8 約束と幼馴染
俺が藍夏に本気で拒絶されてから、既に一時間が経過しようとしていた。
未だメンタルが復調する気配はない。
…………いや、だって、アレは嘘の一欠片も入ってない断固たる宣言だったからな。
普段、藍夏が本心で話しているかどうかを俺が間違えることは殆どない。
そんな絶対的なまでの自信があるからこそ、ダメージが大きいのである。
やべぇ、鬱になりそう。偶には現代っ子らしく丸三日ぐらい病んでやろうか。
そんな俺に対して、この一時間延々と「どうしよう」と相談を持ちかけられ続けていた妹の忍耐は遂に限界を迎えていた。
「兄さん、いい加減ウザい」
「…………」
ジト目でそう告げる翠。
一瞬、妹の口からその言葉が発されたことを脳が理解できずに、俺はその場で硬直する。
それから再度、言葉の意味を確認して膝から崩れ落ちる。
「……ダメージ受けすぎじゃない? そんなガチの方で落ち込まないでよ」
年頃の男性というものは、女性からのウザい、キモい、クサいには過度に敏感になる生き物なのである。
効果抜群の四倍弱点といっても過言ではない。確殺ラインを優に超えてくる暴言だ。
被害の大きさ的に訴えりゃ多分勝てる。知らんけど。
というか、既に瀕死の俺に一撃必殺を撃つのは酷いというか、むごいと思うんですよね。死体蹴りはマナー違反じゃない? ◯ケモンでもやらんぞ。
「……はぁ、もうわかったからそんな目で見ないで。とりあえず藍夏さんのところ行ってきたらどう? で、さっさと仲直りして帰ってきて。今日のお昼、藍夏さんの分も作る予定なんだから」
そう言い放つ翠は机の上に勉強道具を広げていて、これ以上は話しかけるなよ、のオーラを纏い始める。
こうなった彼女を刺激すると酷いことになるのは、長年の経験で知っていた。
まあ、これまで散々かまちょをしたところなのでいい加減精神を整えよう。
……そもそも、兄としても妹の勉強の邪魔なんてしたくないしな。
大人しく妹の言葉に従い、兄は家を出る。
インドア派の俺にしては随分と珍しい本日二度目の外出だった。
さて、相も変わらず忌むべき太陽が照りつける外界は、けれども爽やかな風が吹き抜けていて、存外に過ごしやすい気候になっていた。
暑いは暑いが、悪くない感覚である。
心地の良い風が吹いており、湿気混じりの不快な暑さではなかった。
こんな日に葉桜なんかを眺めたのなら、きっとそれは初夏を満喫していると言えるのではないだろうか。
そうやってどうでも良い気候の話なんて考えつつ、花見行きてーなぁとか願望を垂れ流しつつ、今日の昼ごはんはなんだろうな、みたいにアホを晒しつつ、全力でブレーキをかけながら牛歩の進みで隣の家へ。
まあ、どれだけ足掻いて時間稼ぎをしようとも直線距離が30メートルもない以上、宮城家の前へ辿り着くためには十数秒もかからないわけなのだが。
「……………………クッッッッソ気まずくなるだろ、これ」
普段からただでさえアレな藍夏が、薄雲家から逃げ帰るような精神状態で俺と会話できるはずがない。
そして、らしくもなく藍夏に嫌われた可能性について考えている俺も、彼女と普段通りの会話などできる気がしない。
つまり、率直に言ってすんごい帰りたい。
眼前に聳えるは、親の顔よりも見た幼馴染の家のドアである。普段は実家のような安心感を与えてくれる彼が、今日は凄まじい威圧感を与えてきている気がしてならなかった。
ついでに、ドアに向かって彼などという表現を使い始めた俺の精神状態は、割と限界に近いような気がする。もう帰ろうかなぁ。
帰ったところで妹に静かにキレられるだけであるため、ぐぬぬと唸りつつもインターフォンのボタンへと指を伸ばす。兄は妹に逆らえないものなのである。
指先が無機質なボタンに触れる。
その直前に、背後から声をかけられた。
「おやおや、珍しい。そんなに眉に皺寄せて、久しぶりに我が家のお姫様と喧嘩でもしたのかな、こーや君」
こちらを揶揄うような、それと同時に俺の気分を落ち着かせるような、そんな独特の声音とテンポの話し方をする美しい女性がそこにいた。
「…………亜澄葉さん、買い物帰りですか?」
「そーなの。運動不足の解消に時々徒歩で買い物に行くのが今のマイブーム。多分、すぐに飽きると思うけど」
「相変わらず、楽しそうで何よりです」
買い物バッグからはみ出るネギっていうのもベタなものよね、とコロコロ呑気に笑っている女性の名は宮城亜澄葉。
掴みどころのない性格をしたその女性は、俺や翠にとってのもう一人の母親のような人物だった。
まあ、勿体ぶらずに言えば、この人が藍夏の母ちゃんである。
数年前は藍夏と並んでいると姉妹にしか見えなかったぐらいの年齢詐称っぷりを見せた亜澄葉さんの美貌だが、それも今では過去の話。
老いぬ美人な母など、漫画の世界ぐらいにしかいないのだ。
寄る年波には勝てなかった亜澄葉さんは現在、美少女から美魔女へと進化を遂げて、近所の子供達の性癖を問答無用で捻じ曲げる色気たっぷりのお母さんになっていた。
バカじゃねえの?
なんて翠と二人で彼女のホルモンバランスの心配をしたのは良き思い出である。
ということで、藍夏から純朴さ、あどけなさを引いて、多分に色気をぶち込んだ人妻が目の前の女性だった。
藍夏と同じ茶色の髪は娘のものよりも柔らかい質感でふわふわとした印象を与えるが、呑気そうに笑う瞳の奥には確かな理知の輝きを宿している。
全男性を虜にすると言っても過言ではない肉体のプロポーションの持ち主だが、穏やかそうな見た目に反してガードはビックリするぐらい硬い――というのは、藍夏の父ちゃんからの話。
果たして「それは娘にも受け継がれてるね」と笑顔で教えてくれたあのとき、俺はどう答えるのが正解だったのだろうか。
「おっと、男の子だねぇ」
「生憎と娘さんの方にゾッコンなんで」
「また古い表現をして……ずっと家の前にいるのも変な話だから、上がりなよ。お姉さんが歓迎してあげよー」
亜澄葉さんの姿をぼうっと見ていると、ニマニマと上機嫌に彼女は笑い始めた。
その勢いに気圧されて、なんなら背中を物理的に押されて、俺は割と久しぶりの宮城家へと入場するのであった。
✳︎
慣れ親しんだリビングに案内された俺がソファに腰掛けると、キッチンに向かった亜澄葉さんは両手いっぱいにお菓子を抱えて戻ってきた。
「はい、どーぞ。貰い物ばっかりだけど、好きなの食べていいからねー」
「どーもです。なんか土産も混ざってますね」
テーブルに並べられたそれらの中には、店で売られているようなお菓子も多くあったのだが、目を引いたのは堂々たる土産物の集団。
何処でも買えることに定評のある東京◯な奈や、◯なぎパイ、ぬれ煎餅なんかもあって、流石に一人で頂くには遠慮の念が上回るような圧巻のラインナップだった。
「主人が出突っ張りだからねー。反動からか、帰ってくる時に色々買ってきちゃうのよ」
宮城家の大黒柱である藍夏の父ちゃんはなまじ仕事ができてしまう分、出張その他で家を空けることが多いのだとか。
彼は昔から俺と藍夏が二人で居ることを好意的に受け止めてくれている人で、留守中は娘のことを頼むなんて小学生時代の俺に伝えてくる少し変わった人だった。
亜澄葉さんは俺に対して気を遣うようなことはしないだろう。つまりは「食べていい」と言われたことに、それ以上の意味はない。
ただ、今更遠慮もクソもないのかもしれないが藍夏の父さんが買ってきたものを、と考えると、どうにもお菓子に手は向かなかった。
「…………君のそういう所、私は好きだなぁ」
「……もう子供じゃないんで、あんまり撫でないでほしいんですけど」
「んー? まだまだ子供だよ。自分で子供じゃないって主張している内はね」
楽しそうに俺の頭を撫で回す亜澄葉の表情は、いつになく穏やかなものだった。
気恥ずかしさを覚えつつも、その温かい掌が安心感を与えてくるのもまた事実。
無理に腕を掴んで止めるのも何だな、と少しの間大人しく頭を撫でられていると、リビングへと勢いよく人影が飛び込んできた。
「お、お母さん! どうしよう!? こ、紅夜くんに、私が告白したところ――って、何でいるの!? え、何してるの!?」
「あら? あらあら、予想よりも面白そうなことになってない?」
威厳も何もない半泣き状態で登場したのは、もちろん我が幼馴染こと藍夏さん。
彼女はリビングに入ってくるや否や、俺の存在に気がつき絶叫し、ついでに亜澄葉さんが俺の頭を撫でている姿を見て、再び絶叫した。忙しい奴である。
因みに、そんな娘の姿を見て、面白そうという感想を抱いた亜澄葉さんはマジで魔性の女性過ぎて怖い。
と、いうか。
今はそんな思考の共々はどうでもいいのだ。
「あ、あの藍夏が、俺のことを名前で……!」
そう。これが最重要。
名前呼びの成功とか、直近、五年間ぐらいの中で最も大きな進歩かもしれない。
人類の中での月面着陸と同じくらいの価値がある気がします。
「呼んでないもん! 何してるのよ、薄雲! このマザコン! 変態!」
あ、藍夏の態度が小学生時代の純ツンデレみたいな状態に戻った。
確か暴言を吐きたくないからって理由で、無口無表情キャラに移行したんだよなぁ。マザコン呼ばわりは非常に心外だが。
「何あれ、超可愛い」
「そうねー。ウチの娘が一番可愛いわ」
「ウチの翠も負けてませんけどね」
「確かに翠ちゃんも可愛いわね。今度、久しぶりにご飯でもどうかしら?」
娘の突撃後も俺の頭を撫でるのをやめる素振りのない亜澄葉さん。
対して、藍夏が名前で読んでくれた満足感により、もう何でもいいかなと全ての抵抗を諦めた俺である。
「だ か ら ! 何してるの!? なんで普通に雑談を続けてるのよ!」
混乱に次ぐ混乱により、割と本気で泣きそうになっている幼馴染を前にして、ようやく思考が落ち着いてきた。
ちょいと失礼、と頭に載っていた掌を軽く叩けば、あっさりと亜澄葉さんはその手を退けてくれた。
「落ち着けって。雑談してただけだから」
「…………ぅぅ…………ずるい」
「ずるいって何だ、ずるいって」
むぅ、と頬を膨らませる藍夏。
どうやら完全に純ツンデレモードへと意識が切り替わってしまっているようで、俺と話しているにも関わらず感情表現が非常に豊かなままであった。
小さい頃は子供特有の可愛いらしさが目立っていたのだが、高校生の美人が同じ動作をすると可愛らしさ以外にも色々とくるものがある。
そんな珍しい姿を前にしては、録画保存をしたいと切実に願ってしまったのも無理はないと思う。
「ああ、そうか。ずるいってそういう意味か。わかったよ……藍夏は嫉妬してるんだな」
「…………ぅ、ぇ!?」
「え、こーや君、どうしてわかったの? 何か悪いものでも食べた?」
真っ赤になって口籠る藍夏。
珍しい物を見た、と亜澄葉さんが目を丸くした。
そんな驚かれるようなことを言っただろうか? 察しが悪いつもりはないんだけど。
「いいから、こっち来いよ」
「……ぇ、…………う、うん!」
真っ赤な顔のまま、やけに素直に近づいてくる藍夏さん。
何やら小声で「もうバレちゃってるんだし」なんて呟いているんだが、何かカミングアウトされたことがあっただろうか? まあ、今はいいか。
すぐ近くまでやってきた藍夏は、おずおずと手を微妙な高さに持ち上げては下げての上下運動を繰り返している。
その運動の意図はわからないのだが、とりあえず俺は彼女の可愛らしい嫉妬心の解消を手伝ってあげよう。
「…………う、薄雲……いいの?」
「…………良いに決まってるだろ? 何、遠慮してんだよ。素直になれって」
藍夏が意を決して、といった様子で確認を入れてくる。
その様子に違和感を覚えながらも、嫉妬していることを否定されなかった以上、俺がすべき行動はコレで間違いないはずだと迷いを断ち切った。
「そ、それじゃあ――」
「はい、亜澄葉さん。俺じゃなくて藍夏のことを撫でてやってください。多分、恥ずかしくて言い出せなかったんですよ」
腕を俺の方へと伸ばすような動きを見せた藍夏の頭の上に、亜澄葉さんの掌を載せる。
どうしたんだ、この手? 繋いでいいのかな?
「――――ぇ?」
「え?」
「…………ん?」
頭の上に掌を置かれた藍夏と掌を載せた亜澄葉さんの二人が揃ってキョトンとした顔をする。
流石、親子と言いたくなるようなシンクロっぷりだったが、どうしてそのような表情を浮かべているのかがわからない。
「え、なんか間違えました? 撫でられてる俺に嫉妬したのかと思ったんだけど」
「――ぁ……ぅぅ」
「ふ、ふふ……そっか。そっちかぁ……うん。良い子良い子。頑張ろうね、藍夏」
結局、顔を真っ赤にした藍夏はしばらくの間、亜澄葉さんに撫でられながら抱きしめられていたみたいなので、俺の気遣いは上手く行ったということで良いのだろう。
涙目で顔を真っ赤にした彼女は目一杯に俺を睨みつけて、唇を尖らせた。
「……薄雲、だいっきらい」
「ガハッ」
その一言は反則じゃない?
軽く、人が死ぬぞ。
✳︎
そんなゴタゴタはあったのだが、宮城家訪問の本命はまた他にあることを忘れてはいけない。
亜澄葉さんに「好きな物を持って行って」と伝えられ、俺と藍夏は幾つかのお菓子を片手に藍夏の部屋へと雑談の場所を移していた。
母親の胸の中で冷静になったのか、藍夏の調子は完全にいつも通りの無表情に戻っている。やはり、母は強しというものなのだろう。ヒーラー的な役割すら熟せることは今日初めて知ったが。
そんなこんなの藍夏さんだが、内心では、今までの言動について後悔を重ねまくっているに違いない。
目線が泳いでいたり、声が震えていたりと、無表情にはなっていたが挙動は割と不審であった。
「…………さて、じゃ、仲直りしよーか」
「……仲直り?」
ベッドの上に腰掛けた藍夏を、テーブルを挟んで床に胡座をかいた俺が見上げるような状態で話を進める。
この構図は昔から変わらないものだった。
何でも見下ろされていると緊張で話せなくなり、目線を揃えると恥ずかしくて話せなくなり、隣に座ると存在を意識して思考が回らなくなるとのことである。
俺にはわからんが乙女心は複雑なのだとか。
それまでは一貫して挙動不審な態度を取り続けていた藍夏だったが、俺の言葉を聞くと、何故か純度百%の疑問符を浮かべていた……一貫して挙動不審って何?
「…………ごちゃごちゃ、事態をややこしくしたくないからな。お前が俺から離れたいって思った理由を教えて欲しいんだ。治せることなら、絶対に治す。だから――」
「ちょっと待って」
悪いことをしたら謝るのは当然のこと。
要望があれば伝えるし、伝えてほしい。
意味のないすれ違いなんかで、この縁を手放したくなんてない。
そんなことを考えながらの申し出に、藍夏は何故か物凄い渋面を浮かべてみせた。
良いことがあったような、それだけではないような、といった複雑そうな顔である。
「…………薄雲」
「なんだ?」
「それしか、聞いてない?」
「え、あ、うん。なんかお前が俺から離れたがってる、みたいなことを聞きまして……」
自分で言いながら、藍夏にそう思われていることに対してダメージを受けていると、彼女は盛大なため息を吐く。
次に浮かべた「仕方がないか」とでも言いたげな横顔からは、何やら決意のようなものが感じ取れた。
「………………薄雲、一度しか言わないよ」
「…………お、おう。どうした?」
少し顔を俯かせた藍夏は、気をつけないと聞き逃してしまいそうな小声でそう前置いた。
「…………約束。信じているのは、貴方だけじゃないんだよ?」
それは、約束をしたあの日から今日に至るまで、二度は口にしてこなかった言葉。
十数年以上の時を経て、今も尚、残り続けていた俺と彼女の共通認識だった。
互いへの想いを口に出して確認することができていたら、そもそもこんな約束なんてしていない。
正直になれない彼女のことを思った契約だからこそ、それについて口頭の確認なんかは行ってこなかった。
更に言えば、確認をしなかった本当の理由は、それだけじゃない。
どちらかが「約束を覚えているか」なんて聞いてしまえば、それこそが相手のことを信用していないかのような証になってしまいそうで、それが怖かったから、俺たちはいつも曖昧なやり取りでこの約束を誤魔化していたのだ。
そして今、その禁忌を藍夏は自ら破ってみせた。その行動に、どれほどの勇気が必要だったのか、俺に推し量ることなんてできるわけがなかった。
生じた僅かな沈黙の中に気まずさなどは決してなく、ただ穏やかな心中を二人揃って共有しているような感覚だけがそこにはあった。
結われた髪を彼女が撫でる。
「……どう? 可愛い?」
「……おう、超可愛い」
いつになく自然に微笑んだ少女のことが余りにも愛おしくて、つい口が動く。
「そんで、とても綺麗だよ」
「…………恥ずかしいこと言ってる自覚ある?」
「全く? 本当のこと言って何が悪い」
「……黙って」
「はいよ」
途端に、すん、といつもの無表情が顔を出してしまい、ついつい苦笑する。
惜しいとは思ったが、がっかりなんてしなかった。
「…………ん、わかった。もう十分だ」
「……ならいい」
そっぽを向く藍夏。
仲直りだー! なんて勢いで話を始めたつもりだったが、根っこの所を正されては文句の一つも出てきやしない。
「……じゃ、お菓子食べたら、俺の家に戻ろうぜ。翠が昼飯作ってくれるってさ」
「…………そっか。楽しみ」
相変わらずの無表情。
こう見えて、彼女が翠の料理を心から楽しみにしていることなんて、他の人にはわからないのだろう。
そう思えば、この関係も悪くない。
この子の最高に可愛らしいところを独り占めにできているということなのだから。
幼馴染からの貴重なデレに珍しくホクホク顔になっていると、帰り際に亜澄葉さんから「襲われた?」と耳打ちされました。
百歩譲って不躾なのは置いといて、なんで選択肢が一個しかないんですかね?
序章終了。
モチベに繋がるので、よければ評価の方をお願いします。