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ODA.HD(シンガポール本社)

「フィリピンODA.LTDか、どんな会社なんだ?聞いたことない」

「高層アパートメントとホテルを含めた商業ビルの運営を三友不動産に委託するといっていたな」

「三友不動産かあ、山根のところか、あいつ専務に昇格が内定したのに、俺は支社長でも本社に帰れば次長だもんな、電話したくないなあ」

「いかんいかん、ビジネスだ。俺は商社マンだ、どんなに危険な国や地域でも飛び込んできた男だ、貪欲は美徳だ」

「専務、三友物産の小川様からお電話です」

「おおー、久しぶり!お前フィリピンに行ったら、男性天国で日本に帰って来ないんじゃないかって、みんなで飲んだ時話していたんだ」

「いやー、まあまあかな、日本では下っ端でも、フィリピンでは日本商工会議所の会頭だしな、それなりに楽しんでるよ」

「ところで山根、専務に昇格したんだってな、おめでとう!祝いに行けなくてごめんな」

「まあ、いいって、東京に帰ってきたら飲もうぜ、千田も飲みたがってたぞ」

「ああ、わかった」

 小川は経営会議で毎月日本に帰っていたが、出世している同期に気後れしていたのだ。

「ところでどうした?」

「実はな、フィリピンで再開発の総合プロデュースと、トイレとサッシの施工会社のコンサルタント契約をすることになったんだが、再開発では200メートル以上の高層のアパートメントとホテルを含む商業ビルを建設する予定だ。そこの運営を三友不動産に任せるつもりだそうだ。施工主の会社の名前がフィリピンODA.LTDっていうんだが、社長の名前がリリー・オダという物凄い美人だ、教えてくれないか」

(織田様は日本の次はシンガポール、香港、マレーシアに投資を考えているそうだが、ゾッコンの愛人の名前がリリーだったはずだ。そうか、そうか、また儲け話が舞い込むのか、次はアジア担当だな、いい話を聞いた)

 山根はほくそ笑んだ。

「教えてやってもいいが、この話、あまり広めるなよ、三友不動産には俺だけにしろ、情報は大事だ」

「織田様は去年、俺んところでビルを120棟購入された。そして千田のところで1000億の根抵当をつけたんだ」

「織田様の会社は有限会社で1人株主でオーナーだ。11月1日に国税庁が発表する法人税納税ランキングに名だたる上場企業に混じって有限会社ユージが載ると俺と千田は思っている」

「織田様は不動産がご趣味だそうだ。美術品のように不動産を所有したいそうだ。俺の予想だが、次はシンガポールだと思う」

「俺が専務になれたのは織田様のお陰だと思っている。織田様のことを大事にしろよ」

「わかった。すまないな、そんな重要なことまで教えてくれて、東京に帰ってら必ず連絡する」

「おう、待ってるぜ、それじゃあな」

・・・・

「シンガポールか、早くフィリピンの仕事にケリをつけて、シンガポールに異動願いを出さないとな」


 三友物産フィリピン支社

「いいか全力をあげてオダ様への提案書を作成するんだ」

 小川が朝の幹部会議でハッパをかけた。


 数ヶ月後の83年の年秋、支社長の小川から連絡があった。小川は訪問すると言ったがリリーがこちらから伺いますと返事をした。

 三友物産フィリピン支社の会議室

「こちらが提案書になります。トイレとアルミサッシについては別々にご説明しますが、その前にフィリピンの購買層についてご説明します。

 フィリピンの所得格差、資産格差は日本人からは想像できないほど著しいのが現状です。資産家上位20名の資産は、下位の6200万人よりも多いいのです。フィリピンの平均年収は23万ペソ、日本円で48万円になりますが一部の富裕層の年収を含むので正しく反映されません」


※下記は2011年のフィリピンのデータです。当時のデータは取得できませんでした。

職業別の月収(給与)

教授       3万円

教師    2万3000円

ポストマン  9000円

バスの運転手 8000円

ホテルの受付 8000円

大工     8400円

車修理工   9800円

看護師    9800円

鉱山労働者  6300円

※ 資料にはないが農民は鉱山労働者よりも低い、鉱山労働者には危険手当が含まれている。

 ジョージパパは農民なので、年収はかなり低い。


「フィリピンの平均年齢は24歳です。圧倒的に労働人口(18〜64歳)が多く長期間経済成長が見込めますが、経済成長が持続しても先進国に比べると圧倒的に貧しい国なのです。資料には詳細な市場調査とビジネスを行った場合の売上、人件費を含めた経費、投下する資本についての説明です。しかし、私見ではありますが結論を申し上げます」

「水洗トイレの事業は継続的に行うことはできません。一時的に在留外国人に販売してもその後が続きません」

「アルミサッシについてですが、安い労働力を使って単価を下げることは可能です。こちらの事業は継続可能です。ただし利幅が少ないのです。経営努力等の労力の割に、利益が少ないのです。僭越ながら申し上げます。ODA様の会社には不適だと思います。ODA様の会社は豊富な資金を使って、人のできないことをドカンとやって大きく儲ける事業がお似合いだと思います」

(リリー、小川は俺のことをよく見抜いている。その通りだ。こいつは大事にしろよ)

(わかったわ、ユージ)

「小川様、よくわかりました。その通りです。事業のことは白紙にしましょう」

「ODA様、私個人としてのご提案がございます」

「ODA様がおっしゃられた通り、水洗トイレと網戸が欲しいと日本人ならば誰もが思っていることです」

「そこでスポット的な事業になるんですが、我々で輸入してフィリピン日本商工会議所のメンバーの会社と住宅に特別会員価格で販売してはどうでしょう?」

「皆さん喜ばれると思います。私が御社を紹介します。御社が事業を拡大するには日本企業の協力は今後、役に立ちます」

「商工会議所の会員は約300社あるので、業務委託する倉庫、施工の業者の候補を事前にピックアップして話をつけておきます」

「わかりました。ところで今回のコンサルタント料はいかほどになりますか?」

「日本円で5000万円と言いたいところですが、1000万円で結構です」

「わかりました5000万円をお支払いします。差額の4000万円は協賛金として下さい」

「ODA様は話がわかるし、決断も早い。4000万円の使い方は私にお任せ下さい」


 俺はフィリピンから戻った。広尾ガーデンヒルズへの会社の引越しが終わっていた。すっかり会社仕様になっていた。社員1人あたりのデスクを含めた面積は4.8㎡以上が理想と言われている。事務所に20名の社員がいるとしたら100m2あれば足りる。社長の俺と瑠美子と麗子のデスクを別にして150m2のスペースが確保されていた。一般社員は昨年採用した10名で、瑠美子と麗子がリーダーシップを発揮していた。昨年のクリスマス会やら忘年会をしてみんな仲良くなっているのがよくわかった。

 俺の執務室に麗子と瑠美子を呼んで報告を聞いた。2人で報告書を作成しており、それを見ながら説明を聞いた。口頭ではなくレポートを作成しているところは、几帳面で非常に優秀だと思った。

「社長、お願いがあるんですが、昨年の忘年会の時に出た話しなんですが、社員用の車を2台買いたいんです」

「いいんじゃないか、そうだな、ベンツとBMWを1台づつにしてくれ。必要ならお前達の判断で増やしていいぞ」

「ありがとうございます。みんな大喜びですよ」

 事務所で麗子と瑠美子がみんなを集めた。

「社長がみんなの希望していた車を購入して下さることになりました」

「社長、ありがとうございます」

「社長、一言どうぞ」

 瑠美子が言った。

「君らは優秀だ、税理士試験の簿記論と財務諸表論を短期間で合格した者達だ。かつ美人だ」

「おそらくあと2年で税理士試験に合格するだろう。俺からの提案だがTOEFLの勉強をしてもらいたい」

「社長は心配じゃないんですか?せっかく育てたのに途端に社員が辞めることに」

 瑠美子が言った。

「君らは頭がいい、そんなバカなことをするはずがないと思っている」

「君らの年収は税理士の2倍を払っている。去年からすでに始まっているが、海外進出を始めるつもりだ」

「俺の勉強不足だ。君らも知っている通り、今年の法人税の納税額は国税と地方税などを合計すると850億円程度になる」

「海外の税制度を確認すると、シンガポールでは株式などの動産や不動産の売却益が非課税だとわかった。そこで、本社をシンガポールに移転させるとともに、俺自身も移住することに決めた。日本の税法上の非居住者の定義は海外で住所地を持ち滞在期間が年間183日以上が必要なので、1年の4割程度を日本に滞在するつもりだ。日本の会社はシンガポール本社の支社ということになる」

「今フィリピンに関連会社があり、今年はシンガポールの本社ができる。数年先にはさらに海外支店を増やすことになるだろう」

「ここまで話せばわかるだろう、国際税務の知識とM&Aのスキルを持つ社員が欲しいんだ。もちろんプロを雇う。だが、会社の根幹には君らにいてもらいたいんだ」

「それで勉強のため専門学校に通う必要もあるだろう。人員が不足するはずだから、昨年の最終試験で落とした5人を採用したい。連絡を取ってくれ」

 俺と麗子は外務省に来ていた。シンガポールの日本大使館から在シンガポールの日系の法律事務所と会計事務所のリストをもらうためだ。未来の時代ならインターネットで簡単に調べてることができるのに残念だ。

「直接シンガポールの日本大使館に連絡してもいいですか?」

「いいですよ、では電話してみましょう」

 シンガポールの日本大使館に連絡ができ、会社にFAXしてもらうことにした。FAXが到着してすぐにシンガポール日本大使館に電話をした。シンガポールで会社設立と不動産の購入、M&Aに詳しい法律事務所と会計事務所を教えてもらった。

 紹介された日本の事務所を訪問して、現地スタッフが多く取引実績のある事務所を確認して顧問契約を結んだ。


 俺と麗子とルーシーがシンガポールに来ていた。なぜ麗子を連れて来たか。フィリピンから東京の広尾ガーデンヒルズの会社に戻って、執務室に麗子を呼んだ。麗子は泣きそうな目をして微笑んでいた。

「お帰りなさい旦那様、お待ちしておりました」

 麗子の狂おしいほどの熱を持った愛情が俺の魂を撃った。俺は部屋を埋め尽くすほどの麗子の熱情と愛情と性欲に圧倒された。俺と麗子は精神的にも性的にも相性がいい。その麗子の想いに応えてやりたいと思った。

 本社をシンガポールに置くことに決めたが、日本支社とのやり取りが必要なので日本の業務に精通した麗子を、いずれシンガポール本社が中心となるその実務の責任者にするのだ。シンガポールでの会社設立でやっと制約のない株式会社組織にできた。織田雄治100%の株式会社だ。リリーを副社長にして、フィリピンの関連会社社長とした。麗子は専務取締役、瑠美子は日本支社長兼常務取締役、ナンシーは常務取締役兼フィリピンの会社の副社長、ルーシーは取締役にした。なお瑠美子はお見合いをしたそうだ。仮に結婚したら寿退職を勧めるつもりだ。関係を持った男の会社に瑠美子がそのまま勤務するのは誤解を招きやすいし、俺も精神的に辛い。

※雇用法は一般社員を対象としており取締役を対象としていない。懲戒免職に該当する重大な理由がない限り、一般社員を安易にクビにはできない。だが取締役は株主総会の承認で就任と退社ができる。ODA.HDは俺が100%株主なので俺の一存で決定する。

 麗子を実務の責任者にして、シンガポールの優秀な社員を雇用する予定だが、英語が話せないのでルーシーをその補佐にした。俺のパートナーは以前からリリーであることを周知させていた。だから麗子と瑠美子は当然のことと思っていた。ベッキーを部長としベル、ルルを次長とした。ナンシーとルーシーは3人の下で働いていたから、自分が3人の上に立つことに戸惑いがあるようだった。

 シンガポールの法律事務所に来ていた。代表の弁護士は日本人だが、実際のサポートはシンガポール人の弁護士のだった。シンガポールにある日本商工会議所の理事長は日進商事の支社長だった。関連会社の日進不動産の仲介で広い敷地に建つ20階建ての商業ビルを30億円で購入した。最上階に住居として、俺用、リリー用、麗子用、来客用2つを用意した。下の19階にODA.HDホールディングスの事務所を置いた。事務所はそのまま使えるが、居住用のリノベーションは11月末までかかるとのことだった。俺はそれまで近くのアパートメントを借りて住むことにした。83年の確定申告の住所地は84年1月1日の住所である。住所地は購入したビルの最上階で、シンガポールに居住した証明書として住民票とパスポートで滞在日数を示す必要があった。83年の先物取引の売却益は莫大な金額になる。必ず税務審査が入るはずだ。会計事務所の力の見せ所だ。仮に裁判になった場合には顧問の法律事務所と会計事務所がタッグを組んで対処することになっている。

 シンガポールでは個人が不動産を所有する場合はコンドミニアムにしか購入できない。商業ビル内にある住居はODA.HDの所有で社宅である。シンガポールでは外資導入が国策なので、外国人による法人の規制はなく、法人は自由に不動産開発できた。


※武富士の贈与税事件

消費者金融大手の武富士(会社更生手続き中)の創業者の長男が、生前贈与を受けた海外資産に約1330億円を課税されたのは不当だとして取り消しを求めた訴訟の上告審判決が2011年2月18日、最高裁であった。第2小法廷は課税を適法とした二審・東京高裁判決を破棄、取り消しを命じた一審・東京地裁判決を支持した。

逆転勝訴が確定した長男は延滞税を含め約1600億円を既に納付済み。国は利子にあたる「還付加算金」約400億円を上乗せしたうえ、総額約2000億円を還付した。個人への還付として過去最高額とみられる。

訴訟では、海外居住者への海外資産贈与を非課税とした当時の相続税法に照らし、長男の住所がどこだったかが争われた。同小法廷は香港と日本の両方に居宅があった長男について、仕事以外も含めた香港での滞在日数の割合は約65%、国内滞在の割合は26%だったとして「生活の本拠は香港だった」と認定。そのうえで「税回避が目的でも客観的な生活実態は消滅せず、納税義務はない」と結論付けた。

裁判長は補足意見で「海外経由で両親が子に財産を無税で移転したもので、著しい不公平感を免れない。国内にも住居があったとも見え、一般の法感情からは違和感もある」と、長男側の行為が税回避目的だったと判断しながらも、「厳格な法解釈が求められる以上、課税取り消しはやむを得ない」と述べた。

2000年の税制改正で、贈与する側か受ける側のいずれかが過去5年以内に日本に住んでいれば、海外資産も課税対象となった。(→5年超海外に居住すれば、日本の税法ではなく居住する海外の税法が適用される)

約400億円と巨額に上った加算金の利率は延滞税と同じで、今回適用されるのは年利4.1~4.7%。起算日から還付までの日割りで計算される。支払いが遅れるだけ額が膨らむため、税務当局は確定後、一括で還付した。


 シンガポールはさすが国際金融都市だ。日本だけでなく世界中の金融機関の支店があった。ここで世界中の金融市場への投資ができるのだ。

 日本での俺の所有する不動産と有限会社ユージからの借入金を相殺させて、日本のビル、マンション、飲食店をシンガポールの本社所有にした。逆に日経平均先物取引を含む有価証券取引は織田雄治個人で行うことにした。今まで日経平均先物を会社で行っていたのは、日本では個人の所得税よりも法人税の方が低いからだったが、シンガポールでは有価証券の売却益が非課税だから会社で行う必要がない。法人でも非課税だが、個人にした理由がある。外国では相続税や贈与税がゼロの国がある。例えば香港、シンガポール、マニラ、オーストラリア、ニュージーランドだ。俺はどこかの段階でリリーと麗子を贈与税の非課税国に居住させようと思っている。会社からお金を渡すと給与にみなされて所得税がかかるが、リリーや麗子がそれらの国に居住していれば、俺個人からいくら贈与しても非課税だからだ。だから利益の大きい先物取引等の有価証券取引を俺個人で行うことにした。


 自民党の大蔵大臣に織田雄治名義で個人献金を1億円した。大臣室に呼ばれ記念撮影をした。

「織田君、若いのに見どころがあるね、何か困った事があったら来なさい」

「宜しくお願いします。大臣、宜しかったら色紙をお持ちしましたので、大臣の座右の銘を一筆頂けないでしょうか、家宝にしたいと思います」

「おお、いいぞ」

 “我が道を行く”と書いて下さった。

 自民党の大蔵大臣は後に総理大臣になるエリートコースだ。日本の支社に2人の記念撮影の写真と額に入った大臣の座右の銘の色紙を飾った。

 また、国税庁長官を退職された方に、シンガポール本社の顧問になって頂いた。


 1983年8月、野党勢力の中心人物で、アメリカ合衆国に亡命していたベニグノ・アキノ・ジュニア上院議員が、フィリピン共和国帰国時にマニラ国際空港で暗殺された。国内での反マルコス・デモの頻発は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、フィリピン経済に大打撃を与えた。

 俺は計画中のフィリピンへの投資を全て凍結させた。リリーとナンシーをODA.HD本社のあるシンガポールに呼び寄せた。ルルはフィリピンに残って女の子の人材派遣業務を継続させることにした。フィリピンにあるリリーの会社も業務縮小、人員削減を行った。


※ フィリピン戒厳令下、私腹を肥やした独裁者マルコス大統領失脚、政情不安について

 1970年代ソビエト連邦や中華人民共和国からの支援を受けた農村部において、毛沢東思想に傾倒した共産党や武装組織の新人民軍が結成され、また南部ミンダナオ島では、新規入植者と現地住民との間での軋轢が発生していた。マルコス大統領は一連の暴動を共産主義の脅威として警告し、フィリピン全土に戒厳令を布告した。

 それは既存の特権階級に与えられていた権益を貧者に解放する政策だった。フィリピン経済を伝統的に支配した華僑など既存の特権階級が持つ権益は没収され、貧しい人たちに特権が与えられたと喧伝されたが、実際にはマルコスの一族と取り巻きに引き継がれたに過ぎなかった。

 戒厳令布告は、フィリピンの政情不安を背景に、特に共産主義の東南アジアに対するドミノ現象を警戒する旧宗主国のアメリカ合衆国を始めとする、諸外国の理解が得られた。戒厳令と夜間外出禁止令施行後、国内の犯罪率が劇的に低下し、政情の安定は1970年代を通じて経済成長につながった。

 1973年より始まった観光事業の振興策と、海外に出稼ぎに行くフィリピン人労働者の送金が、重要な外貨獲得の手段だった。マルコス施政下の初期には、経済のパフォーマンスは強かったものの、独裁体制が進むにつれて汚職が蔓延し、経済成長が見られなかった。

 1983年8月、野党勢力の中心人物で、アメリカ合衆国に亡命していたベニグノ・アキノ・ジュニア上院議員が、フィリピン共和国帰国時にマニラ国際空港で暗殺されたことは、フィリピン経済に大打撃を与えた。続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。

 1984年までに、それまではマルコス政権を支持していたアメリカのレーガン政権もこれに距離を置き始めた。同盟国からの圧力の結果、マルコスは大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。

 1986年2月7日に行われた大統領選挙では、マルコスによるあからさまな開票操作(不正選挙)は、野党連合のみならず、アメリカ合衆国連邦政府、フィリピン社会に大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防大臣、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人が、マニラのエドゥサ通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿を包囲されたマルコスは、アメリカ合衆国軍に一家を北イロコス州へ避難させることを要請し、一家はヘリコプターでクラーク空軍基地に脱出するが、意に反してハワイへ飛び、事実上の亡命に追い込まれた。


 83年年末、三友物産フィリピン支社の小川を、俺はリリーと訪問した。リリーとナンシーをシンガポールのOD.HDに移すことを報告した。今進行中の事業は継続すると報告した。

 ロックウェル地区の土地取得は継続する。ただしアパートメントとホテルの建築は凍結する。

 在フィリピン日本法人と日本人の住宅へのトイレと網戸の供給は、リリーの会社の日本人に対する慈善事業として行うことにした。

「有難うございます。織田様のご好意に感謝します。日本法人会の総会がありますので、是非出席なさって下さい」

 総会では小川会頭の挨拶があり、リリーが紹介された。リリーの会社が水洗トイレと網戸を会員特別価格で販売することが報告された。リリーの会社は利益を求めず、協賛金も拠出している事がわかると、会員から暖かい拍手が上がった。総会の後のパーティでは、リリーの周りに人だかりができていた。名刺交換が行われていたが、到底覚え切れるはずがない。リリーは接客業の天才だと思った。頭もいい俺よりも社長に向いていると思った。

 俺は小川とウィスキーを飲んでいた。

「三友物産さんは、これからどうするんですか?」

「フィリピンは貧しい国でアメリカからの借款で公共事業を行っています。今回の事件でアメリカからの支援が減少する可能性があります。日本の進出企業は鉱山開発、電力事業などのインフラ整備事業に携わる企業が多くあります。新規事業は抑制されるでしょうが、継続中の事業が中止されることはないと思います。開発事業の完成にはまだ4〜5年はかかるはずですから、それまでに政情が安定してもらうことを願っています。本社の経営方針は、フィリピンへ進出している日本企業の取りまとめを担っている以上、今まで通り業務を遂行するよう指示されています」

「フィリピンに進出している日本企業の皆さんには、日本人として誇りに思います」

 俺は頭を下げて言った。

「今回のアキノ上院議員の暗殺について、私が知っている情報をお話しします。マルコス大統領は腎臓疾患で業務を行えていません。それをいいことに意図的に杜撰なプロジェクトで汚職を繰り返している取巻き連中の仕業だと思います。その首謀者は国軍参謀総長・ファビアン・ベール大将です。この政権は末期症状と言っていいでしょう。いずれアメリカからの圧力で大統領選挙が行われることになるでしょう。次期大統領は未亡人のアミン氏を支えるのがゴメス参謀長です」

「なぜ、そんなことがわかるんですか?」

 小川が尋ねた。

「それはお教えすることができません。言えることは今の政権から距離を置くことと、ゴメス参謀長を支援することです。後で大きく返ってくると思います。それと伊勢神宮の御守りです、これをお持ち下さい(俺の念を込めた水晶が中に入っている)」


 八島の道場に来ていた。

「お前を連れて来た以上、俺には責任がある。八島、お前はどうする?」

「ここに残ります。ルルさんが残る以上、俺も残ります」

(八島、お前は男らしい)

 3人の弟子にも聞いてみた。

「自分らも八島先輩と一緒に残ります!」

 弟子達は男性天国のフィリピンのことが心底、気に入って日本に戻りたくないオーラがダダ漏れだ。

 一方、八島は感激していた。

 「今まで通り給料は払うし、アパートメントの家賃もタダだ」

 俺が言うと、弟子達のガッツポーズが脳裏に浮かんだ。


 リリーとコンドミニアムに戻った。シェフのビリーに会った。シンガポールの食事が俺に合わなかった。ナンプラーとパクチーが苦手だ。ビリーにシンガポールに来ないかを誘った。ビリーの料理は一流の域には達していないが、日本で料理人を経験していたから、まずまずの腕前だと思った。料理のレパートリーも多くてよかった。給料をシンガポールの水準に引き上げて、アパートメントも用意すると言うと快く引き受けてくれた。購入したビルの1階をレストラン街にしたいので、寿司、焼肉、焼き鳥屋、ラーメン屋、懐石料理、イタリアンの店を開くことにした。

 フィリピンへの投資を凍結したので、日経平均先物取引で発生した利益を、日経平均採用銘柄225銘柄を構成率に従って現物株式を買い付けることにした。日経平均先物取引で稼いだ資金を織田雄治からODA.HDへ貸付する形で移管した。日本の証券取引法では取引一任勘定取引が禁止されている。証券会社は取引ごとに顧客からその都度注文を受託しなければならない。当時にパソコンは普及されておらず、システム売買もできない。注文も銘柄ごとに顧客に確認して注文画面に入力し、手書きで注文伝票を発行しなけれなならない。そこで、口座を渋谷支店から本店に口座移管した。当日の取引終了後、日経平均採用銘柄の構成比率になるように翌日の買い注文のリストを証券会社が作成した。翌日ODA.HD日本支店にFAXが入り、社判と印鑑を押してFAXで返信し、代理人専任届を提出してある瑠美子が電話でその内容の注文した事を双方が録音で残した。注文を受けた本店は、225銘柄の買付注文を営業員30〜50人を使って寄り付き前に買付入力した。1983年の買付金額はおよそ3900億円になり、1日あたり16億円になった。1銘柄平均は711万円とそれほど多くない。この取引で証券会社との交渉でキャップ取引を締結することができた。当時の株式手数料は約2%だった。例えば、1億円の買付ならば200万円の手数料が発生する、キャップ取引は1銘柄がどれほど金額が多くても手数料の上限を10万円にするというものだ。ただしODA.HDの買付銘柄数が225銘柄もあるので毎日2250万円の手数料が入るのである。一般には知られていない取引だが、顧客獲得のため他の証券会社の大口顧客にその条件を出して口座を移管させていたのである。雄治は前世の記憶で知っていた。


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