4 幼馴染と風邪
涼風とファミレスに寄り道をした翌日。
何だか妙に重たい身体を引き摺って身支度を整え、何だか妙に熱っぽい身体に鞭打ち朝ご飯の支度をし、何だか妙に咳が出る身体を――
「……ねえ兄さん、何か私に言うことない?」
「……ぁ? ん……今日も、可愛いよ?」
「バカップルの第一声か何か? 息も絶え絶えに愛を伝えてくる兄さんとか、妹からしたら恐怖の塊でしかないから…………はい、体温計。あと、早くソファで横になる! 布団は後で持ってきてあげるから」
まぁ、その……ね?
風邪、引いちゃった♪ みたいな感じ?
ぶっちゃけ、やばい。
何がやばいって、絶対に涼風に気を遣わせるのがわかりきっているのがやばい。
アイツに風邪ひくなと言った身からすれば、醜態以外の何物でもないぞ、これ。
昨日までは滅茶苦茶元気だったんだけどな。
調子に乗って、夜更かししちゃったのが原因だと思いますね、はい。
妹に甲斐甲斐しく看病をさせてしまっている件については、マジで申し訳ない。
バレないと思ったんだけど、見通しが甘かったか。
「…………だっるい」
「見ればわかる。はい、氷枕と冷えピタ。自分で貼れる?」
「流石に、貼れる……けほっ……マスクある?」
「人に気を遣う余裕あるなら休んで。学校への連絡もやらないと……電話番号は調べないと、かな。流石に人伝てはダメだと思うし」
「それは、俺が……やるよ。ごめんな、翠」
「…………謝るくらいなら、って昔、兄さんに教わったんだけど」
「…………ありがとな、翠」
「ん、よろしい」
テキパキと自分の身支度も整えながら、並行して俺の看病をしていく翠には本当に頭が上がらない。
尚、現在も家を空けている我が家の両親に家事を期待するのは無駄である。どちらも特殊なスケジュールで働き詰めているため、いつ帰宅するのかもわからないような生活をしているからだ。
決して、育児放棄にあっているわけではないので、安心して欲しい。そこに関しては、顔を見せる度に過干渉してくるぐらいなのですよ。
さてはて、そんな家庭の事情も背景にあり、不出来な兄のお世話もあり、と朝っぱらから大忙しの翠さんだったが、最後まで彼女に慌てるような姿は見受けられなかった。
本当に年下かと疑いたくなるレベルである。
「じゃ、私もう行くから、何かあったら連絡すること。お昼はゼリー飲料で我慢して、水分補給はキチンとすること。いい?」
「……はい」
因みに、熱は38.7度あった。
ただの風邪にしては、我ながらびっくりの高熱である。
身体のダルさは悪化の一途を辿っており、次第に思考の処理までもが遅くなっているような気がした。
感覚で言えば、何だか、少し遠くの方から勝手に口が動いている自分を眺めているような、そんなふわふわとした感じだ。
というか、正常な思考動作をしていれば、妹に対して直球で「可愛い」などと伝えたりはしない………………いや、別にするときもあるな。
俺に気を遣ってか「行ってきます」は普段よりも控えめな声量だった。
翠が学校へ行き、家の中には沈黙が満ちる。
ソファへ横になり、上から布団をかけられている状態の俺だが、学校へ欠席の連絡をするまでは眠るわけにはいかない。
幸い、携帯は妹が枕元に持ってきてくれていた。
本当に出来た妹過ぎて、血の繋がりを疑いそうになる。いや、万が一にも血が繋がっていないと判明した場合が恐ろしすぎるので、思考するのはここまでにしておこう。
「……連絡、は……学校にかければ、いいか」
欠席の際に使う連絡手段は他にも用意されていたような気もしていたのだが、どうにも頭が回らない。
頭痛というほどのものはない。
ぼうっとした状態が続くだけで済んでいる今のうちに連絡はやってしまおう。
身体を起こして、インターネットで学校のホームページを開く。
ページの一番下までスクロールをして、そこに並んだ数字の羅列を記憶して――
「…………やべ」
手を滑らせて、スマホが床へと落下する。
他に連絡の手段もないので、ソファから立ち上がって携帯を拾い上げた。
「…………意外と……ケホッ、動けるか?」
普通に動けるようであれば、無理をしなければ学校に行っても……などと考えそうになったが、やっぱ無理だな。
学校に行ってからぶっ倒れても、迷惑をかけるだけだ。
流石に、涼風に虚勢を張るためだけにそこまでのリスクは背負えない。
大人しく、学校に連絡をしようと電話をかけようとしたその直前だった。
家に響き渡るピンポーンという無機質な機械音。
「……………………藍夏か?」
ぼんやりとした思考のまま、マスクをつけて玄関へと向かう。
翠が当然のように鍵をかけて家を後にしていたことに、らしさを感じつつ、ドアを開ける。
「……よー、藍夏……おは、よう」
「……おはよ――――ひゃっ」
そこに立っていた幼馴染の姿を見て、全身から力が抜けてしまった。
前方に倒れそうになるところを、藍夏に支えてもらう。
「……なになになになになになになに!? 近っ、というか熱い!?」
動揺からか目を回した彼女がすごい勢いで何やらを呟いていたが、それを聞き取れるほどの余裕はなかった。
「……すまん。風邪、ひーた」
「み、見れば、わかりまふ」
自分の身体が楽になるような姿勢を探して、藍夏の肩に俺の頭が乗っかる形となる。
彼女のひんやりとした首筋が肌と触れ、自身が熱を帯びていることも後押しして、心地良さを覚えた。
「……ん、ぁ……ちょ、ちょっと待って。こ、心の準備が――」
……あぁ、この体勢、落ち着くなぁ。
「…………、…………」
「ね、眠ってる……!?」
まさか。
少し……休んでいるだけですとも。
流石の俺も、幾ら風邪だからって女性に身体を預けて睡眠だなんて……あっ、待って、意識がやばい。
……肌冷てえし、すべすべだし。
なんか、落ち着く匂いするし……まっずい。
これ……絶対、に……眠る、やつ。
✳︎
俺が目を覚ましたのは、リビングのソファの上だった。
眠る前までの記憶がぼんやりとしており、誰かと何か話をしていたような気もするのだが、その相手も内容も覚えていない。
「………………ま、いいや。どのぐらい寝てたんだ、俺」
随分とスッキリした思考の状態から、かなりの睡眠時間を要したのではと予想したのだが、時計の針は丁度、正午を示していた。
五時間は眠っていないという所である。
身体を起こす。
全身にあったダルさもかなり抜けていて、体感では熱もかなり退いているような気がした。
これは完全復活でいいのではとソファから立ち上がった際に、僅かに足元がよたついた。
倒れるほどではなかったが、まだ体調が万全だとはとても言い切れない状態のようだ。
それでも睡眠前に比べれば、体力が回復しているのは確かである。
汗もかいていたので、ひとまず顔でも洗おうと洗面所へ向かうことにした。
……無理して制服に着替えなきゃよかったな。汗すごいだろうし、ソファで寝たせいでくしゃくしゃだ。
歩きながらシャツのボタンを外しきり、上半身を肌着のみとした状態で洗面所に入る。
「……マジか、お前」
「………………ッ!? お、きたの?」
そして、洗面所にてここに居るはずのない幼馴染の姿を確認して、絶句した。
手元には水桶とタオル。
誰がどう見ても、俺の看病をしてくれていたのは瞭然であった。
「……………………――っ、ありがとう、藍夏」
「……うん」
ほんの少しお礼を言うことを躊躇ったのは、彼女がここに居るべきではないと考えたからだ。
どうして俺なんかのために学校を休んでまで、そんな発言をしそうになったことを、俺は恥だと思わなければならない。
それは彼女の優しさを否定することになる。
正しさなんて求めずに、我欲を優先した彼女の想いを裏切ることになる。
だから口にするのはお礼の言葉だけでいい。
大体看病をされている身で意見を物申すとか、何様だって話でもあるし。
「……今度、お前の母さんに謝りに行かねーとな。あと、お礼」
「…………ん」
「なんか、いつもより口数少なくないか? それにツンツンしてない」
「煩い。いつもツンツンしてないから」
さいですか。
とりあえず、シャツを洗濯機に放り込んでから顔を洗った。
そしてタオルで水気を拭っていると、何やら胸元に熱い視線が。
「やだ、えっち」
「な!? や……ちがっ、くて……」
「冗談だよ。見られて困るもんでもねーしな」
「何も見てないから!」
……今、この子、俺にわかるぐらい顔を赤くしたんだけど。
本当に珍しいこともあるものだ。
藍夏の無表情がこうも容易く崩れるのなんていつぶりだろうか?
ここ最近の藍夏からは、どこか今までの彼女とは違うような意思を感じる。
それが何かはまだわからないけれど、決して悪いことではないのだろう。
それはさておき、藍夏が恥ずかしがって後ろを向いてしまったので、これ幸いと肌着を変えてしまうことにする。
上半身裸になったついでに、用意してもらったタオルで体も拭いてしまおう。
……今、こっち向かれたら怒られそうだな。
懲りもなくそんなことを考えていると、ふと思い出したことがあった。
「そういえば、学校への連絡って――」
「もうやった」
「…………一応聞くけど何て言ったの?」
「……? 貴方が風邪を引いたから、看病をするって言ったけど」
「……俺、お前のそういう謎に正直なところ結構好きだよ」
「褒められてる気がしない」
よくそれで欠席の権利を勝ち取れたな。
……最悪、後日の呼び出しを覚悟しておこう。
少しの間、背中合わせの状態で話を続ける。
気がつけば、体調の悪さなどは気にもならなくなっていた。
何の意味もない言葉のキャッチボール。
俺は、何を問うこともなく、テンポの良いその会話に付き合い続けていく。
何か話したいことがあるのだろう。
何か言い出せないことがあるのだろう。
「………………っ、…………」
「…………藍夏、そろそろお昼にしよう」
「――そうね」
そして、やっぱりそう簡単には伝えられないから、今があるのだろう。
着替えを終えて、リビングへ戻るように彼女を促した。
俺に背を向ける藍夏の右手は、固く固く、痛いくらいに力強く握り締められていた。