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La Laverie Automatique  作者: 悠鬼由宇 
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Dernier Chapitre

「あなた最近変わったわね。何かいい事でもあったのかしら?」

クリスマス会の打ち上げに参加し、珍しく彩より遅く帰宅した僕。バスローブに包まれた彩はワイングラスを片手に冷たい目で僕を見下しながら言う。

僕は大きな溜息を吐きながら、

「園の行事が忙しくってね。今日もクリスマス会だったし。」

彩はワイングラスをテーブルに置き、蔑むような目で僕を睨み、

「貴方が、園の行事に。成る程、そう言うことなのね」

「は? そう言うことって?」

もはや醜悪としか言いようのない顔付きで、

「誰か好きなママさんでもできたんじゃない。」

僕は一瞬ドキッとしてしまう。好きなママさん… は、いないのだが…

「その人と一緒に行事を手伝うのが楽しいのじゃなくって? ああ、分かったわ、その相手。関口さんじゃない?」

はあ? 何故に、佳代子さん?

「貴方の好きそうなお嬢様育ちでスレンダー美人。でも馬鹿ね貴方、あの人二年前に片山さんのご主人を家に連れ込んで、よろしくやっていたのよ。知らなかったの?」

片山さんって、片山真凜ちゃんパパか? 確か自営業、それも自宅で株のトレーダーをしてるイケメンパパさん。へえーー、佳代子さんと真凜パパさん、これは中々お似合いだぞ。

「あの方、他にも色々なお父さんに色目使うって有名なのよ。そんな女に引っかかって、恥ずかしくないの?」

僕は別に色目使われてないし。それに佳代子さんとはそんなふしだらな関係では全くないし。何を言っているんだ、彩は。

話にならないので、僕は浴室へ向かう。


ゆったりと湯船に浸かり、身体を温めてから風呂を出る。身体を拭きリビングに戻ると、まだ彩はワイングラスを片手にテレビを眺めている。こんな遅くまで起きているとは、珍しい。

「貴方に一言、言っておきたくて。いい、今後一切園の行事には関わらないこと。」

僕は唖然として彩を凝視する。目が異様な光を帯び、口の端が吊り上がっている。

「それは… どうかな。年明けには餅つき大会もあるし、卒園式の準備も大変だろうし」

「いいのよ。私から関口さんに話を通しておくから。こんなつまらない男に色目を使わないようハッキリ言わなくちゃ。」

「彩、あの人はそんなんじゃないって。澪のことを心配してくれて目をかけてくれてるんだ。僕に対してだって、絶対そんな目で見ていないよ。」

「でも貴方は関口さんと一緒に仕事をするのが楽しくてしょうがないんじゃないの。貴方は本当に変わったわ。こんな夜遅くまで家を空けるなんて、絶対なかった。園の行事? 嘘おっしゃい。彼女に会いたいから手伝っているだけじゃない!」

ど、どうした妻… 何故にそんなに怒っているのだ?

それにしても、女とは、妻とは大したものである。対象は大分ズレているが、僕が他の女性に心を奪われつつあるのを察知するとは。

僕なんか、彩が例の青年実業家と浮気していることを、雑誌で初めて知った程なのに。

とまれ、彼女の言い分は半分当たっているので僕は反撃の糸口を見つけ出せず、てか、彼女に反撃なんて一緒になってこの方一度もしたことないし、そんなことをしたら間違いなくこの家から放逐されそうなので、取り敢えず言う通りにしておこうと冷静に判断し、

「ああ、なるべくそうするから。」

そう言って僕は寝室に消え去った。


それから一週間ほど経った二学期最後の登園日。澪たち園児が美代先生と名残惜しそうに騒いでいるのを遠目で眺めていると、

「あの、真田さん。ちょっとお話が」

真っ青な顔をして優馬ママが近づいてくる。僕は何事かと思い、

「どうかしましたか、まさかコロナウイルスに?」

「は? なんですかそれ? そうじゃなくて… ちょっと奥様のことで…」

瞬時に分かってしまう。彩が佳代子さんに物申したに違いない。

僕らはここではアレなので、両家の中間に位置する公園で待ち合わせることにする。

三十分後。

「ちょっと、奥さん酷くない? いきなり電話かけてきて、ウチの主人に色目使わないでくださいって。信じられない。一体何考えているの?」

と聞かれても、

「ですよね。僕にも彼女が何を言っているのかサッパリ理解できないんです。だって、こんなに澪に優しくしてくれて、僕にも園のこととかを親切に教えてくれている佳代子さんに対して、あんな酷いことを言うなんて。」

彼女は激しく首を縦に降る。

「よりによって、こんな美人で素敵な女性が僕を誘惑しているなんて、有り得ませんよね」

彼女の顔がピクピク引き攣っている。その怒りは相当なものだろう。本当申し訳ない…

「妻は、僕が佳代子さんに会いたいが故に、園の行事に積極的になったと信じ込んでいるのです。」

彼女の顔がパッと明るくなる? はて…

「全く。僕如きが佳代子さんに好意を持つなど、貴女に失礼ですよね。一体何を考えているのか、夫の僕でさえ理解不能なんです」

彼女は真っ赤な顔で俯いてしまう。どうやら怒りに震えているようだ、綺麗なラインの肩がブルブル震えている…

流石に彩の言っていた馬鹿な噂話は出さないでおこう。

「とにかく。僕が貴女に甘え過ぎていました。毎週のようにお宅にお邪魔してケーキをご馳走になったり。まあ傍目から見たら僕が貴女にゾッコンな風に見えたでしょうね」

彼女はハッとして顔をあげ、小さくかぶりを振る。ですよね、本当にいい迷惑だったでしょう。

「なので、これで貴女と個人的にお会いするのはやめましょう。ご迷惑をおかけしすいませんでした。」

僕は深々と頭を下げる。

「彩には、妻には僕からよく言っておきます。もう二度と貴女に連絡はさせません。なので安心してください。それでは、さようなら。」

僕はベンチを立ち上がり、澪に声をかけて公園を後にする。


澪の手を引きながら、美代子さん、いや優馬ママとの思い出に浸る。

本当に綺麗でスレンダーで長い髪がすごく綺麗で、優しい人だったなあ。料理も上手だし手芸もプロ並み。もう少し要領が良ければ、あんなことにはならなかったんだけど。何に対しても一生懸命で、こんな僕にも本当に親切だったなあ。もし彼女がアニメ、ゲーム、ラノベ好きだったら、本当にゾッコン惚れていただろうなあ。

「パパ、何かんがえてるん? ユーマママと何はなしてたん?」

「ん? ま、色々と。」

「ふーん。さては、ユーマママにこくられたとか?」

急停止し立ち止まる。ハア? コイツ一体…

「あのオバはん、パパにゾッコンだったじゃん。ミオあの人、大っきらい!」

はああああああああ…?

「ユーマがさ、言ってたよ。なにかと言うと、ミオちゃんパパ、ミオちゃんパパってうるさいって。ユーマにパパのすきなたべものなにかミオにきいてこいって言われたって。マジさかってやがんの、あのケショウおばけ。」

僕は思わずしゃがみ込んでしまう。軽い吐き気も催してくる。

「ユーマんとこのお父さん、ずっとかい外じゃん。だからこれまでもいろいろあったらしいよ、ユーマいわく。」

着ていたダウンが邪魔なほど火照ってしまう。なんだよそれ…

「ねんしょうのころ? ユーマがねつ出してそーたいしていえにかえったら、まりんパパと大ごえではだかでおすもうとってたって。それって、アレじゃん。キモ」

目の前が真っ暗になる。あの人が、まさかそんな…

てか、彩が言っていたことが全て事実だった…

その後。澪に引き摺られてようやく家に辿り着いた頃には、彩、佳代子さんをはじめとする女性という人種が信じられなくなっていた。ああ、例外は澪とゆっきー。


     *     *     *     *     *     *


数日後。コインランドリー井戸端メンバーにアウトレットのセールに誘われる。なんでもフランス製のフライパン類が半額以下になっているらしい!

年末の日曜日、既に大掃除を済ませた我が家のリビングで寛ぐ彩にその旨を伝えると、

「ふーん。井戸端会議仲間って… ま、勝手にすれば。」

「澪も連れて行くよ」

彩は真顔で、

「それは許しません!」

「へ? どうして?」

「アウトレットでしょ、中国人だらけじゃない。コロナウイルス移されたら大変だから。絶対に許しません。」

出た、得意のヘイト発言。僕は呆れ顔で、

「それって、中国の武漢で流行ってるって噂のやつだろ? 昔のSARSとかと一緒だって。」

「いいえ。コロナは必ず日本だけでなく世界中に蔓延し、パンデミックになります。」

「だからって、中国人にそんな言い方…」

「いいから。行くなら貴方だけにして。そして帰宅後は即シャワー浴びて着ていた服は廃棄して。それからマスクをして行って。分かった?」

ダメだこりゃ。パンデミックって、なんのS F映画だよ…

寝室から恨めしそうな澪の視線を感じる。すまん澪。パパは負けた。一度も勝ったことないけど。今更ながら城一郎に勝てない創真の気持ちに共感する。


「へー。奥さん、過激なこと言うのね。それにしても、そんなウイルスが蔓延するなんてちょっと考えられないわ」

ローテさんが呆れ顔で言い捨てる。

「大昔のスペイン風邪の頃じゃないんだし。今は防疫体制もちゃんとしてるし。中国の医療だって世界の先端でしょ。有り得ない、有り得ない」

クスクスさんも笑い飛ばす。

たっくんママはそんな二人の高説をなるほどと頷きながら歩いている。そして、

「でも、もし本当にそれが流行ったりしたら、昭和の頃のトイレットペーパー騒動とか起きちゃったりして。」

僕、ローテさん、クスクスさんは大笑いする。

「アレか、スーパーからトイレットペーパーが無くなるってか。何それウケるー」

「ティッシュも全部無くなっちゃったりして? それじゃエッチできなくなるー」

四人で爆笑だ。

「逆にさ、今のうちにマスクとか買い溜めておいてさ、そん時になったらネットで高く売れたりして?」

「それ有り! お金持ちになれるうー」

「じゃあそのお金でみんなで温泉旅行にー あ、お店あそこじゃない? うわ… 凄い人…」

店内に入るのに二十分待ち。その間もコロナ話で僕らは大盛り上がりであった。


大荷物を抱えての帰宅後。玄関に仁王立ちしている彩の指導に従い、荷物の消毒、僕の消毒、それから入浴。バスタオルを巻いてリビングに出ると、本当に玄関に着ていた服がゴミ袋に入れられている…

夕食の支度をし、澪を呼びに行こうとすると、

「いいのよ。あの子は放っておきなさい」

なんだ? ひょっとして僕のいない間に一戦交えたのか?

全く会話のない二人での夕食を終え、後片付けを終えたタイミングで、

「ちょっと、こっちに来て。話があるのよ」

澪とのことか。全く二人とも大人気ない。二人のこの相性の悪さの原因はただ一つ。真実はいつも一つ! そう、物の考え方、すなわち性格が全く同じであるからだ。

二人とも非常に攻撃的な性格であり、議論となると相手を論破するまで決して諦めない。粘り強く外堀を埋めていき、更には念には念を入れて内堀まで埋めてしまい、最後に総攻撃を一点集中でかけてくるのだから、たとえ僕がのぼう様であっても万に一つの勝ち目はない。

今日は一体なんで喧嘩となったのだろう。僕は渋々リビングのソファーに腰掛ける。


「これを見て頂戴。あの子、こんなものを見ていたのよ」

そう言って家族共有のP Cを僕に放り投げ…は流石にしなく、乱暴に手渡す。

画面を見て、背筋が凍り付く。

それはゆっきーが投稿しているエロイラストのサイトであった…

彩が舐めるように僕を眺める。

「あの子が、こんなのに興味を持つはずないわよね? これ、貴方よね。」

息が止まる。呼吸ができない。肺が痙攣する。嘔吐前の苦い唾液が喉に込み上げてくる。

「こんな社会の底辺の人種が集うサイトに、自分の夫が出入りしているとは。流石の私も、さっき嘔吐してしまったわ。」

口の中が苦くて酸っぱい唾液でいっぱいになる。

「私が、妻が土日祝日も関係なく深夜まで働いているというのに。貴方が、夫がこんなサイトをニヤニヤしながら楽しんでいる。そして未就学の娘までが興味津々でのめり込んでいる。よくも、私の家庭を、こんなに腐らせてくれたものね。」

彩が未だかつてみたことのない鬼面を装い僕を責める。

「更に悍ましいのが。この醜悪な淫らなイラストの作家、貴方の知り合いなんだって?」

カーソルを何度かクリックし、ゆっきーのイラスト集を表示させる。

僕はソファーから立ち上がり、便所に駆け込み先ほど食べたものを全て吐き出す。吐き尽くす。

何度もうがいをし、歯を磨き、ヨロヨロとリビングに戻ると彩は赤ワインのボトルを開けている。


「澪から大体の話は聞き取ったわ。さあ。話してください。この人と貴方のご関係を。」


どうしてこんなことになってしまったのだろう。

何を後悔すれば今の状態を回避できたのだろう。

それは、きっと。

あのコインランドリーに行き始めたのが全てだったのだろう。もし僕が洗濯をずっと家でしていたなら、井戸端三人嬢との出会いも、そしてゆっきーとの出会いも発生しなかった。

あのコインランドリーに行きさえしなければ、今こうして彩に糾弾されることもなかったろう。

あのコインランドリーに行きさえしなければ。

だが、不思議と後悔の念は全く湧いてこなかった、逆に、

もし僕があのコインランドリーに行くことがなかったのなら、

今僕に漲りつつあるこの思いは生涯生まれなかったであろう。

ローテさん、クスクスさん、たっくんママ。更に、佳代子さん、花音ママ、翔大ママ。更に、美代先生、そして。高村雪乃の顔が脳裏に行き来する。

生まれてこの方初めての感情が僕を満たす、そうこれはあの時に見た、僕が学生時代に家出した時に鹿児島の桜島で見た、あの噴火の如し…

僕は立ち上がり、彩に指を突きつけて叫ぶ!


「お前が、俺を裏切ったんだろうが!」


彩は凍りついた。初めて見る硬直した顔だ。僕の噴火は勢いを増す。

「みんな知ってるぞ。お前があの男と未だに付き合ってることを!」

彩は一瞬ハッとした表情となるが、次第に冷めた顔付きになっていく。

「何が仕事で遅くなる、だ。何が土日も仕事だ! そいつと一緒にいるんだろうが! ええ?」

何故か彩は不気味な笑みを浮かべ、僕を嘲笑うかのように、

「それが何?」

僕は言葉を失い、立ち尽くす。


「士郎のことと、この淫乱オンナのことが、何の関係があるの? 私が聞いているのは貴方とこのオンナの関係。論点をずらさないでもらえるかしら。」

士郎… そう、ネットで晒されていた青年実業家、立花士郎。若くしてネット通販サイトを立ち上げ、今や総資産数百億円。貧しい農家の生まれ育ちで、苦学の末、奨学金で東大に行き……

ちょっと待て… 貧農? 奨学金? それって彩と…

「ハアー。いいわ教えてあげる。そうよ。士郎は私の同志。二人とも貧しい家に生まれ、親は日々の生活を維持するので精一杯、子供に愛を注ぐ余裕なんてなかった。惨めだった、抜け出したかった、ねえ貴方。給食費を滞納したことがあって? ウチも士郎の所も、あったわ。それがどんなに屈辱だったか想像できる? たった数千円の給食費が引き落とせない口座しかない家の子であることを? それでも食べたわ、私も士郎も。そして誓ったわ、絶対に這い上がってみせる。二度と貧しい思いはしないって。貴方は私立の中高一貫校。私も士郎も、都立に県立。貴方は予備校に通っていたわよね、私も士郎も全部独学。親の脛齧りの貴方と私たちは全てが根本から違うのよ。全部、自分の力。己の刀で道を切り開き、己の知識と努力でここまで這い上がってきたの。正直に言うわ。貴方のご両親、大嫌い。貴方をこんなくだらない人間に育てた、生ぬるい親が大嫌い。無職の三十歳の一児の父親がいやらしい画像を昼下がりから眺めている? 男狂いの色ボケババアに言い寄られていい気になって園の手伝いに勤しむ? こんなカスみたいな人間を育て未だに肯定している親? 馬鹿じゃないの。生きてる価値あるの? まあいいわ、アンタとその両親のことは。で? この生きてる価値もないオンナとアンタとの関係は? このオンナはどれくらいクソ人間なのかしら? ゆっきー69さんとやらは?」

「やめろよ…」

「ハア? 何がよ?」

「ゆっきーを… クソ人間だと? 思い上がるなよ、ふざけるんじゃないよ! ゆっきーはなあ、台東区の小さい工場の二人兄妹の妹だよ、貧しいながらも親と兄の愛情をたっぷり受けて育ったんだよ。お父さんは何度も不渡を出しては何度も這い上がってきたんだよ。それでも子供への愛情を注ぐことは忘れなかった。借金してまでゆっきーを名門私立に入れてやったよ。けれど元々芸術肌だった彼女は人と交わるのが苦手、社会に出るのが苦手。家族の愛に守られた家に引きこもり己の生きる道を探っていたんだよ。卒業し親の勧めで結婚し。それでも己をずっと探していたんだよ。探し疲れ諦めかけた頃、僕と出会ったんだよ。僕と出会い、互いを感じ合い、互いを知り合ううちにやっと己の生きる道を見つけることができたんだ、それがこれさ。君が蔑むこれさ。いいじゃないか、社会の底辺で這いつくばったって。そこで己を曝け出し、貧しいながらも一人で歩いていけるならそれで十分じゃないのか? 僕はそんな彼女を応援したい、支えていきたい。今みたいな裕福な生活は諦めるしかないけれど、澪には貧しい思いをさせてしまうけれど。でも僕はー」

寝室ドアの細い隙間が大きく開かれ、澪がリビングに飛び出して大声で叫ぶ。

「ミオも!」

彩は澪をキッと睨みつけ、

「あなたも言いたいことがあるのかしら」

「ミオも! パパといっしょにゆっきーとくらしたい。ゆっきーはほめてくれるよ。ミオをちゃんと見てくれるよ。ミオのはなしをちゃんときいてくれるよ。パパはずっとほめてくれる。ちゃんと見ててくれる。でもミオはホントは、ママにもほめてほしかった、ママにも見ててほしかった。ぎゅうってだきしめてほしかった。まい日いっしょにねてほしかった。お金なんかいらない。ぜいたくなんてどうでもいい。高きゅうレストランなんて行きたくない。それよりママのつくったハンバーグがたべたい。そしたらミオは言うよ、とってもおいしいって。ママありがとうって。ミオのために…ごはん、つくって、くれて…あり…がと…って…」

号泣する澪を優しく抱きしめる。

彩は僕らを見下ろし、貶すような、そして満足そうな顔で一言。


「あなた達。この家から、出ていきなさい。」


     *     *     *     *     *     *


翌日。

早朝から彩は荷物をまとめ、僕らに何も言わず出て行ってしまう。

食卓に書き置きが残されており、

・澪の卒園まではこの家にいなさい

・四月からこの家で在宅ビジネスを始める予定なのでそれまでに出ていくこと

・それまでの生活費は銀行口座に振り込みます

・コロナウイルスに十分備えなさい、一年分のマスクやトイレットペーパーなどの備蓄をしておくこと

僕らは唖然としつつ、この申し出に従わざるを得ないことを認識する。

更にその翌日。

速達で郵便が届き、中を改めると緑色の薄い紙が同封されていた。

僕は必要事項を記入し捺印したのち、指定された住所を封筒に書き込み、それを投函した。

その帰り道、澪が、

「しかたないよ、あの女のまつごの言ばなんだからさ。」

僕は吹き出しながら

「そうだな。仕方ないなー」

駅前のスーパーに寄り、嫌々ながらもマスク、トイレットペーパー、ティッシュを半年分ぐらい買い占めてやった。


「それでさ、クローゼットにしまっておいた昔の画集も全部引っ張り出してきて、テーブルに叩きつけたんだわ。それを見た後ヤツは何て言ったと思う?『お前がこんなくだらない人間だなんて聞いてなかったし知らなかった』だってさ。『今すぐ止めろ。ネットにも投稿するな。俺の恥になるだろうが!』まあそー言えばそーだわな、ギャハハハ」

大晦日の深夜。

僕の、と言うか彩の家で、ゆっきーはキレ気味に話を続ける。

ゆっきー69先生の作品が、とうとう旦那にバレた顛末をかれこれ二時間は語っている。何でも銀行勤めの旦那が忘年会に出席したそうな。そしたら若手の部下が自慢げに推しのエロイラストレーター、ゆっきー69を語ったんだと。帰宅後、郵便受けに大型郵便が入っており、なんとその宛名が「ゆっきー69」様…

すっかり酔いが覚めた旦那が中を改めると、某有名レディースコミックからの作画依頼が…

寝ていたゆっきーを叩き起こし、一体これは何なのかと問いただした所、寝ぼけたゆっきーは生まれて初めて逆ギレし、冒頭に至ったそうな…


紅白を見ていた澪は十時前には寝落ちし、寝室から健やかな寝息が聞こえている。あれ程除夜の鐘を三人で一緒に聞きに行く、と頑張っていたのだが。来年の宿題だぞ、ミオ。


「で、どうするんだい。その仕事、受けるの?」

「受けたら即離婚だってさ。あと今迄アップした絵も削除しないと。ハー、どうしたもんかねえ」

そう言って僕を見つめる。

「それにしても… ゆっきーがお堅い銀行マンの推しになっていたとは… 僕もちょっとビックリだわー」

「ねー。世間ってよーわからんわ」

「でもさ。その世間がゆっきーの絵を評価してそれを求めているんだ。堂々と描けば良いじゃない?」

「でもそーすると、私、家追い出されるんですけど。」

「それな… 僕も三月にはここを…」

「「ハーー」」

二人の溜息が重なる。


「でも、ヒッキーの離婚話には腰抜かしたわ。まさに青天の霹靂ってやつですかねえ。」

僕の離婚の話は瞬息で街を駆け巡った。一体誰が言いふらしているのか、離婚届を投函した翌日には、井戸端三人嬢に

「何故?」「どうして?」「何が…あったの?」

と追い込まれる。

僕のLINEには園ママの問い合わせ、応援、取調べ、労いが殺到する。中には久方ぶりの美代先生からのメッセージも。

『大変ショックを受けています。同時に早まった自分に後悔の念を禁じ得ませんでした』

…? サッパリ意味が分からない。

何度かやり取りしている内に、実は自分は妊娠しており、来年の春に寿退園し結婚するとのこと。何とめでたい話だろう、僕は心からの祝福を彼女に伝える。

しかしながら何度やり取りしても、彼女の言う「早まった」とか「後悔」の意味が全く理解できず、はてなマークが当分頭について回りそうだ。

優馬ママからは直電をいただき、どうしても直接会ってお話ししたいとのこと。つい一週間ほど前に二度とお会いしませんのでと言った手前、非常に顔を合わせずらかったのだが。

彼女の方はそんな話は綺麗さっぱり消去済みのようで、懐かしの豪邸にて彼女自慢のケーキをほうばりながら、簡単に離婚に至った要点を説明すると、

「ホッとしました、私が原因だったのではないかと心配していたので…」

そんな目の前の彼女がそこの寝室で園パパと全裸でお相撲している姿を想像してしまい、しばらく腰を上げられなかったのは厳秘ですから。


「それなー。未だに実感ゼロですよ。まさかこの歳で独身になってしまうなんて。」

「ま。女運が悪かったと言うことで。ご愁傷様っす。」

僕は吹き出しながら、

「自分だって! 人の事言えないでしょ」

ゆっきーは妙にムキになりながら、

「私はずっと女子校の選択肢ゼロでしたから! ヒッキーは大学が共学だったし多少はあったでしょうに。」

「いやいやいや。女子に慣れるのに二年。男子校の辛さだわー。慣れた頃に彩に捕獲され… 僕も選択肢はそうはなかったよ…」

「ハーー。ワタシ、少なくとも漫画やアニメの価値観が一緒な相手じゃないと、キッツーだわ、今更ながら。」

「それなー。で、どうするのこの先?」

「それなー。正直さ、絵は描いていきたい。この先ずっと。」

「となると、あのマンションから追い出されてしまうぜ? 実家に戻る…訳にはいかんよなあ、確か甥御さんに占拠されてるんだっけ?」

「そ。可愛い甥っ子を追い出す訳にはいかんし。あーーー、どーしよおーー」

と言う割にはちっとも悲壮感が感じられない。

「ちょっ 真面目に考えなさい。」

するとゆっきーはニヤリと笑い、


「これはもう、ヒッキーに責任取ってもらうしかないかー」


時が止まる。

音も止まり、思考も停止し心拍も停止する。

その間、視覚のみ作動し、じっと真剣な表情で僕を見つめる彼女を角膜、瞳孔、水晶体、硝子体、網膜の順で伝達していき、やがて電気信号に変換され視神経を経由し脳に到達する。

脳は刺激を受け、やがて心拍は脈動を再開し、思考も徐々に回復してくる。

そして。僕の口から出た一言は、

「ハア?」

彼女は頬を膨らませながら、その発言の正当性を主張する。

「そりゃそうでしょ、ヒッキーの勧め通りにしたらこーなったんだから。私はもう後戻りしたくない。元の引き篭もりに戻りたくない。プロの(エロ)イラストレーターとして、自分の足で新しい人生を進んでいきたい。だから、」

彼女は身を乗り出し、


「責任取ってよ」


今年の春。真っ赤なショーツを真っ赤な顔で受け取るゆっきー。はぐれメタルをゲットし思わず歓声を上げるゆっきー。

夏。二日続けてのパスタを美味しそうに啜るゆっきー。僕の胸元で号泣した後爆睡するゆっきー。澪と楽しそうに会話するゆっきー。

秋。イラスト投稿に没頭するゆっきー。想定外の進路を爆走し暴走するゆっきー。そして、初めてのキス。

冬。……初めての二人の冬。僕は勇気を振り絞り、募る想いを口にするー


「そ、そりゃ僕で良ければ、喜んで…」


「え…?」

「え…?」


二人は数ヶ月前の状態に後戻りしてしまう… 目を泳がせ視線が定まらない僕。身を縮こませ俯くゆっきー。

様々な天使が通り過ぎて行く。


突然、目覚まし時計が鳴り響く。二人は椅子から飛び上がり、何処で鳴ってるの? あれ、何処だろう、とあたふたしているとー

「おはよ… ミオ、おきたよー」

寝室から澪がヨロヨロしながら歩いてくる。

「澪、お前…」

「へ? 澪ちゃん、目覚ましいつの間に…」

澪は寝惚けながらもドヤ顔で、

「さ、パパ、ゆっきー。じょやのかね。ききにいこ!」

僕とゆっきーは目を見合わせ、次の瞬間、爆笑する。


僕らのマンションを三人で手を繋いで出たところで除夜の鐘が鳴り響き始める。

「明けましておめでと。今年はどんな波乱の年だろーね?」

ゆっきーが甘えた口調で挨拶をする。

「明けましておめでと。お互い予想もできない程の波乱の年になるだろうね」

遠くでカーーンと鐘の音。

「わあーい、じょやのかね、じょやのかね。きっとことしはステキな年になるよ」

左手には澪経由でゆっきーの手の温もりが伝わってくる。うん、そうだな。澪の言う通り、今年はみんなにとって、ステキな年になりますように。

空を見上げると、既に月は沈んでいて真っ暗な空にポツポツと星の光。都会の空だから仕方ないけど、もう少し大勢の星々が見たかったな。

寺に着いたらそうお祈りしよう。僕は五円玉をぎゅっと握りしめた。


     *     *     *     *     *     *


結局。初詣の行きは頑張って歩いていたが、帰りは僕の背中で爆睡の澪なのだった。

「ねえねえ、さっきの澪ちゃんのお祈り、聞いたあー? 可愛かったあー」

ゆっきーがぴょんぴょん跳ね歩きながら僕の腕に絡みつく。重たいって。

「あは、ミオとパパとゆっきーの三人で暮らせますよーに、か。」

「実はさ、アタシもおんなじことお祈りしたのだー」

あはは。これはしっかりと責任を取らねばなりませぬ。星がいっぱい見れますように、なんて優雅なことを祈っている場合じゃなかったわ。

「あーあ。このままヒッキーの所に転がり込んじゃおうかなー、今日から。」

嬉しいご提案なのだが、

「P Cやタブレット、置いてきたんだろ? ダメじゃん。」

「それなー。アタシもヒッキーの毒妻見習って、荷造りして出てくりゃよかったよ…」

何じゃそれ。でも毒妻って、オモロい。

大通りに出て、左に曲がれば我が家。駅やゆっきーのマンションは右に。

「そんじゃ。アタシこっちだから。」

「うん。帰り気をつけて」

「大丈夫、人いっぱいいるし。」

よく見ると初詣に向かう大勢の人の流れが出来上がっている。まあこれなら安心だ。

「じゃ。今年もヨロ」

「ああ。こちらこそ」

人並みに消えるまで、僕らは何十回も振り返るのだった。


「「「えええええーーーーー」」」

ゆっきーのカミングアウトに三人の絶叫がこだまする。

「あの、レディコミの有名誌、ラブライナーに、ゆっきーの描いた絵が?」

「…昔、読んでたわー ゆっきー、アンタ一体…」

「…見つけた! ゆっきー69って… あらら… ちょっと、見てごらんなさいコレ!」

二人はクスクスさんのスマホを覗き込み、固唾を飲み込む。

「これ、本当にゆっきー?」

たっくんママが興奮気味に問う。

「なんか… いやらしさを感じないわ。芸術よ、これ芸術!」

おおお、流石、亀の甲より年の功、ってか。ローテさんいい観察眼を持っていらっしゃるわ。

ローテさんは椅子に座り直し、ゆっきーに正対して

「なるほど。状況は把握したわ。でもねえ…」

クスクスさんも頭を抱えて、

「旦那さん、あの東京三葉銀行でしょ、大手都市銀でしょ、そこの課長さんの妻がコレ描いてるかあ… 」

たっくんママも頬杖をつきながら、一言。

「旦那さん、キレるわ、そりゃあ。」

ですよねー、そう呟いてゆっきーは凹む。

「そりゃあ分かってるんす。旦那の面子粉々に潰すってーのわ。でもね。アタシ…」

「描きたい、のね?」

ローテさんがスッと引き取る。ゆっきーは目を赤くしながらコクリと頷く。

「覚悟は、出来てるのね?」

再度、そして力強くしっかりと頷く。ローテさんもどっしりと頷き返す。

「よし。分かった。私にできることなら何でも協力するわ。」

ゆっきーが一番聞きたかった言葉に違いない。ゆっきーの涙腺は崩壊し、他の三人も貰い涙にハンドタオルを濡らす。


あっという間に幼稚園の三学期が始まる。不思議なことだが、僕の離婚話は秒速で皆に伝わったのに、ゆっきーと僕の関係は園には全く広がらなかった。すなわち、たっくんママが誰にも話さなかったと言うことだ。

思いの外にぶっとい絆なんだな、井戸端三人嬢。

なーんて感心している余裕は僕にはない。あと三ヶ月以内に僕と澪は新しい住居を見つけねばならないのだ。

働く決心は既についている。あとは何処で何をするか、である。

スマホで区内のアパートの相場をチェックして呆然となる。無理。絶対に無理。徐々に区外に広げていくが、川を渡っても到底二人で満足な暮らしができそうな土地はない。

実家の両親に離婚の事実を告げると、

「いいと思います。しかしながら、我が家に二人を置ける余裕はありませぬ」

と先手を打たれてしまう。

いっそのこと都内及び近郊は諦めて、思いっきり田舎に飛び出すか。だが、代々都内に住んでいた我が真田家に、田舎の伝手は全くない。

澪の通う小学校のこともあるので、今月中には絶対決めねばならない。本腰をあげスマホを駆使して探せども探せども、全く成果は上がらない。

すっかり困り果てて、コインランドリーでゆっきーに愚痴っていると、ローテさんがひょいと首を突っ込んでくる。

「ヒッキーくん。アタシの実家の方でね、Uターン帰省の募集があるんだけど、興味ある?」

僕は思わず立ち上がり、

「お、お、お願いひゃす!」

と叫んでいた。


教えられたH Pを穴が開くほど読む。そして読めば読むほど、僕らには最高の条件であった、曰くー

・放棄住宅を改装し、最初の五年間は家賃無料

・近隣に町立の小中一貫校あり

・隣町に県立高校あり、県内有数の進学校である

・農協、漁協、その他就職斡旋

今すぐに澪を抱えて進撃したい所なのだが、大事な条件が一つあり、それがネックとなってしまう。それはー

・子連れの夫婦に限る

なのだった。

子連れ、は立派に該当せども、夫婦、は残念ながら対象外となってしまう。僕は頭を抱え、いっそのことゆっきーの駅のコインロッカーに眠る彼女と結婚するか、などと血迷ってしまう。

「アホか。ダッチワイフと子連れ結婚って。マジウケる。ブヒャヒャヒャヒャ」

ゆっきーは腹を抱えて笑い転げるが、こっちは真剣なんだよ!

一転して、急にしょんぼりとして、

「どっちにしろ。もうすぐ二人はいなくなっちゃうのか…」

「こんな高級住宅地に、僕と澪じゃとても住めないわ。」

無表情かつ無口になるゆっきー。だが頭の中で何かを考えている様子は手にとるように分かる。

我々の洗濯はとっくに終わっており、そろそろ昼過ぎの常連さん達の登場の時間だ。暗黙の了解があって、昼前組はボチボチ退散せねばならない。

そろそろ行こうか、と声をかけようとしたその時。ローテさんがゆっきーの両肩を掴み、

「あなたも一緒に行けばいいじゃない。覚悟はできているのよね?」

こんな真顔のゆっきーは久しぶりだ。僕はゴクリと唾を飲み込む。昼過ぎ組の井戸端レディースが何事かと遠くから見守りながら囁き合っている。

「どうなの? 行くの? 行かないの?」

ローテさんの迫力。人一人の人生の分岐路に仁王立ちする、運命の神様のようだ。

コインランドリー内の時間が停止する。囁き声一つなく、ただ乾燥機と洗濯機の回る音だけが無機質に響き渡っている。

どれだけ時が過ぎただろうか。それは長くも感じられたが一瞬だった気もする。俯いていたゆっきーが、顔を上げ、ローテさんに視線を合わせ、ハッキリとした口調で。


「彼と澪ちゃんと、一緒になります!」


店内は一瞬どよめき、そして何故か盛大な拍手がゆっきーに送られたのだった。


     *     *     *     *     *     *


その一週間後。ゆっきーは最小限の荷物を携えて我が家に到着する。


澪の喜びは尋常ではなく、旦那との激戦で疲れ果てたゆっきーが破壊されるのでは、と思うほどぶら下がったり飛びついたり抱きついたり。

けれどゆっきーの喜びも同等、いやそれ以上だったようで。澪をギュッと抱きしめると突如大声でギャン泣き始めたのだった。そんな二人の涙の抱擁を僕も薄っすら涙で見守るのであった。

早速H Pの連絡先に電話をかけ、かくかくしかじかですので是非ご検討を、と申し出ると。

「事情はよう分かりました。追うて連絡させてもらいます」

と前向きだか後ろ向きだかよう分からん対応にちょっと不安になる。二時間後、電話がかかってきて、

「婚姻届を出いてもろうて、法的な夫婦の証明をしていただかんことには、お受けできんです」

との宣告に、僕らはうなだれてしまう。

「無理じゃん。だって、アタシの場合、離婚届出してから半年経たないと再婚できないんでしょ? 無理じゃん… 別のとこ探そっか。」

僕はスマホで調べたその土地柄が大層気に入っていたので、何とかならないかローテさんに連絡してみる。

「そうやか。よし、おんちゃんに連絡してみる。」

おおお、何とも頼もしい。その方便も何とも勇ましい!


半刻後。ローテさんから連絡が入る。

「やっぱり難しいみたい。正式な夫婦じゃないと市の予算が降りないんだって。」

「そうですか… それでは僕らはちょっと無理ですね… 早くて半年先、ですかね…」

「ん? ゆっきーの離婚手続きになんか問題あるの?」

スマホをスピーカーにしているので、ゆっきーも会話に割り込める。

「いーえ。フツーにさっき、離婚届出してきましたよ。昨日の夜、これにサインして明日中に区役所に出して、とっととここから出て行けって言われましたんで。午前中に受理されたと思うんすけど」

「それなら全然問題ないじゃない。今からでも再婚できるわよ、あなたたち。」

「「え… マジで?」」

「ただし、条件があるんだけど。」

ローテさん… あなた何者なんですか? なんで民法に精通してらっしゃるの?

「友人がね、一昨年離婚した時、ずっと相談乗ってたから。でさ、その条件なんだけど。」

僕らはゴクリと唾を飲み込む。

「あなた達、中に出しちゃってないわよね?」

中? どこの中? それに出すって、何を?

「…言わせるの? いい? ゆっきーの…アソコに、」

一瞬で僕らは赤面する。

「ヒッキーのアレを… 直接出したり、してないわよね?」

二人して言葉を失う。

「それは…絶対…」

「ないっす… てか、アタシら…」

「まだ一回も…」

「ないっす…」

ローテさんが素っ頓狂な声を上げ、そうなのあなた達、そんなら全然問題ないわ、今すぐ二人で区役所行ってらっしゃい。じゃあね、と言って逃げるように電話を切られた。

「ねーねー、パパのアレってなあに? ゆっきーのあそこって、どこ? ねーねー?」

澪が興味津々で目を輝かせている、あ… スピーカーにしてたから全部聞かれて…


澪を何とか誤魔化した後、ローテさんの言ったことに釈然としないのでググってみるとー ああなるほど、なんてことはなかった。数年前の民法の改正により、女性は離婚後半年でなく百日後から再婚可能となった。更に、女性が懐妊していないことを医師が証明すれば、いつでも再婚できることになった、ということだったのだ。

全く、最初からそう言ってくれればよかったのに。

流石に今から医者に行くのは急なので、明日の診察を駅前の産婦人科に予約し、僕らの結婚は明日、と決めた。

「てことはさ。今夜は、その、アレだね…」

僕の期待と不安は残念と安堵に切り替わり、

「ま。これから先、いつでも、どこでも…」

「は? どこでもって、まさか変な場所であんなことさせようとしてんじゃないでしょーね」

「それ、ゆっきーの願望を僕に押し付けてね?」

「んまっ このエロ大魔神め。今年いっぱい、えっちなことさせないもん。ベーっだ。」

「いいもんね。そんなら自家発電もしくは優香ちゃんとたっぷり楽しみますから」

「ちょ… アタシの彼女に手出したら、お前のことをぶっ飛ばす!」

「ふんだ。おれは もう!二度と負けねえエから!」

「二人ともいいかげんにしなさい。ミオおなかすいたんですけど。」

結婚前日に娘に叱られる夫婦なのである。


翌日。診断の結果、ゆっきーの懐妊は認められず。クリニックで診断書を書いてもらう。その際、女医先生に、

「診断書、書くけどね。常識的に考えてさ、こういう検査の前の日は、控えてもらわないと!」

大層ご立腹な先生に、真っ赤な顔でペコペコバッタとなる二人だった。


僕らは区役所でそれと婚姻届を提出し、晴れて正式に夫婦となったのだった。


帰宅後、市の担当者に即電話をかけ、かくかくしかじかの状況となりました、と報告すると、

「おまさん達のような行動力を持った家族は大歓迎やよ。会えるのを楽しみにしちゅーね。」

と大歓迎の意を示してくれた。

四月からの新生活に備え、卒園式のある三月初旬過ぎに移りたい旨伝えると、面接をしたいから近々こちらに来て欲しいと言われ、来週末に三人で伺いますということになった。

「話がとんとん拍子すぎて、ついて行けねえ…」

「物事が進むときは、きっとこんなもんさ。ボストンに行くことになった時も、こんな感じだったし。」

「ほーん。てか、澪ちゃんは本当にそれでいいのかなあ。園の友達もこっちにいっぱいいるだろうし…」

「それな。でも、選択肢が他にない訳だし。ちゃんと話せばわかってくれると思うよ。」

とは言いつつも。本当に澪は納得してくれるだろうか。一度も行ったことのない、縁もゆかりもない土地にいきなり行くぞ、と言ってちゃんと理解を示してくれるだろうか。

ゆっきーを置いて澪のお迎えに園に行く。帰り道で澪に聞いてみー

「澪パパ! 入籍したって、ホントですか!」

「電撃婚じゃない! 芸能人みたい!」

「えー、相手どんな人ですかあー?」

…ちょっと待て、婚姻届出したの、二時間前だぞ… 何故、皆さん知って…

園ママ達に揉みくちゃにされながら、何とか澪の手を掴み、逃げるように帰路に着く。


「と言う訳なんだ。どうかな澪。」

帰宅路途中の公園のベンチで二人。澪は遠くの葉の落ちた木々をなんとなく眺めている。

ちょっと間があってから、

「ミオは。パパとゆっきーがいっしょなら、どこでもいい。」

僕はまた、こんな小さな子に重荷を背負わせてしまうのだろうか。

「友達とか全然いない場所だよ。それでも澪は大丈夫かい?」

寂しそうな笑顔で、

「パパじゃないし。ともだちなんて、すぐにつくっちゃうし。でも、一つおねがいがあるかも」

僕は澪に向き直る。非常に珍しい、澪が僕にお願いをするなんて。澪のお願いといえば、ハンバーーーグくらいしか思いつかない。僕は真摯に受け止め、必ずその願いを叶えてやろうと決心し、

「いいよ。なんでも言って。叶えられるように全力で頑張る。」

「それ、ほんと?」

「うん。約束だ。」

澪は嬉しそうな笑顔で、

「絶対だよ!」

「うん。頑張る。で?」

「おとうとといもうと。」

「へ?」

「ミオ、おとうとと、いもうとがほしい!」

これは… 帰ってゆっきーに重要案件として即座に審議に入らねばなるまい…

「かぞく五人で、こうちにすみたい!」

可及的速やかに帰宅し、第二回夫婦会議の開催を相談しなければならない。僕は返事もせずにベンチから飛び上がり、澪を引き摺りながら全力で帰宅する。


     *     *     *     *     *     *


『新型肺炎 新たに三人の感染確認 国内での感染確認 二十人に』

「大丈夫かしら。中国は大変なことになっているようよ」

「ホント。心配だわ。うちの子喘息持ちだし…」

「心配ねえ。横浜のクルーズ船、大変なことになってるそうよ」

「でも、前の時みたいに時間経てば大丈夫でしょう。」

「そうだといいわよねえー」

二月に入ると、彩の予言が現実味帯びてくる。園での話題は新型ウイルス一辺倒。誰もが不安に怯えている。

僕らは先月末に三人で高知に見学と面接を受けに行き、澪もゆっきーも大変気に入ってくれた。特にゆっきーは実家が東京なので、こんな田舎が欲しかったーと大喜びだ。

澪は町の小学校を見学し、四月からの新入生がたったの五人と聞かされ、

「あのー、おとうとかいもうとなるはやで…」

その晩の夫婦会議は白熱した議論が活発に交わされたものだ。

具体的な転入は真田家側も市側もなる早で、と言うことで一致し、二〇二〇年度やえざくら幼稚園卒園式が行われる三月十二日の翌日、三月十三日ということに決まった。

あと一月間しかないので、主に書類関係、届け出関係の庶務に僕らは忙殺される。ゆっきーはこういった業務がからっきしなことが即座に判明し、主に僕一人で東奔西走であった。


『国内で初めて感染者死亡 神奈川県に住む八十代女性』

一人忙しくしている間に、新型ウイルスの脅威がジワジワと迫ってくる。前回のS A R Sのように、すぐに収束すると信じてはいたが、幼い澪を抱えている手前、予防に徹するに越したことはない。

帰宅後の手洗いうがいを二人に徹底させ、なるべく人混みに出向かないように求める。ま、ゆっきーは元々人混み苦手人間なので、大して苦ではないようだが。

この頃。

ゆっきーの仕事の話が正式に決定する。

来月号の挿絵を数枚依頼され、その仕事を瞬く間に終え編集者に電子送付する。おい。住民票や戸籍関係はからっきしなのに、そっちは素早く正確なのね。

すると、関連雑誌から別の依頼が舞い降りてくる。それをも瞬殺で片付け、更に更に別の出版社からイラストの依頼が入り…

二月の半ばには、僕以上に大忙しのゆっきーなのである。


『緊急事態宣言 法案 衆院で可決へ 〜 新型コロナウイルスの感染拡大に備え、「緊急事態宣言」を可能にする法案が衆議院本会議で可決され、参議院に送られる見通し』

卒園式の一週間前。残念ながら諸般の事情を鑑み、二〇二〇年度卒園式は中止となる。海外では感染が爆発的な脅威を振るい、日本にもその影響が出始めている。政府は歴史的緊急事態であるとし、全国の学校に臨時休校を指示、既にやえざくら幼稚園も臨時休園に入っている。

そして何より。彩の予言通り、トイレットペーパーやティッシュが品薄となり、街からその姿を消していく。

澪言うところの彩の遺書(死んでねーし。)を忠実に守った我が家は、半年分のそれらを既にキープしており、今更ながら彩の先見の明に首を垂れる毎日である。

市から連絡があり、出来ればすぐにでも移って欲しい、緊急事態宣言が出たら移動が不可能となるから、とのこと。

それを受けての家族会議の結果、予定を前倒しし三月十日に東京を立つことに決める。


その出発の日。荷物は既に大概送ってあるので、身の回りの物だけ所持し約五年ほど住んだマンションを後にする。このご時世なので、見送りは誰もなし。少し寂しい旅立ちとなってしまうーかと思いきや。

「はよ、はよ行こ! ひこうき、はよ!」

そうなのだ、澪は前回初めて飛行機に乗り、すっかりお気に召したらしく、興奮を抑えきれない様子である。

「はあはあ… 落ちないよな… 大丈夫、だよな…」

こっちは前回、結構揺れたので飛行機に恐怖しか感じておらず、既に脇汗がとんでもないことになっていると言っている。知るか。

郵便受けを最後にチェックした時に、彩からの手紙が届いていた。飛行機の中で読もうと思い、封を開けずにバッグにしまう。


羽田空港は驚くほどに人がいなかった。既に減便が多数あり、僕らの高知空港行きも半数近くが欠航となっている。

搭乗手続きを済ませ、ゲートに向かう。もし緊急事態宣言が発出されたら、こんな移動も制限されてしまうであろう。早目に移住ができてラッキーだったかも知れない。

こんなご時世故、行き交う人々の表情は皆暗く、忍び寄る脅威に怯えている様子なのだが…

「空弁! 空弁はよ!」

「ミオは、えーと、えーと、さばずしがいいっ」

「じゃあ、アタシはカツサンド! お、あそこで買うか、行くぞ澪!」

ハイテンションで売店に駆け込む二人に何故かホッとする僕だった。

乗客は三十名ほどだろうか。かつてこんな空いている航空機に乗ることはなかった。そう言えばこんな密室、もし感染者がいたら乗客全員感染してしまうのでは、今更ながら恐怖に襲われるも、

「はよとべ、はよ! しゅっぱーつ」

「神様仏様キリスト様アラー様どうぞ我らを守りたまえ南無南無…」

この二人の明るさに僕はどれだけ救われただろう…


     *     *     *     *     *     *


離陸後、ベルトサインが消灯し、二人は早速空弁を攻め始める横で、僕は彩からの手紙の封を切るー


このパンデミック前夜においてあなた方が健勝なのは幸いです。こちらも恙無く過ごしています。さて早々に退去してもらい助かりました。早速業者を選定し部屋の改装に入ります。高知県に新居を構えるとは想定外でした。さぞや田舎なことでしょう、健闘を祈ります。

「余計なお世話だっつーの。」

つい独り言をこぼしてしまう。


新しい門出を祝う代わりに、当面の生活費を多めに振り込んでおきます。新生活の門出の足しにすると良いでしょう。

「おお、これは助かる!」

遥か上空から下界の彩に感謝の念を落下させる。


これでようやく貴方と縁が切れると思うと安堵の念を禁じ得ません。はっきり言って私は貴方が大嫌いでした。

「…おい。今更、何なんだよ…」

喧嘩売ってるのかよ。薄々わかっちゃあいたけれど、こうして活字にされると結構ズドンと来るものだ。


初めてゼミの新歓コンパで貴方と話した時。こんな劣った人間が我がゼミに入ることが信じられませんでしたし、許せませんでした。挙動不審な仕草、意味不明の言動、全く覇気を感じさせない怠惰な風情。はっきり言って嫌悪感しか持てず、なのであのような言動をしたことは理解できるかと思います。

「できねえよ。全然理解不能だよ。何様だよ。全く」

不意にあの日の彩が蘇ってくる。直視することを憚れるほどの圧倒的な美しさ。自信に満ちた物言い。そしてー僕の心を破壊させた罵倒の数々。本当に酷い女だったな、僕は苦笑いしてしまう。


貴方が無断欠席を続けていることを知り、初めはなんと軟弱でひ弱な精神の持ち主だろうと蔑んでいましたが。欠席が二週間を超え、教務課から真田くんは家族も音信不通状態だと聞かされことの重大さに初めて気づきました。私の指導、進言のせいで精神的に病んでしまうとは。住所を教務課に聞き、貴方の実家に行って事態の深刻性に私はショックを受けたのです。このままでは貴方は藤村操になってしまうのでは? 強引に家に上げてもらい、貴方の部屋に入り机の上に巖頭之感が残されていないか気が狂ったように探しました。

「なんじゃ、巖頭之感? 誰じゃ藤村操?」

全く。それにしても、どうして彩はそんなつまらぬ男にここまで… これは長年の謎であり、答えを知らぬままこうして機上の人となってしまったのだが。


遺書らしきものはなく、数日おきに生存確認の連絡がきていると母親から知らされ、私は号泣しました。そしてその時気づいてしまったのです、そんなクソみたいな貴方に、私が恋してしまっていたことに。

「…………」

なにを… 言っているんだ… この女は…

僕は頭が真っ白になる。彩が、僕に恋していた? 全くもって信じられないし、信じたくもない。これ程のハイスペックを誇る大学有数の美女が、どうしてこんなクソみたいな僕に…?


貴方は否定するでしょうが。実は貴方は相当なイケメンでした、今でも、です。

「ば、ば、馬鹿じゃね!」

思わず絶叫していた! 澪はお茶をこぼし、ゆっきーはカツを喉に詰まらせた。二人に心からの詫びを入れつつ、ゆっきーにこの一文を読んでもらう。

「うん。フツーにイケメンだよ。初めて会った時、カッケーって思ったよ」

この人が言うと怪しくなるので澪に聞いてみると、

「だからユーマママがロックオンしたんだって。あと、みよせんせいでしょ、かおんママでしょ、しょうだいママ、コインランドリーのおばちゃんたち、あとそれからー」

…取り敢えず、先を読み進めよう…


それに、優しく愛に満ちた両親に育てられた結果の癒しに溢れたその性格。一見優柔不断にも見えるけれど、どんな傷を負っていても貴方のそばにいれば必ず癒される。そんな貴方への恋に、その時はっきりと気づいたのでした。なので貴方が無事に帰ってきた時、貴方を離すわけにはいかない。そう決意し、貴方と付き合い始めたのです。就職が決まり社会人になり、留学が決まった時。私は一人でボストンに行く勇気も自信もありませんでした。でも貴方と一緒なら行ける、貴方が側にいればM B Aも必ず取得できる。そう判断し、貴方をボストンに連れて行きました。結果は私の予想通り、上位の成績で無事に取得できたのです。余りに嬉しかったので、あの夜の過ちは気にもしていなかったのに。帰国後に妊娠が判明した時には目の前が真っ暗になりました。知っての通り、私は子供が大嫌いだからです。故に澪が生まれてからもどうしても澪を愛せませんでした。そして。それ以上に私は澪を許せなくなっていったのです。それは、貴方の愛を澪が一身に受けていたからです。

「…なんて、こった…」

全身の血が引いていくのを感じる。目の前が暗くなってくる。慌てて窓の外の空の景色を眺める。肉親の憎悪。背筋が凍る思いである。


同時に私は気づきました。親と子の愛の絆。この私が唯一持っていなく、恋い焦れつつも憎悪の対象でしかなかった、親子の愛。貴方と澪は私には眩しすぎました。同時に憎くて仕方ありませんでした。澪を愛する貴方を許せませんでした。貴方を愛する澪を激しく憎悪しました。どうすることもできずもがき苦しんだあの頃、私は例の青年実業家に出逢います。そして、私は救われたのです。ご承知の通り、彼も親の愛には恵まれず不幸な幼年時代を経て社会の成功者になりました。この人なら私の苦しみを分かってくれる、この人は私を決して苦しめない。そう気づき、私は貴方たちから離れる決心をしたのです。

「…なんて…こと… 」

言葉にできなかった。全く知らなかった、彩の苦しみ、もがき、苦悩を…


簡単なことだと思っていました、貴方と離れることは。私と士郎の関係が分かれば、貴方は私から消えていくと思っていました、でも貴方はそれを知りつつ離れていかなかった。全く気づかない素振りでこれまで通り私に接しました。私は泣きました。余りに辛く切なくて彼の胸で号泣しました。それから心を鬼にして、貴方に嫌われようとしました。家事を全て押し付ける。ダメでした。育児も全て放棄し帰宅を遅くする。それでもダメでした。約束のドタキャンを繰り返す。やっぱりダメでした。どんなに貴方に嫌われようとしても、貴方はその器の広さと心の優しさで私を許してしまうのです。万策尽きたかと思っていた頃、まさかの事態が起こりました、それは貴方が他の女性に興味を示したのです。信じられませんんでした、誠意が服着て歩いているような貴方が、他の女性それも既婚の女性に興味を示すとは。

「マジか…どうしてそれを…」

知っていたのか? 気づいていたのか? それもまだ夏前に…


私はその一筋の光に賭けることにします。貴方が更に彼女に惹かれるように仕向けます。同時に彼女の身辺を精査し、貴方にぴったりの女性と判断しました。それからは貴方と彼女が共にいる時間を長くするためにドタキャンを繰り返したりわざと時間を空けたりします。結果、私の狙い通り、二人の距離は一日毎に縮んでいったのです。あと一息、そう思った頃、彼女の才能に気付きました。イラストレーターとして大成するに値する能力を確認し、私の知り合いに頼み彼女の作品を取り上げてもらうよう話を進めました。結果はご覧の通り。少しジャンルは違う方に行ってしまいましたが、彼女はあっという間にカリスマイラストレーターにのし上がりました。準備は整いました、そしてあの夜。私は貴方に離縁を申し出ることができたのです。

「そ、そんな… まさか…」

全てが? 彩の掌の上の出来事だったと言うのか? 確かにゆっきーとのことは全てがタイミング良すぎた感は否めない。それにこんなに簡単に商業化が進むとは思ってもみなかった。それが全て…

背筋に冷たい汗が流れ落ちる。


本当はあの家も貴方方に住んでもらうつもりでした。しかし新型ウイルスの発生により計画を修正し、早く東京近辺から去ってもらうことにしました。このウイルスは大変危険であり、都会にいたらその影響は計り知れないものとなるからです。あなた方の危険回避のためこちらで色々移住先を探している最中、あなた方が独自で移住先を見つけた時には驚きと喜びを同時に感じたものです。やはり貴方と彼女は、最高のカップルだと。

「……」

言葉もない。ただただ、視線だけが彩の綴った文字を上下する。僕と澪は、どれほどの憎しみとそれに相対する愛を彩から受けていたのだろうか。


そして今日。あなた方は旅立ちます。今後数年間、都会はウイルスの影響で危険かつ住みずらい環境となるでしょう。どうか新天地で澪を健やかに伸び伸びと育て上げてください。どうか、貴方の愛を十善に澪に注いでやってください。決して私のような人間に、澪を育てないでください。これは私からの最後のお願いです。

「うっ… うっ…」

視界が急に滲んでくる。鼻水を啜る音が機内に響く。そんな僕をゆっきーはそっとしておいてくれる。


もう二度と会うことはないでしょう。澪も私と会うことはないでしょう。私からの餞別は既述の通りです。そのお返しは、山と積んであるこのトイレットペーパー類でよしとしましょう。正直これは大いに助かりますので。


手紙はここで終わっていた。最後の一文に涙ながらに吹き出してしまう。

真田彩。旧姓、山本彩。この人間の偉大さを僕はまだ半分しか気づいてないのだろう…


     *     *     *     *     *     *


「お母さん! 頼んでおいたゆるキャラ、出来た?」

「澪ちゃーーん… お母さんもう二日も寝てないのだあーー」

「それはお母さんが締め切りちっとも守らないからでしょう! 先週ミオ言ったよね! 今から始めないと間に合わないよって! 自業自得だよね! 明日の朝までに、ゆるキャラ。絶対ですから! 了クンのおんちゃんにずっと頼まれちょったのやき!」

「ウゲーー ちょ、マサくーーん、助けて…」

「ダーメ。こっちは龍と雫の世話で忙しいし、ちょっと買い物に行かなくちゃだから。」

「そ、そんなあ… 酷い… うう、ううっ…」

「ママー、がんばっちゃ!」

「きゃっきゃっ」

「ほら、お母さん! コーヒー淹れてあげるから。あ、パパ、ミオの上履きは?」

「もうできたかなー 買い物の帰りに取ってくるよ」

「ありがとー」


買い物の帰り道、町唯一のコインランドリーに寄り、澪の上履きと僕のスニーカーを取り込む。去年出来たこの店は朝から深夜まで人が尽きることがない。今も三人ほどの主婦がお喋りしながら僕に挨拶する。

「あらー、雫ちゃん顔がまん丸、可愛いねやー」

「よう寝ゆうて。ほんで龍くんもイケメンさんじゃき」

「ははは… あ、もうすぐうちのスーパーでタイムセールが始まるよ、鰻が三尾で千円!」

三人は目を合わせ、慌ててコインランドリーを飛び出していった。せっかちなんだよな、こっちの人は、特におばさん達は。


あれから十年近く経ったのかな。


僕は市の紹介で近所のスーパーマーケットで働き始めた。この頃には他人と関わることが全く苦ではなくなり、また田舎の温かい人情にも助けられ、今ではそのスーパーの副店長を任されている。


ゆっきーの絵の話はそんな中でも着々と進行し、コロナウイルスが都会を荒れ狂うその年の春、とある成人小説の挿絵となって公式に世に出た。ちょっとユルい感じの作風が女子層に受け、主にレディースコミックから仕事の依頼がポツリポツリ来るようになる。

そして今や連載五本を抱える、カリスマ売れっ子エロイラストレーターとして大いに家計を支えてくれている。


貧乏子沢山、というのは事実のようで。高校一年生の澪、九歳の龍、一歳半の雫の他に、再来年辺りもう一人、を密かに狙っている。

生活は正直苦しい。子供達に贅沢させてやることはとてもできない。学校の成績の良い澪を予備校に行かせてやりたいのだが、それもかなり苦しい。

「大丈夫。ウチ予備校は奨学金、スカラシップ貰うから。そんで京大行くから。どお、かっこよくない?」

あの前妻の娘だけに、本当に実行しそうである。そう言えば前妻の消息は知らない。敢えて調べようとも思わない。澪にお前はどうか聞くと

「全然。思い出しもしないし思い出したくもないわー。ウチ今超ハッピーだし。この貧乏感が堪らないよ。絶対いつか抜け出すんだ!」

なんて逞しいことを言ってはいるが、本心はわからない。


澪とゆっきーは僕から見ても本物の母子にしか見えない程、仲睦まじくやってきている。それは歳と共に熟成してきており、最近ではご覧の通り、澪の方がゆっきーを慈しみ労っている感が半端ない。ゆっきーもそれに甘え放題になりつつあり、典型的なダメ母と出来のいい娘を楽しんでいるようだ。

弟の龍、妹の雫はどちらもゆっきーではなく澪を母と認知している気配がする程、澪がよく面倒を見ている。それを田舎の温かい人情が助けてくれている。


その夜、連載の締め切りと澪の依頼のゆるキャラに苦しむゆっきーの肩を揉みながら、

「コインランドリー行くとさ、あの頃の事思い出すんだよなー」

「それな! 私もだよ。こないだも龍のパンツ乾燥機から取り忘れちゃってさ」

「おいおい。あ、高橋さんの奥さんが、新作まだ?ってさ」

「旦那さん、知ってんのかね… 奥さんが腐女子だって」

「さあ。それより、さ…」

「あ… ちょ、ちょっとどこ揉んでんのよ… 感じちゃうじゃん…」

「澪、もう寝たかな?」

「ったく… 草食男はどこに行っちゃったのよ」

「都会に置いてきた。」

「草… んん… あん…  あっ!」

「な、なに?」

「コレいい! 子供が寝静まった夜。煮えたぎった男性ホルモンが仕事で疲れた妻を容赦無く… いい、いい! ちょっとマサくんさあ、そこに座って、上着脱いで!」

「えーー、またー?」

「早く! イメージが消えちゃうじゃん! あーもう、下も脱いで! そうそう。いいねいいね、あとちょっと腰を捻って…」


ガラリと扉が開かれ、全裸の僕を見下ろしながら

「お母さん。まずはゆるキャラ、ヨロシク!」

と言いい、

「パパ。次は弟で、ヨロ」

とウインクされる。


ガラリと扉が閉められる。僕とゆっきーは顔を見合わせ、あの時のように大爆笑するのであった。



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