5 看病と幼馴染
昼食にて、漫画や小説なんかによくあるお粥錬成イベントが発生する――なんてことはなかった。
俺は妹に言われた通りのゼリー飲料で空腹を紛らわし、藍夏に至っては学校で食べる予定であったお弁当を済ました顔で食べていた。
幼馴染の家でお弁当を食べるなんて経験は中々に珍しいのではないだろうか。
余談だが、翠にも藍夏にも飯マズ属性などはついていないので安心してもらいたい。俺も、料理は苦手じゃないしな。
体温を測り直したところ、熱は一気に下がっていて、37.5度と少し高い微熱程度の範囲に収まっていた。
少し高い微熱ってどっち? なんて疑問はニュアンスが伝わりゃいいので、考えないことにしておく。稀によくあるとかそんなのと同じ部類だろう。
そんなこんなの調子で、時間帯は午後へと移っていったわけなのですが、別にやることは何にも変わらないんだよな。
寝る。
ひたすら寝るの一択である。
眠くなくても横になっているのは、身体を休ませるだけでなく、自分が休んでいる立場であることを忘れないようにするためでもあった。
普段なら、俺もそこまで真面目に学校を欠席したことについて考えたりはしない。
体が動くようならスマホを触ったり、テレビを見たり、と好きなようにやることもあるだろう。
そうしないのは、優しい幼馴染を自分の失態に巻き込んでしまっているからだ。
ソファで横になる俺を、藍夏はテーブルの上に教科書を広げながら見守ってくれていた。
時折、二階にある俺の部屋から本や漫画などを持ってきて、それを読んだりもしているのだが、どれも息抜きの範疇に収まるものだった。
そもそも、藍夏は「教科書を読めばわかるでしょ?」を地で行くタイプの人間だ。
自分に必要な分の勉強だけをする、というのは彼女の肌に合っているのかもしれない。
「…………見過ぎ」
「お、バレたか。すまん」
「……眠れないの?」
「ご存知の通り、随分と長いこと寝てたしな」
「それもそうね」
パタンと藍夏が教科書を閉じる。
立ち上がった藍夏はキッチンの方へと向かい、少し前に準備していた電気ケトルを片手に帰ってきた。
「…………貴方の分はないわよ」
「流石の俺も、風邪で寝込んでるときにコーヒーを所望したりはしねえよ」
「なら、いいけど」
我が家の住人たちは皆揃ってインスタントコーヒーを好まないため、この家でコーヒーを飲むというのは必然的にドリップバッグのコーヒーを飲むことを意味する。
まあ、コーヒー豆がないわけではないのだが、一々ミルを挽くのも手間がかかるので、基本はバッグタイプだ。
藍夏がお湯を注ぐと同時に室内にコーヒーの香りが満ちていく。
カフェインを摂ると眠気を飛ばすことができる、というのは最早一般常識となりつつあることだと思う。
しかし、その香りは俺にとって気分を落ち着かせてくれるものであったので、眠ろうと努力している今においても悪いものではなかった。
バッグを捨て、砂糖などを加えることなく、藍夏はカップに口をつける。
味わうように瞼を下ろして、ほうと息を吐いた彼女の姿は実に絵になるものだった。
「…………だから、見過ぎ」
「……んー、ダメ?」
「…………」
返事はない。
複雑そうな顔をした後、ふいとそっぽを向いた彼女の頬は薄らと赤づいていた。
ほんといい顔するなぁ、この子。
ぼんやりと倒れた視界の真ん中に彼女の姿を捉えて続けて、そうしてどのくらいの時間が経っただろうか。
うとうと、と思考が半分以上眠気に侵されて、丁度微睡み始めた頃合い。
ピンポーンと無機質な音が鳴る。
今日の我が家のインターフォンは働き者だ。
身を起こそうとしたが、こちらを見た藍夏が首を横に振る。
彼女が若干、苛立っているように見えるのは、俺が眠りに落ちようとしていたのがわかっていたからなのかもしれない。
うちの幼馴染は優しいなぁと瞼を下ろして、そのまま身体を休ませようとしたときだった。
「…………え、はぁ!? 宮城さん!?」
どこかのクソ眼鏡の大声が、聞こえてきたのは。
✳︎
「へい、親友。美人な幼馴染に看病された一日はどうだったよ?」
「お前の顔を見るまでは、最高の一日だったよ。で、何の用だ、佐竹」
ニヤニヤとウザったい顔をしている友人に白けた目を返してやりながら、身体を起こす。
通知が来ていたスマホのメッセージアプリには、目の前の男からの見舞いに来る旨を伝える連絡と、翠からのスーパーに寄ってから帰宅するという伝言が残されていた。
「……じゃ、妹が帰ってくるから消えてくれ」
「流石に扱いが酷すぎやしないか?」
「普段からこんなもんだろ」
「それは確かに」
納得が早いな。
自分で認めちゃ、おしまいだろうに。
「……で、態々家まで来た理由はなんだよ? まさか、本当にお見舞いのためだけに顔を見せに来たんじゃないだろ」
「ま、それはそうだ。休日までベッタリって間柄じゃないしな。本題はあっち」
くい、と顎で玄関の方を佐竹が示す。
意味がわからずに疑問符が頭の中に浮かんだが、その答えはすぐに向こうの方からやってきた。
「…………調子はどう、紅夜」
「……なるほどね。今日一日休んで、体調は結構回復したよ。お前に風邪を引くなって言っておいて恥ずかしい限りだ」
「そうね。私もそう思う」
「フォローしろとまでは言わんが、傷口に塩を塗り込めとも言ってないんだよね」
「……私、変なこと言った?」
「言ってないから傷ついてんだよ、この不思議ちゃんめ」
出迎えに行っていた藍夏と共にリビングに入ってきたのは、昨日俺が傘を貸した相手である涼風美鈴だった。
佐竹は俺の家への案内係といったところか。
あと藍夏さん、表情筋死んでるよ?
視線が俺と涼風の顔を行ったり来たりしている様子はちょっと面白いが、それなりに恐怖心を煽られるのでやめて頂きたい。
「…………紅夜、紅夜って言った」
そっすね。
藍夏さん、いつまで経っても、どの時代でも、名前だけは面と向かって呼んでくれなかったですものね。
確かに努力はしてた。
隠れているつもりでも、すんごい頑張ってるのはよく知っています。
「あ、そうだ。薄雲、適当にゼリーとかプリン買ってきたから、冷蔵庫突っ込んでいいか? すぐに食べるなら、あーんしてやってもいいが」
コンビニにでも寄ってくれたのだろうか。
言われて気がついたが、佐竹は見舞い品としてビニール袋を片手に吊り下げて、我が家を訪問してくれたらしい。
妙なところで礼儀正しいのは、普通に好感が持てるので腹が立つ。今度、ジュースでも奢り返してやろう。
「野郎からのあーんとか、何の罰ゲームだよ。笑い話にもならんわ」
「だよなー。そんじゃ、適当に――」
「野郎じゃなきゃいいの?」
いつもの佐竹の冗談――だったのは、つい先程までのこと。
天然さんが首を傾げての発言により、幼馴染さんの発する圧が急激に増加した。一人だけ、バトル漫画のキャラクターみたいな性能をしている気がするが、割とよくあることなので気にしない。
わかっているさ。
チヤホヤしてくれる相手ならば、誰が相手だろうと関係なしに喜んでしまえる人間など、節操無しに違いない。
「なあ、佐竹」
「ふっ、決まってるだろ」
そして、野郎どもは目を合わせ、声を揃えて深く頷くのである。
「「相手が野郎じゃなきゃご褒美です」」
まあ、男って大体そんなものなんだけどね、と。
「もしかして死にたいの?」
「滅相もございません」
「やーい、怒られてやんの」
「お前は殺す」
「殴ってから言わないで!?」
因みに、俺と目が合えば自動的にフリーズモードに移行してしまうことからも察することができるのだが、周りに人が居ようが居まいが関係なく、俺が近くにいるときの藍夏さんは塩対応状態になっている。
そのため、天真爛漫な藍夏さんがこんな暴言を言うだなんて!? なんてことにはならないので安心して暴言を吐いてもらうことができるのだ。
いや、出来ることなら、暴言なんて吐かないで欲しいんだけどね? 塵ほどのダメージにもなってないのは言うまでもないのだけれど。
「……紅夜」
「ん? どした」
「……これ、返す。ありがとう」
涼風が渡してきたのは昨日貸した折り畳み傘。
ついでにクッキーなどが入ったお菓子の袋。
見たところ、売り物のようだ。
逆に気を遣わせてしまったようで申し訳ないが、向こうが感謝の気持ちを伝えてくれたのなら、真正面から応えるのが礼儀というもの。
「おう。どういたしまして」
「涼風さんに傘を渡して、自分は濡れながら帰ったんだってな。かっけーことするじゃねえか」
「その結果、自分が風邪引いてちゃ、格好つくもんもつかねえだろ。どうやらスマートなヒーローの才能はないらしい」
「逆にあると思ってたの?」
「グサグサくるなぁ、相変わらず……悪意はないんだろうけど」
純粋な疑問の目をするのやめなさい。
叱るに叱れないから狡いぞ、お前。
ブレない涼風に半ば感心しながらも呆れていると、彼女はついに幼馴染様へと悪意なき質問の矛先を向けた。
「……宮城藍夏、その顔どうにかならない?」
「…………どうって?」
「笑うなり、怒るなり、泣くなり、好きにしたらどう? と言ったの」
「…………別に、必要ない」
「思ってもないことを口にしないで。貴女はそれが嫌で私に話しかけるんでしょ」
どうやら、藍夏が常に無表情でいることが気にかかったようだ。
淡々と事実を連ねる涼風に、藍夏は僅かに怯んだような表情を見せる。
真に彼女のことを思うのなら、成り行きを見守るというのも選択の一つだとは思ったのだが、ここは一度ストップをかけるとしよう。
我関せず、といった顔をしている佐竹にも腹が立つし(八つ当たり)。
「涼風」
「…………?」
「そこまでだ。人間って、そんな単純にできてないと思うよ」
涼風美鈴は自己にも他者にも正論を突きつける。
それは彼女の美点でもあるが、わかりやすい欠点でもあるのだろう。
頭でわかっていても、行動に移せない。
もしかしたら、そんな常人には当たり前の概念が涼風の中にはないのかもしれない。
「そういうもの?」
「そーゆーもの。お前も色々考えてはいるんだろ?」
藍夏の方へ視線を放る。
ほんの僅かな、けれども確かな頷きを、彼女は返した。
少々、真面目な雰囲気になってしまったリビングの空気を変えたのは、しばらくの間、無言を保っていた佐竹だった。
「……コホンッ、じゃあ見舞い品も渡したし、最後にもう一個情報置いて引き上げるとするわ」
「見舞い以外の目的が続々と出てくるな……」
「いやー、偶然にも宮城さんと一緒に居たみたいだから、丁度いいかなって」
「…………丁度いい?」
藍夏の無表情にも慣れてきたらしい佐竹は普段の調子を崩すことなく、話を続ける。
「遠足のメンバーのこと。あれ、五人班なんだよね」
「この場に居るやつと、あと一人いるわけだ」
「そういうこと。で、それが誰なのかを発表しましょうというわけですよ」
勿体ぶった言い方をする佐竹の横で、ジト目の涼風が口を開く。
「――藤堂颯」
「……は?」
「え?」
「ちょ、先に言われた!?」
告げられた最後のメンバーの名前は、藤堂颯。
それは、我らがクラスの誇る陽キャ中の陽キャ。
宮城藍夏と対をなす、金髪の爽やかイケメンサッカー部様の名前であった。
✳︎
「ただいま。良い子にしてた、兄さん?」
「お母さんか」
「我が家の母はそんなこと言いません」
「知ってた」
「…………ん、誰か来てた?」
「おう。藍夏とクラスメイトが二人、見舞いに来てくれてな」
「なるほど。良かったね…………藍夏さん、相変わらずだなぁ」
「何か言ったか?」
「大したことじゃないよ……それより、何か食べたいものある? 顔色もいいし、揚げ物以外なら要望に応えてあげましょう」
「んー? 素麺とか、うどんでいいぞ。お前も、今日は俺の面倒見て疲れてるだろ」
「え、ほんと? なら、そうする」
「……『お腹減ってるみたいだから、何か美味しいものでも作ってあげて』か。藍夏さんの気遣いを無碍にするのは、忍びないけど……今日は兄さんに甘えるとするかな」
帰宅した少女は友人から送られてきていたメッセージに表情を緩ませながら、夕食の準備を始めるのだった。