マナーと感覚と恋愛脳
・このお話はフィクションでファンタジーです。
【あらすじ】
とある世界のとある王国のとある学園での出来事。
この国の王子には美しい婚約者がいた。幼少期よりともに過ごし未来へと並んで歩んでいた二人の関係は、学園に入ってから変わっていった。
とある男爵令嬢と出会って変わってしまった王子に、彼を支える婚約者が身分差を指摘するお話。
とある世界のとある王国のとある学園での出来事。
この国の王子には美しい婚約者がいた。幼少期よりともに過ごし未来へと並んで歩んでいた二人の関係は、学園に入ってから変わっていった。
学園は貴族と名がつき、寄付という名のお金が払える者が子供を通わせる場所だ。王族や高位貴族も入るので下位貴族が爵位の高い貴族と関係を結ぶために無理して入学させることも多い。
そんな学園で王子が出会ったのは天真爛漫な男爵令嬢だ。口をあけて笑うことをよしとしない貴族社会で満面の笑みを浮かべたり、目を潤ませて憂い悲しんでみたりと表情豊かに接してくる彼女に王子が興味を持った。
最初は困ったように避けていた王子だったが身分差をめげずに話しかけてくる令嬢に絆されたようで、時間が空けば彼女をそばに置くようになっていった。
もちろん最初は適度な付き合いで婚約者をないがしろにするようなこともなく、下位の貴族にも広く意見を求めることのできる視野の広い王子だと思われていたが、やがて不穏な空気が漂うようになる。
なぜなら王子のとなりに朝、昼、授業後と令嬢がへばりつくようになったからだ。
しかも王子に拒絶がなかったのもあって彼女の行動はひどくなっていき、それに伴い王子の婚約者と過ごす時間も減っていくこととなった。
「このままではまずいかしら」
王都でも屈指の歴史を誇る公爵家の美しく整えられた庭で、優雅にお茶を飲んでいた公爵令嬢がポツリとつぶやいた。一緒にお茶を飲んでいた彼女の兄が金の髪をさらりと揺らして、小さく首をかしげる。
「いちおう忠言というか忠告というか脅しはしたけれど、頭がお花畑になっているようでうまくいっていないのだろう?」
すでに学院を卒業した彼は妹から聞いた王子の話に顔をしかめて、考えこむように指でテーブルを叩いた。
「いちおう、ですけれど。王子殿下には身分差がありますのでほどほどに、とは申し上げました」
「それで『彼女もお前と同じこの国の貴族だぞ』って答えたんだっけ? これだから王宮しか知らないガキは嫌なんだ」
テーブルに頬杖をついた青年はそれまでのすました様子から一転、整った顔に嫌悪を浮かべて目を伏せる。
「そこで王子殿下と彼女を『カノン・ル・エール』に招待しようと思います」
妹が出した店の名を聞いて兄は一瞬驚きに目を見張り、それから楽しそうに朗らかに笑いだした。
「ああ、そういうことか! 確かにわたしたちが下町にでて、一番衝撃を受けたのはソレだったからな!」
「はい。それを見ても彼女とともにいたいのでしたら、わたくしはよろこんで身を引きますわ」
青年と似たような顔で穏やかにほほ笑んだ令嬢は、薫り高いお茶を飲みながら誰を招待しようかと頭の中にリストを作り始めた。
元は王族の離宮だったその建物は荘厳にして優雅。外壁は白壁にダルシーム地方から産出された高級クイーン石の青い屋根。室内はいたるところに金の装飾が施され、こちらも最高級のロシック石を使った床は乳白色に深緑と金の文様が美しい。シャンデリアはあるが部屋の中央に一つだけで、のこりは黒曜石と水晶石を使った間接照明で各テーブルを照らしていた。
まるで高位貴族の邸のようなその建物の前に一台の馬車が止まる。王家の紋章をつけたそれに礼装の男性たちが並んで出迎えた。
馬車の扉が開かれ、降りてきたのは王子と男爵令嬢だ。二人とも場にあった仕立ての良い衣装を身に着けて楽しそうに笑いながら建物に入っていく。
「ここはこの国でも限られた者しか招待されない『カノン・ル・エール』だ。王宮の晩餐会に次ぐ格式ある社交場でもある」
まだ学園を卒業していない王子は正式に一人前とは認められていないため、どれだけ望んでもここに来ることができなかった。ところが自分の婚約者が彼女の兄関係で招待を受けたのだが、急に兄妹で領地に戻らなければならなくなり、もし予定がつけば自分たちの代わりにどうかと言ってきたのである。
予約は二人と聞いて王子が真っ先に誘ったのは最近そばにいる男爵令嬢だった。
王宮の晩餐会どころか夜会にすら出席したことがないという彼女のために、きらびやかな世界を見せてあげようと思ったのである。
「うわ~、すごいきれいですね! それにすごく高そう! あの花瓶とかいくらくらいするんだろう」
男爵令嬢の無邪気な声が静謐なフロアに響き、品のない内容にそれまで和やかに談笑していた客が静まり返った。
「こちらでございます」
案内されたのは美しい湖に面したガラス窓の中央の席だ。室内には他に七組ほどの客がいたが、いずれも席が離れていて話す内容は聞こえない。王子には二、三組の客に見覚えがあったが、残りは歳を召しているせいか誰かはわからなかった。
「王子さま! 湖がきれいですね~。あれ? 月が二つありますよ?! 王子さま! 月が!!」
イスをひいて待っているにも関わらず、男爵令嬢は窓に走り寄ってへばりついて大声を上げる。ふたたび静まり返る室内に、王子は慌てて彼女の肩を抱いて落ち着くように声をかけた。その間に店員が化粧のべったりついた窓をきれいにふき取っていく。
「一つは湖に反射したものだよ。さぁ、まずは落ち着いて席について」
周囲からの視線に冷や汗をかきながらも、なんとか席に着くと男爵令嬢は嬉しそうに頬を染めて満面の笑みを浮かべた。
「王子さま。こんな素敵なお店に連れてきてくれてありがとうございます! おいしかったらまた連れてきてください!」
「わかったから、もう少し静かに話をしよう」
学園の食堂ならば気にならなかった彼女の声が、王子は恥ずかしくて仕方がなかった。なぜこのような社交場で叫ぶように話をするのか、と愛らしい笑顔が少し憎く思える。
二人が落ち着くと店員がワインを持ってきた。ラベルを提示され、王子ですらめったに飲めない赤ワインであることを確認すると小さくうなずく。
「あ、私ワイン好きじゃないんで、ほかの飲み物ください」
すかさず男爵令嬢が口をはさんだ。一本で平民なら半年は暮らせる金額の貴重なワインだと知らなかったのだろう。王子がなだめるように説明する。
「このワインはすごく希少価値が高い珍しいものだよ。きっと君も気に入ると思うから、一口飲んでみたらどうだろう」
さすがは次期公爵に供される品だと楽しみにしていた王子は、注がれた深紅の酒を目で楽しみ、その芳醇な薫りを鼻孔で堪能し、それからようやく舌先に乗せようとして女性の声にさえぎられた。
「なに、これ! すごく変な味! 私の知ってるワインじゃないわ! 全然おいしくない!」
舌をだし顔をしかめて文句を言う男爵令嬢を、いつもなら素直でかわいらしいと思えるのだが今日は違った。
冗談だろうと王子が一口含むと、舌に感じる渋みと体温で温められて湧きでる深い味わいが口の中に広がっていく。年月を経てまろやかになったアルコールがのどを通りすぎると、口の中に残るのはブドウの豊かな味わいという至福。
あまりのおいしさに口を開きたくなくなるな、と余韻に浸っていると子供のころを思いだした。
あれは婚約者と何度目かのお茶会の時だった。それまで楽しそうに話していた彼女が急に黙ってしまったのだ。直前にチーズのケーキを食べていたから気に入らなかったのかと心配していると、彼女は大きな目を潤ませて一言『口の中が幸せで……』と笑った。
そういえばそれで彼女がチーズのケーキが好きだと知って、王宮の料理人に彼女とのお茶会にはかならずチーズのお菓子を入れるように頼むようになった。
「ね。なんか変な味しませんか?」
「……口に合わないのなら炭酸水を彼女に」
まだ前菜すら始まっていないというのに、なぜか疲れを感じた王子は向かいに座ってにこにこと笑う男爵令嬢を見る。彼女は落ち着かないようで体をゆすり、自分によく触れてくる小さな手でナイフやフォークを触っては給仕が揃えなおしていた。
この時点で王子は婚約者がここの予約を譲ってきた意味を理解する。
「身分差があるとはこういうことか……」
「え? なんですか?」
のどが渇いていた男爵令嬢は注がれた炭酸水を一気飲みすると小首をかしげて大きな目を瞬かせた。
そしてそこからも散々だった。
とにかくマナーがなっていない。食器とカトラリーをぶつけて音を立てることから始まり、膝の上のナプキンを何度も落とす、味わっている最中にテーブルに肘をつく、ナイフを振り回しながら話をする、食べている最中に話を始める、味わっていないのかすぐに飲み込む、前菜を「これっぽっち」と言ったり、味が薄いと文句を言う。
今回は貴重なワインを楽しむためのコース料理なのだが、同じワインばかり飲んでいて恥ずかしいと注意してきたときはさすがに黙ってしまった。同時に学園とは違う周囲の人々の視線が痛くて、彼女と食事ができたのは学園の中だったからだと強く自覚したのだ。
そして礼儀やマナーは学べば身につくが、幼少期より培ってきた味覚やさまざまな感覚は容易に変えることができないことも理解する。王子は一度だけお忍びで平民が使う食堂に入ったことがあるが、古臭い油の匂い、食べこぼしの落ちている床、べたついたテーブル、騒がしい人の声、塩味のきつい料理をずっと食べ続けるのは難しいと思ったことがあるからだ。
男爵令嬢のことはかわいいと思っていた。くるくる変わる表情も、口を開けて笑う姿も。だが一生涯自分の部屋で彼女が同じように笑い、くだらないことを取り留めもなく話し続けることに癒されるかといったら否だ。
そばにいてほしいのは自分の感覚に近くて自分とともに歩める女性だと気が付いた王子は、ようやく最後まで食事を終えると、婚約者への感謝を胸に男爵令嬢をエスコートしたのだった。
「それで? 王子はなんだって?」
公爵家の豪華なサロンでお茶を飲んでいた金髪の青年は、従者が持ってきた年代物のワインを見ながらお茶を飲んだ。
「同じ日に食事にいらしていた方々にしっかりと絞られて、うわさを流されて、ねちねち言われたせいでげっそりと痩せて謝罪に来てくださいました。それはお兄様へのお詫びの品だそうですわ」
「うわ。これ親父が欲しがってた国王陛下秘蔵のワインじゃん」
そばに控えていた侍従が軽く咳ばらいをして口の悪さを注意すると、ワインに目を輝かせていた青年はすっと表情を消して妹を見る。
「このまま続けるのか?」
「間違いは誰にでもあります。ですが正せばいいだけですわ。そのための伴侶です」
「それを続けていくための理由はまだあるか?」
次期公爵である青年の真剣な問いに彼の妹は小さく笑って答えた。
「ええ。今度のことで学んだんです。殿方に甘えてみるのも楽しそうだと」
とある世界のとある王国の王宮の出来事。
この国の王子は三人いた。それぞれ妃を娶ったが、一番身分が高かったのは三番目の王子の妃だった。
一番目の王子が娶ったのは相思相愛の侯爵令嬢。二番目の王子が娶ったのは幼少期より交流のあった隣国の公爵令嬢。三番目の王子が娶ったのは政略結婚した自国の公爵令嬢。
皆が幸せになったが、生涯ただ一人の妃を愛し続けたのは……
食前に飲むお酒はシャンパンとかだよ~というかたいことは言わないで~。
今回の作品で貴腐ワインとは白だけだと初めて知ったので、一つ賢くなりました^^