私に向けて小さく囁いた。私の胸中に広がったのは、怒りよりというよりも、半ば予想していた結果に対する失望と諦観だった。だが、絵長さんが発言する前に、自身に矛先が向くことを恐れたひよ子が錯乱じみたように喚いた。
「お姉ちゃん!お母さんの部屋に勝手に入ってた!買い物で留守番してる時、1人で勝手に入ってるの、私見た!お姉ちゃんの方が私より悪い子だよ!」
お姉ちゃんのほうが悪い子、私を指差して必死に何度もそう叫ぶ。豹変したひよ子の言動に私は冷汗が吹き出る。それは違う。あの部屋を開けたのは黒ワンピースの女の子で私はついていっただけ。そんな言い訳が通用しないことを分かっている私は言葉を失う。同時にそのとき、胸の奥底に真っ黒な芽が発芽した。
「…………そ、そうなのかい。じ、じゃあ、お姉ちゃんのほうに――――」
絵長さんはひよ子に便乗して、私を選択しようと言葉の切っ先を向け始めたが、それは母の言葉によって遮られる。
「ひよ子、私の部屋は施錠されているはずだけど、雀はどうやって私の部屋を開けて中に入り、部屋を出た後に鍵を締め直したというの?部屋の鍵は出かける時に持ち出しているから家にはないんだけど。説明してくれるかしら」
あ、う……、え?と、ひよ子はワケが分からないといった様子だった。
青ざめていくひよ子の顔を見ても、今の私には何の感情も湧き起こらない。いや、それは少し違うかもしれない。失望の奥底からほのかに湧き出る高揚感に似た感情の高ぶり。それが私自身の口の端を僅かに歪ませていた。心の奥底に芽生えた黒い新芽は根を広げ、私の喉元を通って真っ黒な産声をあげる。
ざまぁみろ、と。
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その後、私と絵長さんは父母から許されて夕食を、ひよ子は食事も水も与えられないまま、離れにある古びた土蔵に閉じ込められた。照明のない土蔵はいわば懲罰房。布団などは当然ないが、そこに閉じ込められた人間を最も苦しめるのが寝心地の悪さでもなければ空腹でもないことは身をもって知っている。真っ暗な閉鎖空間の中で感じる強烈な孤独感が心を蝕んでいくのだ。
夜中、遠くから聞こえてくる子供の泣き声に何度か目が覚めたが、やがてそれは聞こえなくなった。2階の窓から顔を覗かせると、母が長細い棒のようなものを持って土蔵に向かっていくのが見えたが、私は気にせず布団に身体を横たえた。
翌日、朝起きて朝食に向かったが、食卓にひよ子の姿はなかった。まだ土蔵に閉じ込められているのだろうか。朝食を終えた後、勉強のために和室に向かったが、そこにいるのは母1人。やはり、ひよ子の姿はなかった。
「ひよ子は和室に来ないのですか?」
「ひよ子はしばらく土蔵で生活させるわ」
素っ気なく母はそう返したが、土蔵で勉強をしているらしいひよ子の元へ母が向かっていく様子もなく、私は嫌な汗が流れた。次の日も次の日も、1週間以上経ってもひよ子が土蔵から家に戻ってくることはなかった。食卓の途中、時折堰を切ったように謝りながら涙を流す絵長さんを見て、最悪の結末を想像した。そしてそれは、やがてやってくるひよ子の姿を見て確信に変わった。




