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La Laverie Automatique  作者: 悠鬼由宇 
4/5

Chapitre Quatre

長かった夏休みが終わりを告げ、幼稚園の新学期が始まる。

ずっと澪と毎日を共にしてきたので、澪のいない生活に心にポッカリと穴が… とは相ならなかったのは。そう。ゆっきーと二人の時間が増したからなのだ。

僕らは毎日、コインランドリーで会い、お喋りをし、時にはランチを楽しみ、時には高村家でランチ試作会を楽しみ、その後二人黙々とゲームに勤しみ、ふと時計を見ると二時半で慌てて園に走って行きー

そんな日々が始まったのだ。


そんな生活においてちょっと面倒なのが、優馬ママの執拗なお誘いだ。ランチやお茶に誘われるのだが、正直僕はゆっきーと一緒にいたい、ので断りたいのだが、優馬ママは澪にも良くしてくれるし園でも僕に色々アドバイスをくれたりと、とてもいい人なので断りきれず何度かランチやお茶を共にする。

そんなある日、ケーキを焼いたから味見をして欲しいと言うので、それは遠慮なく、と連絡すると今から家に来てほしい、とのこと。家は歩いて十分弱なので、園でも料理上手と評判の優馬ママ手作りケーキを楽しみに伺うことにする。

ちなみに優馬ママは関口佳代子さん、と言い年は僕より少し上らしい。幼稚園から有名名門女子校に学び、大学卒業後に家族ぐるみで付き合っていた男性と結婚し以来ずっと専業主婦なのだとか。生粋のお嬢様だと知り、ああこんな女性は都市伝説ではなかったんだと感心した覚えがある。

そう言えば花火を買いに行った時も割と世俗から離れた言動で僕らの笑いを取っていた、例えば衣類の卸問屋で吊るされた服の値段を見て、

「これ、古着なのよね」

その時一緒にいた翔大くんママによると、彼女が来ていた服は十万円以上するブランド品だったとか。

文房具の卸に行った時。

「このボールペン、本当にこのお値段なの?」

と言い、その消せるボールペンを黒、赤、青と箱買いし、文房具屋開くのですかと皆に爆笑されてたり。

思い出し笑いしながら、送ってもらった住所を辿ると…

でっか。白亜の豪邸が目の前に現れたではないか! 表札の『関口』を確認し、震える指でインターフォンを押すと、門が自動で開き僕は腰を抜かしそうになる。これ、現実社会に存在するんだ、アニメの社会特有のデフォルメではなかったのだ。緊張しながら感心してしまう。


「急にお呼びたてしてすみませんでした、いらっしゃい真田さん」

あの… それ部屋着なんですか? と言うような薄いピンクのワンピースから綺麗な足がスッと伸びている。細身の彼女に完璧に似合っているので、恐らく特注で作らせたものだろう。そして浅草橋や花火大会の時とは違い、完璧なフルメーク。高そうな化粧品をふんだんに使っていらっしゃるようだ、直視を憚れるほどの美しさに立ちくらみを感じる。

「どうぞ、こちらに」

リビングに案内してもらうのだが。廊下が車通れんじゃね? 程広い。天井がマサイ族がジャンプしても届かない程、高い。壁には高価そうな絵画、コーナーには高価そうな置き物。表現が月並みになってしまうほど、庶民生活から隔絶されたハイソな環境だ。

リビングには車が一台買えそうな高価なソファー。恐る恐る座ると、目の前のテーブルにカットされたケーキと、何故かシャンパンが冷やされている。

「真田さん、飲まれないんですよね、でも一口だけでも。よく冷えておりますのよ」

外がクソ暑かったので、よく冷えたというキーワードに敏感に反応してしまう。そのシャンパンのボトルをよく見ると、誰もが知ってる超高級シャンパンではないか!

彼女は惜しげもなくグラスにその黄金の泡を注ぎ、僕に差し出す。

僕は酒が飲めない、厳密に言えば酒を飲まない、が正しい、学生時代の新歓コンパで無理矢理飲まされて意識がなくなって以来、飲まないだけなのだ。体質的にはむしろ強いかも知れない、何せその時僕が飲んだ量は、焼酎二本だったのだから。

震える手でグラスを受け取… あれ、渡す手も震えているよ。二人でグラスを掲げ、乾杯。なんと優雅な昼下がりなのだろう、豪邸の豪華なソファーでドンペリピンク。その雰囲気だけで酔っ払ってしまいそうだ。

グラスを一口飲んでみる。

うま! なにこれ?

真横に座っている優馬ママに

「これ、信じられないほど美味しいです!」

と言うと… わお、ママさんは既に一気にグラスを空けていた!

何だか申し訳ないので、僕も一気にグラスを空ける。喉越しがあの時の焼酎とは大違いだ、喉をツルツル通っていく感触で、喉の奥で泡がプチプチ弾ける感覚に感動してしまう。

さすがセレブ、こんな美味い酒を普段呑みしているとは。と感心していると、

「あら、お強いじゃないですか! さ、どうぞ!」

あっという間にグラスは満たされ、自らのグラスにも注ぎ入れ、二回目の乾杯。その後、数回の乾杯の後、ボトルは空になり僕の意識は徐々に遠く、遠くに…


スマホのアラームがけたたましく鳴る音でハッと意識が戻る。時計は二時半を示している、やばっ 意識が戻ったものの、ここが何処なのか全くわからない、ふと肩の重みと高貴な香りによって、ああここは優馬ママのリビングだ、と思い出す。

ああ、何ということだろう… 折角家に呼んでくれたのに、爆睡してしまうなんて、それにママさんが焼いてくれたケーキも手付かずのまま…

優馬ママを揺り動かし、

「申し訳ありません! 人の家で爆睡してしまうなんて… 礼儀知らずで、本当にすいませんでした!」

ママは寝起きの可愛い顔で、

「ああ、私もつい寝ちゃいました…」

「僕、澪のお迎えに行かないと。関口さんは?」

「あ、ウチは今日はお手伝いさんが…」

「そうですか、僕は今から行ってきます。今日は本当に申し訳ありませんでした、このお詫びはいつかちゃんと」

そう言って僕は立ち上がり、彼女に深々と頭を下げてリビングを出る。危うく家の中で迷子になりかけるも何とか玄関に辿り着き、靴を履いていると、

「また、ケーキ焼きますから、来てくれますか?」

「今度はちゃんと頂きますよ、今日は本当にごめんなさいっ では!」

そう言って玄関を飛び出した。


全力で園に走って行き、何とか辿り着く頃には全身汗だくで、見るも鬼舞辻な姿だったろう。そんな僕を澪が呆れ顔で、

「お・そ・い!」

「ごめん、ごめん!」

その隣で、美代先生もプンプンだ。

「遅くなるなら園に一報入れていただかないと。澪ちゃん、心配してたんですよ!」

美代先生にバットの如く何度も頭を下げる。呆れ顔で僕を眺める美代先生の表情が、突如一変し、能面の如き冷徹な表情になり、

「澪ちゃん、ちょっとお父さんにお話あるから、園庭で遊んでいてねー」

「はーーい」

澪が園庭に残っている居残り保育の仲間の元に駆け去ると、

「真田さん。ちょっと。」

僕は体育館の裏、ならぬ校舎の裏に呼び出される…


「真田さん。お酒飲んでました?」

僕はゴクリと唾を飲み込み、固まる。美代先生が僕に近寄り、口の辺りの匂いを嗅ぐ。

「目真っ赤ですし、お酒臭い!」

先生の能面が女系から怨霊系に変化する。さらに先生は僕に接近し鼻をクンクンさせると、

「香水の匂い… 一体昼間から、何してたの! ねえ、ちゃんと答えて!」

怨霊系から鬼神系に変化する。怖い、目に涙が溜まっていく。

「まさか、昼間っからキャバクラ? そうでしょ、そうなのね! 信じらんない!」

僕は首を横に振るも、まさか関口家で優馬ママと昼寝していたとは言えず。

「ちょっと、唇になんかついてる。」

先生がポケットからウエットティッシュを取り出し僕の口を拭うと、赤い紅が付着している!

「これ、ねえ、どう言うこと? キャバクラじゃなくて、風俗? ねえ、何なのよ!」

僕は完全に脳内白化となり、ただただ首を振るだけである。

「真田さん。いくら奥さんがアレだからって… こんなこと許されると思ってんの?」

だから、キャバクラだの風俗だなんて行ったことないのに… でもそれだと、優馬ママとの… ああ、やはり酒は身を滅ぼす。もう二度と口にすまい。固く決心するも、

「このこと、奥さんや澪ちゃん、他のお母様方に知れたらどうするの! 私からみんなに話そうか?」

ヒッ 僕は小さく悲鳴をあげる。涙が頬を伝うのを感じる。

「泣いたって、ダメなんだから。あーあ、どうしようかな、話そうかなあ」

僕は先生の両肩に手を置き、お願いです、もうしません、許してくださいと何度も謝り続ける。

「ちょ、離してください! 人に見られたらどうするの!」

僕は先生から飛び去り、土下座しようとすると、

「あーあー、そーゆーのいいですから。わかりました。今度だけは大目に見ます。」

ありがとうございます! 僕はそう叫んでいた。

「だから、声デカいって! もう、子供みたい。その代わり、今度の土曜日。ウチの大掃除手伝ってもらいますから。タダでコキ使いますから。いいですね?」

僕はイナゴのように首をカクカク振る。イナゴのそんな姿見たことないけどね。

「花音ちゃんが澪ちゃんと遊びたがってるから、花音ちゃんのお宅に預けてくるといいですね。ああ、このことは絶対他のお母様や奥様には内緒ですよ。でないと、キャバクラの件バラしちゃうから。」

二度と、二度と酒なんて飲むものか!


     *     *     *     *     *     *


花音ちゃんママは大喜びで澪を預かってくれ、昼前に僕は美代先生の家に到着する。彼女は五つ先の駅から徒歩十分のワンルームマンションに住んでおり、この辺りは土地勘もなく少し迷ってしまった。

一体どれほどの作業が僕を待っているのだろう。力仕事はそれ程苦ではないが、コキ使うと言っていたので倒れる寸前まで働かされそうだ。

僕は大きな溜息を吐きながらドアのインターフォンを押す。

「はーい、どうぞおー」

ドアを開けた美代先生は… タンクトップに短パン、という素肌感半端ない格好で僕を迎え入れてくれる。ゆっきーも細いのだが、美代先生は細い上に胸と尻は女子としての自己主張がしっかりとしており、見ているだけで全男子は幸せな気持ちになるであろう、当然僕もだが。

玄関に突っ立ったままで先生の胸と腰をガン見している僕に、

「ちょ… 早く中入って! 早く、中に!」

すみませんと呟きながら僕は部屋に入れてもらう。あれ。想定に反し、すごく整った綺麗な部屋ではないか。大掃除の余地があるのだろうか、と首を傾げていると、

「暑かったでしょう。よおーーくキンキンに冷えたビールありますから。さ、どーぞ」

と言ってこともあろうにビール缶を差し出すではないか! 数日前に人生でも屈指の大失態を遂げたばかりだというのに。

だが道に迷い汗まみれの僕は、冷えたビール缶を握ると喉がゴクリと鳴ってしまう。先生もプシュッと気持ちいい音で栓を開け、

「真田さん、早く早く! 早く開けて!」

と擦り寄ってくるので、指はプルタブを気持ちよく跳ね上げていた…

「かんぱーい」

僕と先生は缶をぶつけ合い、渇いた喉にビールを流し込む。ああ、茹だるような暑さの中を彷徨った後のよく冷えたビール。喉がもっと、もっとと欲しがっているので遠慮なく流し込んでいく。

「いやあー、一仕事の後のビール、サイコー」

「え? 仕事って、一人で掃除してたのですか?」

「ま、ちょいちょいって、ね。はい、これお代わりー」

そう言って二本目を差し出す。ん? なんかこの展開、まるでデジャヴのような…


ゆっきーが突然、

「アタシ、澪ちゃんと暮らすことになったの。保健所に届け出しといてくんない?」

と言うのでビックリして、

「そんなこと誰が決めたんだよ。」

「えっと、ローテさんとクスクスさん、あとたっくんママだけど。」

僕は溜息をつきながら、

「それじゃ仕方ないか。ちゃんとパスポートは持ったかい?」

「ああ、忘れてたわー、ありがと、ヒッキー」

そう言うと僕にしがみついていきなりキスをしてきた。僕は嬉しくなってゆっきーの口を吸い返す。舌を舐め合い、心地よい感情に身を委ねているとー

「間もなく目的地です。運転お疲れ様でした」

と誰かが言ったので、

「じゃあ僕は帰るね。お疲れ様でした。」

そう言って服を脱いで上半身裸になる。


意識がゆっくりと戻る。あれ、なんで保健所に届けなければいけないのだろう。

目の前に美代先生の可愛い寝顔がある。

……

またしても、僕は… やってしまった… 大掃除を頼まれていたのに、酒に溺れて居眠りをしてしまうなんて…

しかも、ここは先生のベッドの上。汗まみれの僕が先生のベッドを汚してしまった。更に。よっぽど暑かったのだろう、なんと僕は全裸になっているではないか! 有り得ない、こんな若くて素敵な女性の家で、汗まみれのまま全裸で寝てしまうなんて…

こんな僕を先生は絶対許さないだろう、園児の父親が自分の家で頼まれごともせずに酒を煽り、酔っ払って全裸で寝てしまうなんて…

冷や汗が全身から噴き出す。ああ、またベッドが汚れてしまう… 僕は疲れて寝ているのであろう先生を起こさぬようにそっとベッドから抜け出し、着ていた服を身につけ始める。

そう言えば冷房がオフになっている、よっぽど暑かったのであろう、先生のタンクトップと短パンもベッドの下に脱ぎ捨てられているので、それを丁寧に畳む。その際、短パンから真っ黒なショーツがこぼれ出てくる。

一瞬、コインランドリーでのゆっきーの真っ赤なショーツを思い出し、顔が真っ赤になる。でもあの時ほどの興奮はなく、それもそっと畳んで短パンの中にしまっておく。

部屋の中はムッとするほどの暑さと汗臭がこもっており、部屋の窓を開けて換気したいのだが、先生を起こしてしまうかも知れないのでこのままにしておこう。

その辺りに散らばっている空き缶を数えると、八缶ほどだった。何とまあ… それをシンクにまとめ、忘れ物をチェックし僕はそっと部屋を出て行った。


駅までの道すがら、つくづく己の駄目さ加減にうんざりしている。勧められても断ればいいのに断れない。頼まれたことをすぐにしようとしない。自分は弱いのだから、一本で一杯でやめておけばいいのに、断れない。すぐに意識を失くし寝てしまう。挙句の果てには服を脱いで汗まみれで人のベッドを汚してしまう。

はっきり言って、人間の屑である。カスである。もしゆっきーがこれを知ったら、

「死ね」

と一言言って永遠に僕の前から姿を消すであろう。そんな優柔不断で約束を守れず行儀の悪い男がいたら、本当に包丁でグサッとやりそうだ。やるに違いない。

なのでゆっきーには死んでも言うつもりはないが。本当に自分が嫌になってくる。

駅に辿り着き、電車に乗ると僕は先生に深い反省と謝罪のメッセージを送る。自分が如何にだらしなく不誠実な人間であるか、どうか先生の深く広い御心で堪忍してやっていただきたい、今後は生まれ変わった気持ちで生きていくので、どうぞ暖かく見守っていて欲しい、そんな言葉を連ねて送信する。

既読はすぐに付いたが、返事はとうとう来なかった。


     *     *     *     *     *     *


九月の中頃になっても残暑は続き、毎日汗だくの日である。

汗まみれになりつつも、僕とゆっきーのコインランドリー通いは続く。最近はローテさん、クスクスさん、たっくんママとも普通に話すようになってきており、先日は何と五人で駅近のイタリアンでランチ会を楽しんだのだった!

最初は尻込みしていた僕だったが、各家庭、特に夫婦関係の暴露合戦に次第に心引き込まれ、気がつくとへーとかほーんを連発していたものだ。

中でもゆっきーのカミングアウトには三人は唖然呆然、

「私たち、絶対あなたを応援するから! 自分のしたいことするの! いい?」

なんて人生相談大会と化すのであった。

以来、昼間のコインランドリーでの井戸端大会議は僕にもゆっきーにも生活の一部として欠かせないものとなりつつある、のかな。

特に一番の年配であるローテさんはすっかりゆっきーを気に入って、ゆっきーも母親というか姉というか微妙な年齢差のローテさんと何故かウマが合い、二人でお買い物に行くほどの関係になっている。

「ちょっとヒッキー。ローテさんって、ヒッキーの付けたあだ名なん? てっきりローテンバッハさんの略だと思ってローテさん連呼して、山崎さん、はてなマーク浮かびまくっとったよ!」

知らんがな。彼女の苗字が山崎さんだったなんて。三日おきに同じ服着てるでしょ、三日おきのローテーション、だからローテさん。何だよそのローテンバッハさんって… アルプスの少女かよ!

「それは、ロッテンマイヤーだっつーの。でも、ローテさん… 確かに、同じ服… ギャハハハ!」

爆笑するゆっきーである。


僕以上にコミュ力がつき始めたゆっきーに、ちょっとした変化が出てきている。それは、自分の描いてきたイラストを公表しようか迷っているのだ。僕が前から勧めてはいたが、

「ムリー。絶対、無理。」

と頑なに断っていたのだが、最近、

「あのさ。イラストって、どーやって投稿とかするん?」

僕は驚きつつも嬉しさが込み上げてきて、

「一番有名なのがPixivかな。ここからプロデビューする人も多いらしいよ。」

「ほーん。そーなん。」

それからしばらくして。高村家で恒例のゲーム大会中に、ゆっきーがふと、

「その、Pixivとかって、誰でも投稿できるん?」

僕はゲームをスリープし、すぐにググりサイトをスマホ画面に出して見せる。

「僕はあまりイラストに興味ないから殆ど見ないけど。でも、熱狂的な人たちが大勢いて、物凄く盛り上がってるらしいよ。ちょっと覗いてみようよ」

ゆっきーの目がキラリと光る。僕はゆっきーにアカウントを作成させ、ログインしてから色々な作品を見学させる。

「うわ… みんな、めちゃウマ…」

とは言いつつも。その横顔は

『ふーん。この程度ならアタシも』

にしか見えないので、プッと吹き出してしまう。そして改めてそれらを拝見し、ああこれならゆっきーも十分アピール出来るはずだ、と確信する。

「折角アカウント作ったんだから。早速アップしようよ」

「えええ、今? ナウ? ですか…」

「そう。ナウシカ、です」

頭を一発叩かれ、

「ちょ、今は、まだ、心の準備が…」

「そう言っている奴は絶対投稿しない。準備は整いあとはやるだけでしょ、で? いつやるの? 今でしょ!」

僕の肩に頭を乗せ、

「何ちゃらハイスクールかよ! でも… んんん… そっか、んんん… 今かあー」

自分のイラスト集をスマホで眺めながら。

「そうだ。この辺のイラスト、アナログなんだよね、ほらこないだ見せた画集。」

寝室のクローゼットの奥に眠る、ゆっきーの初期の画集のことだ。

「これはさ、写メして保存した奴なんだけど。これでもいいのかな?」

うーん。僕はイラストはあまり詳しくない。ので、ちょいとググってみるとー

「ああ、デジタルスキャンした方がいいかも。この家にプリンターとかある?」

ゆっきーは首を振り、

「旦那はデジタル音痴でさ。そーゆーのウチにはないわー」

「なら、コンビニでスキャンしてUSBに保存すればいいよ。」

「ほーん。わーった。やってみる。」


その翌日。

「今朝、投稿したよ!」

昨日あの後、画集を胸に抱き、コンビニで数千円かけて膨大なイラストを全てスキャンしデジタル化したらしい。

その一部を早速今朝投稿したのは実は既に知っている。だって僕は昨日からずっとチェックしていたのだから。今朝、『ゆっきー』さんが投稿した絵は、あの日寝室で見た絵だったから。

「投稿した瞬間にさ、すぐに『いいね』が付いたんだ! あれ、めっちゃ嬉しいわー」

僕はニッコリと頷く。それ、僕なんだとは絶対言わないでおこう、だって。その内にあっという間に凄いフォロワーが付くに決まっているから。

まあすぐに商業化の話とかは来ることはないと思うけど、これを機にコツコツ描いては投稿しているうちに、見る目のある出版関係やゲーム会社、アニメ制作会社から連絡がくるだろう。僕はそう信じている。

ところが、だ。

僕の勧めた投稿が、僕にとって想定外の弊害を生じさせることとなってしまう。それはー

その日から、ゆっきーは殆どコインランドリーに姿を見せなくなる。何故ならーすっかりイラスト描く、即投稿のカルマにハマってしまったのだ。

彼女の投稿数は毎日数枚。初めは過去の作品を主に投稿していたのだが、徐々に今の流行りに合わせた画風の最新作の投稿が増え始め、それに従いフォロワー数がとんでもない人数になってきている。

ファンが増える、それ自体は実に砂らしいことであり僕の望む所である。のだが、それによって毎日会えなくなるというのは全く想像しておらず、またゆっきーがそれ程までのめり込み体質だったことを改めて知ることになった。

ラインで調子はどお? と送っても既読が付くのは夕飯時。下手をしたら翌日まで既読がつかない日もある。

思わぬ彼女の一面に、僕は悲喜共々の思いを胸に秘め、密かに彼女の応援に今日も勤しむ。


そんな僕も少しずつ変わりつつある。

毎日の井戸端会議で学んだこと、まずは話すときに相手の目を見よう。

それを日々の暮らしで実践してみる。園の送迎時に園ママと挨拶する時。ちゃんと相手の顔を見ること。すると、顔と名前が徐々に一致しだす。また、あれ今日は翔大ママ疲れているなあ、とかあれ、美代先生なぜ僕から目を逸らすのだろう、などと色々な情報が僕に蓄積し始める。

すると少しずつ人間関係に興味が出てくる。あれ、優馬ママと礼央くんママは目が合っても挨拶しないぞ。後で聞いてみると、同じお受験教室に通っているライバルだとか。

「あまり人に言わないでくださいね。みっともないから…」

僕は優馬ママ特製のガトーショコラをモグモグしながら目を見て頷く。あれから二度ほど優馬ママにお誘いを受け、その辺のパティシエ真っ青の手作りケーキ茶会をしに豪邸にお邪魔している。

シャンパンを勧められるも、ちゃんと目を見て、

「関口さんのケーキをちゃんと食べたいので。今後お酒は遠慮します」

と宣言してから、お酒は出なくなる。お陰で毎回最高のケーキが堪能できて、非常に満足している。何故か優馬ママは物足りなさそうな顔で毎回僕を送り出すのがちょっと謎なのだが。


美代先生とはあれ以来口を殆どきいていない。業務連絡は受けるが、一切プライベートな話はしなくなったし、スマホに連絡が来ることもなくなった。

噂によると、付き合っている彼氏との結婚が決まったらしく、今年度いっぱいで寿退職するそうだ。とてもおめでたい話なので、一度ちゃんとおめでとうを言いたいのだが、何しろ僕と目を合わせてくれないのでそれも叶わないでいるのがちょっともどかしい。

もう少し後で知ることになるのだが、実は先生はおめでただった。卒園式の頃にはお腹がぽっこり出て、さらに後日伝え聞いたところによると元気な男の子を出産したそうだ。

園児たちにお腹を撫でられ、実に幸せそうな様子だったのだが、僕と目が合うと悲しげな寂しそうな会釈をする姿が忘れられない。


     *     *     *     *     *     *


十月に入ると、園の行事もたけなわ。秋の遠足、運動会。僕は園の役員だとついこの間知らされた優馬ママに頼まれて、運動会の準備に奔走する。園庭の整備、使用する道具の準備、借り物競争に必要なグッズの買い出し、などなど。同じく役員の花音ママ、翔大ママと連絡を取り合い、毎日都内を駆けずり回っていた。

有能な優馬ママの指示と指導のお陰で、運動会の準備は万端。あとは気象衛星ひまわり九号に当日の快晴を祈るばかりとなる。

「気象衛星にお祈りって… 澪ちゃんパパ、可笑しい」

と数名のママさんに笑われるが、当日。見事快晴と相成り。

「これからは神様じゃなくて、機械に祈る時代なんですね… さすが澪パパ!」

と何故か尊敬されてしまう。

競技では園児に特に怪我人もなく、恙無く終了の筈だったのだが。例年、親の負傷者が後を絶たないと聞いてはいたが。今年はなんと、お父さん途競争で肉離れ二名、お母さん綱引き大会で転倒による擦り傷、捻挫、更には骨折者まででるという、正に『戦場』と化してしまった。

まさか綱引きでこれ程負傷者が続出するとは夢にも思わず、救急箱を抱えて走り回ったり旦那さんに開いている病院を調べて伝えたりと、正に救護兵としてかけずり回っていたのだ。

それにしても綱引きがこれ程危険な競技とは知らなかった。来年の申し送りには、綱引き競技の禁止もしくは救急車の待機要請を含めようと決意する。

それらの負傷者のケアに振り回されたお陰で、澪の勇姿を全くみることができず相当凹んだ。宴の、いや戦の後片付けをしながら溜め息をついていると、

「澪ちゃんの写真撮ったから送りますね」

「動画撮りましたよ、LINEで送りまーす」

などの嬉しい言葉を多々いただき、ああお手伝いをして本当に報われた、と目頭が潤んでしまう。すっかりご機嫌になり、ゴミを裏に捨てに行く途中。

「やっほー、なんかメチャ忙しそうだから、声かけられんかったー」

ゆっきーがやや疲れ顔で僕に笑顔を送る。


もうすぐ澪の幼稚園の運動会があって、その準備でメチャ忙しい、と愚痴を送ったら、

「絶対行く! 絶対観に行く!」

とは言っていたが、イラスト制作に忙しいらしく、本当に来れるか謎だったのだが。

ゆっきーに会うのは十月に入って初めてだった、以前よりも大分げっそりし、多分片手で持てるくらい軽くなっている様子に、

「ちゃんとご飯食べてるかー?」

「んーーー、ちょこっと…」

「駄目じゃないか。ちゃんとご飯は食べて、たまには運動でもしないと。」

「それなー。でもさ、今ちょっと楽しすぎて…」

そうなのだ、ゆっきーは投稿サイトにデビューし、瞬く間にとんでもないフォロワー数を獲得し、今やサイトでも注目の新人となっているのだ。

「仕事の話とか、来ているの?」

「うーーん、幾つかあるんだけどさ。それがねえー ああそうだ、今夜澪ちゃんとウチ来れるよね? そん時話すわー」

運動会の後、澪と遊びに行く話になっていた。澪はそれをメチャ楽しみにしていたので、ゆっきーが作成に没頭し運動会を忘れてないか、ちょっと心配だったのだが杞憂だったようだ。

「じゃ、これ片付けたら澪と行くから。七時前には行けると思う」

「おけ。待ってるよーん」

久しぶりのゆっきーの後ろ姿。疲れた身体が生き返った気がする。

日が暮れかかり綺麗な夕焼けがその後ろ姿を照らす。兵どもが夢の跡、園庭には誰一人残っておらず、ただ暮れなずむ夕陽が優しく木々の影を作っている。


片付けを全て済ませ、役員のママさん達と労いあっていると、

「今度、打ち上げをしましょうよ!」

という話になり、当然の流れで僕も参加することとなる。井戸端会議からのランチなどですっかりママさん達とのコミュニケーションは苦ではなくなっていたので、逆にちょっと楽しみである。

場所はどこにしようかと相談している中、前にチーム・ランドリーで行った駅近のイタリアンを提案すると、

「澪パパ、すっかり変わったよねー」

と翔大ママに感心されてしまう。皆もそれに深く同意を示し、

「こんなに積極的に色々手伝ってくれて。ほんと大助かりですよ。」

「ねえ、前はちょっと話しかけずらかったけど。今はすっかり頼りになる素敵なパパさん、って感じよねえ、うちの主人も澪パパぐらいー」

なんて僕のアゲアゲ話で盛り上がってしまい、煉獄さんのように耳から炎が出る程照れてしまう。

その流れで各々の子供を呼び出し帰宅の途につく。僕と澪はゆっきーの家に行くので駅の方面に向かおうとすると、

「あら、真田さんの家はこちらでしょ」

「ああ、今夜は知人の家で食事会なので」

と言うと、優馬ママがニヤリと笑い、

「ああ、ゆっきーさん、と言う方のお家に行くのですよね」

って… へ? 何故それを?

ママ連が、おおおと唸り声を上げるので、澪の手を引いて一足先にお邪魔する。ああびっくらこいた、なんで優馬ママが知ってんの…

「ああ、ユウマがさ、こんやうちでごはんたべないかってうるさいから、そう言ったよ」

…おまえか、犯人は…


     *     *     *     *     *     *


「いいじゃん、べつに。ゆっきーのはなししても。ねー、ゆっきー」

澪が口を尖らせて、僕と夕食の支度をするゆっきーに同意を求めるも、

「んんーー、パパの立場っつーのがあるから、あんま言わない方が…」

「なにそのたちばって。パパとゆっきーがなかよしなのが、なにがいけないの? いーじゃんホントのことなんだから。」

正論を盾にして自己の正当性を誇張するところは、彩にそっくりである。僕とゆっきーは苦虫を潰したような顔をしながら肩をすくめる。

「パパはいいさ。でも、ゆっきーに迷惑がかかるだろ。」

「ゆっきーはようちえんに子どもいないからめいわくかからないじゃん」

んぐっ 更に正論砲を放つ澪に僕はぐうの音も出なくなる。ので。

「そんなこと言うなら、ハンバーグやめてピーマンの肉詰めにするから。」

文春砲ならぬ真田砲の威力に澪は一撃で陥落し、

「そ、それだけは… おねがい、もう言いません…」

勝った。何故か僕は彩を言い負かしたかのような快感を覚える。その横で大人気ないとゆっきーは顔を顰めている。

こんなやり取りが、どれだけ僕の心を癒してくれるだろう。彩とは作れなかったこの雰囲気。もはやかけがえのない、家族の空気。これぞ、誠の家族ナリ。そう叫びたいのを必死で堪えつつ、肉をボールの中でこねくり返す。


「それにしても澪ちゃん、今日大活躍だったじゃん、かっこよかったあー」

僕が左手を骨折しちゃった涼太くんママの介護をしている最中、最終種目のクラス対抗リレーで、アンカーとしてチームを最下位から優勝に導いた。らしい。

「もー、ゆっきーが『がんばれー、ミオー、いけえー』ってうるさいんだもん」

と膨れ面をしながらのニヤケ顔。

「えー、アタシの応援、聞こえてたんだー、嬉しー」

とゆっきーも垂れ目が更にタレタレ状態となる。

「アタシ、いっぱい動画撮ったから、ご飯の後みんなで観ようね!」

ああ、流石ゆっきー。僕のテンションは一気に上がり、肉を捏ねる手に力がこもる。

「それよりー、ゆっきーのかいたえがみたい!」

「あははー、いーよー」

ゆっきーはタブレットを開き、サイトに投稿した自分の作品を澪に見せる。澪はおおお、と唸りながら食い付くようにそれらを眺めている。

そんな二人の様子は、誰がどう見ても仲の良い母娘であった。


僕の特製ハンバーグを食べ終え、食器を洗い後片付けをし、ゆっきーの撮ってくれた動画を観ている間に、よっぽど疲れたのであろう、澪をすやすやと寝てしまう。ゆっきーは観音様の笑顔で澪にタオルケットを掛けてくれる。

「それで? 商業化の話、来てるんだって? 凄いじゃない!」

彼女は苦笑いしながら、

「それな。ちょっとこれ見そ」

そう言うと、自分宛にきたメッセージを見せてくれる。男よりも女性なら案外知られている成人向け雑誌、いわゆるレディースコミックの編集からの連絡だ。その内容は、柔らかな曲線が非常に魅力的だ、是非弊社の雑誌のイラストを描いていただけないか、というもの。

「絵、絵、エロ本かよ!」

僕は思わず吹き出してしまう。

「だよねー。まさかのオファーに目が点テクりんだわー。」

「なにその点テクりんって。で、どうするの。その仕事受けるの?」

これは案外重要な話だ。もしこの話を受けてしまえば、ゆっきーはイラストレーターとして正式にデビューする、すなわちプロとして活動することとなる。

なるのだが。その肩書きは、

『アダルト雑誌のイラストレーター』

となってしまう。江戸時代で言うなら春画師か。そしてその後はそっち系の仕事しかこなくなってしまうだろう。

僕にはアダルト系イラストがどれ程の需要があるのかサッパリ分からないが、まあ人に自分を紹介するときには相当勇気がいるジャンルではあるだろう。

『アダルトイラストを描いてます、高村雪乃です』

って、言える?

「無理無理無理――― 絶対無理だし、旦那にバレたら即追い出されるー」

それは間違いあるまい。もし僕の妻がそんな仕事をしているのを発見したら、僕は即出ていく自信がある。

それにしても。どうしてそんな分野から声がかかったのだろう。

「あー、それなー。多分先週アップした絵を見たんだと思うー」

この二週間ほど僕は運動会の準備に悩殺され、全くPixivを開けてなかった。ゆっきーに件の作品を見せてもらう。一眼見て、あああー 一瞬で心を奪われる!

一人の天使のような少女が、上半身裸で黄昏の海に入っている。オレンジ色の海の色の美しさに目を奪われる。いつの間にかゆっきーはこんな色使いをするようになったんだなあ。そして金髪の天使の柔らかな曲線美。エロティズムを超越した神々しさを感じ……

ん…?

この天使、誰かに似てないか? って、おい、コラ! 

この子、どー見ても澪じゃねえか!

「きゃはは、バレたか。」

ば、バレたかじゃねーよ! 完全なる著作権侵害、いや肖像権侵害じゃねえかよ! 許さん! 僕の娘の裸体を世に晒すなんて!

「だから、金髪にしたし。ヒッキーにしか分からんだろ」

僕に分かっちゃうのがダメだろ! ああああ、この人マジでぶっ飛んでるわ… 芸術に長けた人間は人としてどこか壊れているのは常識だが。まさか知人の娘の裸体を世に晒すとは…

「知人じゃねーし。」

「じゃあ、なんなんだよ?」

「んーー、愛人?」

澪を膝に寝かせたまま、僕はソファーからずり落ちる。


その後厳しくコンプライアンスについて指導したのは言うまでもなく。結局そのオファーはペンディングすることで僕らは合意する。

「大丈夫だよ。この調子ならもっとちゃんとした所から声がかかるからさ。」

「そーだといいけど。でもさ、オンナの裸って描いていると萌えてくるんだよねえ。ちょっとハマっちゃってるかもー」

どーぞおハマりください。百年先までおハマりください。でも二度と澪をモデルにしないでくださいね。

僕は膝で口をニパッと開けて寝ている天使の頭を優しく撫でながら、心からお願いする。

「へーーーい」

ゆっきーの目をじっと見る。すぐに目を逸らす。怪しい。このオンナ、絶対この先も描くに違いない。今後は毎朝毎晩、厳しくサイトを校閲せねばなるまい。

だがその時僕は知らなかった。既にゆっきーは禁断の果実をムシャムシャと齧り付いてしまっていたことに……


     *     *     *     *     *     *


十一月に入ると園ママ達とのコミュニケーションも更に活性化していく。そして新たなコミュニケーション技術を次々に取得していく。

中でも最も効果があったのは『とにかくお子さんを褒めちぎる』術だ。これはローテさんから授かった技術であり、その為にまず僕は澪のクラスの園児の氏名を丸暗記することから始める。次に親子遠足の集合写真を穴が開くほど眺め、親と子を一致させる。毎晩夕食後に澪先生に教授してもらううちに、○○くんママ、○○ちゃんママ、と瞬時に把握できるようになる。

そして彼女たちと話す時に、我が国の情報機関、MIOによる情報をもとにお子さんを誉めるようにする。

こうかはばつぐんだ!

僕が誉めると相手は倍返しをしてくる。すると園での澪の生き様が、手に取るようにわかってくる。同時に園内での澪の交友関係も詳らかになってくる。

僕はてっきり園での澪は、普段は大人しいがキレやすい難しい子、と思っていたのだが。とんでもない、ママ工作員からの情報を分析解析するにー

クラスのムードメーカーでありオピニョンリーダー、そしてインフルエンサーである。

「まさか… そんな活発で影響力のある子なのですか?」

花音ママが深く頷きながら、

「真っ先に園でキメツを流行らせたのは澪ちゃんですよお。花音も家で、なんとかの呼吸、とか毎日やってますよお」

すると他のママさんが吹き出しながら、

「ペットにカラスを買ってくれってうるさくて。」

「そうそう! ウチなんか、家でずっと魚肉ソーセージを横に咥えて何か唸ってるわ」

僕は苦笑いしながら後ずさる。ヤバ… その大元って、僕じゃん…


翌日その話をローテさんに話すと、大爆笑される。

「ハアー、可笑しい。澪パパがまさかの発信源とはねえ」

クスクスさんはゲラゲラさんに改名しようかな、位爆笑しながら、

「ウチなんか中学生じゃない、パパが自分のスマホでエッチなサイト見ているのを息子がチェックしてさ、それをクラスのみんなで閲覧して大問題よ。」

僕は口に含んでいたカフェラテを噴きそうになる。

「ウチもね、旦那とシてる最中にたっくんが入ってきて、次の日園で「きのうのよる、パパとママがはだかでケンカしているのをボクがとめました、って先生に報告して。もー恥ずかしいっ」

思わずそのシーンを想像してしまい、苦笑いが出てしまう。

ローテさんが、それアルアルと何度も頷いた後。

「そう言えばさ。最近ゆっきーコインランドリーに来ないねえ。旦那となんかあったのかなあ。LINEしても既読なかなかつかないし。」

「本当ね。折角美味しいベーカリー教えてあげようと思ってんのに」

「澪パパ、何か知らない? 最近連絡取ってる?」

僕も首を傾げながら、

「ねえ、どうしちゃったんでしょう。何か習い事にでもハマっているんじゃないですかね」

いや流石に毎日イラスト描いてはサイトにアップしていますよ、とは言えず話をぼかす。

「あの娘、あんな性格だからパートとかバイトなんてしてないだろうし。」

「そうよね。旦那に追い出されて実家に帰ってるとか?」

「あの娘、実家どこだっけ?」

えーと、実家は台東区の方ですけど。実家には帰っていませんよー。

「ご実家、何されてるのかしら」

なんでも、小さい工場を祖父の代からやりくりしてて、今はお兄さんが継いでるそうですよー。

「子供いないんだから、とっとと別れて実家に帰ればいいのに」

残念ながら、ゆっきーの使ってた部屋は甥っ子に使われてるので、居場所が便所か風呂場しかないんですってー。

「それかさ、もっとイケてる男と一緒に夜逃げするとか。んー楽しそう!」

おいコラ。そんなことはこの僕が許さない! 断じて許さない!

ローテさんが寂しそうにポツリと、

「どうしてるのかな。」

ええ、どうしてるのですかね…


茶話会後、僕はランドリーバッグを抱えたままゆっきーのマンションのエントランスに入る。何度LINEしても既読が付かないので、ちょっと心配になったのだ。部屋番号をプッシュし、インターフォンを鳴らす。一回目は出ず。あれ、お買い物かな。二回目でようやく、

「はーい… って、え? ヒッキー? 何、どうし、たん、…」

メチャ慌てた様子。

ま・さ・か…

イケてる男? 部屋にいる?

「開けてくれないかな?」

「え… ちょ… 今は、その、ちょっと… ムリ、かな…」

「誰か、いるの?」

「…… それは… その…」

「開けて」

「え… あの…」

「開けろ!」

僕は我を忘れて絶叫する。真後ろにいた住人がヒッと悲鳴を上げ後退りする。


エレベーターではもどかしいので、非常階段をダッシュで駆け上がる。四階に辿り着きTAKAMURAの部屋のインターフォンを連打する。

『んーーー、愛人?』

あの一言が鮮明に蘇る。そして最近のサイトへの投稿の少なさに合点がいく。

間違いない、彼女には僕以外に、男がいる!

そう言えば運動会の日のあの疲れ切った顔。イラスト描くだけであそこまでやつれるだろうか。

インターフォンを連打し続ける。

僕だけにでなく、あんなに打ち解けていたローテさん達にさえ既読を付けず返信もせず。イラストを描くだけでそこまで下界との交渉を断つであろうか。否。

インターフォンを拳で叩く。

打撃音が内廊下に鳴り響き、何事かと隣の老婆が扉を開けて僕を伺う。

ようやく玄関の扉がそっと開く。

僕は力任せにそれを開け、体をねじ入れてから扉を力一杯占める。部屋に入った瞬間、じめっとした汗臭い匂いが鼻に入る。僕の視界は徐々に赤いシェードが掛かってきて、

「誰がいるの。」

自分でもビックリする程低く重たい声を出しつつ、ゆっきーを睨みつける。

ゆっきーは信じられない位げっそりしている。頬はすっかりコケ果て奥歯が頬に浮かんで見える程だ。目は深く落ち窪み、肌は吹き出物だらけで荒れ果てている…

バスローブの前を両手で隠し、怯えた瞳で後ずさる。

玄関に置かれた男物のスニーカーを蹴飛ばすと、一気に頭に血が逆流する。

よくも、裏切りやがった… あれ程、上手くいっていたのに… 澪があれ程信頼し信用していたのに…

完全に制御不能となる。怒りと絶望と悲しみの入り混じった大声で、

「誰が、いるんだよ!」

彼女は口を震わせ、いや全身を震わせ。目には涙を溜め、首を小さく何度も何度も横に振り…

僕は怯えきった彼女を廊下の壁に叩きつけ、寝室のドアを力一杯開く。


薄暗いベッドの上に裸の男が仰向けに寝ている!


こんな修羅場なのに、堂々と両足を立て、ピクリとも動かない。いわゆる騎乗位の最中だったのか!

人生でこれ程我を忘れたのは初めてだ。気がつくと僕は大声で叫びながら、ベッドの男に飛び掛かっていた! そして握り締めていたスマホをそいつの顔面に叩き込む。

グシャ

僕のスマホと拳が有り得ない程そいつの顔にめり込む。僕は人に暴力を振るうのは初めてだ、なので全く加減を知らない。更に拳を上げ、

「うわああーーー」

と叫びながら、そいつの顔に叩きつけ…

あれ?

馬乗りになっている僕の両膝の間に、Eカップ程の乳房が丸見えである。は?

それに。あれだけ力一杯叩きつけたのに、血飛沫も上がらないし、なんか感触が変だ。

そう、例えるなら、ビニール製の風船に殴りつけたような…


カチッと部屋の電気のスイッチがオンになる音がする。

天井が眩しいばかりの明るさとなり。


僕が、いわゆるダッチワイフに跨り、拳を振り下ろそうとしているシュールな姿が明らかになった…


ゆっきーは顔を歪ませ、大粒の涙をボロボロ溢しながら、大爆笑していた…


     *     *     *     *     *     *


ソファーに深々と腰掛け、ゆっきーの淹れてくれたコーヒーを半分飲み干す頃に、ようやく僕の心と身体は落ち着いてくる。

隣にゆっきーがちょこんと座り、済まなそうに俯く。

「で。何から説明してくれるの?」

ゆっきーは大きな溜め息を一つ。そしてボソボソと話し始める。

レディースコミックからのオファーを受けた頃から、裸体を描くことに興味が芽生え、更にそれが進化し男女の交接シーンを描くことに没頭するようになる。ちょうどその頃イラストの参考にと入会した18禁のイラストサイトに作品を投稿しだすとあっという間に熱烈なファンが多数できる。それに気をよくした彼女は更に進化を遂げ、気がつくとそのサイトナンバーワンの座を揺るがないものとしていた。

「それで… Pixivの方の投稿が減ったんだ…」

熱狂的ファンに煽られ彼女は更に進化させようと思ったのだが。

「アタシさ、旦那としか経験ないからさ、すっかり行き詰まっちゃったんだわー」

色々なエロサイトで動画を研究したものの、所詮それは二次元。彼女はもっと立体的に構図を捉えたっかのだが、流石にそれは叶わぬ願い。まさか知り合いの夫婦や彼氏彼女に、

「言えないよー、見せてなんてー」

苦悩の挙句、辿り着いたのが

「この子。そんでアタシが男役。」

バスローブを開くと、天狗の鼻の如きハリボテがゆっきーの腰に巻き付いている!

ゆっきーは彼女と色々な体位や動作を共に研究し、それを動画に撮りイラストに落とし込んでいたのだった…


「馬鹿なの? ねえ、マジで馬鹿なの?」

堪えきれず僕は大爆笑してしまう。腹筋がちぎれる程笑ってしまう。

その子は決して旦那に見つかってはならない、従って家に保管する訳にはいかず、駅のコインロッカーに入れ、朝旦那が出社するや否や駅に引き取りに行き、部屋で息を吹き込み膨らませては共に研鑽していたのだった。

「これがさ、二十分はかかるんだわー。マジしんどくて、死にそうになるんだー」

それで彼女はあんなに疲れ切った顔だったのか… 毎朝、ゆっきーが顔を真っ赤にしながらフーフー息を吹き込むのを想像し、ソファーに倒れ込んで笑ってしまう。

「馬鹿や、馬鹿すぎる。本物の馬鹿やー」

スマホで録画するので当然その最中にはLINEは見れない。録画を終えすぐにイラストを描き始めるので、返信する時間なんてありゃしない。

「そのサイト、ちょっと見せてよ。どんな凄いの描いてるの?」

「いや、えっと、それは、ちょっと…」

ハリボテを弄りながら困り果てる彼女をスマホで撮影し、

「見せてくれないなら、これローテさん達に送信するぞ!」

と脅迫し、やっと渋々そのサイトを見せてもらう。そこにはエロサイトに興味のない僕でさえ思わず見入ってしまう程のエロチズムが濃縮されている! 学生もの、主婦もの、異世界もの、アニメ二次作品などなど。

そんな中に燦然と輝く「ゆっきー69」先生のイラスト。

まあ、エロいこと。でも彼女特有の柔らかな曲線美は相変わらずで、単なるエロさよりもエロの向こう側の芸術性をいやでも感じさせる、一種の芸術作品と言えよう。ちょっと勿体ないきがすr……

おい。

この一連の女性達。これ。どう見ても、澪の成人した顔じゃねえかよ!

「えへ。バレちった」

バカもの!

ああああ、愛しの娘の成人した後の淫らな姿…

気がつくと僕はゆっきーの首を半分本気で絞めていた!

「ちょ、やめっ ごめん、すんませんってばー、って、ああああー」

その拍子にバスローブが全開になってしまう。

即ち。

ゆっきーの推定Bカップが丸見えとなる。

痩身にちょこんと乗っかった、可愛らしい双丘。その先端部は淡い桜色でツンと尖っている。僕は思わず息を飲み込み、その美しい姿に目が釘付けとなる。正直さっきのエロサイトのどんな姿態よりも遥かに官能的であり、一瞬で僕は欲情してしまう。

のだが。

その下半身に巻き付けられたハリボテを見て、余りの異次元世界の姿態にまたもや大爆笑してしまう。


「で。今後どーすんの。そっち方面でやってくの?」

ゆっきーの悩む顔を見て、ああもう決心してるなとっくに、と気付く。

「ケイベツ、だよね… 」

正直。こんな世界で活躍してもらう為に投稿を進めた訳ではない。もっと表社会で燦然と輝く彼女の作品が僕は見たかった。だが。

「こんなん描く人間と、付き合いきれない、よね?」

正直。こんなん描く人間と付き合うつもりは全く、ない。だが。

「もう、会えない、よね… ヒッキーとも、澪ちゃんとも」

みるみるうちに垂れ目に涙が盛り上がってくる。そして両頬に太い涙が流れ落ちる。

「こんなアタシ、ダメだよね…」

「ダメじゃ、ない!」

僕は叫ぶ。


失いたくない。

二度と会えないなんて考えられない。

互いに制約はあれどいつまでもその瞳を見ていたい。

この先いつまでもずっと…


「頼むから、約束して欲しい」

しゃくり上げながら彼女は僕を見つめる。

「旦那には絶対バレないこと! 澪にも絶対絶対バレないこと!」

ゆっきーは大声で泣きながら僕にしがみついてくる。

これで、いい。

この人は、これでいいんだ。

その才能を思うがままに

操る姿をいつまでも見ていたい。

僕もゆっきーをキツく抱きしめる。


ゆっきーが僕の唇に自分の唇を重ね合わせる。僕は目を瞑りゆっきーの唇を感じる。


と同時に、

「痛ってーーー!」

僕の下腹部に尖ったものがグイグイ突き刺さり、僕は悲鳴をあげてソファーから転げ落ちる…


     *     *     *     *     *     *


「と言うことで、サンタ役には澪ちゃんパパにお願いしたいと思います。」

クリスマス会有志の会のメンバーが盛大な拍手を僕に送る。

僕は額から汗を流しながら苦笑いで答える。そして心の中で淑女諸氏に問うー

いいんですか? エロイラストレーターのモデルをしてるこんな僕が、聖なる祭りの大役を仰せつかって、本当にいいんですか?

あの日以来、僕はゆっきーの作品のモデルを仰せつかってしまう。週に二度ほどTAKAMURA家に出向き、寝室に入り、全裸となり、同じくモデルの優香ちゃんとの交接シーンを動画撮影されているのだ。ちなみに優香ちゃんとはあのお人形の名前、僕の初恋の女の子の名前をゆっきーに強引にもぎ取られ、泣く泣く毎週ゆうか、ゆうかと口にしながら抱いているのだ。

仕事モードの彼女は、ある意味凄い。僕の裸体は完全に彼女にとって商売道具であり、その冷徹な視線で僕らの一挙手一投足を観察し、イラストに落とし込んでいく。その過程で僕が密かに感じている欲情など彼女には一切ない。僕の裸体はあくまで仕事。その割り切り方に少なからず僕はガッカリと同時に尊敬の念を禁じ得ない。

徐々に彼女の要求は深みと重みを増していき、

「んーー、その表現は、人形相手では不可能だぞ。(ゆっきー相手なら可能だが)」

その心の声はついぞ届かず、淡々と着々と「ゆっきー69」先生の作品は仕上がっていき、大勢のファンを興奮の坩堝に突き落としていく。


幼稚園にサンタの衣装があるので試着することとなり。

会議室で着てみると、手と足が大分長い。

「うーん… 少し調節が必要だわ」

優馬ママが呟く。そして、

「真田さん。明日我が家に来ることができて?」

「大丈夫ですよ」

「私がこれを持ち帰って、明日手と足の長さの調整をしましょう。マジックテープか仕付け糸で十分でしょう。」

「分かりました」

「ケーキも用意しておきますわ」

僕の顔が綻ぶ。最近は彼女の作ったケーキを食べるのみならず、簡単なケーキの作り方を教えてくれたりして、週に一度は豪邸に足を運んでいるのだ。


翌朝、澪を園に送ったその足で白亜の豪邸を訪ねる。朝からかなりの冷え込みで、東京エリアはすっかり冬将軍の支配下にあると言っていい。

ダウンにマフラー姿の僕は関口家の玄関に入る。暖かい。いや、ちょっと暑いくらいだ。出迎えてくれた優馬ママは胸元の大きく開いた薄手のニットのワンピース姿である。

いつ見ても変わらぬ美しさを口にすると、

「最近、真田さん口がお上手ね」

とちょっと顔を赤らめるのがとても可愛らしい。

いつものリビングではなく、彼女の寝室に案内される。この家一体幾つ部屋があるんだろう…

「6L D Kかな。ウチは夫婦別室なの。だから遠慮しないで入って」

お言葉に甘え、優馬ママの寝室に入城する。一言でいうと、女の子の夢が詰まった夢のお部屋。である。

一方の壁際のクローゼットの上には何十ものぬいぐるみ達。その対面には横幅いっぱいのクローゼット、恐らくママご自慢の素敵な洋服たちが眠っているのだろう。一番奥のクイーンサイズの天蓋付きベッドには唖然としてしまう、だってディズニーアニメでしか見たことのない、お姫様専用初号機、みたいだったから。

その手前に鏡付きの年代物の化粧机があり、その上にサンタの衣装と裁縫道具が用意されている。

「では早速だけど、着てみてくれる?」

僕は頷いて、サンタの衣装を手に取り、

「じゃ、着終わったら声かけますね」

…………?

「あれ? ええっと…」

優馬ママはニッコリ笑って、

「私、気にしないから。さあ、着替えて」

心なしか弾んだ声で言うのだが。流石にちょっと恥ずかしいぞ。すぐ済むから出ててください、と言えばいいのだが、毎週有名パティシエ顔負けのケーキをご馳走になっている手前、機嫌を悪くされてはまずいと思い、渋々と服を脱ぎ始める。


このサンタ服、個人的にはサンタスーツと呼称しているのだが、は実に着脱が困難である。背中にチャックがあるワンピースタイプなので、ズボンを履いたままでは着ることができない。

流石に淑女の前でズボンを脱ぐ行為は、大変な失礼に当たると思うのだがー

「気にしないで。毎日優馬の着替えをしているの、私ですからー」

と論旨をすり替えれてしまう。まあ、彼女がそこまで言うなら仕方ない、清水の舞台がらバンジージャンプする気分でベルトを緩め、履いていたチノパンを脱ぐ。

ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえた気がするが、まあ気のせいだろう。脱いだチノパンをどうしようかと迷っていると、すかさず彼女が預かってくれる。

極暖のアンダーシャツにボクサーブリーフ姿の僕。なんか最近女性の前で脱ぐ機会が多々ある、と思いながら机の上のサンタスーツを手に取り、下から履き始めようとー

「あ、ちょっとそのまま。寸法合わせちゃうから」

そう言うと彼女は僕の足元にしゃがんで、いきなりメジャーで僕の股下を測り始める! なんじゃこのプレー…

「えっと、股下、えっと、だいたい…」

わざとじゃないのは分かるのだが、一々測るたびに僕の股間に彼女の手の甲がタッチしてしまう。まあ几帳面な彼女なので、一ミリ単位で測りたいのだろう、でもその度にタッチ…タッチ…ここにタッチ!

しまいには僕の大事なお袋を手の甲で伸し上げて、

「うん、79.46ね。あ、念の為もう一回測っておこうかなー」

お医者さんごっこならぬ、テーラーごっこかよ!

「うふふ。優馬のと違って、ご立派なこと」

やめろ。お願いだから、園児と比べるの、やめてください… 僕の尊厳が崩壊してしまいますので…

この苦痛は約三十分ほど続き、僕はすっかり汗だく状態となってしまう。


「はあはあ。これで、サンタ服、ピッタリに、仕上がるわ。」

彼女も相当くたびれた様子で息を弾ませている。心なしか額に汗が浮かんでいる。だからそんなに無理しないでいいのに、たかが園のクリパじゃないですかい。寸法なんてテキトーでいーっすよ。とは死んでも言えない僕は、

「お疲れさま。優馬ママも疲れたでしょ?」

すると彼女がキリッとした顔で僕に向き直り、

「二人きりの時は、佳代子って呼んで!」

と凄い顔で睨むので、

「分かりました、佳代子さん」

と震えながら答える。

優馬ママ、関口佳代子。関口佳代子、優馬ママ。よし、覚えたぞ。

「じゃあ、後で仕上げておくから、そーっと脱いで!」

もはや抵抗する気力もない僕は、はいと返事をし背中のジッパーを下ろそうとする。が、体の硬い僕には届く術はなく、

「あの、後ろ下ろしてくれます?」

「分かったわ、下ろすわよ、んーーー」

何故か後ろに回らずに僕に正面から抱きつく格好で、ジッパーを下ろそうとしてくれるのだが。そんな盲戦法で容易にジッパーが下りる筈もなく。ミッションがコンプリートするまでに十五分は要してしまう… 何やってんだか…


ようやくサンタスーツを脱ぎ終える。ここまでに要した時間はなんと一時間三十分。几帳面な割に要領の悪い佳代子さんに、その旨伝えようとするも何故か息を切らし真っ赤な顔でハアハア言っているので、

「大丈夫? 具合悪いのかな?」

なんでも隣の隣の国では、急性肺炎を伴う新型ウイルスが流行っているらしい。まさか空間移動して彼女に感染したのではと、ちょっと心配になるも、

「大丈、分。それより、ああ、ちょっと、疲れた、みたい、横になって、いいかしら…」

そう言いながらヨロヨロとお姫様ベッドに倒れ込む彼女。

自分の部屋なのだから僕の許可など要らない、どうぞ少し休んでください、僕はちょっと用事があるのでこれでお暇します、お大事に。

玄関脇のダウンとマフラーを手に取り玄関の外に出て、冷たい新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


佳代子さんの完全無欠な調整がなされたサンタスーツのお陰で、園のクリスマス会は大変な盛り上がりを見せたのは言うまでもなく。

その夜に行われた準備委員会の打ち上げは、僕史上最も楽しく有意義な食事会であった。


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