表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

七人の古木義光

作者: 賀来真一

七人の古木義光


              賀来真一


         一


 オレンジ色のパイロットランプが点滅して弱い着信音が鳴った。

 「駒ヶ根さんとおっしゃる方からです。」

 「知らんな。」

 「相続に関するお話です。」

 「だったら、中川君に廻してくれ。」

 「いえ、所長が相続人だそうです。」

 「あ?何言った、今。」

 「お繋ぎします。」

 吉田はいつもオレの返事なんか聞かずに電話を廻す。いつでも自分の意思だけがはっきりしているその態度が、オレは気に入ってもいるのだが。

 「古木義光様でいらっしゃいますか。」

 電話の声の主は、年配で折り目正しい世慣れた様子の人物である。

 「所長の古木ですが。」

 「早速さっそくですが、お電話いたしました用件から申し上げます。実のお父様が亡くなられましたので、相続についてのお話を差し上げております。」

 「私の父は随分以前に・・・」

 「存じ上げております。二千五年の電車事故でお亡くなりに。しかし、その時に亡くなられたのは実のご両親ではございませんでした。実際のお父様は最近亡くなられて、それで大変遅ればせながらこうしてご連絡を差し上げております次第でございます。」

 「ちょっと何をおっしゃっているのか、飲み込めませんが。」

 「詳しくはメールをお送りいたしますので、どうぞそちらをご覧くださいませ。それではどうぞよろしくお願い致します。」

 何とも奇妙な話だった。しかし、先方はそのまま電話を切ってしまった。

 わけがわからないまま電話を終えると、ほどなくしてメールが来た。そうして自分は、その週の土曜日を迎えた。本来なら同業者の情報交換を兼ねたゴルフコンペの予定が入っていたのだが、面倒になってキャンセルしたばかりだった。弁護士同士の約束なんて、どんなに直前でも「差し支えができた」と言えばそれで許されるので、お気楽と言えばお気楽なものなのだが。


         二


 自宅マンション前の車寄せにクルマが止まっているはずだった。

 一泊分の出張支度をキャリーバッグに入れて転がし、もうひとつ書類カバンを下げて玄関ロビーに出ると、コンシェルジュの北田さんが緩やかに会釈をする。北田さんはこのマンションができてからずっとこの場にいて、このロビーで起こるすべてのことを観察している。このマンションに住む誰かに何かが起こった時、もしも警察官から「その方に、最近何か変わったことがありませんでしたか?」と質問を受けたら、即座に「三つほどあります」とか言って服装、挙動、表情で何がいつもと違っていたかを簡潔に答えられるような人である。それでいて、北田さんは誰かの目を正面から直視することが一切ない。伏し目がちで、しかし、取りこぼしなく観察するのが北田さんの流儀なのだろう。

 北田さんに会釈を返して、自分は自動ドアの外に出た。すると車寄せの右側に黒いクラウンが停まっており、白い手袋に白髪交じりで帽子を目深にかぶった、いかにも運転手らし過ぎる運転手が自分に微笑みを寄越した。彼は、まるで毎朝そうしていたかのように自分のキャリーバッグをトランクに押し込むと、何かしらの疑問文でも語るように自分が持っていた書類カバンの方に手のひらを向けた。自分もまた手のひらを返して彼に見せることでそれを断り、後部座席に乗り込んだ。すると音もなく彼はドアを閉め、運転席に滑り込んだ。

 「お飲み物とクッキーもそちらの箱に入っておりますので、どうぞお気楽にお時間をお過ごしください。」

 そう言ったなり、クルマは静かに移動をはじめた。ハイブリッドらしい静かな滑り出しである。

 これから何が起こるのか、運転手に聞いても何も答えを得られないことはメールでしつこいほどに強調されていたから、そんなことをするつもりはない。それに実際、来週の公判のために読まなければならない資料がずっしりあった。それらに目を通すうち、クルマはいつの間にか中央高速を降りて、そこが一体どこなのかもうかがい知れない鬱蒼うっそうとした深い緑に埋もれた山道に入っていた。


         三


 時刻は指定された午後七時よりは幾分いくぶん早かったが、自分は割り当てられていた二階の一室を出て、一階の食堂に降りてみることにした。ここは重厚なつくりの洋館で、手入れも行き届いており、おそらく電話の駒ヶ根氏が言っていた自分の父親とされる人物が、この屋敷にごく最近まで住んでいたのだろうと想像された。食堂もまた、マホガニーの壁にぜいを尽くした精巧な装飾が造作されており、巨大な一枚板のテーブルは、表面が輝くほどに丹念に磨き上げられた紫檀ローズウッドだった。そして、その食堂にはふたりも先客がいた。

 ひとりは、一目でスーツを着慣れていないことがわかるサイズの合わない安物を身に付けた男で、右側の奥の座席に座っていた。そのサイドには二人分の椅子があったのだが、向かい側には三人分の座席が用意されていて、そちらの奥には、おそらく僧侶であろうと思われる坊主頭ながら、スーツ姿がしっくり似合っている中年の人物が座っていた。

 ともあれ、自分は最も手前側、何人かがここに集合するのであれば、最も仕切りをしやすいだろうと思われる、主人側に対面する位置の席に座りながら、二人のどちらにともなくひとりごとように低い声で口を開いた。

 「古木と言います。どうぞよろしく。」

 僧侶の方はちょっとこちらに顔を向けたが、右側の人物は姿勢を崩さないままの姿でためらいがちに、

 「高橋芳夫です。」

と短く答えた。

少しの間があって僧侶が、

 「俗名で申しますと、わたくしは古木義光でございます。」

と言う。

 さらにちょっと時間差を置いて、自分が、

 「あの、ワタクシも古木義光と申します。」

と返事を返すと、何故かその場は、可笑おかしさを含んだなごやかな空気に変わった。そう言われてみれば、僧侶の古木義光は、自分にかなり似ているような気もした。そして、高橋芳夫氏もそんなに遠い他人ではなさそうに見えた。

 「おやおやおや、こんなに大勢さんで一体何事でしょうか。わたしはてっきり自分ひとりが招かれたと思ったんですが、さてさて皆さんは一体どんなわけがあって、こちらにおいでになったんでしょうか?」

 その声は、派手な明るい柄物のジャケットを着た芸能人風な人物だった。

 「わたくしの名は古木義光。しがない演奏家をいたしております。いや、おりました、と過去形で言うべきなのかも知れません。本日のお話の内容如何いかんですけれどもね。さて、皆様方は一体どのような子細しさいがあって、本日こちらに来られたのでしょうか?」

 この人物のこうした横柄さは、ひょっとしたら自分もそっくりであるのかも知れない、と少し反省する気持ちにもさせられたが、それでも自分は、わざとぶっきらぼうに答えることにした。

 「我々も招待を受けたんですよ、あなたと同じくね。そして、わたくしとこちらの紳士は名前もあなたと同姓同名ですので、おそらく今日は非常に面倒な一夜になりそうです。」

 芸能人風な男は、芝居がかった様子で取り乱し、

 「いやいやいや、どういうことですか?わたくし以外にも招待客がいらしたとは。それで、えっ、名前までもがわたくしとかぶっている?何とも嵐が来る直前のような不気味ぶきみで怪しい予感がいたしますねえ。」

 すると、元気そうなせっかちな足音がして、さらにもうひとりの人物が食堂に入って来た。彼は、我々に気付くと、黙って会釈をした。それをきっかけに芸能人風な男は自分と高橋芳夫氏の間の席につき、そして、新たに入って来た、銀鼠シルバー・グレーのタートルネックのセーターにしゃれた青藍インディゴ・ブルーのブレザーを羽織った人物は、自分の左側の席に座った。

 芸能人風の人物は、新たに入って来た人物にぞんざいに話し掛けた。

 「まさかあんたまでが古木義光じゃあるまいな。」

 言われた人物は少し驚いて、

 「失礼ですが、なぜわたくしの名をご存知なんですか?」

 「うっひゃあ、一体何者なんだ、古木義光っていう名のこのオレは?いやあなたは?あるいは我々は?」

 左隣の男は助けを求めるように自分の方を向いた。

 「これは何とも、説明しがたいことなんですけれども、わたくしも、そしてこの人物も、それからあちらに座っておられます剃髪の方も、全員が古木義光という名前を持っております。そして、あちら側の方は高橋芳夫さんと言います。これでは何の説明にもなっておりませんが、我々が知っていることは、今現在その程度のことでしかございません。」

 「すいません。立ち聞きをさせていただきました。そして、皆さんのご期待通りなのかどうかわかりませんが、わたくしも古木義光と申します。」

 あつらえ物の暗灰色ダークグレーのスーツに濃紺色ネイビー・ブルーのストライプ柄のネクタイを合わせた、極めてトラディショナルな、渋い趣味の人物がそう言いながら、この食堂に入って来た。そして、一同に会釈しながら、彼はタートルネックの古木と僧侶の古木の間に座った。

 彼らが皆、席に着いたのを見計らって、自分は口を開いた。

 「さて、わたくしが想像するに、我々は皆、突然に父親が亡くなり、相続の件で話があると言われてここに集まった、ということなのではないでしょうか。」

そう言って、席に着いた皆の様子を伺うと、まさに自分が予想した通りであることが確認された。

「その結果、ここに到着してみたら、自分と同じ名前を持った人間がこんなにもたくさんいるのを発見した、ということですね。」

 自分がそこまで語ると、その時、大きな声がホールに響き渡った。

 濡羽色グロッシー・ブラックのトレンチ・コートを脱ぎもせずにずかずか入って来たその人物は、食堂に入るや、我々一同を見て、一瞬ひるんだように見えたが、咳払いをすると、

 「おう、揃とるな、ぎょうさん。ご苦労さん。ワシは・・・」

と言い掛けるので、自分が機先を制した。

 「古木義光さんだろ、おたく。そして、ギャンブル覚悟であなたに関する情報を言えば、千九百八十年八月三日生れだ。そして生れは、関西ではなくて東京の板橋区。」

 さすがに意表を突かれて、男は言葉に詰まった。やや間を置いて、

 「よう調べとるやんけ、わしのことを。」

 自分は、ニヤリとして男をにらみつけた。

 「別に調べたわけじゃない。わたしはただ自分のことを述べただけです。」

 男は随分わかりやすく驚いていた。感情がすぐに顔に現れるような男だった、この古木義光は。

 「わけのわからんことを言うヤツやな。誰か、ワシにもわかるように説明せえよ。」

 すると自分の左隣に座っていたタートルネックの男が答えた。

 「古木さん、この中に何がどうなっているのかを説明できる者はひとりもいませんよ。誰にも何もわからない。それが今の我々が置かれている状況ですね。」

 大声の主は、周囲を威嚇いかくするように肩をいからせながら部屋の奥に進み、自分のちょうど反対側、主人が座るべき上座に当然のように陣取った。

 すると、まるでそれが合図ででもあったかのように、執事のような人物たちがどこからともなく現れた。

テーブルを囲んだ各自の座席の前にはすでに紅紫色こうししょくのビロードで織られたテーブルナプキンが敷かれており、その上には鈍くきらめく銀色のナイフとフォークが並んでいたが、そこに光沢も鮮やかなカクテルグラスが配られた。

そのグラスの中は、美しく粉砕された氷の上に、まだ生きているかのようなエビが小奇麗に整えられており、中央部にめ込まれた切子細工のガラスジャーの中には、あやしいまでに牡丹色ぼたんいろをしたソースが添えられていた。

さらに執事たちは、配り終えたカクテルグラスの前に、小動物が描かれた小ぶりのカクテルフォークを添えながら、同時に銘々から飲み物のオーダーを取り始めた。

個人の邸宅でレストランのようなサービスを受けることに、何だか場違いな落ち着かなさがあったが、まずは状況がわからない中で気を抜くこともできないので、自分はペリエを頼むことにした。最後に入って来たやくざ者めいた古木氏はワインに詳しいらしく、結構珍しい種類の銘柄をオーダーしていたが、この家のワインセラーは立派に充実しているようで、その面倒くさそうなオーダーにも応えることができた様子だった。

 一通りこれらの手順が終わると、執事のひとりがやくざ者風な男の脇に立ち、挨拶をはじめた。

 「皆さま、遠路足をお運びいただき、まことにありがとうございます。皆さまに今からご覧いただきますのは、ある方のメッセージでございます。皆さまにとりましては重要なメッセージであると存じますので、ぜひしっかりお聞きいただければ、と存じます。」

 彼が静かにその場を引き取ると、照明が落とされ、やくざ者の背後にあった大きなモニターの画面に出力の合図が現れた。

 モニター画面に自分の父親とされる者の姿が今にも登場するのかと思ったが、そうではなく、画面には字幕しか現れず、その字幕通りに本人と思われる人物が発話する、という仕掛けだった。

 人物の声は、ゆっくりとした調子で、しかしやはり老人らしくしわがれてもいるトーンで話し始めた。

 「古木義光君、それに高橋芳夫君。こんな場所に連れて来られて、さぞかし迷惑されていることと思う。ワシは名乗るほどの者でもないし、諸君に名乗ることができるような立場でもない。ただ、君たちの遺伝子情報というのは既に入手、解析済みで、一応生物学的な意味では、自分は諸君の父親であることは間違いない。もっとも君たちに父親らしいことは何もしてやらなかったし、それについて言い訳するつもりもない。諸君の立場からすれば、豪邸に住み、不自由のない暮らしをしているワシが何者か、ということは好奇心の対象にはなるかも知れんので、一応の説明をしておくと、自分のして来たことは、言ってみれば世の中の川の流れを変えるようなことだったと思う。川の水は低い場所を求めておのずから流れを定める。カネもまた同様で、カネはみずから自分の流れたい方向に流れて行く。ワシはそういうカネの流れを変えるためにコツコツ努力をしたわけであって、実際にカネは自分が予想もしなかった分量でワシの元に入って来た。だが、問題はそこからじゃった。手に負えない分量のカネにまみれたら、人は我が身を滅ぼすことになる。そこで今度は、ワシはその流れをき止めることに必死になった。そうして、カネを集め、その後は堰き止め、その結果、カネは大きな池のようになって、自分の元に残った。それで気が付いておのれを顧みれば、自分はそのカネを思う存分使おうにも既にそれもかなわない、老いぼれ過ぎた老人になっていたわけだ。

 家庭を持つなどということはただの一度も考えたことがなかった。だが、人は老人になれば自分が死ぬための準備をしなければならない。はたして自分に血を分けた家族がいるのかどうか、そんな今まで一瞬だに考えたこともなかったようなことを考えざるを得なくなった。

 そしてわかったことは、自分の血を受け継いだ者たちの多くは、もう自分よりも先に亡くなっていたということだった。だが、ひとりだけ、と言えるのかどうかは今となってはわからないが、ともかく、古田啓二という男に預けた息子が存命であることまではわかった。

 だが、そこからが難儀なんぎだった。古木啓二は諸君の多くが知っている通り、下町で米屋をやっている男だった。ワシとどういう付き合いだったかは、説明する意味もないことだが、とにかくワシは古木におまえを預け、それからは、申し訳ないことだがまったくおまえのことは忘れておったと言ってもよかろう。だが、ワシは人生を賭けた自分の仕事がようやく終わったと思ったその後に、すっかり老いぼれになった自分自身の姿とあらためて向き合うことになった。そうなると、これはワシのまことに身勝手な都合だが、自分の財産をおまえに無事に託することだけが自分の目標になったのだ。

 古木が二千五年に電車の事故で夫婦して亡くなったこともそれから知ったのだが、その息子を探してみると、それは次々に見つかった。そのうちの六人はワシが名付けた義光を名乗っていたが、ひとりは別の名前を持っていた。そして、おまえたち全員の遺伝子情報は、先ほども言った通り、大変勝手ながら調べさせてもらったのだが、おまえたちは全員同じ遺伝子を持っていることも確かめられた。

 いくら耄碌もうろくした老人でも、同一人物がたくさんいる、ということがあり得ないくらいのことはわかる。しかし、事実は事実である。何がどうなっているのかをわからぬまま死んでしまうのも残念と言えば残念だが、それもまた運命だろう。ワシは自分が死んだ後、おまえと言うべきか、おまえたちと言うべきか、ともあれここにいる全員を集めて、おまえたち自身にこのおかしな現実をどう考えるのか、その判断を下してもらうことに決め、今日この日の集まりを段取りすることに相当な時間を掛けた。

 あり得ないことを体験するのは苦しいことだ。むしろ痛々しいと言っても良いだろう。ワシはそんな体験を何度も経験して来た。普通の、と言える人生を生きている者は実際には少ないのかも知れんと思うが、まあ日常的な人生を生きて来たおまえたちは、今日を境に謎の人生に入り込んでしまったと言ってもよかろう。だがそれも運命と思って、あきらめてもらいたい。

 さて、ここからが本題だが、今からおまえたちには、おまえたち自身でワシの財産を受け継ぐ後継者をひとりだけ選んでもらいたい。仮におまえたちが、財産を皆で分割したいと思っても、それはむずかしいだろう。何しろ国税はユーモアを理解しないボンクラの集団だ。同姓同名の者たち何人もが揃って相続するなどというバカバカしい話となったら、完全に怪しいとにらむに決まっているし、そもそも複数の同一人物で財産を分割するなんて、そんな非現実的なことは税法のはるか外側にあるだろう。そうなれば、ヤツらは誰への相続も認めずに国庫にすべての財産を入れてしまう、と相場が決まっている。だから、相続人はたったひとりでなければならん。それがワシの結論だ。ただ、おまえたちのうち誰が相続人になったとしても、国税だろうと誰だろうとその事実を認めざるを得ない書類上の体裁ていさいはすべて整っている。後は、誰かひとりだけが相続を実行することができるように、この場でその人物を選んでくれ、というそれだけがワシの望みだ。

 ワシに特に好みなどない。世間から反社会的と言われていようと、そんなこともどうでも良い。」

 ここで、やくざ者は喜んだのか、身体を大きく揺らしたのが微笑ほほえましかった。

 「おまえたちの中で、誰かが本物で他が偽物なのかも自分にはわからない。全員が本物であるかも知れないし、全員が偽物なのかも知れない。それもおまえたちが自由に決めてくれればよいことだ。ただ、決める過程で、暴力による威嚇を行った者がいれば、その者はただちに候補から外れることになる。それは厳格なルールとして申し述べておくことにする。自分の言いたいことは、それだけだ。後継者がただひとりに決まれば、その者にだけはワシの身分、履歴などがすべて明かされることになっている。それ以外の者には、今ここで起こっているこのことは秘密にしてもらうしかない。もっとも、もし誰かが事実を誰かに言ったところで、誰も信じないような話であるから、わざわざ秘密厳守と言う必要もないようなことではあると思うが。

さて、ワシの余命は短い。

それでは、おまえたち全員の幸運を祈る。

平成三十年四月三十日。」


         四


 照明が明るくなり、執事たちは、それぞれの目の前に残されていたカクテルグラスを取り去り、その代わりに少し青みがかった白磁の皿の上に美しく盛りつけられたサーモンのマリネを並べはじめた。

 さて、全員の頭が混乱しているはずだ。そうであれば自分が主導権を取らねばならない、おそらくはすっかり習慣化してしまった職業的な思考図式のせいで、自分はそう考えた。

 「まず、この老人が何者なのかの答えはありませんでした。しかし、彼が考えるこの集まりの目的が何なのかは、一応説明されました。それなら、その目的を果たすためには、まず我々自身、お互い何者なのかという情報を共有し合うことが、最初に必要なことなのではないでしょうか。」

 この私からの提案には、誰からも反論はなかった。

 「では、どうせ全員が自分自身を紹介することになることでしょうから、まずひとりだけ名前の違う高橋さんから、ご自分がどんな人物なのか、そのご紹介をしていただくことができますでしょうか。」

と自分が提案した。

 高橋氏は三秒間ほどじっと固定しているように見えたが、ゆっくり口を開いた。

 「先日、電話を受けてから、今この時まで、実は何が起こっているのか、まったく自分の理解が追い着いていない状態です。ですが、とにかく、自分が何者かについてなるべく簡単にご説明します。」

 「別に簡単でなくても良いんじゃないか。夜は長いようだし。」

とやくざ者がぶっきらぼうに言った。

 高橋氏は、それにはまったく無反応で、

 「私は山梨県の笛吹という地方で生まれました。父は幼い頃に亡くなったと母から聞いていたのですが、詳しいことは分かりません。ともかく、女手ひとつで自分は育ちました。」


★    ★    ★


 自分の家は、三十五年ローンを組んで建てた二階建ての一軒家だった。三十五年のローンなんてまったく現実離れしていると思ったが、しょせん将来のことなんて誰にもわからない。どのみちわからない人生を生きているのなら、とりあえず目の前の自分の力で何とかなる期間だけでも、まずは家族にとって都合が良さそうに思える選択をするしかない、と考えてこの家を建てたのだった。

 「ただいま。」

と普段通りに家の中に声を掛けると、

 「お帰りなさい。子どもたちはもう寝ました。」

と美和が言う。子どもたちはどうしているかと自分が必ず聞くから、そのように先回りをされたのである。

 食卓に着くや、

 「ちょっと話がある。」

と自分は言い、食堂の奥の引き戸に向かって、 

 「かあさん、まだ起きてる?」

と声を掛けた。

 母はすぐに出て来た。

 「おかえり、どうかしたの?」

 「あの、今日、会社に電話があった。それで、オレの父親が死んだと言うんだ。」

 「お父さんって、高橋のお父さんはあなたが小さい頃に亡くなって、お墓に入っていらっしゃるじゃありませんか。」

 美和は笑いながら言ったが、母は食卓の上の一点をじっと見つめたまま、何も言わなかった。しばらくそのままの時間が流れたが、やがて母が語り始めた。

 「いつかこんな日が来るんじゃないかと思ってはいたが、ついに今日来たんか。」

 自分は、自分の父親のことよりも、母が自分の知らない何か重大な隠された秘密のようなものを抱えて暮らしていたことを突然知って、あごに一撃でも食らったような軽いショックを感じた。

 「しかし、自分の口から何があったかは言えん。そんな電話を誰かが掛けて来たんじゃったら、その人の言う通りにして、自分が誰で、父親が誰なんかを自分で確かめてみたらよかろう。」

 それだけ言うと、母は自分の部屋に引きこもってしまった。

 美和は身体からだ中に驚きを表わして、言葉を失っている。ともあれ自分は、その日あった電話とメールの件を美和に説明したのだったが、そうやって話すうちに、それまでははたしてそんな筋の通らないような話に乗るべきかどうか迷っていたのだが、あの母の様子を見た今となっては、もうそこに出向くことが、どうしても自分が必ずやり遂げなければならない、家族のための神聖な義務か何かででもあるかのような気持ちになっていた。


★    ★    ★


 いつの間にか、それははるかに遠い記憶から、何だか実際にあったんだかどうだったんだかもわからない、役場の書類に何かが書いてあるんだったら、きっとそれが実際にあったことだったのに間違いない、そんなあやふやな過去になっていた。

 幼い芳夫を連れて、自分が行けるところと言えば、故郷の境川村しかなかった。そこに行けば、宇一おじさんがいて、おじさんだったらどんなことであっても何とかしてくれる、そう信じていた。いや、そう信じる以外、何の解決策もわたしにはなかった。

 宇一おじさんは、実際には親類であるわけでも何でもない。ただ、自分の父の家が地主であった頃、宇一おじさんは小作人をしていた。そして、父と宇一おじさんは村の小学校の同級生で、ふたりは心底信頼し合える友達同士だったらしい。

 GHQが命令した農地改革で田畑でんぱたが召し上げられることになった時、父は宇一おじさんが自分の土地を実際以上に随分広く買えるように頑張ったのだと聞いている。父は、どのみち小作人に売ることになるのだったら、農家の経営に真剣に取り組んでくれる宇一のような者に任せるのが一番だったからそうしたんだ、と自分には言っていた。むしろ父のように田んぼに入ることすら大嫌いな者が地主でいるよりも、宇一に引き取ってもらった方がなんぼ良いことかわからない、というように言っていた。

 農地を手放した父は、何だか小規模な商いをはじめたが、結局うまくは行かなかった。暮らしに困った自分たち家族を助けてくれたのが、宇一おじさんだった。「お互い様っつうのはこういうことだべ。」と宇一おじさんはいつも当たり前のように言っていた。

 ある年、インフルエンザが流行して、父も母も亡くなった。ひとりっきりになった自分は東京の叔母に引き取られることになったのだが、その支度をすべて引き受けてくれたのも宇一おじさんだった。

 それから幾年も経って、自分が幼い子どもの手を引いて境川村に突然現れると、宇一おじさんは、何だかとても喜んでくれた。「東京なんか人が住むようなところじゃねえ。田舎が一番だ。」そう言って、何も聞かずに自分たち親子を自宅に住まわせてくれた。

 ようやく村に落ち着いて、あたりの様子が少しずつわかって来るようになると、町の大きな病院に和雄が入院していることがわかった。和雄は自分の幼馴染であり、気ごころの知れた男だ。何でもやはり東京に出て、土木工事の作業員か何かをやっていたらしいが、転落事故でひどい怪我をして、地元に帰って病院に入院することにしたらしい。そして、ある日意を決して、自分は町のその病院を訪ねた。

 「良く来てくれた。ありがとう。これでオイラも未練なくこの世を去れるというもんだな。」

 和雄は上機嫌になり、とても喜んでくれた。

自分は、自分が東京でどうして暮らしていたのかを打ち明け、ある相談を和雄に持ち掛けた。

 「あたしと結婚してもらいたい。そして、この芳夫の父親だったと役場に言ってもらいたい。」

 「そりゃあ、芳江ちゃん、ホントにありがてえ話だなあ。このまま誰にも知られずに、ひっそりと死んで行くはずだったこのオレにもさ、よりによって芳江ちゃんのお役に立てるようなことが残ってたってことは、オイラにはホントに運がある。ぜひそうしてくれ。この子はオイラの子だってことに、仮に書類の上だけでもそうしてくれ。」

 役場の手続きは簡単だった。こうして自分と芳夫は高橋姓を名乗ることになったのだった。

間もなくして和雄は亡くなり、やはり宇一おじさんの差配で葬式も立派に行われた。そして、喪主であるわたしは、東京で和雄と知り合い、息子を授かったが、和雄は不幸な事故で亡くなり、自分たちは母と子のふたり暮らしになったのだ、というまったく現実とは違う作り話の主人公として、村では広く信じられるようになった。そして、その作り話が、いつしかまるで本当に起きたことででもあるかのように自分でも信じるようになっていた。それは結局、あの日の夜、芳夫が正体不明の電話の話を自分にした、その時までのほんのつかの間のことだったのだけれども。


★    ★    ★


         五


 不意に高橋氏は話を中断したのだが、それは自分が「あ」と大きな声を出したからだ。

 「高橋さん、お母さんの名前は高橋芳江さんというんじゃありませんか。」

と自分はふと思い付いたことを口にした。

 高橋氏はかなり驚いて、

 「はい、その通りです。母は高橋芳江と言います。」

と彼は語った。

全員の目が自分の方を向いていた。

 「そうですか。そうなんですね。高橋芳江、私はその方に誘拐されたことがあるんです。」

 誘拐、という言葉は高橋氏以外の全員にさざ波のように広がる反響を呼んだ。

 「誘拐?じゃあ、あの時の。」

 古木を名乗る者たちは全員が誘拐の記憶を持っているか、むしろ厳密に言うと、誘拐されたことがあると親に聞かされていた。私は、驚いている古木姓の全員に向かって解説をはじめた。

 「どうやら、古木義光という名前を持つ我々は、自分が誘拐されたと聞かされているようですね。もちろん私もそうです。そして、自分は弁護士という職業柄、自分自身が被害者であるこの事件について、かなり以前ですが調べたことがあります。当時、東京都板橋区で米穀商を営んでいた父古木啓二の長男、それ私ですね、二歳の時に誘拐されています。犯人はすぐにわかりました。高橋芳江。同じ町内に住んでいた彼女は自分を見掛け、衝動的に誘拐したと検察官に供述していたことになっています。おそらく誘拐された私は随分と可愛い子どもだったと推測されますがね。」

 このジョークはあまり受けなかったが、古木を名乗り、誘拐の話を聞かされている全員が同意の表情を浮かべたのは笑える反応だった。

 「ここで思い出したことがあるんですが、警察が作成した調書では彼女は私を、つまり古木義光をですね、自分の子どもであるとも供述しているんです。それで彼女は精神鑑定を受け、結果、精神が錯乱していたということになって、私にはケガも傷害もなく、古木啓二も彼女の起訴を望まなかったことから、この誘拐未遂事件は不起訴になっています。」

 高橋氏は、心底驚いた様子だった。

 「いや、わたしは物心ついた時から母子家庭で暮らしていました。自分が母に誘拐されたとはまったく思っていません。」

 私は、職業上のクセで、冷たく説明をした。

 「いや、あなたが今、何かを納得できているどうかは、問題ではありません。納得できる話は、我々がこの屋敷に来て以来、何ひとつありません。今はただ、それぞれの身に何が起きたのかをありのままに語っていただき、それを皆で理解し合うことしか解決に至る道はないんですよ、高橋さん。」

 高橋氏もあきらめた様子で、彼自身のヒストリーをさらに語り始めた。

 「父は、母の幼馴染だったと聞いています。しかし東京にいた頃、父が仕事で大けがをした関係で、我々家族は故郷に戻り、父はしばらく入院、療養生活をした後、亡くなったということです。

 働き手を失い、我が家の経済状態は決して楽ではありませんでした。しかしある時から、石和いさわ温泉街にある新聞販売店の切り盛りを任されるようになって、母は配る新聞や広告物を揃えたり、配達員のためにまかないの食事を用意したりし、わたしは小学生のうちから新聞配達をいたしておりました。そうやって、親子ふたりが働きながらどうにかこうにか暮らしていたような状態でした。

地元の石和高校を卒業した後、就職は韮崎市にある半導体製造装置業界の会社に入りました。今でもそこで生産管理という仕事を続けております。皆さんは社会のエリートといったご様子なので、わたしはどうもこの場には場違いであるような気がして、正直、気後れしますし、居心地もあまり良くないというのが、素直な気持ちです。わたしの方からご紹介できる話はそんなところですが、何か、ご質問でもおありでしょうか。」


 ここで自分の左隣に座っていたタートルネックの男が、ゆっくりとつぶやいた。

 「これは何だか、パラレル・ワールドが実在していた、という話のようですね。私をなのか、我々をなのかはわかりませんが、誘拐した女が誰にも発見されずに、そのまま山梨への逃走に成功していた。そういう現実が、我々一同の体験して来た現実と同時並行して、実際に存在していたということなのか。もしそうならば、高橋さん以外の我々もまた、それぞれ別々の時点で分岐したパラレル・ワールドを生きて来て、なぜか今夜、この屋敷に集合を掛けられて集まったと、そういうことなのでしょうか・・・。」


         六


 執事たちは、今度はサーモンの皿を片付けはじめ、各自の目の前に、赤い金彩唐草きんさいからくさの紋様で縁取られた意外なほど深さのあるスープ皿を置いた。中を覗くと、それは淡い澄んだ茶色の冷製スープで、中身は何だかはっきりとはわからないながら、何種類かの野菜と貝の身のようにも見えるものが沈んでいた。

そして、スープ皿を並べながら、執事たちは我々にステーキの好みの焼き方を尋ねた。自分がどう答えたかは覚えていないが、安い背広を来た高橋という男が何度も質問を聞き返し、「普通ので。」と答えたのと、やくざ者が「ほとんど焼かないレアで。」と答えていたことだけは覚えている。


やや沈黙の時が流れて、高橋氏の左隣に座っていた、派手目な柄物のジャケットを羽織った男が、やくざ者の様子をちらちら見ながら、

「では、こちらのめぐり順ということで、私の方からもお話させていただいてよろしゅうございますかね。何しろ今日は、あらゆる話が面白過ぎて、どうにも消化不良でいけませんが。いやお料理は素晴らしいですよ、シェフは一流だし、食材も贅沢だ。それについての文句はないんだが、それ以外についてはあらゆることが気に入りませんね。だがまあ、ここは自分の話をしなきゃいけないんですね。ええと、自分も誘拐された話は米屋の方のおやじから何度も聞かされております。それで両親としては、大事な息子だ、というわけでしっかり勉強するようにと環境を整えてくれて、私立の閉成中学に入る、ってところについては皆さんご異存ございませんでしょうか。」

古木を名乗る側は、全員が同意するようにうなずいた。

「そうか、こっち側は全員閉成の卒業生ってわけか。」

そこまで語ったところで、やくざ者が口を挟んだ。

「いいや、ワシは卒業しとらん。中退や。ま、ワシはあんたの話の腰を折るつもりはない。ただ、卒業はしておらん、という参考情報を一応述べておく、ちゅうことや。皆、閉成に通ったっちゅうことなら、中池のことは覚えとるか。」

中池透、あれは高校二年生の頃だったろうか、比較的仲の良かった同級生のひとりだった。しかし、彼には何だかませたところがあって、おそらくは実家が繁華街の飲食店経営者であったせいだろう、女の噂が絶えず、とうとう東京に居られない事情ができた、ということで中退してしまったはずだった。

「おまえらは、中池と一緒に退学することを考えなかったんか。」

とやくざ者は少し我々をバカにした調子で語った。

 自分の左隣の古木は、

 「そうか。確かにあいつは家出をする前、オレを誘うようなそぶりはあったな。しかし、そこにもパラレル・ワールドへの分岐があったとはなあ。」

と何だか楽しそうに言った。


 自分の右隣の派手なうるさい男は、またしても落ち着きなく周囲を見回すと、

「さて、まあオレの方は無事に卒業した口だ。それで、まずはオレの話を続ける。中退しなかったオレは、まあ諸君もおそらくそうであるように数学が割とできたもんだから、何だか調子に乗って東京鉱工業大学を受けたわけだ。そして、盛大にすべる。」

 「落ちたのか?」

 驚いたように叫んだのは、僧侶の右隣の男だった。

 「いやいや、逆に聞くが、あんたは受かったのか?」

 「いや、当然だろう。」

 語り手になっていた男は、派手な柄のジャケットの肩を揺らしながら、妙なところで動揺していた。

「合格するという人生が、実際にあったってことか。」

しばらく彼は何かを考えていたが、

「まあ今さら何かを反省しても、それは無駄ということだな。人生に反省ほど無駄なことはないわけだからな。よし、じゃあ鉱工業大学に落ちたところからオレの話は続く。さて、オレは千駄ヶ谷予備校に通うことになるわけよ。」


「予備校に行ったのか?」

今度いくらかふざけた調子で叫んだのは、私の左隣の男だった。

「まあいいや。自分の話は自分の順番で話そう。少なくともオレは予備校にも行かなかったし、大学にも行ってない。」

「いやもう、いろんな人生があり過ぎて、困ったもんだな。しかし、オレの人生はまあオレ自身のユニークな一回限りのものであるからして、とにかく話を続ける。予備校に行くにあたって、オレは自分の人生ってものを考え始めた。そして、弁護士をやろうかと思って亀田大学法学部を受けると親にも言い、実際に受験もしたが、本当はろくに勉強もせず、遊びたい放題に遊んでいたので、ようやく合格したのはアジアン大学の経営学部だけだった。」

私が、

「ちなみに申し上げておくと、私は亀田大学法学部を卒業いたしました。」

と語ると、

 「うわあ、また立派な方が現れた。そういう人生は本当にあったんだなあ。まあ、そういうもんなんだな。それで自分はアジアン大学に入って、そこでガムラン音楽に出会う。」

 「何じゃそりゃ。」

 やくざ者がドスの効いた声で叫んだ。

 「ガムラン、それはまあ、東南アジア、主にインドネシアの島々に伝わる打楽器による音楽ということになりますな。自分としては、このガムラン研究に打ち込んだ、と言いますか、インドネシアと日本を往復するのが自分の大学生活だった、ということですかね。それで楽しい四年間を過ごし、その結果、皆さんにはおそらく無縁だったんだろうが、オレの場合は日本の就職氷河期という氷山にまともに激突してしまい、何にもやることがなくなった、と言うか、もはやガムランという芸を頼りに生きるしかなくなっちまったっていうことでしょうかね。ガムランの演奏会もやるが、素人さん相手に教室を開いて定収入を得るのが生きるかてってとこだったですかね。ガムランとヨーガみたいな一種の精神性を強調したイベントが、どうにかおカネに換えることのできる組み合わせだった、というようなわけでしてね。ただ、皆さんのような高学歴エリートではございませんので、生活は大変厳しいわけでございましてね。音楽で食って行くというのは、それはそれは大変なことです。特に、昨今のように感染症が世界中で広まっちまいますと、お国から補助金をいただいてやっとどうにかカツカツで生きている、といったところですかねえ。」


★    ★    ★


 「ひゃっはー。」

 オレはようやく自分にも運が巡って来たのかと思った。

 「どうかしちゃったの、あんた?」

とヨーガ教師である冴子はいぶかった。

 しがないガムラン奏者である自分には出来過ぎた女だ、とオレは常々思っている。

 「オレのおやじだよ、おやじ。」

 「あんたのお父さんって、あの電車事故で亡くなったのよね。」

 「いや、どうもそれがそうじゃないらしい。あの感じだと、オレは超お金持ちの御曹司おんぞうしだね、どうやら。」

 「あははは、面白そうなお話ね。」

 「まあ、人生っていうのは、そういうようにできているということだろ。ホントかウソかはわからねえ。しかし、おかしな電話があって、オレの本当の父親が死んだんだそうだ。それで土曜日に一泊分の支度をして来い、と呼び出しだ。こんな運が巡って来たのにはビックリだ。」

 「はあ?なあに、それ?とんでもない詐欺事件に引っ掛かったとか何かなんじゃないの?気を付けてね。」

 「確かになあ。何だか知らないが、行ってみたら狭~い、じっとりと汗臭い部屋か何かに閉じ込められて、脅されたりするのかもなあ。でも何でオレが狙われたんだか、そこのところはわけがわかんねえよなあ。とにかく、この話ばかりはほっとけねえ。行くだけ行くしかねえ。ホントにオレには金持ちのオヤジがいて、シンデレラみてえに一晩で人生が変わっちまうかも知んねえんだからなあ。」


★    ★    ★


         七


 ここで、ステーキが登場した。まずはほぼ焼いていないと思われる焼き具合をオーダーしたやくざ者からだ。いかにも血がしたたるような立派な肉である。しかし、我々には重大なミッションがあるのであり、今は料理をじっくり味わうべき時間でもない。それはそうなのだが、目の前に食い物があれば、とりあえずはそれで、誰にとってもひと時の心の平安が得られる。


 自分はまず、一息ついた。

 「さて、自分の話は単純明快ですね。自分は浪人中に弁護士になろうと考え、実際にそうなりました。司法修習の期間中に古木の両親が事故で亡くなった時は大変でした。皆さんご存知かどうかわからないが、古木の両親はもう米屋という商売ではやって行けなくなって、家を売り払いました。あの家は、今は一階がコンビニ、それ以上はマンションという大きな建物になっています。それで、おそらく人生ではじめて時間に余裕ができた両親は、まず宝塚の叔父夫婦を訪ね、その家で一泊したその帰りに、事故で亡くなります。残された資産から係累から何から何まで調べ上げて、確定申告をして、財産の一切合切いっさいがっさいを処分して、まあそういうことを修習生として実体験できたのは、弁護士稼業に入ってすぐに役に立つことではありましたが。まあ自分としては、死んでしまってから、ようやくあの両親がどういう人たちであったかを知り、その存在が急に身近になったような気もしますがね。」

 「オレは、インドネシアにいて、まったくそれは知らなかった。」

 ガムラン奏者が言った。

 「何しろオレの居所は、親類の者は誰ひとりも知らなかったし、二、三年して日本に帰ってみたら親なし子になっていた、というわけだよね。」

 「ちなみに、ボクは四国でお遍路をしていた。」

 これは自分の左隣の男だ。

 「私はアメリカに行っていましたな。出張中でした。」

 これはそのさらに左隣の古木義光だ。

 すると僧侶が、

 「そこまではキミと同じなんだね。」

と意外そうに口を挟む。坊主がアメリカ出張とは、ちょっと似合わない話ではある。

 「さて、自分の話はその辺でいいかな。結婚したとか離婚したとかは、そんなに面白い話でもないだろう。」

 「お子さんもいらっしゃるんですか?」

と高橋芳夫が急に言い出した。

 「いるよ、ひとり。弁護士に成り立ての時代に結婚したから、と言うか、子どもができたから結婚したんだが、それで生まれて来た子どものためという理由もあって、オレは頑張って夢中で仕事をしたんだけれども、それでまあ、仕事に関してだけは順調にうまく行ったんだけど、うーん、夫婦の間はもうどうにもならなくなってしまいましたね。」


★    ★    ★


 「お待ちしておりました。」

 由紀は、神妙な顔付きで言った。

 「え、どうした。」

と気にも留めずに答えると、彼女は「離婚届」を取り出した。弁護士である自分にはおなじみの書類だが、そこに自分の名前が書かれることは、それまで想像してみたこともなかった。

 この時に、はじめて自分は由紀の「気持ち」というものを考えてみるようになった、と言ってもいいだろう。そして、考えてみればみるほど、自分が彼女に対して取って来た行動は、要するに人間が人間に対して取ってはいけない態度、人間同士としての関係の放棄と言えるものだった、という結論にいたった。もちろん、若くして法律事務所を開業した自分は、とにかく成功することに熱中していた。そして、弁護士として一人前になることが、そのまま彼女への愛であり、家族のためでもある、というとんでもない妄想で自分のあやふやな意識をだまし、仕事のためにはそれ以外の一切を犠牲にして来た。人権というものは、弁護士の商売道具でもあるはずだが、紺屋の白袴、医者の不養生にならえば、弁護士による未必の故意としての人権侵害という状況だったのかも知れなかった。

 息子の一翔は、自分と同じ閉成中学に入学した。自分はシンプルにそんなのは当然であると思っていたが、おそらく由紀にとってのそれは一世一代の大事業だったのであり、小学校六年生の息子を日本で最難関とも言われる中学に入れるという壮大な仕事をたったひとりでやり遂げた後、その苦労の多かった日々の間、何の協力もせず、ご苦労様というひと言のねぎらいの言葉もなかった夫への不信感は、極限にまで達したのだろう。

 そんなことは多くの夫婦関係の破綻はたんを見て来た自分には見やすい道理だった。それが自分の身にだけは起きない、などということは到底あり得ないのに、それをまったく考慮しようとしなかったのは、自分のとんでもない落ち度であったと言うしかない。そして、ここまで来たら、その夫婦はもはや修復が不能であることも、自分にはわかり過ぎるほどにわかっていた。

 「わかった。」

 自分はあっさり自分の非を認め、

 「お互いに、過去を振り返らず、将来のことだけを考えることにしよう。」

 そう言って、自分は数日間掛けて財産分与のための書類を作成した。まあ、自分なりに感じた罪悪感をそこに表現した、というべきか。通常ではあり得ないレベルで、言ってみれば、およそ分けることのできる財産はほぼすべてを引き渡す、というこの条件は、自分は深く懺悔して裸一貫で人生をやり直す、という自分流の遅過ぎる愛の告白を彼女に対してしたのであったのかも知れない。

 一翔にとっての自分は、これまでもいるのかいないのかわからないような存在だったのだから、むしろこうして一区切りをつけることで、一翔との関係性もよりすっきりするかも知れないと思った。

 そんな調子で、離婚をするに当たっては何のめ事もなかったのだが、自分の生活はと言えば、毎晩家に帰ってもそこに誰かが寝ていることすら確認できない、という無機質過ぎる生活は、やはり何だか寂しい感じがした。

 そんなことで、ちょっと気持ちが落ち着かない時に、例の電話があったわけである。話は奇妙過ぎて、どうにも納得はできなかったが、何にせよ、ちょっと気合が入るような事態が起こったのは、今の自分にとっては良いことだろう、とそう思うことにした。


★    ★    ★


         八


 「さて、次は私の番ということでしょうか。」

 自分の左隣の人物は、何だか楽しいことでも今からはじまる、といった様子だった。

 「私は、自分の想像ですけれども、おそらく高校二年生になったあたりで、皆さんとは別の人生を進みはじめたんじゃないでしょうか。当時、自分は何か新しい時代がはじまった、という予感でいっぱいになっていました。それで、当時自分は閉成の秀才たちもほとんどが理解していないインターネットという技術に夢中になり、ネットスケープなんかを利用して電話回線を使ってネット接続する、というようなことをはじめていたわけです。そんなことで、インターネット通信を介して自分はシリコンバレーで働いている閉成の先輩と連絡を取り合うようになり、日本でもヤフーなんかがサービスをはじめるようになったのを見て、かなり焦ったわけです。うっかり大学なんかに行って、無駄に時間を使ってしまうと、この時代の流れに置いて行かれる、と当時は真剣に思い詰めていました。そこで、親には鉱工業大学を受験すると言っておいて、実際にはろくに受験勉強もせず、どうやってこの間違いなくやって来るネットワーク社会への変化の波に乗るか、ということばかりを考えていましたね。それで、大学受験には予定通り失敗して、浪人生活をはじめるにあたってまずアメリカを見る、と言ってサンフランシスコに渡り、先輩に会い、クパチーノでアップルの本社を見学したり、サニーベールのヤフーを見たり、そんな経験をして、ネット社会が必ず日本にもやって来ることを実感したんですね。で、日本に帰って来てから、当時は誰も知らないボロ小屋みたいなベンチャー企業に採用されたわけです。高校を出たばかりであっても、オレはとにかくそのあたりの情報をバリバリ入手していたし、アメリカで本物を見たぜ、なんていう高揚感で心はいっぱい、採用する側もされる側も、何だかすごい熱気があった、というそういう時代でした。

 そんなことは、古木の両親にはもちろん理解不能な話で、何で大学に行かないのか、後悔するぞ、と何年も言っていましたが、自分はまったく聞く耳を持ちませんでした。そして、自分が入社した会社は見る見る本当に結構な大企業に成長し、自分は当時、ネットワーク技術をベースにした大きなプロジェクトを任されるようになりました。自分は自信満々でしたが、その仕事は何しろ、青二才が情報技術の知識だけで乗り切れるような甘いものではありませんでした。大人数の組織をまとめて、目標の納期に間に合わせるなんて、人間として相当なリーダーシップが必要なところだと、後からやっと理解できるようになるわけですが、まあ当時、そんな実力も見識も全然ないわけですよ。案の定、プロジェクトは暗礁に乗り上げて崩壊寸前になり、自分はそれこそ身を削って頑張った末、目標納期には二ヶ月遅れましたが、何とかプロジェクトは完成しました。

その過程で自分の無能をつくづく思い知った自分は、ほぼ廃人のようになってしまい、まるで使い物にならなくなって、やっと決めたことは、四国のお遍路というものに出掛けることだったわけです。その間、一部始終を見て来た両親は、今度は賛成してくれましたが、自分は一切社会との関係を断ち切って、完全な空っぽになりたいと思ったので、まったくの身一つで出掛けたわけなんです。それで、いざ東京に戻ってみたら、古木の両親はもう亡くなっていました。」


★    ★    ★


 お遍路とは、四国八十八箇所の霊場を巡ることである。自分はとにかく自分の脚だけで、と言うか、設定上は弘法大師と同行二人どうぎょうににんなのだが、それらの霊場を巡ることにした。それは、身体に負荷を掛け続けることで大脳に蓄積した余分なノイズ(あるいは、仏教の世界では煩悩と言うのかも知れないが)を消去する作業だった、と今では思っている。

 情報屋のさがなのかもわからないが、霊場が八十八箇所あるというのであれば、まずは一番の札所からその行を開始しなければならない、というのは、それ以外の選択肢が考えられない当然の手順だった。

 それで、一番から順に霊場を巡るその間のことはもはや十分に思い出せないが、結局自分は第八十八番の札所である大窪寺おおくぼじを訪れ、八十八箇所におよぶその勤めを無事に終了した。

 それであらゆる煩悩を捨て去ることができたとはまるで思えなかった。ただ、もがき苦しんでいたある時期のことを急に思い出したり、夢に見たりすることは、もうなくなっていた。しかし、だからと言って、またあの業界でしっかり働けるようになったのかと問われれば、そこまではなかなかむずかしい、というような気分だった。

 そんな気分を抱えて、自分はとりあえず手近な高松に出て、駅前の喫茶店でモーニング・サービスを頼んだ。そして、さてどうしたものか、と自問自答した。お遍路に打ち込んでいる間は、とにかく八十八箇所をすべて巡る、という目標があった。結局、プロジェクトの目標を設定し、それに向かって毎日少しずつ前進する、というのは、東京でやっていた仕事と同じことだったのかも知れない。すなわちそれは、まったく違う種類のプロジェクトに没頭することで、以前の疲労を解消しただけに過ぎなかったのかも知れなかった。

 その時、少し離れた席に、髪の長い少女が座っていることに気が付いた。あちらも自分に気付いて、ちょっと気に掛けているように思われた。今となっては自分でも理解できないことだが、自分は自分の気分が命じるままに、そのまま席を立ち、彼女に近付くと、

「あの、どこかに行きたいと思った時には、どこに行けばいいんでしょうか?」

と随分奇妙な質問をした。すると彼女は、

「今日一日、お時間があるのですか?」

と聞く。

 「ええ、お遍路を終えて、さてどこに行ったものかと思っているのです。」

 「それは大変ご苦労様でした。」

と彼女は言う。ここでは、お遍路に対して、大概そのように言い、ものをくれたり、何かしら親切なことをしてくれたりする。

 「でしたら、良いところがありますので、ご案内をいたしましょう。」

 少女は、当然にようにそのように言った。いや、みかんを一個くれるのとはわけが違うのだから、そんなに気楽に案内をと言われても、それはどうかとも思うが、

 「それは、ありがたいです。」

と自分は答えていた。

 結局、謎の少女と同伴で、おそらくは弘法大師がもう自分の同行者ではなくなったために、彼女がその代わりの同行者になったのかも知れないが、その彼女の言うままに、我々は電車に乗り、バスに乗り換えて、ある海岸に出た。「父母ヶ浜と言います。」と少女は語った。

 干潮時にできる干潟が有名であるらしかったが、確かに自然というのは、しばしば奇妙な感覚を我々に与えるものだ。自分は、問わず語りに自分の、今は随分遠い記憶のようになった過去について語った。そして、さあ帰りのバスを待つ、ということになって、彼女は、

 「あの、わたくしをここから出していただけないでしょうか?」

と言い出した。

 「出す、ってどういうことでしょうか?」

 「わたくしは、ここに閉じ込められているんです。両親は、と言いますか、主に父ですが、わたくしをいつまでも手元に置いておきたいらしく、わたくしはここから出られずにいます。ですが、今日はあなたに会いましたので、とうとうここを出ることができると思ったのです。」

 なぜそんなことになったのかは、説明不能なことである。ともかく、帰りのバスと電車に乗っている間に、我々は彼女を「ここから出す」計画を練った。そして、その中の重要なピースは、私が彼女の両親に会って、彼女と結婚し、東京に連れて帰る、と宣言することであった。

 奇妙な成り行きではあったが、自分はまず、これを機会に、自分自身のポジションを整えようと考えた。自分はカバンの奥底にしまい込んでいたPDA(携帯情報端末)を利用して、かねてから何かと相談に乗ってもらっている業界の有名人田所氏に連絡を入れた。田所氏にとってみれば、わが国でこの業界がはじまって以来の最年少初期メンバーである自分は、おそらくかわいい存在なのだろう。彼は自分が元気を回復したらしいことを大いに喜び、即刻自分を雇うと返事をくれた。ただし、仕事は特にない。就業の条件は、私が会社を起こす時には彼の会社を必ずスポンサーにすることだけ、というシンプルなものだった。

 彼女の父親は、今や世間でも有名人になっている田所氏のことは知っていたらしく、そういう人物に目を掛けられているなら、ネット・ビジネスがどういうものかはわからないが、お遍路を終えたばかりの真面目な青年に見えた自分は娘の夫として申し分ない、と勝手に決め付けたようだ。

 そうして我々ふたりは、自分の実家に行き両親に挨拶をするため、という理由を付けて、そのまま東京に出た。東京に着くと、そこから先はどうぞ勝手にしてくれ、と言う自分に対して、少女は「いいえ、私たちの運命はひとつなのです。」と言う。まあ、わけのわからない話はさらに続いて、自分は連絡がどうしても取れなかった両親がもう既に亡くなっており、葬儀も終了していることを知った。

 戻る家すら失ってしまった自分は、彼女と一緒に住まいを探し、自分は田所氏のオフィスで仕事を手伝いながら起業のネタを特定し、無事に起業を果たした。ビジネスは順調に成長したし、少女はいつの間にか母親になっていた。そんなある日に電話が来て、それが実の父親の件だった。妻はそれを聞いて、はしゃいでいた。彼女は、あなたには予想外の良いことしか起きない、と自分の未来について断言した。


★    ★    ★


         九


 「次は、私でしょうか。」

 ベンチャーの古木と僧侶の間に座っていた男が静かに言った。

 「私は、その鉱工業大学に入ったわけですが、皆さんのお話を伺うと、やはり何と言うか自分と良く似ているな、という感じがといたしますね。私は、実際に理系の大学に入ってはみたものの、実験室で白衣を着て研究生活に没頭するようなことは到底性しょうに合いませんで、大学の外の世界に出ることばかりを考え、学科は社会工学というのを専門に選び、学部を卒業してすぐに電機業界の王芝に入社したわけです。ただそんなサラリーマン生活は長くは続きませんでした。」


★    ★    ★


 「そんなこと、できませんよ!」

 自分は、言うなれば激高していた。

 部長代理である内ケ崎は、青臭いガキを見るという視線をむき出しにして自分に言った。

 「おまえには選択肢がある。この会社でおとなしく言われた通りの仕事をして生きて行くか、それともおまえのその倫理観か何かわからないが、それと心中するかだ。」

 話のわからない男である。こんな上司を持った自分の不運を嘆くべきか、それともこの男の言う通り、この会社は丸ごとそういう種類の組織であり、組織の掟を丸呑みするか、さもなければ組織から抜ける以外の選択肢は自分には残されていないのかも知れなかった。

 「ならば、辞める、という選択肢を選ぶしかありません。」

 内ケ崎は意外そうな顔付きで自分を見た。これまでもそんな啖呵たんかをさんざん吐いて来たが、本当に辞めると言い出したのは自分がはじめてだったのかも知れない。

 「わかった。ただし、辞めると言っても手続きがある。香西部長の都合を連絡する。まず、部長に理由を説明して、その上で進退を決めるように。それでは席に戻り給え。先ほどの案件はおまえにではなく、谷田に任せるので心配するな。」

 そんなしょうもないやり取りの後、実際に香西部長から連絡があったのは、その日の午後四時くらいだった。


 「失礼します。」

 「お、古木、元気が余ってるそうじゃないか。まあ、座れ。」

 「私の元気の問題じゃありません。これは・・・」

 「いや、キミの言いたいことはわかっている。それについて議論するつもりはない。要するに、現地の販社に在庫が積み上がっていると言うのに、さらに過剰在庫を積み上げようとするのには賛成できない、というのがキミの意見だろう。」

 「はい、単純に言ってしまえば、そういうことです。」

 「問題は、それが我々の勝手な想像なのか、それとも事実なのか、ということだろう。それでだ。自分もまた、キミと同じ問題意識を持っている。だから、キミに業務命令を与えるが、それは北米社に行って、営業在庫が適正であるのか、改善要素があるのか、調査をしてもらいたい、ということだ。期間は一ヶ月とするが、延長が必要なら手続きはこちらでする。キミの進退についての判断は、その調査報告次第だ。」

 自分は意外な展開に驚いたが、その命令の真意は、自分を体よく追い払うつもりなのか、それとも本当に北米社の在庫調査が必要だと思っているのか、当時の自分には何とも判断が付かなかった。


 ともあれ、自分はロサンゼルスに飛ぶことになり、まずは北米における在庫調査というミッションに取り組むことになった。現地の所長はあまり協力的とは言えなかったが、自分にデータベースへのアクセス権限を与えてはくれた。そこから、自分は北米社の取引先情報を解析し、何社かを実際に訪問することにした。そんなことをするうちに、毎四半期末になると妙に出荷が増える、奇妙な取引先が気になった。それで、早速連絡を取って、訪問する旨を伝えた。先方は、日本から在庫調査に来ると知って、警戒レベルが上がったようだが、そんなもの、警戒するだけ警戒させておけば良い。

 クリーブランドで乗り換える飛行機のチケットを取り、東海岸にあるその会社を訪問すると、それはまったく販売会社というようなものではなく、単に大きな倉庫でしかなかった。 

 社長と話すうちに、この会社にはそもそも販売する意思などなく、北米社の言うなりにただただ製品を引き取っているに過ぎないことがわかった。実際に製品を引き取って、受領証を発行するためだけに存在する会社である。

 カリフォルニアにはいつ戻るのかと聞かれたので、明日のフライトを取ってある、と答えると、じゃあこんな田舎で一番うまいレストランを紹介するから、ということで、その夜の食事をおごってもらうことにした。

 社長は、次第に酔っ払うと、自分の家系はピルグリム・ファーザーズにさかのぼる、などという彼にとっては定番らしい自慢話をはじめた。そのタイミングで自分は、こんな情けないビジネスをしていて、一体楽しいのか、というかなり失礼な質問をした。彼は不意を突かれて、ちょっと素面しらふになり、そりゃあイヤに決まってるだろう。だが、商売には浮き沈みがある。沈むことがイヤだったら、裏道を見付ける、というのも、やむを得ない選択だろう。こんなことはいつまでも続くものじゃない。いずれどこかで店仕舞いをして、その後はケ・セラ・セラということだな。そんなことより、おまえもいつまでこの狂ったビジネスにぶら下がっているつもりだ、と言う。

 自分が、実は会社を辞めると宣言したら、アメリカに出張しろと言われたんだ、と白状すると、彼はカラカラと明るく笑った。そして、楽しそうに自分と乾杯をした。


 自分は予定していたちょうど一ヶ月で報告書をまとめ、帰国した。ところが、自分を待っていたのは、両親が事故でふたりとも亡くなった、という情報と、誰も自分の居所をつかめずに、自分が行方不明扱いになっていた、という現実だった。とりあえず、会社には事情を伝えて、一週間ほど忌引と有給の両方を併せた休暇を取り、宝塚の叔父を訪ねることにした。


出社後、報告書を内ケ崎部長代理に手渡すと、部長室で報告会をしてもらうと言われた。

 自分が部長室に入ると、香西部長と内ケ崎部長代理が待ち構えていた。

 「このたびは、ご愁傷様だったな。もしわかっていたら、出張の命令は出さなかったんだが。」

と香西部長は言った。

 「いえ、予測不能なことでしたから、仕方がありません。」

 ややあって部長が、

 「報告書は読ませてもらった。あらためてキミの能力の高さに感銘を受けた。キミ自身の感想はどうかな。」

 「自分の心配が単なる憶測ではなく、否定できない事実だったと証明されて、逆に気分が落ち込んだような気がします。それで、部長はどのように対処されるおつもりですか。」

 「対処?うーん、対処は何もしない。」

 自分が面食らっていると、

 「この問題の構造は、キミが明らかにした通りだ。こんなことはそもそも北米ではじまったんだ。そして、そんな構造をつくった人物が今はどうなっていると思う。圧倒的な業績改善の立役者となって、もうすぐ社長になると言われている。この報告書をボクは一体誰に上げたら良い。今の専務、すなわち次期社長がこれを読んだら、報告書を書いたキミは間違いなく処分されることになるだろうね。内ケ崎君と自分だって何らかの処分は免れないだろう。そうなると、キミの仮説は実証されても、問題は何ひとつ改善されない、という結果で終わる。さて、一体キミはどうしたいかね。」

 「それはもう、以前内ケ崎さんに申し上げた通りで、私は会社を辞めさせていただきます。」 

 香西部長は、それを了承し、ぜひこの人物に連絡を取ってくれ、と言いながら机の引き出しを開け、ある人物の名刺のコピーを取り出すと、それを自分に渡した。「誰にとっても悪くない提案を彼はしてくれるだろう。」と部長は語ったが。その名刺のコピーには、松宮産業社長松宮卓也の名があった。


★    ★    ★


 「松宮さんに連絡を取ったのか?」

と声を上げたのは、僧侶だった。

 「と言うことは、その時、迷った末に会わなかったのがあなただった、ということですね。しかし、私は会いました。会ったら、その場で自分の会社に入れと誘われて、結局、当時は他にやることも特に考えられなかったし、とりあえずと思って、彼の会社に入ることになりました。」


★    ★    ★


 「いらっしゃい。」

 松宮涼子は、弾むように言った。

 「古木です。お父様は?」

 「お通ししなさい。」

 玄関脇の応接間のような部屋から野太い声がした

 「すまんな。週末だというのに。」

 「いえ、特に用事があるわけでもありませんので。」

 「実は、会社では大っぴらに話せない微妙な案件があって、ぜひ他の社員がいない場所で、キミの意見を聞きたいと思ったんだ。」

 「はい。どんなことでしょうか。」

 「中国のパオさんは知っているよね。」

 「会ったことはありませんが、メールのやり取りは大体チェックさせていただいております。」

 「パオさんから、一緒に上海に工場を建てないか、というオファーがあってね。ウチもそろそろ海外に拠点を持ちたいと思っていたところだし、悪くない話だとは思うんだが。」

 「中国ですか、このタイミングで。」

と、さすがに自分は驚いて答えた。

 ちょうど、その頃は中国の反日運動がたけなわで、王芝もその対応のために関係部署は大忙しで、自分もその担当部署から問い合わせを受けて、中国の出先企業と連絡を取ったりするようなことが何度かあった。

 「まさにそういう時だからこそ、思い切って進出する意義もあるかも知れないとも思うんだが。」

 自分は、松宮産業、技術力は高くてもやはり大手企業とは違い、企業としての経験不足が露呈していると思い、松宮氏には、はっきりと現実を理解してもらいたいと考えた。

 「つらい時に助ければ相手も恩に着るだろうというような情実は、真剣にビジネスをやっている中国人を相手にした場合には、まったく通用しないんじゃないかと思いますけれども。それに本当のチャイナ・リスクは、偶発的に時々起きる、今の反日運動なんかとは全く関係がありません。そもそも中国という広大な地域が、たまたま共産党という一政党によって武力統一され、現在も支配され続けている、という国の構造自体にリスクがあるんだろうと私は思います。今は胡錦濤が、盛んに西洋社会に対してフレンドリーな姿勢をアピールしていますが、中国の政策の基本にあるのは国家意思ではなく、政党意思だけですから、口先だけの見せかけの宥和政策に騙されてはいけないだろうと思います。」

 「あたしもそう思うわ。」

 その時、紅茶とケーキを載せたトレーを持って来た涼子が口を挟んだ。

 「鄧小平がいくら資本主義を真似て、自発的な起業を推進させたからって、民間人が自由に権力を握ったり権力者を取り換えたりすることができる民主主義国家じゃないですからね、中国は。国がどんなに改革や解放を叫んでも、共産主義の世界には、個人にしても企業にしても、結局、自由なんかどこにもないわ。」

 どうやら涼子は、社会問題に強い関心も知識も持つ女性のようだった。

 結局、この時の話がきっかけで松宮産業の中国進出計画は取り止めとなり、むしろ事業継続計画の観点から、熊本県に工場を建設することになった。そして、それと並行して、自分はプライベートで涼子としばしば会うようになり、まあ結局のところ、彼女と結婚するに至った。そして、そのことは同時に、松宮産業の後継者問題を解決することにもなった。


★    ★    ★


         十


 「それでは、」

と僧侶がゆっくり体を起こしてから言った。

「私の順番であるようですので、さほど面白い話ではございませんが、私からもささやかなお話を申し上げます。」

 僧侶は、法話でもはじめるような調子で語り始めた。

 「私は、両親を失い、仕事も失う、という状況になり、まずは状況の整理をしなければならないと思いました。そうなると、月並みですが旅に出るべきである、というように考えたわけです。」


★    ★    ★


 親不知海岸に行ったのは、単に親を失ったのだからそういう名を持つ土地に行こうと考えたという、極めて根拠の薄弱な、あるいは浅はかな遊び心からでしかなかった。

 しかし、そんな名前とは無関係に、そこは確かに行くに値する絶景だった。断崖絶壁という自然現象の結果がここにあり、そこにひたすら波が打ちつける。それだけのことが、まったく休みなく行われ続けている。それは単調ではあるが、単純ではなく、変わらないようでいて、変わり続ける。そこに人間が往来して、この激しい波は多くの人命を奪ったと言われている。なぜ、そうまでして、人はこんなにも危険な場所を移動しようとしたのか。

 絶景は、単に美しいだけではなく、想像力を刺激する。無数のなぜ、が沸き起こる。そして誰をも哲学者にする。

 「旅のお方ですか?」

 着古した皮のジャンパーを着た老人が話し掛けて来た。

 「そうですね。どこにも行く当てのない者、という方が正確でしょうか。」

 「行くところがないのですか?」

 「ちょうど両親を失い、職も失ったところですので。」

 我々ふたりは、絶壁に波が打ち寄せるのを見渡せる展望台のような場所で、さらに二言三言言葉を交わした。

 「今夜のお泊りは、お決まりですか。」

 「いえ、まずこの場所に立つ、ということが唯一の目標だったので、その後のことはまったく計画しておりません。」

 「なるほど、確かに人間は一度にひとつのことしかできませんから。だったら、次の目標として、私のところに今からおいでになりませんか。もしもおいやでなければ。」

 「いえ、厭とかそんなことはありませんが、なぜこんな者をお招きになるんですか。」

 「人間というのは、縁で繋がっておるからですよ。人生の時間に偶然はない。縁があって人は同じ時刻に同じ場所にいる。縁がなければどんなに望んでも、人は他人と出会うことはできません。」

 「縁あって同じ場所にいたから、自分をお招きいただける、ということですか?」

 「お気に入らなければ、どうぞいつでもお去りいただいて結構、という前提ですけれども。」

 「では、そのご縁に甘えて、お邪魔いたします。」

 ふたりが駐車場に戻ると、止まっていたのは、オフホワイトのアルファードだった。しかし、運転手と思われた人物は作務衣を着た僧侶であり、僧侶はふたりを見て、柔らかく頭を下げた。

 「さあどうぞ。」

と老人は言い、古木はそれに乗り込んだが、

 「ご自宅は、お寺なんですか?」

と聞くと、

 「寺は便利な施設でね。生活しやすいですよ。」

と平然としている。

 こうして、自分は自然に寺で生活するようになり、別段、修行を強制されもせず、手伝いを申し出れば炊事や掃除を任され、決められた役割もなく、報酬もなく、時間だけが流れた。

 人はどうやって僧侶になるのか。老師に言わせれば、仏縁というもので人間関係はできており、寺は人の縁を繋ぐ空間で、僧侶とはただある時期に、たまたま寺という施設の管理を任された者に過ぎず、別段特殊な能力や知識や才能を持ち合わせる必要などまったくない。そのようにめぐり合わせたら、その者は僧と呼ばれるが、だからと言って、聖と俗といった区別を考えること自体も、仏の縁で構成されるその世界の中では無意味なことである。

そうこうしているうちに、「任せたい寺がひとつあるので、あなたに頼みたい。よろしく。」と言われ、自分はいつの間にか示されたその寺の住職を職業にするようになった。もしもそれが職業というものになるのなら、資格であるとか登録であるとか、何かと面倒なことがあるのかも知れなかったが、そういうあたりは、寺という宗教組織の中では、この老師の権威か何かで何とでもなるのかも知れなかったし、あるいは自分の知らないところで、ひそやかに何かのメカニズムが厳格に動作していたのかも知れなかった。


★    ★    ★


 穏やかな秋の日だった。

 寺の裏の小さな庭に植えてある紅葉も、ほんのり赤くなり掛かっている。

 「ちょっと聞いてみたいことがあるんですけど。」

 幸恵は、いたずらっぽく自分に声を掛けた。

 「ん?どんなこと?」

 「あなた、この寺に来たら、わたしがいたのに驚かなかったの?まるで一緒になれ、と強制されてるみたいな雰囲気だったのに、なぜそれを平気で受け入れたの?」

 確かに、この寺に来てみたら、そこにはこの幸恵がいて、そのままこの寺をふたりで切り盛りすることになって、当然のように我々は婚姻届けを出して、正式に夫婦になった。親鸞聖人のなさったことであるから、僧の妻帯は日本では当たり前のことだが、寺に赴任したら女房付きだった、というのは、そんなに普通にあることでもないだろう。

 「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、

念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」

 「それは、お商売道具の歎異抄ね。」

 「寺をくれると老師がオレに言った時、老師はこの一念で寺に行け、と言った。そこには地獄が待っている、と。そして、それは自分に伴侶を与えることでもある、と自分は直感的に思った。老師にだまされて、自分の伴侶を勝手に決められて、そこに待っているのがたとえ地獄であったとしても、さらに後悔すべからず、他力の一念で一切を捨ててかかれば、地獄をもありがたく生きることができよう、と腹を決めてやって来たら、拍子抜けした。」

 「拍子抜けだったんですか?」

 「そう。まあ口が耳まで裂けたような空恐ろしい女に取って食われる、オレはそう確信していた。だが、オレを待っていたのは、とんでもない美女だったわけだ。」

 「あははは、美女はないでしょう、美女は。」

 「美しいかどうかを、どうして人は自分で知ることができる?美しいかどうかは、相手が決めることであって、自分の一存で決定できることではない。それでだ。結婚しました、と老師に報告に行った時に、自分は言ったんだ。老師にだまされたと。老師がさんざん脅すものだから、自分はすっかり世界で最も不幸な夫になり、そこから救われることで、他力のありがたさを学ぶことができると考えた、と。ところがとんでもない。もう今となっては、不幸がどんなものだったのか、想像するのもむずかしい。これでは、修行にも何にもなりはしない。私はすっかり老師にだまされ、地獄の真逆に行ってしまったじゃないですか、と。」

 「随分とひどい文句の言い様ですこと。」

 「老師は、それはすまない、と謝ってくれたよ。人の望みはかなわぬものだから、あきらめてくれ、と。それで仕方なく自分も不幸になることをあきらめて、こうしてあなたと暮らしているわけです。」

 からすが一声啼いて、空を横切り、地上の世界をあざ笑うように去って行った。

 「不幸になるのは、そんなにむずかしいことですか?確かに私も、自分が不幸だった記憶がどんどん消えてなくなって行くような気がいたしますわ。」


★    ★    ★


         十一


★    ★    ★


 「トオル、アタシヲツレテニゲテヨ。」

 マリアは、セーラムの箱から細身のたばこを一本取り出すと、ジッポのライターで火を点けながら言った。

 「モオヤダヨ、テツオノコト。コワイワ、アタシ。」

 オレは、ぼんやり哲夫のことを考えた。このあたり一帯を牛耳るやくざ者だ。オレの父親がやっているフィリピン・パブにもしばしば現れて、手下を遊ばせる。普段は寡黙だが、嫉妬深く、自分の女に手を出した者は徹底的にぶちのめす、とマリアはオレに言った。

 その時、インターホンが鳴った。マリアは跳び起きると、すぐに出た。哲夫が帰って来たのだ。

 「テツオ、アー、ドオシテタノ。オソイジャナイノ。アタシヲオイテナニシテタノ。」

マリアは言いながら、自分に合図を送り、窓から外に出ろ、と激しく身振りで示した。

 オレは、自分のTシャツとショーツをつかむと、ベランダ側の引き戸を開け、そのままベランダに出た。外は、真夏の強い日差しが眩しかった。そしてオレは、Tシャツを首に通し、ショーツを履き、熱くてやけどしそうな手すりを乗り越えた。そこから見ると、二、三軒先に雨どいが地面まで伸びているのが見えた。自分は、手のひらに熱い危険な感触を感じながら、カラダを移動させ、雨どいにまで到達すると、案外簡単に下に降りることができた。火照ほてったアスファルトの地面にはだしで降り立ったちょうどその時、後方でバサッと大きな音がした。見ると、おそらくマリアが投げ捨てたのだろう、オレのサンダルがバラバラになってそこにあった。オレはそのサンダルを履いて、走って逃げ出そうとしたのだが、全身が震えて、身動きが取れなかった。息を吐くことはできても、容易に吸うことができなかった。その場で、少しの間震えていたが、そうしていては哲夫に発見される。動かないカラダを引き摺るように自分はゆっくりカラダを移動させた。そして、大通りに面した歩道に出ると、そのまま左に曲がり、最初の路地に入ると、最初の店の閉じたままになっているシャッターの前にうずくまった。とにかく、息をしなければならない。もう血中の酸素濃度が危険水準にまで下がっているような気がした。

 何度か深呼吸をして、自分はゆっくり自分の家に向かった。

 家に戻ると、自分はとにかく逃亡しなければならないと思った。カネなら両親が商売用に使っている金庫があって、そこに何十万円かの現金が残っているはずだった。ただ、自分がこのまま消えた場合、両親も学校も不審に思うはずだ。必死になってオレを探し出すかも知れない。だったら今のうちに連絡役をつくっておく必要がある、とオレは思った。


★    ★    ★


 中池透からの電話を受けて、オレは午後三時に上野公園の西郷隆盛像の前に行った。透はずっとそこで待っていたらしかった。

 我々は、アメ横通りにある喫茶店に入り、ふたりともアイスコーヒーを頼んだ

 「やばいことになった。」

と透は切り出した。そして、彼の話を聞き終わると、オレは言った。

 「面白い。オレも行くよ。オマエに付いて行く。どうせ夏休みだ。毎日勉強ばかりじゃ退屈だ。オマエにとっては人生を変える一大事でも、オレには夏休みの間のちょっとした冒険さ。オレはちゃんと自分専用の銀行口座を持ってるし、ちょうどこのかばんにはその銀行カードも入っている。ひとりっきりより、ふたりの方が、何かと便利だろう。」

 中池は、それにはあまり賛成しなかったが、自分はどんどん先を考えた。

 「今から便箋と封筒を買って来る。お互いに相手の親に手紙を書いて、ポストに入れるんだ。親は、息子が消えたと思っていたら、トモダチからの手紙が来る。そこには急に旅に出たくなったが、すぐに戻るから安心してくれ、と書いておく。」

 オレは自分の考えにほとんど陶酔していた。そして、透をそこに残して、コンビニに行き、便箋、封筒、そして二通の封書を出すための切手を購入した。

 結局、我々はその場でお互いの両親に宛てて手紙を書き、上野駅近くのポストに投函した。上野駅近くの消印があれば、オレ達が東北かどこかに旅行に行っている、とどちらの両親も考え、お互いに「仕方のない子どもたちだ」と意見が一致することになるだろう。

そこまでの準備を終えてから、オレたちはJR上野駅に不忍口から入り、左側に並んでいる自動券売機で乗車券を買い求めた後、ふたりして山手線のホームに駆け込んだ。


★    ★    ★


 二十世紀がもうすぐ終わろうとする頃の天王寺は、大阪の中でも、時代の進歩から取り残されたような街だった。何だかタイム・スリップでもしたような感覚で、オレたちは天王寺公園の中をぐるぐる歩き回っていた。

 「にいちゃんら、大阪のモンちゃうな。」

 急に大阪弁で話し掛けられて、オレはそれだけでビビった。

 「あ、東京から来ました。」

 「東京の学生さんらが大阪で何してんねん。」

 結局、オレたちは彼に誘われて、大阪の夜の世界へとその第一歩を踏み出した。

 与えられた仕事は、キャバクラのキャッチという仕事だった。飲み屋街にやって来てわずかな金銭で少しでも楽しい思いがしたい、という欲望まみれの大人たちに、オレたちは無邪気に話し掛ける。そのあどけなさに気を許した大人たちのお陰で、オレ達は結構な荒稼ぎをすることができた。

 それからのオレたちは、若さと好奇心と機知と集中力で、闇の世界で独創的なカネの稼ぎ方を次々に案出した。

 中でも大ヒット作だったのが、世間で「オレオレ詐欺」と名付けられた詐欺作戦だろう。裕福でも孤独な老人たちの家の電話番号を手に入れてはランダムに電話を掛け、会話の中から、相手が勝手に、話している相手が自分の息子であると思い込むのに任せ、しまいには詐欺を仕掛けている自分まで、この老人の不運な息子であると思い込んでしまいそうになるコント世界は、相手が子どものために何かをしてやった、という満足感を得られる点で、少なくともその場では詐欺師側も被害者側もつかの間の幸せを感じられる奇妙な犯罪ではあった。

 ただこの手口は、あまりにも成功し過ぎてライバルが多数現れ、しまいには役割を細分化、組織化したり、電話する拠点を海外に置くなどの巨大ビジネスになってしまい、オレたちのような個人商いでは太刀打ちができなくなり、いつの間にかオレたちは、その世界から手を引かざるを得なくなっていた。

 その代わりに、大人になったオレたちは企業などと組んで地上げのような不動産ビジネスにからむようになり、実業と犯罪の境界線上の、どちらかと言えばはっきりと犯罪に違いない分野を担当しながら、関西でそれなりの地盤を築くようになった。

 一九九一年に暴対法が制定されてから、次第に組織暴力団の連中は企業と組んで仕事をすることが困難になって行った。そんな中で、組織に属さず、しかし危険を冒すことをまったくいとわないオレたちのような中途半端な犯罪グループは、金融だとか不動産業界の間で重宝がられるようになっていた。

 そもそもオレたちは、金融業界、不動産業界の中で隠れたネットワークを独自に構築することに成功していた。それが閉成の先輩と後輩をつなぐネットワークだ。エリート・サラリーマンの世界には、広大な閉成人脈が広がっている。オレたちは中退ではあっても、彼らからすれば、後輩、あるいは先輩としてしっかり位置付けられる。同じ国語教師に習ったとか、近所のラーメン屋のおやじがどんなだったかとか、そんな共通項がオレたちの心を強固に結び付ける。運動会で何をやったのかも貴重な話題だ。中池がフィリピン女とできて、学校を辞めざるを得なくなったくだりは、鉄板ネタとして彼らに受けまくった。

 そして、そういう関係でつながったオレたちは、合法と違法の両側に向かい合って巧妙な協力関係を作り上げ、実にいろいろな儲け話を創造し、実現して来た。中でもオレ達がタックス・ヘイブンの国にいくつも設立した会社を利用したマネー・ロンダリングは、今ではオレたちが最も得意とするビジネスに成長したと言っても良いだろう。

 

★    ★    ★


         十二


 「オレの話を聞きてえってか?」

 やくざ者の古木は、ゆっくりそう言うと、内ポケットからやっと手のひらに入る小さなサイズの拳銃を取り出した。スミス&スウェッソンのボディガード380である。

 「オレの話は、オレの口じゃなく、こいつが語るって寸法だ。おまえらの世界じゃ理屈で物事が決まるかもしれねえが、オレはそんな世界に生きちゃいねえ。ここは黙ってオレの勝ちってことにしといた方が皆さん全員のため、ってことやで。」

 瞬間、部屋中にピリピリした空気が張り詰めたが、ガムラン男は陽気に言い放った。

 「いやあ、ここに来る前にオレの彼女が本当に大丈夫かと随分心配していたが、ホントにやばいことになったなあ。オレの命もこれまでか。しかし、やぶからぼうにふところから拳銃を出すようなヤツがホントにいるんだなあ。だがよう、こんなところで殺人事件はちょっといただけないがなあ。」

後は私が、彼の言葉を引き取った。

 「そちらの古木さん、学歴で人を差別するつもりは毛頭ないが、やはり他人の話を正確に理解する能力というものがないと、物事は思い通りには運びません。あなたの場合はもう記憶から抜け落ちているのかも知れませんが、画面に出て来たメッセージには、「暴力による威嚇を行った者がいれば、その者はただちに候補から外れることになる」という表現がありました。あなたが今なさっていることは、おそらくこの部屋に備え付けられているビデオカメラにしっかり収められておりますし、ここのスタッフさんたちは、主人である故人の言いつけに忠実でしょうから、結局、あなたにはここの財産を奪おうにも、その方法がわかりませんし、ただ権利を失って、今日は無駄足を踏んだだけの男ということになりますね。」

 やくざ者は、感情を隠すことも苦手な人物らしく、完全に自分がしくじった、という表情をあらわにした。それを見てとると、自分の左隣のベンチャー企業家が、面白がって言った。

 「これでどうやら、候補者は六人に絞られたようですね。」

 すると、間髪かんぱつを入れずに僧侶が声を上げた。

 「いや、五人です。私は俗世間から既に身を引いた者です。ご浄財でない金銭をいただくつもりはまったくございません。」


 一同は、大きく息をした。すると、自分の右隣のガムラン奏者が楽しそうに口を挟んだ。

 「さて、いよいよ本題に入って参りましたね。皆さんの話は十分に伺いました。そうして見ると、いやあさすが皆さん、と言いますか、皆さんは実は私なんでしょうが、その中でこの私こそが、唯一カネに困っている貧しい男、であることは明らかですよね。問題はですね、誰が最もそれを必要とする者か、ということでしてね、カネは高いところから低いところに流れるとあの老人も語っていたような次第なんでね、そうなれば、これはもう最も低い場所におるこの私にカネが流れ着くのが、ものの道理ということで確定でしょう。」

 彼は自分の熱弁に満足そうだった。私は、しかし彼の方に向き直って、

 「古木さん。あなた、この家を手に入れたら、そこの庭に芥子けし大麻草たいまそうでも植えようと思ってらっしゃいますよね。」

 ガムランの古木は、私が発したこの意外な言葉に驚いた。

 「は?あんたはオレの何を知ってやがるんだ。まさかあんたもヤクをやってるのか。オレはだね、逮捕はされたが不起訴になってるんだよ。だから犯罪歴もないんだ。」

 「ああ、やっぱりそうなんですね、古木さん。まああるいはそんなこともあるかと思って、念のために言ってみただけのことなんですがね。」

 「いやいや、何の証拠もないでしょ。証拠がないんだから、私はシロですよ。」

 「いや、古木さん。ここは裁判所じゃないんですから、シロかクロかを決める必要なんかありません。問題は、この我々でその候補者を決める、というところです。少なくとも私は法律家の端くれですから、犯罪に走る可能性のある者にそのための資金源を与えることには賛同いたしかねます。もし既に薬物への依存性があると認められる者に、本人の自由になる資金を与えれば、薬物への依存性がどんどん深まって結局自分が苦しむことになる。そして、それは本人だけにとどまらず、家族、関係者、そして社会全体を苦しめる結果にもなる。そういう未来をつくることに私は加担したくない。」

 「それは私もです。」

 ベンチャー社長が即座に反応した。そして、その他の者たちも無言で賛同の意思を表示した。

 「では、これで候補者は四人、ということになるでしょうか?」

 ベンチャー社長は、いくらか調子に乗っているようだった。あるいは私同様に、仕切り屋気質なのか。結局、性格は全員私なので、全員がやはり似ているということなのだろう。


         十三


 ここで、また執事たちが現れ、各自にトレーに盛りつけられた中から好みのチーズを選ばせ、食後酒のオーダーを聞いていく。私は、ブルーチーズを選び、ブランデーを頼んだ。そろそろ脳の緊張をほぐして、じっくり時間を使う必要があると思ったからだ。


 「僧侶の古木さんは、昨日はどちらからおいでになったんですか?」

 自分は話題を変えようと、僧侶を相手に世間話をはじめた。すると僧侶は、存外真面目な口調で語り始めた。

 「私は、富山のある寺を任されて、そこの住職をいたしております。五箇山ごかやまと申しますのは、随分以前から世界遺産に指定された地域でもございますので、その名が知られているのではないかと存じます。

 五箇山から一番近い町というのは、今は南砺市という行政区域になりますが、城端じょうはなという地区でございます。ここからはJR城端線という単線二両編成のディーゼル車輌が運行しておりまして、新高岡という駅で降りますと、北陸新幹線に乗り換えることができます。これに乗りまして、佐久平という駅で降りろ、というのがご指示でしたので、その駅で私を待っていただいておりましたリムジンで、ここまで到着した次第でございます。」

 「その五箇山というのは、その、人里離れた雪に埋もれた静かな里、というイメージでよろしいんですか?」

 合掌造りで知られる村についての、自分の非常に乏しい知識を語ると、僧侶は無知な者に対する憐憫の感情を含んだ苦笑いの表情を浮かべた。

 「はい。一般にはそのような印象で語られますが、現実は遥かに血なまぐさいリアルなものでございますね。」

 我々一同は、食後のひと時を僧侶の語る物語で過ごすことに、それぞれの仕方で同意の意思表示をした。

 「宗教は、心の平安を求める静かで穏やかなものでございますが、時として権力者と正面から戦う闘争心が求められる局面もございます。本願寺が大阪に拠点を求めました頃は、いわゆる戦国の世でありますから、非武装とか中立というようなことは、求めても得られるようなものではございませんでした。そこで本願寺は、戦国の世に生き残るひとつの勢力となるため、必要とあらば戦闘にも立ち上がらざるを得なかったわけでございます。

 そして、戦闘能力は、戦の現場だけで決まるわけではございません。武器の調達能力こそが、戦の勝敗を決する重要な要素だったわけでございます。鉄砲の使用が戦争の大きな要素になりますと、火薬という軍事力の保有がどこの軍でも深刻な問題となります。そうして、我々の五箇山は本願寺の僧兵のために火薬を生産し、供給するための重要な兵站基地となりました。

 世界の常識では、火薬は硝石というものを原材料といたしますが、それは乾燥した地帯でしか産出いたしません。大量に降雨がある日本では硝石自体が成長できないわけです。

 そこで、おそらく日本独特であるのかも知れませんが、植物由来の火薬原料、我々の地域では古くから塩硝えんしょうと申しますが、それを産出しておったわけです。

 これは麻やよもぎのような草を土と混ぜ合わせまして、そこにアンモニアを加えるという製法でつくられました。アンモニア、エヌ・エイチ・スリーを加えて硝酸カリウム、ケー・エヌ・オー・スリーを合成する反応になります。」

 すると、少し元気を回復したのか、酒の力か、ガムランの男が声を上げた。

 「さすが、東鉱大を出た坊さんの説教は科学的だなあ。」

 僧侶は、お構いなしに話を続けた。

 「ここでアンモニアの入手先が問題になるわけでして、鶏がいる場合には鶏の糞尿も使われましたが、さらに効果的な方法が開発されます。それが、家屋を非常に背の高いものにして、家屋の上層部でかいこを飼い、その糞尿を利用する、という手法でした。大きな囲炉裏の熱が地下で密かに行われている化学合成を促進しますが、同時に囲炉裏の熱は上昇気流となって屋根裏にしつらえられた蚕棚で蚕を養育します。そして、その糞尿が塩硝づくりに再利用されるという寸法です。一説では、人間の排泄物も使われたとされますが、それはちょっと眉唾なお話でしょう。

いずれにせよ、そういうことを何年も続けて、徐々に化学反応を進めるわけです。まあ何と言うか、非常に悠長な作業ではあるわけですが、それでもそういうプロセスに詳しいプロフェッショナルがいて、彼らは最終製品である塩硝を大量につくり、それを大阪に運び込むことで、本願寺は非常に大きな戦闘能力を手に入れました。

 加賀藩がこの土地を手に入れた時、彼らはこの土地がそうした兵站へいたんの拠点であることをもちろん承知していました。そして、それは加賀藩によってトップ・シークレット事項とされ、特に徳川幕府に対しては、完全に情報を遮断していたわけです。

 加賀藩は、この地を流刑地と定め、実際に多くの流刑者をこの地に送り込みました。そうして、この地を一般社会と断絶させながら、一方でこの地の塩硝製造を援助し続けておりました。

 表向きは養蚕のため、としてつくられた巨大な家屋付き軍需工場、それに「合掌」という信仰的なネーミングを施したのは、本来ならば血の匂いのする、世俗の事情にまみれた産業を覆い隠すための上品な皮肉であったものと思われます。」

 「お坊さんらしからぬ、リアルな分析ですね。」

 ベンチャー事業家である自分の左隣の人物は、楽しそうに語った。


         十四

  

 「さて、」と私は、ブランデー・グラスをゆらゆらさせながら、一息ついた。

 「食事をしながら、私は皆さんの話を伺い、そして、いろいろ考えてみたわけです。そうして、この家の主人だった人物がどれほどの財産を我々のうちの誰かに残そうとしているのか、それはわからないが、かなりの額の資産であることだけは間違いありません。そうした資産を得ることには、確かにメリットもあると思うが、一方で大きなデメリットもあることも考慮しなければなりません。

 そこで、では自分の場合、メリットは何であり、デメリットは何なのかを考えてみました。

 メリット、それはもちろん自由に処分できる多額のカネが手に入る、ということでしょう。ではそれで一体、自分は何がしたいのかというと、正直、それはすぐには考え付かないくらい、自分にはほど遠いものです。

他方で、それと引き換えに自分は何を失うのかと言えば、まずはっきりしているのは、勤労意欲でしょう。十分なカネがあるのにそれ以上カネなんか稼いでどうする?と自分なら間違いなく考える。そうしたら、他人のトラブルにわざわざ口を出して、ああだのこうだのと相手と戦い、勝たねばならない商売など、バカバカしくてやっていられない。事務所をたたんで廃業する。今の仕事のすべてから解放される。しかし、ですね。しかし、一体自分は仕事から解放されたいのだろうか。それは単純に仕事を失う、ということでしかないのではないか、と自分は思うんですよ。カネになるから仕事をするのは事実としても、仕事を失うことは、単に収入が消えるだけのことじゃない。もう依頼人が来ない。クセの強い事務所の事務員とも顔を合わせることがない。弁護士仲間も自分の周辺から消えてなくなる。そして、これはまあ、個人的な事情ですが、自分は女房と別れたばかりで、家族もいない。カネには恵まれたとしても、それでは自分はただただ失うものばかりじゃないですか。家族を失ったんですよ、私は、最近。これ以上、次から次に何もかも失う、という選択を自分は望むのか。となれば、むしろ自分は少なくともまだ自分に残されているものを守りたい。嫌な相手と法廷でやり合うのも、そんなに悪いことばかりじゃない。自分にきつく当たって来る事務員だって、いなくなったら自分は寂しい。だったら、自分から何もかも奪って行くかも知れないような選択を自分はしたくない。それが自分の結論です。というわけで、自分は自分を候補者から外すことを提案いたします。」


         十五


 ここで、ガムラン男から意外な逆襲がはじまった。

 「おいおい、弁護士先生。あんたがこのレースから抜けるかどうかは、まあオレにとっちゃどうでも良いことだ。だがなあ、今ひとつオレには納得できねえことがある。それは古木の方のおやじのことだ。

 この場で大体わかった範囲で言うと、古木のおやじは、米屋を廃業して店を売り払い、そんなタイミングで宝塚のおじきの家に行った帰りに電車の事故に会ったはずだ。弁護士先生がその後始末をすべてしたとすれば、古木の方の財産は一体どうした。板橋の家は、それなりの金額で売れたはずだし、父ちゃんも母ちゃんもあれだけの事故に会って、その責任者と言えば天下のJRだ。有能そうなこの弁護士先生が賠償金をがっちり取らないはずがない。まさか全額ネコババしたなんてこたあねえんだろうな。オレらにもその財産に関しちゃ、権利があるはずじゃねえか。」

 興奮している相手に自分を合わせてしまったら、ロクなことにならない。自分は、完全にそれとは別の温度を保っておかなければならない。

 「それについては、自分も考えたよ。別に隠し立てをする意味も意図もないので、すっかりありのままを言うが、当時、司法修習生だった自分は板橋のあの土地が結構な金額で売られていたことを知りました。そして、土地の売却代金、そして、当時自分が知る範囲では唯一の相続人であった自分への相続財産、そうしたものに掛かる税金をいかに安く済ませるか、相当に勉強をしましたね。研修所には法律のプロがゴロゴロいるわけだし、税理士の世界でも有名な人物が将来は協力しましょう、という約束で実務的なアドバイスをしてもくれた。それで、自分は自分の力でカネを稼いだことすらまったくない、ただの若造でしかありませんでしたが、古木のおやじの財産だったほぼその全額を使って、自分にはとんでもなく分不相応な高級マンションをキャッシュで購入し、家具や調度品を買い揃えました。女房と離婚する際には、結婚後に稼いだ分の少々の蓄えはほぼすべて女房に渡しましたが、そのマンションに関しては夫婦で稼いだものではなく、元来がオレ個人で相続したものである以上、オレの手元に残らざるを得なかった、というわけです。

 そんな自分固有の財産である私のマンションに関して、あなたはまるで権利者のひとりであるようなことをおっしゃっているが、その原因が発生してから、優に十年という歳月が流れました。その間あなたは私に何の連絡も寄越さなかったし、十年間何の行動も起こさず、突然自分が権利者だと主張する者に対しては、法律は全然優しくありません。消滅時効に掛かる、という理屈であなたの主張は裁判所でも通らない。はなから理不尽な主張として、それははねつけられることになってしまいます。

 それと、電車事故の賠償金についても、せっかくのお尋ねなので、お答えいたしましょう。あれは裁判所の判断によれば、JR西日本の従業員である運転士の責任で起こった事故です。そして責任のある運転士本人は、ご存知のように事故で亡くなっている。それゆえ、運転士の責任を追及して賠償金を取ろうとしても、賠償を請求する相手がそもそも不在です。もちろん、運転士が亡くなった以上、その資産を相続したはずの者がいる。それゆえ、相続を受けた可能性がある遺族を相手取って損害賠償を請求することはできる。しかし、会社に理不尽な勤務を強要された普通の運転手が、遅延した電車を無理に加速走行させて起こした事故で、当人が亡くなってしまった。そんな加害者の遺族に向かって、被害者側の遺族が賠償しろ、と迫ることができますか。普通の人間だったら、そんなこと、とてもできない。仮にそんな鬼畜がいたとしたら、加害者の遺族は相続を放棄して、損害賠償の嵐から身を守ることになるでしょう。

 そうなると、今度は使用者責任を問う、という順番になります。刑事責任については、「業務上過失致死傷罪」に関して法人がその罪を犯すことはできませんから、被害者たちは、会社の経営者たち個人個人を相手取って訴訟を起こしましたが、彼らにはいずれも責任がなかった、という結論が、刑事事件の裁判では既に出ています。それで、後は民事の問題になりますが、こちらは被害者あるいは遺族の皆さんが、それぞれのやり方で加害者の雇用主であるJR西日本と戦って来たし、今でも戦っていらっしゃる方々がいます。私の場合は、被害者である古木夫妻が高齢者であり、すでに仕事を引退していた、すなわちもし生きていたらいくら稼ぐことができたか、という逸失利益を算定してみても、極めてそれは低額だ、ということになります。JRの弁護士は実に能力の高い人で、実際のところ、今では良い仕事仲間なんですが、自分が司法修習生であることを知って気を許したのでしょう、いろいろな被害者や遺族との交渉についての苦労話を教えてくれました。そして、他の補償の例と比べて決して悪くはない、という金額を提示してくれたので、自分としてはそんなことでこの将来的な同業者と争ってもいいことがないので、即決で受け入れたわけです。その金額は、おそらくあなたが今聞いてもがっかりするような低額でしかありません。

 もちろん、それはあっという間に自分たち家族の生活費として消えてしまいました。そして、あらためて申し上げますが、それに関してあなたがいくら権利を主張したとしても、残念ながら事故から十年も経った今となっては、その請求は消滅時効に掛かるので、まったく認められる余地がありません。」


         十六


 ベンチャー事業家である自分の左隣の人物は、こんなやりとりを面白そうに聞き入っていた。そして、口を開いた。

 「まあ弁護士先生、と言うべきか、それはひょっとしたらもうひとりの自分なのかどうかもわかりませんが、とにかくその、先生がこちらの邸宅の主からの相続を辞退する、というお話は大変筋が通っていて、納得ができると自分は思います。そして、自分もやはり、その謎の人物の資産というのを受け取ることが、自分にとってメリットなのかデメリットなのか、ということを考えてみたわけなんですが、自分にもやはり先生と同じような事情がありますね。正直、自分はカネだったら今からいくらでも稼げる、という自信があります。しかし、自分が求めているのは、単なるモノや数字としてのカネじゃない。自分がその能力を傾けて、いろんなことを試してみて、その結果自分の努力への報酬として、なにがしかのカネが残る、とそういうことだろうと思います。その途中経過を一切省略してしまい、はいあなたは現在カネをこれだけ持っています、と何かを誰かからあてがわれたって、それがどれほどうれしいのか、おそらくそこには空虚感というのか、バカバカしい気分だけが残るんじゃないか、と自分は思うんですね。そんなわけで、私もこの候補者選びからは、喜んで脱落させていただきます。」


 その時、下を向いて考えにふけっていたような松宮産業の古木が顔を上げた。

 「まあ先に言われてしまったのが残念な思いだが、自分もまったく同じように考えておりました。大きなカネが入ってしまえば、その管理が自分の仕事になってしまって、今現在進行中の自分の仕事の方は、誰かに引き渡さざるを得なくなってしまう。それは、ひょっとしたら煩悩なのかも知れませんが、」と彼は隣の僧侶をちらりと見、「その煩悩こそが、私のいわば生き甲斐というようなものですから、それを捨ててまでして、あの人物の資産管理という、降って湧いたような飛び込み仕事を喜んで引き受ける気はいたしません。私もこの件に関しては辞退をさせていただきます。」


         十七


 「これは、これは。」

と自分はちょっと芝居がかった声を上げた。

「ちょっと意外過ぎる展開、ということでしょうかな。次から次に権利喪失やら辞退やら、ということになり、最後に残ったのは、必然的にたったひとりになってしまいました。これでもう、ご異存はありませんよね、高橋芳夫さん。」

 急に名前を呼ばれて、高橋氏は身体をビクリと震わせた。

「いや、あの、そもそもこの場の古木義光さんたちのお話は、私にはおおよそ半分も理解ができませんでした。何の話がどう進んでいるのかもわからないし、皆さんがなぜそんなことを言われるのかもよく理解ができませんでした。」


 だが、六人の古木たちは、過ぎたことはもう考えない、というサバサバした性格を共有しているらしく、もうこの話題は解決済み、という顔付きで、既に各々が好き勝手な話題で雑談をはじめていた。やくざ者までが、古い仲間内のように親しげに同姓同名の者たちと話し込んでいる。思えば、彼らは仲間内どころか同一人物として様々な思い出を共有しているのである。話題が尽きないのも当然だろう。


 「高橋様。」と執事が声を掛けた。「実務的なことでお話がございますので、別室においでいただきたいのですが。」

 それを聞いた六人の古木義光たちは、当然だろう、という表情で、それぞれが高橋氏に向かって軽い同意を示す会釈をした。


         十八


 高橋氏が別室に呼ばれて去ると、執事たちは我々を案内して、広々とした応接室へと誘導した。すでに六人分のグラスと氷、そして様々な酒が用意されており、ナッツやチョコレートもふんだんに置かれていた。

 我々は、それぞれに好みの位置のソファに陣取り、酔いに任せて、この異常な空間での異常な体験について語り合った。そして、お互いが決して他人ではない、自分の分身であることを確認し合い、もはや初対面の他人同士ではない、言葉の最も厳密な意味において血を分けた者同士の安心感や共感を確認し合った。とりわけ、この中で誰が最も幸運なのか、あるいは幸福なのか、というテーマは実に興味深い議論になった。

 別に議論に結論などなかったし、結論を出す必要もなかった。我々は、すでに異なる人生を生きているのだったし、おそらくは今から入れ替わることもできない。それに、結局のところ、その人生だったら自分が代わりに生きてみたい、と思えるような誰かは、どうやらこの場にはいなかった。やはり、今生きている自分の人生こそが、自分にとっては取り替えのきかない、取り替えたくもない唯一の人生と認めざるを得ない、という点で、我々は意見の一致を見た。

 人は苦境にある時、自分以外の誰かの人生を生きたい、と思うことも確かにあるかも知れないが、いざそういう機会が訪れたとしたら、結局のところ、いや今のこの人生こそが自分にとっての唯一無二ゆいいつむにの人生なのだ、と再確認するものであるのかも知れなかった。

 ただ、たとえそうだとしても、人生を自分というたったひとりだけの、狭くて閉じたものにしてしまっては、人生の使い方としてはもったいないのかも知れない。

 我々は、自分であると同時に、誰かの人生をも同時に体験できるのではないか。

社会とは、自分と他人からなる複合体である。自分ひとりの人生だけでは単調で薄っぺらなものであっても、お互いの人生を重ね合わせ、それらをお互いが共有できるとすれば、人生はずっと複雑で芳醇なものになるのかも知れない。そもそも、いくら単調でつまらないようにしか思えない自分の人生であったとしても、他人の目から見れば、それが何かしら物珍しい、エキサイティングなものである可能性もある。

 そんな談義は深夜にまで及び、一体今が何時なのかという意識も不鮮明になり、時がその輪郭を失うにつれ、ひとりまたひとりと我々は自室に戻り、今度はベッドの上に寝転んで、答えのない様々な疑問を巡って、焦点の合わないまなざしで自問自答をする時間と、それが引き起こす色とりどりの感情をそれぞれがゆっくり反芻はんすうしたはずである。


         十九


 高原の朝は、気持ちが良かった。

昨夜は、ブランデーを飲み過ぎたとは思ったが、深夜にまで及んだ、六人で共有したその時間が心に染みるほど楽し過ぎて、決して悪くない酔い方をしたのだろう、二日酔いの気配すらなかった。惜しくはあったが、今日はそれなりに早い時間に東京に戻って、公判の準備をしなければならなかった。


 朝食を摂るため、自分が昨夜と同じ食堂に入ると、高橋芳夫氏が自分を待ち構えていた。


 「おはようございます、高橋さん。」

と私は声を掛けた。

 「あっ、おはようございます。あのー、古木さん、実はお待ちしておりました。」

と高橋氏は気後れした気分をそのまま表して、言った。

 「一晩で、こんなにどうにもわけがわからない状態になってしまって、自分でも混乱しています。」

 「でも、あの執事さんたちが、今後についての説明を詳しくしてくれたんじゃありませんか。」

 「はい、それもまた、本当に益々(ますます)わけがわからなくなることばかりで、そうしましたら、執事さんが、おわかりにならないことがあったら、弁護士さんの古木さんに相談してみることが一番なんじゃないか、と言って下さって。」

 私は、高橋氏にとってはもう自分の部下である執事のことを言うのに「言って下さって」はおかしいだろうと思いつつ、こう答えた。

 「確かに、私が頼りになる弁護士であるという執事さんのご意見には賛成いたします。ただし、高橋さん、私を頼りにできるのは、私の依頼人だけです。おそらく執事さんは、誰かからの郵便物を受け取る場合に使うことができる、私書箱か何かを持っているのじゃないかと思います。それを私に電子メールで教えてくれるようにお伝えください。そうしましたら、管理される資産の規模であるとか、私からいくつか質問をお送りするので、そのお答えに基いて、顧問弁護士をお引き受けする場合の顧問料のお見積書をお送りいたします。正式に顧問をお引き受けさせていただいた場合は、ご存分にご質問をしていただければ、ご相談に乗れることと存じます。」

 「ああもう、そういう世界なんですね、あなた方の住んでおられる世界というのは。」

 「いや別に、我々の世界がサラリーマンの世界と大きく違うわけではないと思います。ただちょっとしたプロトコルと言いますか、すり合わせのための約束事があるということですが、そんなもの、高橋さんならすぐに慣れるはずですよ。何しろ、高橋さんは遺伝子的に我々古木義光と同一ですから、そんなこと、わけはないはずです。正直、高橋さんにこんな面倒ごとを引き受けていただいて、ちょっと心苦しい気もしておりますので、私としても、少しでもお役に立てれば、という気がいたしております。」

 「何だか、妙な気持ちです。出発前、母のただならない様子を見て、何かとんでもないことになるんじゃないかとは思っていました。そして実際に、とんでもないことになってしまって、本当はもう今すぐに、こんな運命から逃げ出したいような気持ちです。」

 「我々は、実際にそういう責任から逃げ出してしまいまして、誠に申し訳ございません。」

 「いや、とんでもありません。皆様方には、それぞれ重要なお仕事があって、うらやましい限りだなあ、と正直思っております。私の方は、会社の都合次第で死ぬほど忙しかったり、クビになったりすることもある、何とも情けない状況で毎日を暮らしておりますものですから。」

 「まあ、ご迷惑であるかも知れませんが、とりあえず処分可能な資産をたくさんお持ちになれば、その日から危険な輩がたくさん寄って来る、というご覚悟が必要になります。また、ご家族をどう守るのかもお考えになる必要がありますね。それでは、先ほど申しました通り、自分にメールを送るよう、使用人の方にお伝えください。それでは、私はここで朝食をいただいてから、東京に帰らせていただきますので。」

 高橋氏は、

 「すっかり自分のことばかり申し上げて、失礼いたしました。どうぞゆっくりお食事なさってください。自分はもう少し、こちらの方々とお話が必要な様子ですので。」

 恐縮しながら、やっとそう言うと、高橋氏は執事たちの方に歩いて行った。


         二十


 荷物はシンプルなので、朝食後すぐにロビーに出ると、すでにクルマは出発の準備が整っていた。来た時と同じ黒のクラウンで、運転手も同じだった。

 「ごゆっくりされましたか?」

と運転手は聞いた。

 「エキサイティングな経験でしたね。まあ人生が変わるような体験、っていうことでしょうか。」

 運転手は無言で頷き、クルマを静かに走らせると、やがてクルマは自分のマンションの車寄せに到着した。


 マンションに到着し、いつものように北田さんの緩やかな挨拶を受けると、おそらくは今後自分の有力な依頼人となるであろう高橋氏のために、資産を信託財産にすることなど、基本的な資産運用の方針を整理してパワーポイントにまとめ、その後、クルマの中でほぼ完結した公判用の書類を完成版とし、部下の山下に送った。どうやらオレの通常が、完全に戻って来たようだった。

違う人生を選ばなかったことを後悔しないか、と言われれば、それはどうなのかわからない。今自分が生きている人生とは違う人生を生きはじめようとする者たちは、いつでもどこにでもいる。しかし、我々に限って言えば、自分たちの人生は既に確定しているのであり、他の人生については想像してみることすら無駄だったということを、昨夜自分たちは酔っ払いながらも、十分に納得し、確認し合った。


 さて、弁護士古木義光としての私の人生は、これからもさらにもうしばらくは続くことになりそうである。


                了


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ