フィリピンに宗教法人を設立する(85年)
日本を除き全世界の人類は誤った宗教観を持っていると思う。宗教の教義にある理念は概ね正しいのだが、神の定義が誤っていることと、安易に「神の名の下に」とか「聖戦」という自分に都合のいい理由で殺人、暴行、略奪、陵辱をしている。そんな事はないと多くの人は思うかもしれないが、歴史が証明している。人種や国家や宗教が違う人間に対しては、残虐な行為をしても悪いことをしたという意識が希薄だ。
例えば全世界で最も信者の多いキリスト教についてだ。十字軍の遠征は聖都エルサレムの奪還で聖戦とされた。しかし実態は、イスラム教国への侵略、殺人、略奪、陵辱が行われた。コロンブスは新大陸発見の英雄として日本では教育されてきたが、実際は温厚で武器を持たない現地人を殺し、略奪し、凌辱し、皆殺しにしたことが、同行した人間の日記に記されている。スペインの教会内にあるコロンブスの墓の写真を日本人が撮るのを見て、教会に来ているスペイン人はなぜ残虐な人間の墓の写真を撮るのだろうと不思議に思っている。大航海時代、スペインとポルトガルは世界中で植民地を作った。勝手に人の土地に押し入り、略奪し、奴隷化した。人類の歴史ではよくあることだ。ただそれを主導したのが当時のローマ教皇だ。異教徒の人間から略奪しても奴隷にしても良いと導いていたのだ。宣教師は植民地化する先兵の役割を担っていた。宣教師自身はキリスト教布教のためだと信じているが、いくら理想を述べようとも真実は歴史が証明している。
日本の戦国時代には九州や関西の大名の多くにキリシタン大名になる者が現れた。宣教師の指導の下、異教徒撲滅を理由に神社仏閣が焼き払われた。農村の多くの少年と婦女たちが、キリスト教が布教するこの世の天国の地に行くことを勧誘された。希望に満ちて船に搭乗した婦女たちに待ち受けていたのは、この世の地獄だった。白人達は黒人を奴隷として扱っていた。連れてこられた黄色人種の少年、婦女達は、奴隷である黒人の奴隷、性奴隷としてあてがわれた。特に少女を中心とした婦女達の境遇は悲惨だった。白人から差別され、鬱積した感情を持つ黒人に与えられた性奴隷だ。この世の地獄としか言い表せない。
九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
『九州御動座記』の記録
「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい・・・・」当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。これはそもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にある。
大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか。
という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
アメリカでは西部劇の映画やテレビが多く放映された。西部開拓史として美化されているが、現地住民のインディアンからしてみれば侵略者に対する自衛手段だ。
アメリカの第二次世界大戦の戦勝記念日には各国の首脳が招待される。その光景は日本では報道されない。各国の首脳が列席する会場では第二次世界大戦の映像が上映させる。クライマックスは広島に原爆が投下される映像だ。参加する首脳陣、アメリカの政界財界人が笑顔で拍手していた。まるで花火を見るように。オバマ大統領が笑顔で拍手している動画は削除されているだろう。興味深いのは、ドイツのメルケル首相とロシアのプーチン大統領の2人だけ、悲痛な表情をしていた。日本人がアメリカ人に質問したところ、「良かったじゃないか、あのまま行けば日本人は全滅していたのだから」と言われたそうだ。原爆投下に全く罪悪感はない。そもそも軍事施設のない一般人の住む地域を焼夷弾で焼き払っていたのだ(例、東京大空襲)。
(話は変わるが、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領は世界中から大悪人のレッテルを貼られている。概ねその通りだろうが、西側からの報道しか入らない状況下、歴史には裏がある事も考えて置く必要があると思う)
宗教家は天変地異があると神の怒りに触れた、悔い改めよと諭す。
人が道を歩いていたら、蟻を踏み潰してしまった。蟻は日頃の行いが悪いから頭の上から踏み潰されたのか、違うだろう。火山の噴火や大地震は人間にとっては大きな災害だが、太陽系、銀河系、宇宙か見れば微細すぎる。宇宙には銀河同士が交わり星々が衝突し爆発しているところもある。そこに生きている人類(宇宙人)は日頃の行いの反省がないから神の怒りを買ったのだろうか?断じてない。
私たちの太陽系が属する銀河系には、2000億個の星があると言われている。 そして、宇宙には銀河が1000億個以上もあると考えられている。地球にも、月にも、太陽にも、銀河系にも、全宇宙にも意識がある。人間から見れば地球は大きい、地球の意識は人間の意識とは全く別次元の意識だ。神を宇宙意識と定義すると、地球も太陽も宇宙から見れば細胞ですらない分子よりも小さい原子レベルの存在だ。銀河レベルの衝突も宇宙レベルから見たら、飛び回る細胞同士の衝突かもしれない。地球上にある宗教が信者に教え諭す“神”という存在が、宇宙から見れば些細な自然現象に人間のような喜怒哀楽の感情を持って力を振るう存在のはずがない。まるで人間のような存在で人間に近すぎるのだ。宇宙意識は、時間で言えば、数億年、数千万年の時間軸で、規模で言えば銀河レベルで意識している存在だ。
ここから先は俺の想像だ。人間と地球の意識の間に、人間よりも遥かに高次の存在がいる。人類はその存在を神として崇めていたのではないだろうか。人間にとっては、霊的に数億年先を進化している存在だ。その存在は地球が誕生したのち、あるいは同時に誕生し、人類の進化を長い年月見守ってきた存在だと思う。霊的に見て人間よりも遥かに高次で大きいので、人間の器に入れず、人間として本体が地球上に誕生することはない。分身体ならば可能かもしれない。だが神ではない。人間から見れば、神のような高次な存在だ。
※上記の宗教観は筆者の個人的な見解です。否定的なご意見もお有りでしょうが、どうかお許し下さい。
日本国憲法
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
ある貧しい農村地帯の小学校に来ていた。教師をスタッフとして5人引き連れての訪問だ。その日は始業式だった。小学校の生徒2600名、新1年生の保護者の方々も出席されていた。みんな貧しい服装をしていた。ギフテッドの子供は能力を理解されず、社会的な適応力が不足している子が多い。周りから厄介者扱いされている子供が多い。俺はその子に光を当てたかった。
校長の挨拶が終わり、俺が教壇の上に立って見渡した。スタッフの1人がVHSのビデオを録画している。一通りの挨拶の後、保護者の中で手作りの松葉杖をしているおばあさんがいた。俺はスタッフ言って教壇の上まで彼女を慎重に運んでもらい、木の椅子に座らせた。ビデオカメラで録画している。1人のスタッフがマイクで音声をみんなに聞かせている。
「おばあさん、足はどうされたんですか」
「燃料の薪を運んでおったのですが、立て掛けてあった薪が崩れて倒されまして、気付いたら足が折れてしまいました。こんなに腫れてしまいました。今日は可愛い孫の入学式なので息子に言ってリヤカーに乗せてもらってきました」
「そうでしたか、それは痛かったでしょう。私に見せて頂けますか」
「先生はお医者さんなんですか?」
「いいえ、ちょっと変わった医者なんですよ」
俺はおばあさんを気絶させた。骨折した足に巻いた血の滲んだ布を取った。紫色に変色して腫れていた。俺はそおっと手で触れた。骨折してズレた骨を戻して、欠けた骨を補充し、傷ついた細胞を修復した。光の粒子を充分に照射して治癒のスピードを加速させた。光の粒子は目には見えないが、俺は光として可視化した。強い光に包まれた俺の手からおばあさんの傷ついた足に光が照射しているところは、遠くからでも見ることができた。小学校に参列している人々は皆、膝をつき俺に祈りを捧げ始めた。涙を流している者もいる。この奇跡に立ち会うことができた3000人近い人々の感動と歓喜の想いが俺に圧倒的な圧力で押し寄せて来ていた。
紫色に変色して腫れた足が、普通の陽に焼けた細い足に戻って行く様子が録画されていた。
「おばあさん、もういいですよ。足はどうですか?」
「えっ、痛くない」おばあさんが自分の足を見て触った。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「先生、先生は救世主様ですか?」
おばあさんは俺に縋りついた。
「いいえ、そんなに偉い人ではないですよ」
おばあさんが教壇から降りると家族がおばあさんのところまで走り寄った。
「オダ様、ありがとうございました」
家族が跪いた。
「今日私がこちらに伺ったのは、フィリピンの将来を担うかもしれない子供を探すためにやってきました」
俺は列から外れた子、うずくまった子、空を見上げている子、そういう子供を含めて5人の子供達をスタッフに言って教壇まで連れて来てもらった。
「私が責任を持ってこの子供達をお預かりし、未来のフィリピンに貢献する人間に育てます」
5人の子供が選ばれた。
「俺の息子が御子に選ばれた」親の1人が呟いた。
居並ぶ小学校の教師や連れてきたスタッフの教師は驚愕し感動していた。生まれてきたこの世の中に、何を信じていいのかわからなかった。自分の人生を賭ける主人に出会えたのだと確信する者が現れた。
出来るだけフィリピンを訪問してこのデモンストレーションを行った。訪問した小学校の校長、教頭、若い教師達が、ODA小学校の教師になりたいと開設間もないODA小学校を訪問してきた。教師の募集をどうしようかと思っていたが、集まり過ぎだ。まだ生徒が集まっていないのに教師だけ多くても困る。履歴書と面接でオーラチェックを行った。一番大切な事は古い宗教観を捨てる事、ODA学園の母校愛を育むことに生涯をかけることができる人材だ。レベル的には一般の後期中学校の生徒を教えることができることだ。ギフテッドの子供達だから、小学校で中学校の学習は終えてしまうだろう。
85年の1年間で50日、小学校を訪問して、300人のギフテッドの子供達を発掘できた。
86年、1年もすると、教師達は俺の熱心な信者達で占められた。熱心ではない、狂信的な信者かもしれない。本気で世の中の宗教観、フィリピンを含む世界を変えたいと思う同士達の集団が生まれていった。
俺は余った時間を使って宇宙と地球と人類の歴史について文章を書いていった。
宇宙は無からビッグバンによって誕生したものだと考えられている。地球意識を通じて宇宙意識の片鱗に触れると、違ったものが見えてくる。我々が存在する3次元な宇宙は1つではない。宇宙に銀河が1000億個あるように、宇宙もたくさんある。宇宙も生み出されていた。3次元の宇宙よりも高次元の宇宙がいくつもあり、高次元の宇宙と別の高次元の宇宙の幾つが衝突して融合して生じたエネルギーの結果、我々がいる宇宙のコアが発生した。我々のいる3次元の宇宙がその他にも多く存在し、それよりも高次元の宇宙も多く存在する。高次元の宇宙がどこまであって、それぞれの次元の宇宙の数と広がりを把握することは到底できない。地球の意識も銀河の意識も我々の宇宙の意識もそれを知らないからだ。把握できないほどの数の宇宙、多層の高次元の宇宙の広がりが大きすげて、ただあるとしか認識していないのだ。
地球の歴史はアカシックレコードのコンタクトすることで見ることができる。但し、一部にロックがかかっていた。地球上にいる高次元の存在が、人類に発表する段階ではないと判断しているのだろう。