Chapitre Trois
家に帰ると、十一時を過ぎていた。
勿論、彩は帰宅していない。まだあの青年実業家と付き合っていると、僕と名探偵の意見は一致している。
それより何より。名探偵曰く、美代先生が僕を好きだと?
流石にそれは全否定しつつも、心の中でもしそれが本当なら、と考えてしまう。
もし、本当なら?
昨日の朝、よく似合ったポロシャツにジーンズの細い身体を思い浮かべる。顔は小ぶりではっきりした顔立ちの美人さんだ。ぶっちゃけ、ゆっきーよりもずっと可愛い顔をしている。
だが。先生はアニメやマンガ、ゲームなどはしないだろうな。真面目で正義感が強くて。むしろ禁止します、なんだろうな、きっと。
価値観が、違いすぎる。僕と彩ほどに、きっと。
そう思うと、ちょっと残念な気はすれど、僕には合わない勿体ない女性なんだ、割とあっさりどうでもよくなる。
それよりも。
この二日間での、僕とゆっきーの大接近。
さっきは冗談で僕ら付き合っているの、なんて言ってみたが、これはもう他人から見たら、立派な『ダブル不倫』なのではないだろうか!
二人で一緒にコインランドリーに行く。一緒に買い物をする。彼女の家に行く。一緒に夕飯を食べる。翌日また繰り返し。付け加え、風呂を借りる、寝室に入る、そして一緒に寝る!
これは… 他人から見なくても、立派な…
彩と顔を合わせたくないので、サッと風呂に入り寝室に入る。因みに彩の寝室と僕と澪の寝室は別々だ。僕は布団を敷き、頭からタオルケットを被り目を瞑る。
胸にはゆっきーの頭の重さが記憶されている。その記憶が僕を容易に夢の世界へ入るのを妨げている。彼女の匂いが鼻腔に記憶されている。タオルケットに鼻を押しつけ胸いっぱいに吸い込む。僕と澪の匂いだ。何度も嗅ぐうちに彼女の記憶は薄らいでいくのだろうか。
やがて玄関で物音がする。彩が帰宅したようだ。
キツく目を閉じ、明日の澪のお迎えのことを考える。徐々に思考がぼやけてくる…
翌朝。
いつもの時間に起き出し、彩の朝食を作っていると、
「昨日は早く寝たのね。何かあったの?」
なんて聞いてくるから、ちょっとドッキリしてしまう。
「別に。ちょっと暑さバテかな。夕方澪を迎えに行ってくるから。夕ご飯、家で食べれるかい?」
彩は欠伸をしながら、
「今日は何もないと思う。七時には帰れるわ」
「澪の好きなもの作るけど、別に何か作っておこうか?」
「どうせハンバーグでしょ。いいわ、それで」
意外に肉好きな彩なのである。
僕の作った朝食を食べ終わると、さっさと会社に行ってしまう。玄関の鍵を閉め、食器を洗おうとした矢先、スマホが鳴動する。胸がキュンとなる。画面を見ると、ああ、美代先生からだった。
『おはようございます。朝のお散歩の時に落ちていた竹を咥えて唸って見せたら、澪ちゃんが大笑いしてくれました。』
なんとその様子を自撮りして送ってくれた!
これは、ちょっと感動モノだ!
まさか、あの真面目そうな美代先生が、こんなコスプレを披露してくれるとは! 目を大きく見開き、今にも唸り出しそうな様子は原作を凌駕していなくもない。もし目の前にいたら、ギュッと抱きしめてしまうだろう。
『アニメよりもずっと可愛いですね。ナイスです(絵文字)』
僕はつい嬉しくてすぐに返信してしまう。更に、
『あのアニメ観てるのですね、面白いでしょう?』
即、返事。
『はい。澪ちゃんに教わったのです。すっかりハマってしまいました』
『そうでしたか。原作のマンガも面白いですよ。この夏休み中に是非読んでくださいね』
『そうします(絵文字)楽しみだにゃ(絵文字)(スタンプ)』
美代先生が、アニメ好きだったとは! なんか夢みたいだ、信じられない! 朝から含み笑いが絶えない僕なのだ。
「ね、ビックリだろ? あの美代先生がまさか、観ているなんてさ」
ゆっきーは不機嫌そうな顔でんんーーと唸っている。
「この自撮り、ウケるよなー」
写真をチラ見して、ゆっきーは
「なーんか、あざとい。よっぽどヒッキー、好かれてるって。」
「まさか。こんな若くてキレイな先生が、こんな僕なんかにー」
ゆっきーは大きな溜め息をつきながら、
「いやいや。ヒッキーは中々のイケメン、だと思うぞ。それに超有名私大卒だし。家事全般のスキル高いし。んーんん… これは、もう既にロックオンされていると見た!」
僕は唖然として彼女を見、
「まさか。何言ってんの。そんな訳ないって。あの美代先生が、僕なんかを…」
更に不機嫌そうな顔で、
「もういっそのことさ、奥さん捨ててその先生と夜逃げしたら?」
どうしたんだろう。こんなゆっきーは初めてだ。見方によっては、僕に焼き餅を焼いているようにも取れるのだが。でもそんなことはあるまい、こんな素敵な女性が僕なんかに…
そのタイミングでたっくんママが店に入ってきて、
「あら、澪ちゃんパパと、…えっと、」
「あ。ゆっきー、でーす。こんちわー」
ニッコリと微笑むゆっきーであった。
珍しい、と言うか初めてだ、彼女の方から他人に話しかけるとは。ビックリして二人を見ていると、なんとゆっきーは巧みな話術で美代先生の情報を探っているではないか! さすが、名探偵…
「へえー、一人暮らしで彼氏なし、ですかー。なんすかそれ、性格に難あり?」
「どーかしらねえ、とにかく真面目で几帳面で、あまり男ウケ良い性格じゃないかもねー」
「でもー、そんな女に限って部屋は汚くてゴミだらけだったりしてー」
おい。自分はどーなの?
「きゃはっ ゆっきーさん、鋭い所つくねー、あるかもそれ!」
ねえよ。美代先生に限って、それはねえって。
「洗濯物とかとっ散らかっててさ、彼氏が遊びにきたら押し入れに押し込んで隠すタイプと見た!」
しねえよ! それ、お前やろ!
「きゃははは! ある、ある! それえ!」
え? あるのたっくんママさん…
「いやー、大人しそうな真面目そうな感じだけど、中々奥深そうだねえ、その先生は」
「おかしー、ゆっきーさん、最高! きゃははは」
腹筋が痛くなったと、たっくんママが帰って行ったあと。
「いやあー、驚いた。ゆっきーが自分ち以外でこんなに喋っているの。」
興奮冷めやらぬゆっきーも、
「それなっ マジ喋ってたよね。昨日のなんとかさんよりも、喋れてたよねえ!」
「ローテさんな。でも、どうしたんだ、何があったんだ、キミに? キミの名は?」
急にキリッとして、
「雪乃ですが何か? まあさておき。あれ、澪ちゃんのお迎えって?」
「ああ、三時に幼稚園。まだだいぶ時間あるな。」
「じゃあさ、昨日教わったランチ、行ってみようよ!」
急に表現し難いキラキラな感情が胸に込み上げてくる。
「うん。行こう!」
「よっしゃ、行こう!」
* * * * * *
「ここか、ここなんだな、約束の地は?」
「ああそうさ。この門を、この扉をくぐれば、僕らはネバーランドに行けるのさっ」
「行こう、一緒に、ノーマン」
「ああ、行こう、エマ」
こうでもしないと、こんなお洒落なレストランに入ることのできない僕らでした。
ローテさんに教わったカジュアルイタリアンは、テラス席もあって中々人気の店だったが、運よく一席だけ空いており、冷房のよく効いた奥のテーブルに案内される。
「なんか。昨日も、一昨日も…」
「そう言えば、イタリアンだった気がする」
「ひょっとして、アタシら前世イタリア人とか? ねえどう思うルシウス?」
「ソレハドウデショカ、サツキ」
二人で吹き出し合いながら、それぞれリゾットとペンネを注文する。
「そっかあ、やっぱりその男とまだ引きずってんだ…」
食後のエスプレッソを啜りながら、ゆっきーが探偵面で頷く。
「なんかさあ、証拠ないの、エビデンス? スマホは? 洋服の匂いやシミは?」
「いや、そんなことしてまで… それに、僕がその証拠を掴んだとしてだ。それをどう使うんだい? 下手したら逆ギレされて、陶片追放さ。ローマの道、険し、だよ。」
「むむむ… 恐るべし帝国の咬ませ犬め。」
なんじゃそれ? とは突っ込まずに、
「だから、いいんだ。彼女は好きに生きれば。僕と澪が細々と生きていければ、それでいいんだ。うん。」
「そっかー。ま、ヒッキーがそれでいいって言うなら。でも、澪ちゃん、かわいそじゃね?」
僕はカプチーノを一気に喉に流し込み、
「あの子は母親に似て賢い子だから。全部わかってると思う。そして、早くに出ていくと思う、僕らの元から。」
「そっか。でも、それまではヒッキーがちゃんと守ってやらないと。ね?」
僕はコクリと頷く。
夕方、三時半。
昼まではうんざりする程の日差しであったが、空は薄く灰色の雲が覆っていて、焼かれるような暑さは取り敢えず、ない。だが、じめっとして重たい熱気は地上に停滞しており、そんな中を引きずるような足取りで、ようやく幼稚園にたどり着く。
園には既に、大勢の保護者がお迎えにきており、その騒々しさは夕方の鴉と何ら違わない気がするのは僕だけであろうか。
大型バスがゆっくりと園に到着する。ドアが開き、中から弾けるように園児たちが飛び出してくる。
そんな中に澪は真っ黒な顔で出てくると、すぐに僕を見つけニヤリと笑う。そしてテケテケと駆け寄り、僕にジャンプしてしがみつく。
「パパ、めちゃたのしかったよ、みよせんせいが、ねずこだったよ!」
僕は苦笑いしながら、
「おかえり。とっても楽しかったようだね。」
まるでマシンガンのように遠足の話をしたかと思うと、
「あ。ぜんいつだ。じゃあね、パパ。」
そう言うや否や、僕から飛び降りて、一人の男の子の方に行ってしまった。その子の母親がこちらを向いて会釈する。ああ、優馬くん。
「こんにちは。優馬と澪ちゃん、すっかり仲良しになったみたいで。良かったです。」
嬉しそうに優馬ママが溢すので、
「ええ。良かったです。これでもうトラブルはなさそうですね」
「はい。あの、ずっとお父様が、これからもお迎えを?」
僕はコクリと頷く。
「そうですか。あの、今後の園の行事の連絡とかもあるので、お父様の携帯番号とラインのID教えていただけますか?」
僕はスマホを取り出し、その二つを優馬ママに開示する。
「ありがとうございます。夏休み明けから卒園まで、結構行事が多いんです。男手があると、とっても助かるんです!」
人足決定、ですな。僕は自然に頷いていた。
「そうなんですよ。真田さん、いっぱい力貸してくださいよお」
その横から美代先生がにゅっと顔を出す。
「因みに。秋からじゃありませんから、優馬ママ。八月は花火大会、スイカ割り、水泳教室。イベントてんこ盛りですよお。」
ですよね、と優馬ママが照れ笑いする。
「去年までは、まあ、その、アレでしたけど。今年はガッツリ手伝ってもらいますよお、いいですね?」
近い。そんなに近くに顔を持ってこないで!
「は、はい。できるだけ、手伝いますから、ちょ、近!」
美代先生はハッとして、真っ赤になって、クルリと背を向けて行ってしまう。
(ふうん。美代先生も、か。)
優馬ママが呟いた気がしたので振り向くと、僕にニッコリと笑顔で、
「また追って連絡しますねー、それではさようならー」
…なんだか、忙しくなりそうな予感。
それにしても。
あれ程人嫌いだった僕が、こうして普通に園ママや先生とコミュニケーションを取っている。不思議だ、どうしてだ? まあ答えは半分分かっているのだが。
これまで全くの引きこもりだった女性が、井戸端会議をするようになった姿を目の当たりにしたからな。
そんな僕を澪もちょっと驚き顔で、
「パパ、なんかあかるくなった? なんかいいことあった?」
「そ、そんなことないだろ、いつも通りだろ」
「いいや。ぜんぜん。あ! わかったあ!」
え? マジで? 僕はちょっと背筋が冷たくなる。
「ついにひのこきゅうをマスターしたんでしょ? そうでしょ?」
日の呼吸。あは、そうなのかも。あの日輪のような眩しいゆっきーとの出会い、通じ合いによって、僕は呼吸の仕方まで変わったのかも知れないな。
「バレたか。よくぞ見破ったな。」
「うふふふ。なんでもおみとおしなのよ。このみじゅくものめが!」
「ほう。ならば今夜の夕ご飯は何か、お見通しなのかな?」
「そ、それは… ハンバーグ?」
「大正解!」
「きゃあーーーーー、ハンバーグ、ハンバーグ やくそくだよ!」
両手を高く上げ、腰をヘンテコに振りながらハンバーグダンスをする澪の手を引き、
「うん、約束。」
そう言って園を出る。
それにしても、僕が園の行事の手伝いとは。
このかなりハイソな幼稚園を探してきたのは彩であり、入園当初は園の行事にもよく参加していたし、多くのママ友とお付き合いがあった。
しかし、昨年あの記事がネットで流れてから、全てが変わった。彩は園の行事どころか送り迎えも一切拒否し、以降園に決して顔を出さなくなった。
それ以来、僕が送り迎えをするようになる。園の行事にはなるたけ目立たないように、先生や他の保護者と目が合わないようにそっと参加してきた。
そんな僕に保護者は誰も声をかけることはなかった、正直とっても助かっていたのだが。
それが、今。
美代先生からは毎日メッセージが送られてくるし、優馬ママと連絡先交換… おっと早速優馬ママからLINEが届いたぞ。
この急激な変化に僕はついていけるであろうか。誰かに相談したい、そう勿論、ゆっきーに相談したい。そしてこれからどうすればいいか、アドバイスが欲しい。
「パパ。かえりにおかいもの、いく?」
そうか、まずは目の前のことから、だな。
「よーし、スーパー行こうか! 確か国産和牛が安売りしてるからな。澪が頑張ったご褒美に、国産和牛ハンバーグだ!」
澪がこ・く・さ・ん・わ・ぎゅー、と叫びながら歩くのを周りの保護者たちが心なしか笑顔で見守っていた。
* * * * * *
夕食を作っている最中に彩が帰宅する。思ったよりも早かったな。彩が家で夕食を食べるのは何日振りであろうか。
「澪は元気にやっていたのかしら?」
「うん。楽しかったみたいだよ、って直接聞きなよ…」
「それが、あの子私の顔見たら部屋にスッて入って行って。よっぽど疲れたのかしら。」
おいおい… 澪…
夕食が出来上がり、僕が部屋に呼びに行く。
「ごはんできたよ。おいでー」
「はーい…」
食卓についた澪は、彩と目を合わせようとしない。彩も遠足の様子なぞ一切聞かず、静かにナイフとフォークを動かす。
「ねえ、なんか凄く高級な肉使っていない?」
不意に彩が僕に問いかける。
「スーパーで買った、特売の和牛だけど…」
彩はムッとして、
「ハンバーグなんて安い肉使えばいいわ。どうせ子供に食べさせるのだから。こんなことしているから、お金貯まらないのよ。」
「ご、ごめん。今夜は澪がお泊まり遠足よく頑張ったみたいだから…」
「こんな小さい頃から贅沢覚えさせちゃダメでしょ。でないと臑齧りの誰かさんみたいになっちゃうわ」
僕は苦笑いしながら頭を掻き、
「そ、そうだね。ごめんなさい…」
ガチャンとフォークを皿に放り投げ澪が、
「ごちそうさま。おやすみなさい。」
と言って席を立ち自分の部屋に戻って行った。皿にはまだハンバーグが半分残っている。僕はそれをラップに包み冷蔵庫に入れる。
赤ワインを飲みながら、彩は澪の最近の生活態度の不満を色々指摘し、ボトルが空くとシャワーを浴びる、と立ち上がる。それが済むと自分の寝室に入って行った。
それからしばらくして、澪がそっとリビングに顔を出す。
「パパ。あの人もうねた?」
ヒソヒソ声で囁く。
「おい、あの人って… うん、ママはもう寝たよ」
ホッとした表情で、
「パパ。おなかすいた。」
僕は思わず吹き出しながら、
「さっきの残り。温めなおそうか?」
「うん!」
「澪、なんでさっきは途中で部屋に戻ったんだい?」
「ん、きゅうにねむくなったの。ごめんねー」
「いや。いいよ。それよりおなかいっぱいになった?」
「もういっこ、たべたーい」
「よーし。すぐに焼いてあげるからねー」
フライパンを温め、小さめのハンバーグを手際よく焼き上げる。
「パパっておりょうりじょうずだよね。みおもじょうずになりたい!」
「よーし。明日一緒に夕ご飯つくろうか?」
澪の目がキラリと光る。
「ほんと、やった、ぜったいだよ!」
その時、彩がキッチンに入ってきて、。冷蔵庫のミネラルウオーターのボトルをラッパ飲みする。そして僕と澪を一瞥し
「甘やかさないで、と言ったはずだけど。私の言うこと聞けないなら二人共、この家から出て行きなさい。誰が養ってあげているのかしら。」
冷蔵庫の扉を強く閉め、妻は寝室に戻って行った。
その妻の背中を澪は睨めつけていた。
* * * * * *
『ちょ、それ信じられない… ホントなの』
『うん。最近こんな感じだな。僕に対しても澪に対しても』
『もうさ、さっさと離婚して家出ちゃいなよ』
『…澪を養えない…クスン』
『そ、それなー』
「パパー。せんたくおわったー。かんそうき、かんそうきー」
「はーい。じゃあ澪、このカード入れてくれるかなー」
「できるよ。えーと、ほら。ね、みお、なんでもできるよっ」
「ありがとな。あと三十分たって乾燥終わったら教えてな」
「はーーい!」
そしてテーブルに戻り動画の続きを見始める。
『なんか… 健気過ぎて見てらんない』
『ははは…』
『この歳でさ、親に見捨てられないように気を使って… ハアー私にお金があれば二人を養ってあげるのに!』
『いや…その前に旦那に尽せよww』
『それな 草』
ゆっきーは立ち上がって僕にウインクした後、自分の洗濯物を乾燥機から取り出し、イケアのバッグに畳んでしまってから
「ミオちゃーん、バイバーイ」
と言って出て行った。澪の「ハア?」という顔が可愛くて吹き出す。
それから夏休みが終わるまで、僕と澪はあらゆる家事を協力して行った。澪の家事への執着心は本当にゆっきーの言ったように、僕に嫌われないよう、僕に見放されないように気を使っている感じがしないでもない。そう思い
「澪。もっと自分がしたいことしていいんだよ。ゲームしたり、友達と遊んだり。そうだ何処か出かけようか? 区民プールにでも行こうか?」
澪は一瞬目を泳がせ、しかしすぐに目を僕に真っ直ぐに向け、
「うん。でもみおはおそうじとかおせんたくとかパパといっしょにしたいし、ごはんをパパといっしょにつくりたいの。だめ?」
『駄目! なんて言えねえよ… なんなんだ、ウチの娘…』
『うーーん。ただ父親を深く愛しているだけか… つまり、母親を深く憎んでいる… こわっ』
『何だそれ?』
『分かんないけどさ、大好きなパパに冷たく接するママが嫌いなんじゃない?』
『それはないだろう。仮にも母親だぜ。五歳の子供が本気で母親を嫌ったり憎んだりなんて…』
「だいっきらい! ママなんて!」
『ほらな。』
『マジか… 信じられない…』
『で。何で嫌いなんだって?』
「だって。パパのことおこってばっかり。じぶんではなにもしないくせに。えばってばっかり、おカネもちだからって。みおがよくできたってほめてくれない。ママはじぶんのじまんばっかりしてるくせに」
『こ、怖― ちゃんと見てんだ… 恐るべし園児…』
『それな… あのつぶらな瞳は全てを見抜いていたのだった…』
『それより。今後どーするの? 奥さんと仮面家庭続けてくしかないの?』
『さあなあ。ウチのことより。そっちは?』
『変わらずかなー。そーだ、夏休み終わったらさ、またランチしようね!』
『ローテさん達に教わった店な』
『それそれ。なんかすっかり、私…』
夏休み後半になり、ローテさんのみならず、たっくんママ、そしてクスクスさんとまで僕とゆっきーは普通にコミュニケーションをとれるようになってきている。
僕とゆっきーは専ら聞き役で、ランチの美味しい店とか夜でも安くて美味しいビストロ、近所で評判のパン屋の話などを食いつくように聞いてあげると、彼女達はとっても嬉しそうにこれでもか、と色々教えてくれるのだ。
たまに澪が大人びた口調で話しに割り込んでくると、たっくんママは哀れな視線で澪を見つめる。妻の不倫話は同級生のみならず、園全体に伝わっているのだろう。というかローテさんもクスクスさんも知っているのだろう。そういう視線で澪を見詰めているから
『でも、夏休みも残り、園の行事のお手伝いに誘われているんだよねー』
『いーじゃん、いーじゃん! バリバリ働きなさい、この働きアリめ!』
『それ、肯定的? 否定的?』
『だって。夏前までのヒッキーとは思えない、コミュ力ぶりにマイっチングマチコですがな』
『古っ でも、そっか。早速明後日、夜に園庭で花火大会があり、明日僕は花火の購入に誘われているのだが』
『行くべし! 行くべし! 抉り込むように行くべし!』
『メッチャ古ww そっか。じゃあ、行って買い物手伝ってくるわー』
翌日。同じひばり組の優馬ママ、○○ちゃんママ、○○くんママ(後程、それぞれ花音ちゃん、翔大くんと判明)の四名で、浅草橋にある花火問屋に六十名分の花火を買いに出かけたのだ。
浅草橋と言えば問屋街だというのは知っていたが、衣類、文房具、パーティーグッズなどの卸問屋が連なっており、初めて来た僕はずっとキョロキョロ辺りを見回しては一人町並みを楽しんでしまう。
「毎年、年長のお母さんが買いに来るんですよ。今年はお父さんが一人いるから、心強いわ」
優馬ママが嬉しそうに語りかける。
「ついでに家の物も買っちゃったり。結構楽しいよねー」
「あー、私体操服のゼッケン貼り付けるのが欲しいかもー、ちょっと寄っていいかなー?」
花音ちゃんママと翔大くんママもノリノリで楽しそうだ。
「かわいいお弁当箱も確かこの先に売っているって」
僕は思わず食いついて、
「いいですね! 見ましょう見ましょう!」
三人のママさんが優しく微笑みながら頷いてくれる。
そんなかんやで、花火を購入するまでに僕らは両手いっぱいに買い物をしてしまい、店の人と交渉して購入した莫大な量の花火を園に直接送ってもらうことになる。
その後、優馬ママが調べてくれたお洒落なカフェで四人でお茶をする。僕は聞き役に徹しようと思ったのだが、三人が色々僕に話を振ってくるので、お茶を終える頃には大学卒業後最も話し込んだ濃密な時間となったりして。
夕方帰宅すると、澪が
「パパー、おそかったじゃん。ママさんたちともりあがったん?」
「そうなんだよ。結構喋ったから、喉が痛いよ」
「ふーん。パパもやればできる子なんだねえ」
って、どんだけ上から目線でこの子は… 僕は軽く吹きながら、
「親を小馬鹿にする子には、今日の夕飯は焼き魚と納豆にしようかな」
澪は真っ青になり、
「ば、バカになんてしていませんよ。なにをおっしゃるのですかちちうえ」
「ふむ、それならば、そちの好物のハンバーグにいたそうかのう」
「きゃーーーーーーーーーー、ハンバーーーーグ!」
だからー。もう流行ってねえよ。誰だよそれ。
* * * * * *
「パパ、はなびたのしみだね」
正直。僕は放火魔ではないので花火という行為に何の楽しみも喜びもない。のだが、この澪の期待に胸を膨らませている様子を眺めるのが堪らなく楽しい。
「今日、みんながやる花火は、パパが買ってきたんだぞ。心ゆくまで楽しむがよい」
「ははーー、ぎょいにござる!」
最近、澪もいい感じだ。
懸念された夕立もなく、夏の終わりのジメジメした蒸し暑さに閉口するも、夏を惜しむ蝉の合唱と一日を惜しむ烏の独唱がそんな暑さを忘れさせてくれる。
暮れかかった園に続々と園児と保護者が集う。問屋街四人衆の三人が僕を見つけ、手招きをするので、
「じゃあ、澪。後で」
「ほーい。あとで」
澪は仲良し仲間の元へ消えていく。
「澪ちゃんパパ、それじゃあ準備にかかりましょ、段ボール会議室から運んでこなきゃ」
僕は任せなさい、と胸を張りママ連を引き連れて会議室に向かう。廊下で美代先生とバッタリとでくわし、
「皆さーん、買い出しやら準備やら、本当にありがとうございましたあー」
深々と頭を下げられ僕は軽くお辞儀をする。ふと目を上げるとお辞儀している先生の胸元がバッチリ見えてしまい、即赤化現象が僕に生じる。
先月末のお泊まり遠足以来、三日に一度位の頻度で先生から連絡が来ている。
『暑いですが冷たいもの食べさせ過ぎないように、ね』
『水の事故が増えているそうです、プールや川遊び、海水浴では注意してあげてね』
『お盆は帰省するのですか? 私は帰省するのでお土産買ってきますね』
『甘いものと辛いもの、どちらが好きですか?』
『お土産ゲットおー 花火大会の時に渡すねー』
色々澪の心配をしてくれたり田舎のない澪にお土産を買ってきてくれたり。本当に親切な女性である。
花火を園の台車に積み込み、園庭に転がしていく。すれ違う先生や保護者たちから挨拶が止まない。僕はそんな皆と目を合わせることができず、ひたすら会釈を繰り返す。
園庭に出る前にちょっとしたアップスロープがあり、非力な僕が唸りながら押していると、
「手伝いますねー、ちょっと失礼」
優馬ママが僕の後ろから被さるように手を伸ばし、一緒に台車を押してくれる。女性に力仕事を手伝わせてしまい恥ずかしい限りだ。
「すいません、後ちょっと」
「ううん、いいの。一緒に押そ」
更に優馬ママが僕に密着し、せーの、で一緒に押してくれる。本当に彼女も良い人だ。ちょっと僕の左腕に彼女の胸が当たっているのが恥ずかしいし、彼女の素敵な匂いが移るのでは、というくらい密着されているが、僕は人の優しさに触れた思いで台車を押す力に勢いが増す。
何とか台車を園庭に押し出し、段ボールを開け始める頃に園長先生のお話が始まる。今年の夏はとっても暑かったけど、みんな元気に過ごしてくれて嬉しい。夏休みも後少し、お父さんお母さんの言うことをよく聞いて、元気に過ごしてください、それではこれからみんなで花火をして楽しみましょう。
子供たちの大歓声だ。年少の園児から順番に花火を渡していく。皆良いところのご子息ご令嬢なので、ありがとうを言わない子供は一人もいない。
中には腰まで頭を下げ、ありがとうございます、と言う子も。僕が感嘆していると、
「お受験する子が多いんですよ。ウチもなんですけど。」
優馬ママがそっと僕の耳元で囁きながら教えてくれる。お受験… いわゆる小学校受験か。そう言えば、この園に澪が入園した頃は彩もそんなことをよく言っていた気がする。
「澪ちゃんは、お受験なさらないの?」
優馬ママが更に僕の耳たぶに触れる程の近さで聞いてくる。
「しません。妻は昔考えていたかも知れませんけど」
彼女はハッとした顔となり、ごめんなさいと小さな声で呟く。僕は苦笑いしながら首を振る。僕だってそれぐらいは知っている、スキャンダラスな母親の子供がお受験に合格するはずがないことを。
「でも、澪ちゃんはとっても賢いから、中学受験で御三家とか、ですね」
必死のフォローをしてくれる彼女に僕はニッコリ笑い、
「ありがとうございます。そうだといいですね。優馬くん、お受験頑張ってください」
そう呟くと彼女の顔がパッと晴れやかになる。
あれだけ買い集めた花火はものの三十分ほどで無くなり、あとは園庭の真ん中に組まれたキャンプファイヤーを囲んで昔ながらのフォークダンス。
目の前を澪と優馬くんが手を組んで通り過ぎた時、優馬ママが
「優馬と澪ちゃん、お似合いじゃないですか?」
と言いながら僕の腕を握りしめるので、
「優馬くんはイケメンだから、将来楽しみですね」
「澪ちゃんもとっても可愛いし賢いし。二人がこの先ずっと仲良しなら、嬉しいな…」
そう言いながら僕の肩に頭を乗せてくるので、ちょっとドッキリしてしまう。きっと僕の顔は真っ赤になっているはずだが、キャプファイヤーの炎が反射して誰にも分からないはずだ。木の焼ける匂いに混じって、優馬ママの上品な香水とシャプーの匂いに頭がクラクラしそうだ、それに加え僕に密着しているので、もし暗がりでなかったら周りの人に驚かれるだろう。
やがて踊りも果て、シンデレラ達の帰宅の時間となる。優馬ママは別れ際に、
「あの、優馬の受験のことで、今後色々相談に乗ってもらえませんか?」
と言うので、いつも澪に優しくしてくれるし
「ええ、僕でよければ、いつでも」
と答えると、最高の笑顔を見せてくれた。
澪と自宅に帰る途中、ずっとこのことをゆっきーに話すべきか否か考えていたのだが、ゆっきーは優馬ママに反感を持っていそうなので、敢えて話さないことに決める。
はあ。やっぱり人間関係って、難しいし面倒臭い。特に女性との関係は。澪をチラリと見ると、
「なに? わたしべつにユーマのことすきじゃないし。」
うーーん。人間関係、難しい……
* * * * * *
夏休みも残り一週間。暑さは未だ最高潮なり。今日は汗だくで匂いのこもった寝具をやっつけに澪とコインランドリーを二往復。その二往復目で急に空が真っ黒になり、滝のような雨が街を攻撃し始める。
僕と澪はギリギリコインランドリーに逃げ込み、そんなに濡れずに助かった。その様子をゆっきーがニヤニヤしながら眺めている。
澪がゆっきーに気付き、こんにちは、と挨拶するとゆっきーは虚どりながらもこんにちは、と挨拶を返す。
まあこれだけ毎日顔を合わせるのだから、挨拶ぐらいは人としての常識なのだろう、僕とゆっきーは幼稚園児に教わるのである。
そんなゆっきーは僕のスマホで動画を観ている澪をじっと睨み、やがて意を決したかのように立ち上がると、突然
「ミオちゃんはまだ小さいからご飯作れないよねえ?」
澪は突然話しかけられ驚き固まる…ことはなく、キッと顔を上げ、
「ちがうよ! ミオじょうずにつくれるんだよ! ほんとだよ!」
ゆっきーは意地悪そうな顔で、
「ホントに? じゃあ今夜おばさんになにかつくってくれる?」
「いーよ。ホントなんだから!」
っておい、何勝手に盛り上がってんの!
「パパ、パパー、こんやミオがおばちゃんにごはんつくるんだよ!」
ちょ、待てよ。何この展開、僕ついて行けない! なんでこの二人、こんな高速で仲良くなれるの? 我が子のコミュ力の高さに驚愕していると、
「おばさん、おなまえなんですか?」
「えっと、高村雪乃です。ゆっきーと呼んでください」
おおお、ゆっきーが自己紹介コンプだ! 凄いじゃないか!
「ゆっきーさん? パパ、ミオね、ゆっきーさんにごはんつくるんだよっ」
いいのか、これホントに? うーん、まいっか。彩は今夜も遅くなると言っていたし。
「おお、そっかー。パパも食べたいなぁ」
「いいよいいよ! いっしょにたべよー!」
澪が目を輝かせている。久し振りに見た気がする。
ふと外を見ると、豪雨はすっかり上がっており、うっすらと日の光がぐしょ濡れの街を優しく照らしている。
取り込んだ寝具を家に置いて、僕と澪は駅前のスーパーに向かう。途中、僕のスマホに美代先生と優馬ママからLINEが来る。どちらも凄い雨でしたね大丈夫でしたか的な内容だったので、適当にスタンプを貼り付けて送信し、ポケットにスマホをしまう。
スーパーの入り口でゆっきーが待っていてくれる。澪が真っ先に見つけ、
「パパ、パパ、ゆっきーさんだよ、ちゃんとやくそくまもってまっていてくれたよ!」
と感激している。
約束を守る。人と人との結びつきの源。彩は澪に対し、これが全く出来ていない。彩曰く、
「子供との約束なんて、どうだっていいのよ。だってこちらは仕事で忙しいのだから。」
物心ついてから澪は彩に何度も何度も約束を反故にされてきている。海に連れていくこと、ディズニーランドに連れていくこと、美味しいレストランに連れていくこと。全て、
「仕事が入ったの。仕方ないのよ、分かるわよね?」
分かるものか、子供にそんなこと。僕は毎回そう叫びそうになるのだが、扶養されている身で烏滸がましいと、ついに口に出すことができないでいる。
約束の重要性を何とか澪に伝えたいのだが、やっとその機会に恵まれたようだ。
「本当だ。ゆっきーさん、ちゃんと澪との約束守ってくれたね。な、約束って自分が守ると相手はどれだけ嬉しいだろうね、分かるよね?」
澪はなんと目に涙を溜めて嬉しそうに頷く。僕は何度も澪に頷きながら、自分を思い切り殴りたい衝動に駆られる。
「でー、澪ちゃんはアタシに何を作ってくれるのかな?」
澪は僕を見上げ、ふんっと気合を入れると、
「ハンバーーーグ!」
僕は軽くずっこける。おい、それって殆ど僕に作らせる気満々なのではないのか?
「わあー、おばさんハンバーグ大好きなんだっ 楽しみー」
ゆっきーが上手く合わせてくれる。
「じゃあさ、ハンバーグの材料買わなくちゃ。澪ちゃん、何買えばいいか教えて」
おお、上手い! 子供に具材とは何か、を教える気だな。
「えっと、えっと。にく!」
「へーー、じゃあお肉売り場に突撃―!」
「とつげきー!」
二人は手を繋ぎ精肉売り場に走って行く。その姿はどう見ても母娘である。
「澪ちゃん、ハンバーグの材料、よく知っているのね。おばさん、びっくらポンポンだよ」
澪と僕は軽く転ける。澪は、
「だって、ミオはパパとおかいものいっしょにいくし、パパがおりょうりするのをちゃんとみてるもん!」
「さっすがーの猿飛じゃん。偉い偉い。澪ちゃんはマジで凄い子だ!」
またしてもズッコケると思いきや。澪はポカンとしてゆっきーを見上げている。そして、
「え? ミオ、えらいの?」
ゆっきーは澪の頭をクシャクシャに撫でながら、
「うんうん、マジで偉い。チョー偉い。」
「ミオが、えらい。えらい… 」
多分僕以外の大人から褒められたのは初めてなのだろうか。澪は目を点にして呆然と独り言を呟いている。
そんな澪を促し、僕らはスーパーを出る。ゆっきーが空を見上げ、
「ああ、虹!」
と叫ぶ。僕と澪が見上げると、雨上がりの街の遥か彼方に大きな虹が美しい弧を描いている。
しばらく虹を眺めた後ゆっきーのマンションに向かう。澪が真ん中で三人で手を繋ぎながら、他の歩行者や自転車に多大な迷惑をかけながら歩く。すれ違う人々の眼差しは暖かく、僕の心も汗を掻く程に暖かい。
時折澪が試すように僕とゆっきーの狭間でぶら下がる。僕とゆっきーは息ピッタリで澪を前後にスイングする。きゃはははー、聞いたことのない嬉しそうな奇声を澪が上げる。ちらりとゆっきーを見ると、垂れ目の彼女の目は更に垂れ下がっている。
ゆっきーのマンションに着くと、澪は口をあんぐりと開け、マンションの豪華さに呆気に取られている。そんな澪を引きずってエレベーターに乗せ、高村家に到着する。
部屋に入り澪に手を洗わせた後、ゆっきーは自慢のブルーレイをセットし、澪は瞬時に食いつきソファーの上でアニメ映画に没頭する。
そんな澪の姿を愛おしそうに眺めるゆっきーに、
「コーヒー淹れて欲しいな。」
「おけ。」
キッチンでコポコポと音を立てるコーヒーメーカーの前で、僕はゆっきーに前から尋ねたかった事をサラリと聞いてみることにする。
「ゆっきーって、子供があまり好きじゃない、と思ってたー」
「んー、大好き、かもー」
一瞬胸が跳ね上がる。
「そ、そうなんだ。予定とかあるの?」
「ウチは、旦那が子供いらないって。それにー」
「それに?」
淹れたてコーヒーを口に含みながら首をかしげる
「ウチ、もう五年は、レスだし」
僕は淹れたてコーヒーを盛大に噴き出す
「汚いなあもう。って、お宅も、じゃないの?」
噴いたコーヒーを台布巾で拭きながら、
「まあ、そうかも。澪に弟か妹つくりたいんだけど、ね…」
「そっか。まあ一人いるからいいじゃん。羨ましい…」
深い溜め息をつくゆっきーは、目を細めながら映画にハマっている澪を見つめる。
「何か、悔しいよね… 自分の思ったこと、好きなことが出来ない人生って… 他人に養われて、それに卑屈になって。こんなので良いのかな、こんな思いをする為に今迄私生きてきたのかな、って。親の言っていた事は正しかった、って今思うよ。ちゃんと勉強しておけば。自立しておけば。好きな事やって、いいや、嫌いな事避けてきた罰なんだな今の私の状況は。ハアー」
「僕もそう思うよ、もっとちゃんと他人と向き合い社会性を身につけておけばこんな事にならなかったんだよな。コミュ力ってさ、嫌な事や面倒な事を如何に『そう感じないように思い思わせる』能力なんだって、やっと分かったわ。僕は今迄嫌な事は徹底的に避けてきたからね。」
淹れてもらったコーヒーは空になり、ゆっきーが新しく淹れてくれる。僕らの人格反省会はアニメ映画二本分続いた。
映画を満喫した澪が、やる気満々でキッチンに入って来ると、
「ゆっきー、ほうちょうかして!」
「おーー。よーし、始めますか!」
三人での調理はサクサク進む。途中、余りにゆっきーがニヤニヤ笑っているので、
「どしたん? 笑いダケ食ったん?」
「死ぬわ。死んどるがな。いや、そーじゃなくって。なんかいいね、こーゆーの」
さっき、初めて彼女が子供好きと知ったのだが。
「こーゆーの、夢だったん。娘と一緒に飯作るのー」
僕は心から笑みを贈る。世の中には色々な家族の在り方があり、それが各々の望む姿であるとは限らない。仮初であっても自分の望む家族の姿に接した時、人は心からの笑顔を醸し出す、と言うことを今知った。
「うわ、澪ちゃん包丁の使い方、ぱねえ! 凄い凄い!」
今日ほど誉められた日はなかったと思う、そんな澪は未だかつて見せたことのない笑顔と仕草で僕を魅了する。娘が、母親次第でこれ程まで変わるのか。あ、ゆっきーは母親じゃないけどね。
一通りの下拵えは済み、あとはフライパンで焼くだけとなる。
「そうだ澪。ゆっきーはとっても絵が上手なんだよ。後で見せてもらいな」
「みたいみたいいまみたい!」
ゆっきーは顔を綻ばせ、
「えーーー、見ちゃう? 澪ちゃんホント見ちゃう?」
「みたいみたい!」
日頃、同級生よりもずっと大人びている澪が、珍しく年相応に還っている。
「ははは。僕がフライパン見とくから。」
二人は手を繋いでキッチンから離れ、エプロン姿のまま二人はソファーに座り、タブレットにゆっきーが書き溜めている絵を澪が目にした瞬間―
「……」
澪は一瞬にして目と心を奪われた様だ。この年頃の純粋な視点は僕らよりも曇り無き視点である。
「すごい… ゆっきー、すごいよ…」
「えーー、ホント?」
「ゆっきーのおしごとはこれなんだ?」
「え……」
「そうだよね? ゆっきー、イラストレターなんだよね!」
「は、あは、いや、えーと…」
「すごいすごいすごい! ゆっきーすごいよ!」
「そ、そうかな…」
「そうだよ、まるでいきているみたいだよこのおんなの子。すごいすごい!」
そう言えば、誉められ慣れてない人物がもう一人。ゆっきーは澪の絶賛に動転したらしく、
「マジ? あとさ、他にもこんなんあるで」
と言って膨大なイラスト集を澪に見せ始める。何とも微笑ましく、そんな二人をいつまでも見守っていたいのだがーフライパンがそれを許してくれそうになくー
「おーい。そろそろできるよ。それ、後にしなさーい」
「「はあーい」」
見事な輪唱にフライパンも頷いた。
ハンバーグが焼き上がり皆でそれに舌鼓を打ちつつ、
「澪ちゃん、すっごく美味しいよっ」
殆ど僕が作ったのですが。え? 大人気ない?
「ありがとうゆっきー。えへへっ あーあ。」
突如テンションが落ちる澪に、
「何だよ澪?」
「あのね」
澪が急に真顔になる。
「ゆっきーがママだったらなー」
思わず箸を落っことすゆっきーと、僕。
「あ、ははー そんなこと言うとママが悲しむよっ」
「そんなことない! ママはほめてくれない。いっしょにごはんつくってくれない。あんな人ママじゃない!」
澪が鬼の形相で吐き捨てる。
ゆっきーがゴクリと唾を飲み込み、硬直してしまう。僕も脇汗の分泌を感知する。
古より言われている格言「生みの親より育ての親」この言葉が僕の脳にポップアップしてくる。確かに彩は澪を産みそれなりに母親をしてきた、去年まで。
それなりに、を思い返してみる。果たして彩は澪の本当に望むことをしてきたのだろうか。澪の一番の望みー誉めてもらうことーを、彩は実践してきたであろうか。
答えは、否である。僕はこれまで彩が澪を褒めちぎっている光景をみた記憶がない。今夜澪は生まれてこの方一番誉められた日かも知れない。
子供は誉めて育てる。日本ではイマイチ共感を得られないが、駐在したボストン、すなわちアメリカでは誉め育てが育児の基本中の基本。それこそ初めてハイハイしたら、
「お前は天才だ!」
初めてトイレでうんこしたら、
「お前は神だ!」
初めて他人に挨拶できたら、
「お前は創造主だ!」
位なレベルで褒めちぎる。のをよく街角で拝見したものだった。
それに対し彩は、
「もっと上手にハイハイできるでしょ」
「お尻も拭いてみなさい」
「もっと頭を下げて、心を込めて!」
とか言いそう、と言うか現実に言ってきた。
そんな風に母親に接しられてきた澪が誉め殺しの鬼、ゆっきーと共に過ごしたこの半日は、どれほど自分に自信を持てたことだろう、どれほど成長できただろうか。
とは言いつつも。ああそうだね、今日からゆっきーがママだよ、と言えない僕らは、何も言えなくなる。ん? ゆっきーが澪のママになる、イコールゆっきーが僕の妻になる?
ちょっと待てえ。ゆっきーが、こんな素敵な女性が僕の妻に? 僕は即座に妄想世界に没入するー
朝起きるとゆっきーが既に朝ごはんを作り、澪の弁当まで用意している。三人で朝食を食べ、三人で幼稚園に送っていく。帰宅し、分業体制で家事をこなしコインランドリーに向かう(これはデフォルトだな)。その帰りに二人でランチし、帰宅後は澪のお迎えまでスマホゲーム、アニメ鑑賞。園からの帰宅途中にお買い物、ジャンケンでメニューを決め具材を整える。帰宅後三人で夕食を作り、食後三人でお片付け。三人でお風呂に入り(ゴクリ)、川の字で澪の寝かしつけ。その後二人でゲームとアニメ。今夜はどうする? 今夜もでしょ! おおおおおお!
「パパ、どうしたん? もどっておいでー」
澪の呼びかけがなければ、そのままあっちの世界に言ってしまう所であった…
ふとゆっきーを見ると。ふふふ。彼女も妄想世界に飛び込んだみたいだ。
「もー。二人とも、へん。パパもへんだけど、ゆっきーもへん。」
いきなりマウントを取り出す澪。そんな言動によって微妙な雰囲気となった場は和む。引き籠り女と対人恐怖症男にとって、この子の存在は既に欠くことが出来ないものとなりつつある…
* * * * * *
夕暮れ前に見えた虹はすっかり闇に隠れ、代わりに明るい月が帰宅の途を明るく照らす。ゆっきーの家を出てから澪の様子がおかしい。
「どした? もっといたかったの?」
澪は曖昧に首を振る。
「早く家に帰ってママに会いたくなった?」
真逆の問いに対し、
「はあ?」
とキレちゃう澪。なんだかよく分からない年頃である。
「パパ。」
真顔で僕を見上げる。
「なあに?」
「パパ、ゆっきーさんのこと、すき? うわっ てあせキモ! ふーん。そうなん。」
僕が答えるいとまもなく澪は察してしまう。
そう。僕は今夜、ハッキリとゆっきーに対し特別な感情を持っていることに気づいた。
それが好き、愛してる、といった類のものなのかは恋愛レベル最下層の僕には判断しようがない。ただ、この人と一緒なら澪が必ず幸せになれる、澪が幸せになれば僕も幸せになれる、それを実感しただけだ。これが恋愛感情と言えるかどうか… ちょっと澪に相談して…
できねえし。
家に着き、玄関ドアを開く。彩は当然帰っておらず、部屋は真っ暗である。感知式のライトでないので、スイッチを押し灯をつける。
その瞬間。
澪が僕に激しく抱きつき、大声で泣き始める。
どうしてミオのママはゆっきーさんじゃないの? ゆっきーさんだったら、「おかえりー、おそかったやん」っていってギュッとだきしめてくれるはず。「ハンバーグ上手に作れたんだってね、偉かったねえ」っていってくれるはず。「さ、早くお風呂に入らなきゃ。もうできてるから、一緒に入ろー」といい、からだをきれいにあらってくれるはず。「今夜は絵本、何読もうかー」ミオのおめめがトロンとするまでおはなしをよんでくれるはず。ゆめの中にいっちゃうまえに、「おやすみミオ」といっておでこにチューしてくれるはず。
パパ、ミオはへん? そんなおねがいをもってるミオってダメな子なの? いけない子なの?
パパ、ミオは今のままならおかしくなっちゃうよ。人をあいせない人になっちゃいそうだよ。ねえおしえてよ、おかあさんのあいをおしえてよ、しりたいよ、かんじたいよ
パパ、パパ、おねがい、たすけてミオのこと
後日、相当後になって本人から聞いたその時の思い。
僕にはその場で澪の気持ちが分からず、ギャン泣きする澪をオロオロと慰めるしか手立てはなかったのだった。
風呂にも入らず澪は寝落ちしてしまい、僕は一人呆然とソファーに座っていた。あんなに楽しそうにしていた澪の急変にショックを隠せず、全く別の方向に思考は飛んでいたー僕がゆっきーと仲良くしているのが気に入らないのか、とか、彩ともっと夫婦らしくして欲しいのか、など。
玄関が開く音がし、彩が帰宅する。ソファーで呆然としている僕にギョッとし、赤ら顔で
「まだ寝てなかったの?」
「うん、ちょっと話があって。」
赤ら顔は首を傾げ、
「何。疲れてるから要点を言って。」
僕は一回深呼吸をし、
「もう少し、澪の面倒をみてやってくれよ。」
「はあ? ちゃんと養っているわ。」
「それは分かる。けど、もっと母親にしかできない面倒をー」
「いい加減にしなさい!」
彩が突然咆哮する。
「こんなに遅くまで働いて、あなたと澪を養って。毎日好きなものを食べれて好きな服を着れて。そこまでしてあげているのに、これ以上何を私に求める訳? それならあなた、働きなさい。私と澪を養いなさい。そうしたら少し考えてもいいわ。」
僕は息が止まり思考が停止する。
「あなたに、母親らしくしろなんて、絶対言わせない。今度そんな言葉を口にしたら、この家を出て行ってちょうだい。あなたの親とよく相談することね」
そう言って自室に入って行った。
翌日。
昨日の大雨が大気の汚れをすっかり綺麗に流し去り、冬のような大気の澄んだ日となる。のだが気温はグイグイ上昇し、昼前には三十五度を越してしまう。澪はプールを連呼するのだが、夏のインフルエンザが流行っているから気をつけてね、と美代先生から連絡が入ったので、プールは却下し、炎天下の公園で我慢してもらう。
直後に優馬ママから一緒にキッザニアへ行きませんかと誘いが来たので、澪に聞いてみると、
「えーー、ユーマとーー、行かない。」
こないだあんなに仲良くフォークダンスしていたのに…
「アレはさー、なんか? なつのおもいで、みたいな? きぶんだよきぶん。」
こわ… ウチの娘、こわ… こういう女が男を弄び恋い焦れさせ破滅に導くのだ。恐るべし娘に分かったと言い、優馬ママに断りの連絡を入れる。
何とか警報が出そうな暑さの下で澪が公園で遊んでいる時、ベンチに座りながら久しぶりに母親に電話を入れる。
「あらあら、珍しい。最近ちっとも来ないし電話も寄越さないし。澪ちゃんは元気なの?」
僕の元気を心配して欲しいのだが。まいっか。
「そう、元気なのね。で? またあの女と何かあったの? やっと出て行ったの?」
僕は声を立てて笑ってしまう。周りのママさんたちが何事かと僕を伺う。
そうではなく。最近、澪と彩の関係が本当に良くない。互いに歩み寄れる部分が僕には全く見いだせない、一体どうしたら良いのか?
「こんな電話でもアレだから、今からこっちにいらっしゃい。すぐ来れるでしょ?」
僕の生まれ育った実家は隣の区で車なら三十分とかからない。我が家には車がないのでバスで行くのだが、それでも一時間はかからない。
澪に今からおばあちゃんの家に行かないか、と言うと、
「行く行く行く行く行く行く」
澪、十五までにその言い方やめようね、僕は澪の手を引き、バス停へと向かう。
「全く。お正月以来じゃないの。お盆も来なかったくせに。」
僕は頭を掻き、まあ、分かるだろ、と言うと、
「ふん。すっかりあの女に振り回されて。今思うと、あんたが家出した時、あの女の口車に乗せられて振り回されたのが失敗だったわー」
頼む。澪のいない所で… と思いきや、澪はとっくに昔の僕の部屋に駆け上がり、僕の漫画コレクションを漁っているようだ。
「ほんっと、澪ちゃんが可哀想。大人ぶって必死にあんたに懐かれようとして。」
ははは… 流石、よく分かっていらっしゃる…
「分かるわよ。幼稚園児であんなにしっかりした子、見たことないわよ。健気よね、母親に見捨てられたから父親には離されまいとあんなに必死で。」
僕はしょぼんとしてしまう。
「ハアー、あんたにもっと甲斐性があったらねえ。そしたらあんな女放り出して、もっといい奥さん見つけて。って、無理よねえ。」
はあ、なんとなくスンマセン…
「ふんふん。なるほど。これはもう、澪ちゃんとあの女の仲は修復不可能ね。やっぱあんた、他に養ってくれる女性見つけて、そっちに行きなさい。ああ、そうだ! 高田さんの所の佳代ちゃん、覚えてるでしょ? あの子学校の先生やっていてね、出会いがなくて困ってるって。どうよあんた、考えてみなさい。」
いやーー。やめときますわー。確か佳代さん、七つ年上で体重が僕と同じくらい…
「何わがまま言ってんの。言っとくけど、ウチはダメよ。お父さん来年で定年なんだから。年金暮らしなんだから。分かってるわよね?」
分かってますし、こっちもそれは遠慮しておきます。優柔不断で流されやすい両親にこの僕。澪にいい影響があるはずありませんからーー。
「何よその言い方。そんなら自分で決めなさいよ。このままズルズルあの女に縋っていくのか、思い切って澪ちゃんと出て行くか。後者なら、ま、骨くらいは拾ってあげるわ」
骨になる前提かよ…
こんな親との雑談だったが、僕は決心する。
このまま彩となんとかやっていくのか、それとも澪と二人で彩から離れるのか。
そして、澪を慈しんでくれる女性がいるのなら…
それがゆっきーなら言うことないのだが、可能性はゼロに等しい。それに、僕は彼女を好きなのだろうか、愛しているのだろうか… その事も今後じっくり考えてみよう。
思わぬ夏休みの課題ができてしまった。それも誰に頼ることも答えを覗かせてもらうこともできない、重い重い課題が。
そんな僕の思いも知らず、澪が僕の部屋からギャハハハと笑い声を立てている。
「夕ご飯食べていくでしょ、何がいいの?」
「ハンバーーーーーグ!」
天井から怒鳴り声。おい、昨日食ったばかりだろうが…