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La Laverie Automatique  作者: 悠鬼由宇 
2/5

Chapitre Deux

送られてきた位置情報によると、ゆっきーの自宅は駅を挟んで歩いて二十分ほどの所である。

遅くなった罰として、駅前の高級スーパーでケーキをとの事だったので、慌てて駅に戻り、普段は決して買わないし口にしないケーキを二つ買い求め、足取り軽くマップに従って歩いて行く。

七月も終わり近くなので、夏真っ盛りだ。蝉の声はまだ聞こえないが、夕焼けによく映える入道雲が今年の夏の到来を実感させてくれる。

道ゆく人も薄着で暑そうに足を引きずっている。僕の一張羅のシャツもすっかり汗を吸い込み、白でなければ汗染みが超目立っていたことだろう。     

駅から十分ほど行くと周りは閑静な住宅街だ。高層マンションはなく、低層の質の良いマンションが立ち並んでいる。

ゆっきーの物件はそんな中の一棟らしい、マップがあっちこっち僕を引き摺り回しようやくあとワンブロックのところまで来る。

すると、突如感じたことのない緊張感に襲われる。僕は、これから女性の部屋に上ろうとしている! それも、割と好意を持った女性の部屋に。

脇から妙な汗が噴き出す。額から雫が垂れてくる。体表から汗が噴き出ているのに、口腔内はカラカラに乾涸びている。

何度か手汗でケーキを落としそうになりながら、漸く目的地に到着する。見上げると割と最近出来た高級低層マンションである。壁が石垣風で高級感が半端無い。エントランスも高級ホテル並みの誂えだ。発汗作用が更に増す。

五分ほど深呼吸をし、意を決して震える指で部屋番号をプッシュし呼出ボタンを押す。

すぐに「どうぞ」と声がし、同時にガラス扉が開く。

エレベーターも高級感が漂い作動音もとても静かだ。僕から滴る汗の音が聞こえてしまう程である。やがて目的の四階に静かに到着し、ドアが厳かにゆっくり開く。

廊下には絨毯が敷き詰められており、足音がしないし響かない。その代わりに僕の心臓の鼓動が廊下に響き渡り、目の前が暗くなっていく感じに苛まれる。


TAKAMURAと書かれた表札の部屋の呼び鈴を押す寸前に玄関扉が開く。

「いらっしゃーい」

新婚さんかよ! と思う程今迄見たことのない明るい顔で、ゆっきーは僕を部屋に招き入れる。僕も心臓を捧げる気持ちで負けずに蒼ざめながら

「お、お邪魔ひます」

としっかりと噛む。

出されたスリッパを履くときに、つんのめってコケそうになるお約束を果たしてゆっきーを軽く笑わせると、

「こっちだよー」

と案内され、汗も鼓動も収まらないまま部屋の深部に誘われていく。

部屋は2LDKで南向き、すっかり日が暮れてしまったので分からないが、陽当たりが良さそうな感じである。築浅なマンションなのであらゆるものが築二十年の我が家に比し新しく進化していて羨ましい。例えば床暖房、カセット式エアコン、マルチメディアコンセント、リビングの壁は流行りの和モダン、漆喰だ。

中々他人の住居を覗く機会がないので、こうして眺めていると僕の主夫センサーがビンビン反応してくる。するとさっきまでの大緊張が徐々に解れていく。


「ゴメンねー、かなり散らかっててー。ま、気にしない気にしない」

と言いながら僕の背中をドカンと叩く。思わず咳き込みながら、

「あのさ、ゆっきー」

「なーに」

「明るくて、変。」

「おいっ。って、ヒッキーって、MASAくんって言うの? てか、貴方、誰?」

ゆっきーは吹き出しながら僕に問う。

「そうなんだよTAKAMURAさん。ゆき…何さん?」

「雪乃。で、そっちわあ?」

「あ、僕、正幸。真田正幸。」

「…マジ…? 親御さん、ウケ狙い? ガチ? 歴オタ?」

そう。僕のフルネームは歴史好きの人なら即唸ってくれる、かの有名な戦国武将、真田幸村の父親と全く同じときたもんだ。初めて『信長の野望』をプレイした時にのけぞり、親に激しく抗議したが後の祭り。まあ、幸村と名付けなかったのを良しとするしかない。

「まあ、親的には… ガチ? 知らんけど。」

「そっかー。まさかその血筋とか? 出身、長野?」

へえー。ゆっきーは中々の歴史好きだ。真田家イコール長野。実はとんでもない知識人?

「無い無い。先祖は東北のど田舎ですから」

「てか、あの地図を発見した張本人とか?」

おい。そっちも良く知ってるじゃねーかよ。とんだ知識人だ!

「ねーよ。僕じゃねーよ。持ってたけど。」


サッと部屋を見廻し、彼女の家事能力を推察する−正直、あまり几帳面な性格ではなさそうだ。フローリングはキズだらけ、部屋の隅にはホコリが薄ら見えている。ソファーの上には洗濯物が放置されており、キッチンはかなーり汚れている。

それでも食卓の上には、先程送られてきた写真通りの美味しそうなペペロンチーノやサラダが美味しそうに僕を待っている。

「温め直したから。ささ、食べて食べてー。冷めちゃうぞ」

僕は高級そうなイタリア製(だと思う)の椅子に座り、固唾を飲み込む。

「頂きます。ちゅるちゅるー。」

ゆっきーが僕を覗き込み、

「どお、お味はー?」

「うん、不味い。」

「イオナズンとクラップスタナー、どっちがお好きかしら?」

「本当のことを言うと、呆れるほど美味しい! うん、パスタ良くできているよ。お店に出してもおかしくない。」

そう。温め直したそうだが、パスタはよくオリーブオイルと絡み、塩加減は最高だ。サラダも魚介類が上手にソテーされており、パスタによく合う中々の逸品だ。

改めてパスタを啜るゆっきーを見直す。掃除洗濯はかなり能力は劣るが、炊事に関しては僕と同等、もしくは上、である。

ゆっきーは少し照れながら、

「最初からそう言えよ。ヒッキーだかマサだかまさゆきだか。」

僕は吹き出しながら、

「それよりさ、ゆっきーさ、外でと全然キャラが…」

彼女はガハハ、と笑いながら、

「ああ、私引き籠りだったから、外は未だにキツイんだ。でも自分のテリトリー内ではこんな感じだよお、えーと、ヒッキーだかマサ…」

「ヒッキーでどうぞ」

「じゃあ、ヒッキーはどんな感じなん?」

「僕は対人恐怖的な感じ。この数年は家族以外とは目を合わせられない程。」

「そっかー。お互い辛いねえ。あ! でも今ちゃんと目合わせて喋れてるじゃん」

「それなー。今夜のゆっきーとは… 何故だろう?」

「私の魅力に参っちゃったとか? テヘぺろ」

「言うんだ自分でそれ… でも、」

「でも?」

「ハッキリ言って、妻よりもずっと話し易い、と言う事実にさっき気付いたかも。」

「何それ、ウケるー って、どーやって結婚したん? 出会いは? どっちから?」


     *     *     *     *     *     *


僕と妻の出会いは大学のゼミ。僕が三年生の時彼女は四年生。才色兼備が服着て歩いている様な彼女に見惚れはしたものの恋心なぞ全く持たなかった。恐れ多過ぎて。

「ほう。で、ヒッキーはどんな子供だったん?」

子供の頃から本、漫画、アニメ、ゲーム三昧だった僕は勉強もそこそこにこなし、中学受験を乗り越えて私立男子中学高校に進学。在学中は自他共に『オタク』キャラであった。但しそれ程のめり込む性格ではなくアキバにも数回見学に行った程度で寧ろ勉学に勤しんでいたお陰で都内の有名私立大に現役合格。

「へー、ヒッキーも東京出身なん。何処? ほお、杉並。良いとこじゃん。大学、ヒッキーに合ってねー それでそれで?」

大学生から心機一転、陽キャラで行こうという野望はチャラサークルの新歓コンパで粉々に打ち砕かれ、却ってPTSDを背負い込んでしまい徐々に他人と話せなくなっていく。その後サークルに入るでもなくバイトに明け暮れるでもなく、しかしながら大学の授業は真面目に受け、帰宅後は高校時代と変わらず本、漫画、アニメ、ゲームという『帰宅部』に徹してしまう。

「何それウケる。せっかく日吉行ったのにー 勿体ねー で?」

三年生になり、就職に有利であると有名なゼミに入った早々、その新歓コンパでまたしてもトラウマレベルの事象に巻き込まれる。

『キミねえ、そんなんだと就活どころか社会生活も厳しいぞ。なんで目を見て話せないの? もっとハキハキ話しなさい! それとその髪型、服、臭い! もっと清潔感を持ちなさい! あー、イライラするわ』

そう言い放ったのが今の妻、当時の高嶺の花子さん。彼女は幼稚園からこの学園育ち、名門家庭のお嬢様…と噂されていた。成績優秀、眉目秀麗…でなく容姿端麗。危ない危ない。そんな高嶺花子さんのガチキレに周りの先輩が慌てて止めようとするも、彼女の舌砲はとどまる所を知らず。コンパが終わる頃には僕は生きる気力を失い、翌日から親の車を持ち出しひと月程日本各地を彷徨った。

「なんじゃそれ… で、車で全国を彷徨ったってさあ、ガソリン代は? 宿代は? お金持ってたの?」

「給油用のカードが車内にあるの知ってたから。クレジット機能付きってことも。」

「知能的確信犯ね。しっかしさあ、その女…って奥さん、人として酷くね? 幾ら名門の出だからって、庶民を見下しやがって!」

「うん。その家出中にさ、彼女の顔や声を思い浮かべる度に路傍で吐いてたわ」

ゆっきーは唖然とし、

「そんな… で、それが何故今に繋がったん?」

「それなー。妻は実際、根は良い奴なんだよねー、それに…」


約ひと月、人との会話は買い物時と宿泊時、食事の注文時だけ。親にはちょいちょい実況を報告していて、それに対しいつも言われる一言

『死ぬんじゃないよ』

それだけが僕の心に届く人の声だった。日本各地の大自然に触れているうちに徐々に僕の心は修復されていき、錦江湾に佇む桜島の噴火を見て、そろそろ戻るかな、そう思い車のハンドルを東に向ける。僕もいつかあの噴火の様な熱い想いを心に滾らせることが出来るのだろうか、そんなことをぼんやりと考えているうちに自宅に無事帰還した。玄関のドアを開け、ただいまーと靴を脱いでいると、奥からドンドンと足音が近づいて来る。なんて顔して謝ろうか、いや面倒臭いからこのまま風呂入って寝ちゃうかなあ…

『真田くんっ』

何とあの高嶺花子が僕に抱きついてきた。

『御免なさい、御免なさい、許してください』

僕の肩でー背が僕と同じくらいなのでー号泣している。どうしていいか分からず、それにまだ心の傷は完治しておらず、立ったまま硬直していると急に顔を上げ、

パンッ

思いっきり頬を叩かれた。

『どれだけ… みんなが心配したと思ってるの! もし死んじゃったら… お母様とお父様に何と… 貴方はなんて勝手気儘なの!』

「その時はただ、ヤバい、俺とんでもないことしちまった、って思ったんだわ。あの気迫に飲み込まれたんだなー」

「いやいやいや。謝罪は当然さ、で逆ギレ? ビンタ? 情緒不安定じゃん、そのオンナ…ってか、奥さん…」

「で、親も呆気にとられて。挙げ句の果てに『正幸さんは私が責任を取らせていただきます』って。両親とも口開けたまま首をカクカク振ってたわ」

「何じゃそれ。あ、お代わりあるよ、食べる?」

「うん頂戴。いやー、美味しい。そもそも他人の作ったもの食べるのって、母親以来?」

「何、じゃあ一緒になってからずっとヒッキー専業主夫なの?」

「ハッキリ言おう。一緒になる遥か前から、な。」


こっちはトラウマ残っているにも関わらず、翌日から公式に僕らは付き合い始める。何しろゼミを代表する、いや学年を代表する超絶美女と見るからにオタな僕の組み合わせはその日のうちに学内を恐慌に陥れた。その日の帰り途中青山のカットハウスに連れて行かれ髪型を整える。翌日の帰り途中渋谷のブティックを梯子し今風の学生らしい服装を整える。翌週からは彼女が僕の部屋に監査に入り、彼女的に不要、不審と判断した物を全て撤去する。それは物質的なもののみならず、僕の精神的なものにまで監査は入り始める。その頃に僕の方も彼女の本当の姿を知ることとなる、彼女は噂されていたような名家の出でもなく幼稚園からの持ち上がりでもなかったのだ。彼女の実家は八王子の農家、家を継ぐのが死んでもイヤで高校時代に死ぬ程勉強し大学から入ったとのこと。

「はあ? それが何故そんな伝説の女子に?」

「似た名前の下から上がりの名家の子と勘違いされてたらしく。」

「ソ、ソデスカ… でも農家でそんな私立大学って、経済的に?」

「そう、だから奨学金で学費払い、家庭教師で生活費を稼ぎ。よく僕の家で夕飯を食べていたよ…」

「お、おう。そんで?」


気がつくとあっという間に一年が過ぎ。彼女は就活に尽く勝利を収め、その中でもとびきり収入の良い外資系コンサルティング会社に入社を決めた。それから卒業までの間に、必要な資格を取りまくり、入社と同時に即戦力でバリバリと働き出した。そんな彼女を唖然と眺めていたものだった。

「社会人と学生ならだいぶ距離空けられたでしょう」

「それな。でも四年になって気付いたらさ、周りに友人ゼロ、後輩ゼロ。僕、どんだけ彼女に縛られていたのかって」

「でも嫌じゃなかった。のね?」

「何だろう。良いとか嫌とかじゃなく、彼女といることが必然、と言うのかな。三年のあの事件以降、彼女以外と殆ど話さなかったかも。家にもしょっちゅう泊まりに来ていたし。なんなら我が家から学校通っていたし。」

「うわー、きっつー。そんで、漫画、アニメ、ゲームはNGだったんだ…」

「だから彼女と距離が空いて真っ先にそれに走ったわ。結果、益々人と関わらなくなりー」

「あららら。そんでその後―」


僕は就活する時間を無我夢中で漫画、アニメ、ゲームに費やす。二年間の禁欲生活のリバウンドは凄まじく、何故僕は必死でこれを観ているのだろう、自問自答しながら次々に読み終え見終えクリアしていった。気がつくと卒業時には無職となる。その間彼女とは週一、月一、三月イチ、と会う回数が減っていく。当時使い始めたLINEでのやり取りも徐々に無くなっていき、上手くいけばこのままフェードアウト出来る! と考え始めた矢先。

『アメリカに行きます。MBAを取ります。マサくんもついてらっしゃい。』

魂消たのは僕よりも両親。

『費用は全て私が出します。私の勉学のサポート役をお願いしたいと思います。』

その年の九月。僕はボストンの空港に降り立っていた。

「うわ… 凄えな… よく海外で暮らせたな… 尊敬するわー で、どんな生活だったん?」

「聞きたい? 思い出したくもない、地獄の日々を…」

「ゴクリ。聞きたいっ」


海外旅行は何度かあれど、海外での暮らしは僕も彼女も初めてだった。英語は彼女はペラペラ、僕は日常会話程度、一ミリも期待感のない生活が始まる。家は会社の借り上げコンドミニアムで2L D K。寝室は勿論別々。やたらキッチンが広く、リビングが狭い。古くからの閑静な住宅街の中にあり、通り沿いにスーパーマーケットやカフェ、レストランが点在し、世界中から学生が集まる若々しい活気のある街だった。彼女は一日三時間程しか睡眠を取らず、後は自宅や図書館、そして学校で勉学に励んでいた。僕は毎日彼女の為の家事をこなしていく。昼食の弁当はおにぎりがいいと言うので、毎日朝から炊飯していたし、冬の時期にはポットに味噌汁を入れて持たせたり。清掃ロボットの性能が良く、あと乾燥機の出力も凄かったので、総じて掃除洗濯は日本よりも楽であった。炊事に関してもスーパーマーケットには和食の素材、すなわち米、味噌、醤油など何でもあったので、余り苦労した記憶はない。それよりもー妻の生活リズムを壊さないこと、上手に整えてやることが最重要であったので、その対応が本当に大変だった。夜中に突然

『シャケ茶漬け』

なんてマシな方。授業中にメールしてきて、

『今すぐ梅昆布茶を届けなさい』

梅と昆布を別々に煮出し、シーソルトを適量加え、慌てて届けに行ったら、仲間達とカフェで楽しそうにランチしており、僕は公園で一人梅昆布茶をフーフーしながら啜ったり。

「も、もはや執事だな、黒執事かよっ」

「僕は悪魔じゃないし。」

「そ、そうだね… 悪魔に仕える、哀れな執事… 白執事ってか。いやあ、悲惨な生活だわ… よく精神的に病まなかったねえ」

「まあね。意外とさ、」


その時期には日本のアニメやドラマが話題になっており、NetflixやHuluで幾らでも楽しめたし、日本の番組なんかもV P N繋いでリアルで楽しめたから、引きこもりするにはうってつけの土地柄だったのかも知れない。正直、隣の住人とは喋ったこともないし、玄関の守衛と挨拶を交わす程度だった。ボストンに大学時代の知り合いが何人か駐在していたらしいが、あえて連絡を取ったりもしなかった。故に、この期間彼女と以外殆ど日本語を使わなかったし英語も生活上必要最低限のみ行使してきたので、僕の対人コミュニケーション能力は人類最低レベルに違いなかったろう。ボストンには多くの公園があり、また一人で楽しめるカフェやレストランも多く、気候の良い季節には毎日色々歩き回ったりもしていた。そう、僕は引きこもり体質な訳ではなく、対人恐怖症の類なので、出歩くのは嫌いでない、むしろ好きである、今でも。春から秋にかけては東海岸特有の湿潤で温暖な気候で、ちょっと日本に似ていて中々過ごしやすかった。冬は寒く、時折降る雪には閉口したものだったが、それも今となっては良い思い出かも知れないな。同居し始めて一年が過ぎる頃には、彼女が忙しすぎて殆ど会話すらしなくなっていた。渡米して約三年後、彼女の壮絶な努力はしっかりと実を結び、見事MBAを取得した。その夜、酔った勢いで通常装着すべきものを(彼女が)拒否した結果。日本帰国後、約十ヶ月後に僕らは人の親となった。


     *     *     *     *     *     *


ゆっきーは僕が話し終えると、唖然というか感嘆というか、そんな表情で僕を眺め、

「いやあー、まるでドラマみたいな展開じゃん。ヒッキーと奥さんのこと、よー分かったわ。」

「こんな話を人にするの初めてだったわ。澪にもしていないよ」

ゆっきーが頷きながら、

「ただ、ちょっと疑念が。そんな忙しい奥さんなのに、夜やることはやっとったんかい!」

僕は瞬時に耳まで赤くなるのを感じる。

「うん。まあ。妻が、その、強いって言うか、何というか…」

ゆっきーは目を見開き、口角を上げ、咄嗟に食い付いてくる。

「ほおほお。真田家、の夜の生活、詳しくもっと!」

「それがさ。澪が生まれてからは、殆どないんだ。この五年ほど、サッパリ。」

彼女はずっこけながら、

「何じゃそれ! で? 澪ちゃん出来る前は? ハアハア…」

「ゆっきー、目がエロい。えっと、まあ、毎晩?」

おおおお! 彼女は驚愕の表情で腹の底からの唸り声を放つ。

「そ、そうなのか… やっぱ、それが普通の夫婦生活なのか…」

余りに驚いているので、

「え? それが普通じゃないの? 高村家は?」

ゆっきーは髪の毛の先まで真っ赤になりながら、

「うーーーん… 結婚した頃は、月イチ? 今は… 年イチ?」

まさか。そんな筈ないでしょ?

「それがですねえ、事実なのですよ。正直、ワタシが苦痛なのですわ…」

「そ、そうなのですか。それは、行為自体が好きでないのか、ご主人とはウマが合わないのか、どちらなので?」

呆れ顔で彼女は、

「ズバッと来るねえ、なんつうか… ワタシ、旦那としか経験ござりませぬので、その点は何ともコメントし難く、なのですわ。」

うーーむ。殺戮の天使が通り過ぎて行く…


「何だかな… さて、僕の話はこんな感じだけれど。次はゆっきーの話… と行きたいところだけれど、そろそろお暇する時間だわー」

ダイニングの壁の時計を見上げながら僕が言うと、

「え嘘! うわ、もうこんな時間…」

「旦那さん、そろそろ帰ってくるんじゃ?」

こんな所でご主人と鉢合わせなんかしたら、僕の鼓動は永遠に止まるであろう。

「うちは毎晩終電。時々タクシー。」

「そっか。でももう十時だし。明日のランチにさ、ゆっきーの話とっておこうよ。」

「うん。だけど… 外じゃこんなに語れないぞ、ワタシきっと…」

ショボンとしながらゆっきーが呟く。ああ、ホントに外に出るのが苦痛なんだな。ふむ、ではどういたそうか。ああ、それならば!

「ならさ、明日ここで僕がランチ作ろうか?」

パッと明るい表情となる。胸が何故かキュンとなる。

「マジ? マジ? 良かったー、助かったー」

嬉しそうに跳ね回る彼女を眺めながら、更に鼓動は早くなる。明日も、二人きりで、ここに…

「いやさ、レストラン探しとくとか言ったじゃん私、」

「うん。言った。」

「行かないって普段。知らないって。怖いもちょっと有り」

「そっかそっか。じゃあさ、今夜はゆっきーが美味しいパスタ作ってくれたから明日はー」

「ワクワク!」

「ナポリタン作るわ!」

「連続技かよっ アタシらイタリア人かよっ」

「ナポリタンはれっきとした和洋食ですが何か?」

「嘘つけ。ナポリーの名物なんだろ?」

「何で語尾伸ばすんだよ。ナポリに伸び代なんかねえよ」

ゆっきーは腹を抱えて笑い出す。笑うと元々の垂れ目が更に垂れ下がり、何故か僕の五感を刺激する。


玄関先で、僕は名残惜しさを隠し切れない。本当はもっと一緒にいたい、もっと色々話がしたい、もっと一緒に…

「気を付けて帰ってね。このままひと月ほどドライブ行っちゃわないでね」

僕はプッと吹き出し、

「その代わり明日ビンタしないでね」

ゆっきーは腹を抱えながら、

「はーー。久しぶりに笑ったわー。メチャ楽しかった。明日もすっごい楽しみ!」

靴を履き終えて、玄関ドアを開けようとし、

「あっ」

「えっ 何? なんか忘れ物? やめてよー、旦那に見つかったら破門されちまうぜ」

「破門かよ、それでいいのかよ。じゃなくってさ、どうする明日?」

「明日?」

「コインランドリー。」

「行く、でしょ当然!」

「行き、ますか。十一時に!」

玄関を出てエレベーターホールに向かう。ふと振り返ると、ドアの隙間から小さい顔がちょこんと出ている。エレベーターが四階に到着し、ドアが開く。彼女が小さな手を小さく振る。僕も小さく手を振りかえす。目の前の扉がゆっくり閉まっていく。やがて小さな重力を感じ、楽しかった時間が地の底に落ちていく。

マンションの外に出ると、蒸し暑さは変わらない。ただまん丸の月が眩しい程僕を照らしている。ずっと眺めていると目が潰れそうだ。目を瞑りかけて、いやそれじゃ駄目だ、ちゃんと向かい合わなきゃ。そう思い、黄金の満月を見つめ続けた。


     *     *     *     *     *     *


帰宅すれど、彩は未だ帰らず。ホッとしつつも大きな溜息が一つ。

滅多に着ないシャツを洗濯機の奥に放り込み、その上にバスタオルを置く。夕方からかきまくった汗をシャワーで洗い流す、体に付着した高村家の匂いも全力で洗い流す。

寝巻きに着替え、冷たい麦茶を飲んでいると玄関先でドアの開く音がする。

「全く、急にミーティングなんか入るから。明日に変更しておいたわ。時間は同じく六時。絶対に遅刻は駄目よ、いい?」

ほんのりと赤い顔の彩が僕の飲んでいた冷たい麦茶を奪い取り、一気に喉に流し込む。一瞬アルコール臭を感じるが、僕はニッコリと笑い、

「分かった。明日は楽しみにしているよ」

彩はキッと僕を睨み、何も言わずにバスルームへと向かう。

今日一番の大きな溜息を吐き、何となくスマホを眺める。


翌日、全ての家事を十時半までに終わらせる。一息つきながらスマホを見るとメッセージが着信している。

『おはようございます。澪ちゃんは今朝も一番に起き出して皆を起こしてくれました。とても助かっていますよ』

朝からどれだけハイテンションなのだろう、我が娘よ… その様子を思い浮かべながら、先生に返信を認める。

『おはようございます。澪が元気そうでよかったです』

伊豆高原は行ったことがない、どんな所なのだろう。そう思った瞬間、

『これが宿舎の周りの様子です。皆園にいる時よりも生き生きとして楽しそうです。この写真を送ったことは他の保護者の方には内緒にしてくださいね(絵文字)』

送られた写真をしばらく眺める。自然溢れた中々素敵な場所である。こんな所に家族で行けたらさぞや澪は喜ぶだろう…か?

僕は頭を振り、返事を書く。

『素敵な所ですね。保護者の件は承知しました、絶対に口外致しませんのでご安心くださいませ』

すぐに返事が来て、

『空気もおいしくて本当に良い所ですよ。いつか澪ちゃんと一緒に行きたいですね!(絵文字)』

ん? 先生は文章を間違えているぞ。この文脈では先生と僕と澪が行くことになってしまう。非日常にいるので、つい間違えてしまったのだろう。これがゆっきーなら遠慮なく突っ込む所だが、そんな失礼をしてはならない。僕は丁寧に、

『それはとても嬉しいですね。ありがとうございます』

うん。無難な返答だ。これなら先生も間違いに気づくことなく午後を過ごせることだろう。

ふと時計を見ると、十一時を過ぎている!

慌ててその辺のポロシャツを被り、ジーンズと白のソックスを履き。スマホを引っ掴んで家を出る。百メートルほど行き、ランドリーバッグを忘れたのに気づき、ダッシュで家に戻る。再び家を出る頃には、全身から汗が噴き出ていた。


十一時二十分に全身滝汗でコインランドリーに行くと、今日はローテさん…あれ…今日って何曜日だ? 彼女は夏休みに入り毎日来ないから、服のローテーションがわからんくなった…

僕の顔を見ると、曖昧な笑顔で会釈される。僕はニッコリと笑いながら、

「ご無沙汰しています。お久しぶりですね。どちらか海外にでも行かれてたのですか?」

その瞬間の彼女の顔。目を極限まで大きく見開いた為、その余波で額の皺が実年齢以上のものとなっている。口を限界まで開けてしまった故その奥に銀歯を認める。今時銀歯…


ん? ちょっと待て僕。何普通に彼女と会話しているのだろう。


考え始めた矢先に、ゆっきーが店に入ってくる。

「こんにちは。遅いぞーって、僕も今来たところなのだ」

「うふ、こんにちは。ごめーん」

この刹那のやり取りを目の当たりにし、ローテさんの顔は更に驚愕の表情を見せる。しばらく僕とゆっきーのやりとりを呆然と見ていたのだが、徐に

「そ、そうなの。ちょっとハワイに家族で行っていたのよ」

ゆっきーが羨ましげに、

「ワイハー、いいなあー。行ったことないなあ」

「そ、そうなの? 日本語通じるし、とても良いところよお」

それから僕ら三人は、この夏は嘗てない程の酷暑だのゲリラ豪雨がヤバいだの、どうでもいい事をペチャクチャ話し始めたのであった!

途中ローテさんが「あなたたち夫婦?」なんて言うから「良く天然物って言われません?」と言い返すと五秒間を置いた後大爆笑したりして、すかさずゆっきーが小声で「ルカニッ」なんて唱えたりしたら、ローテさんは超ご機嫌でこの辺りのランチの美味しい店とか教えてくれて。

ゆっきーは超真剣な顔でそれを聞き、スマホでチェック入れて

「今度絶対行きますね。バシルーラ!」

と言うとローテさんは満足げに頷きながら、

「あ、そろそろ行かなくちゃ。またねー」

と言って店をピョンと出て行き、僕はこれ以上立っていられない程笑うのであった。

「初めてあのおばさんと話したんだけどさ。中々親切で良い人だったわ」

僕がローテさんの背中を念力で押しながら言うと、

「ねー。色々知ってて為になったわー。ここのイタリアンさ、絶対行こうよ。」

あれ?

そう言えば、ゆっきーも普通に喋っていたぞ。割と楽しそうに… え?

「そーなの。不思議。自分でもびっくり。これって、多分さ、」

「多分?」

「ヒッキーと一緒だからだと、思う」

そう言うと照れ臭そうにそっぽを向く。かわゆい。


洗濯が終わり、ランドリーバッグを担ぎながら駅前のスーパーに向かう。日差しは残酷な位に僕らを焼き尽くすのだが、不思議と暑さは感じない。歩きながらも会話は途切れることなく、残酷な天使が通り過ぎることも使徒の襲来も、ない。

ネルフならぬセレブ御用達のスーパーでナポリタンの食材をあれこれ協議し、三十分後に合意に至る。昨夜ご馳走になったので食材費は僕が出したが、ちゃっかりスーパーのポイントはゆっきーがかすめ取っていった。

片手にランドリーバッグ、片手にスーパーの袋。そう言えば僕は妻と二人でこうしてスーパーで買い物をした記憶が無い。ボストン在住時でさえ、買い物は常に僕一人であった。

不意にゆっきーが、

「ねえヒッキー。私、喋れたね?」

「ああ、ローテさんと、な。うん。喋ったな。」

「…何、ローテさんって… でも不思議。ヒッキーと一緒なら、何でもできるし、何処へでも行けるかも!」

「大丈夫。俺がいる。安心しろ『ゆきのん』。」

突然彼女は立ち止まる。唐突に氷の女になり、短い髪を払う素振りを見せながら、

「その『ゆきのん』ってやめてもらえるかしら」

このノリ。それもちょっとオタク系なノリの良さ。僕は発作的に『ゆきのん』に抱きついていた。駅前の人通りも多い中で。

「ちょっと、ヒッキー、キモい、ウザい、あと、えーと、超キモい!」

一人の女性をこんなにも愛おしく感じたのは、これが初めてだった。


     *     *     *     *     *     *


ローテさんと話していた通り、この夏は酷く暑い。ゆっきーと楽しく歩いていても、額や顎からダラダラと汗が滴り落ちてくる。それはゆっきーも同様で、白いTシャツが透けるほどの汗……

良く見ると、赤い下着が透けて見えてくる。思わず生唾を飲み込み、別のことを考えようとする。のだが、今度は視線が彼女の汗ばんだうなじから離せなくなる。

マンションに到着しエレベーターに乗ると、今度は汗ばんだ彼女の香りに脳をやられそうだ。何だろう、妻がつけている香水とは全く違う、健康的な香りと彼女の汗が混ざり合い、それが僕のホルモンを刺激する。

良く妻に揶揄われるのだが、僕は所謂『草食系』なんだそうだ。実際リアルな女性に性的興奮を覚えることは滅多にない。ないのだが、これは一体……

ゆっきーが特別容姿が優れている訳ではない。スタイルが良い、と言うよりは単に痩せ過ぎだし、よく見ると顔にはソバカスが点在しているし、胸はほぼ平坦。

それでも、ショートヘアーは清潔感溢れ、耳や頸の辺りは見ていて清々しい。いや、今はちょっと汗ばんでいて、正直エロい。今日もショートパンツからスッと出ている脚は、細くしなやかでパンツ、スカート、何でも良く似合いそうだ。この脚に黒の網タイツを履かせたら… メチャエロい。

そんなゆっきーのフェロモンに僕の全人格が崩壊する直前に、昨夜お邪魔したばかりの部屋に到着する。


「あー、チョー暑かったあー。もー汗だくだよー、ねえヒッキー、シャワー浴びてきてよいかな? あ! ヒッキーも浴びちゃいなよ、それからナポリターン、ヨロシク!」

それは大賛成だ。このままではゆっきーの汗の匂いで僕は発情してしまうところである。

「いいね、着替えは洗濯したばかりだしー じゃあ後でちょっとお借りするかなー」

「りょーかーい。ゴメン、すぐ浴びてくるからその辺で待っててー。冷蔵庫にビール… お酒は飲まないんだっけ?」

「うん、飲めない。気にしないでゆっくり浴びておいでよー」

「はーい、じゃあちょっと失礼―」

なるべく汗が付かないようにソファーに腰掛けて、スマホを弄り始める。人類はこの数年こいつのお陰で暇潰しが苦にならなくなったのではないか。三十分程度ならニュースを見たりSNSを見たりしているうちに、あっという間に過ぎていく。逆に言えばそれだけ時間を無駄にしているのではあるが。

他人の、それも女性の部屋に一人っきり。僕にもう少し勇気と度胸があれば、テレビ棚に飾られている写真を眺めたり、キッチンの冷蔵庫を覗かせてもらったり、寝室にお邪魔したり。

精々今の僕にできるのは、リビングからベランダに出て外の景色を楽しみぐらい。僕の住んでいる中古マンションよりも遥かに造りが良く、外からは中が見えずらいが、こちらからは外がよく眺められる。南に面しているがベランダに奥行きがあるので、夏の直射日光は部屋に入ってこない設計だ。

ベランダからの景色は、目の前に大きな建造物もなく僕らの住む街が一望できる。よく見ると僕のマンションが何となく見える。そのはるか向こうには、季節が良ければ富士山なんかも眺められそうだ。


リビングに戻り、改めてこのマンションの高級感を実感する。同時に、ゆっきーのご主人の経済力に圧倒される。我妻である彩も年収はかなりなものであるが、こんなマンションを買える程のものではない。後でご主人の話をたっぷりと聞かせてもらおう。

浴室の方からシャワーから上がった音が聞こる。と同時に、その姿をつい想像というか妄想してしまい、ゆっくりとソファーに腰掛けていられない状態になってしまう。命懸けでその妄想を振り払い、スマホゲームに何とか集中力を行使している間に、ゆっきーはタンクトップにショートパンツという涼しげな出で立ちでリビングに戻ってくる。

「お待たせー。タオル出しといたから使ってねー。その間に下拵えしておくからねー」

もはや外でかいた汗と妄想中にかいた変な汗で、全身びしょ濡れの僕は言われるまでもなくバスルームへ向かう。

いいか僕。匂いを意識しちゃダメだぞ。あと彼女の入浴シーンを妄想するのも禁止な。なるたけ冷たい水を頭からかけような。悲鳴が出るほどの冷たい…

「うわっ」

思わず悲鳴が出てしまった。

決して意図的ではあるまい、かなりおっちょこちょいの彼女を多少は理解しているつもりだ。それでも、蓋の閉まった洗濯機の上に無造作に置かれた、蒸れ匂い立つ真っ赤な下着上下セットを目にしてしまうと僕は…

凝視すること三分。何度も手が前に出るも理性で引き戻す。そんな動作が三分。いかん! これに触れてしまえば、僕は人でなくなる。変態仮面になってしまう。いけない、それだけはいけない。僕にはできない、僕にはできない、僕にはできない… 呟くこと三分。

何とか悪魔の誘惑を振り切り、前屈しながら浴室に入る。冷水を浴び始めて三分。やっと『僕』は落ち着きを取り戻した。


本当に目を瞑りながらタオルで体を拭き、持ってきた着替えを着てリビングに戻ると、丁度彼女はエプロンを着た所であった。

エプロンを借りる。ちょうど良い大きさだ、包丁を拝借し、玉葱をカットする。

「おおお! それは正に水の呼吸法! ま、まさか玉葱相手に弐の型水車を使うとは… お主、一体…」

「頼むから血鬼術だけは堪忍してくれ… でないとこの玉葱が… 鬼に成ってしまう…」

「あああ、見ておれない! 私の日輪刀が… 疼く、切りたがっておる…」

まさかこの歳になってアニメなりきりごっこをしながら調理する僕を、一昨年逝去した祖母ですら想像出来なかったであろう。毎週サザエさん通りを歩くのを楽しみにしていた、元祖アニオタ祖母ですら…

ここでちょっとしたハプニングが発生する(僕的に)。キッチンは二人で動き回れるほど広くなく、少し動くとどうしても身体が触れ合ってしまうのだ。あまり意識するのも大人気ないので、気にしないふりをするのだがーどうしても呼吸が荒くなってしまう。

まさかアニメがこんな時に役立つとは。僕は『全集中の呼吸』を意識する。深く鼻から息を吸い大きく肺を膨らませる。酸素が血流に乗り体の隅々へ行き渡るイメージを描く。これを繰り返す過程で、彼女の温もりを頭から消し去ることが出来―


「さっきから何やってん?」

唐突に耳元で囁かれてしまう。彼女は僕よりも十センチほど小さく、その結果顎を突き出すように上げて僕に話しかける体勢である。その姿がたまらなく可愛く、目が離せなくなってしまった。

「さっきシャワったばっかなのに、額とかスゲー汗。」

自然な動きで、彼女はその左手で僕の額の汗を拭う。

「ここ冷房効いてないんだよねー、後でまた入ったら? アタシももう一回入ろうかなー」

Tシャツの胸元をパタパタとはためかす度に下着がー黒下着だ。男殺しの黒下着であるー見えてしまう。絶対意図的な動作ではないのだが、この子は天然に、無意識に男を殺す能力を秘めているようだ。相当己に強く成らねば、その為にもこの呼吸法は自分のモノにし、立派な柱にならなければ……

その後この呼吸法を駆使したお陰で、調理は滞りなく着々と進んでいく。

「そう言えば、澪ちゃんは明日帰ってくるんだっけ?」

「そう。明日の夕方に園にお迎え。」

「じゃあ今夜こそ夫婦水入らずだねー、昨日のディナーのリベンジは?」

「うん、変わらずの恵比寿のフレンチだってさ」

「いーねー。帰りにワイン買って家で部屋呑み…って、ヒッキー飲めないし… ちょっと奥さん可哀想」

「ハア? 何で?」

「一人で酔っ払ってもねえ。夫が草食じゃあ…」

「ば、バーカ。草食系だってな、やる時はやるんだっつーの。そう言えばゆっきー、お酒は?」

「飲めないっ」

「一緒じゃん! 旦那さん可哀想」

「だって酒臭くって我慢出来ないって。無理、無理」

「それな… 僕も酒臭くて、全然駄目…」

「やっぱ? 萎えちゃうの?」

「そう。おいハッキリ言うじゃないか」

「まあな。そっかー、やっぱそういうもんなんだねえ、ああ良かった、私が変な訳じゃないんだ。私が正しいんだ!」

「それもどうかと… 」


そんな話をしているうちにナポリターンは仕上がる。なんだかんだで二人の合作となってしまったのだが。僕は他人と共同作業で炊事をしたことがなく、それが意外に楽しく、新たな発見をした今日なのである。

テーブルに向かい合い、二人でいただきます、をしてからゆっきーがフォークでくるくると巻いて口に放り込む。

「んーーー、うま!」

ゆっきーがとびきりの笑顔を僕にくれる。僕も釣られて笑顔を隠せない。

「ヒッキー、男にしておくの勿体ないかも」

「何それ。意味不―」

「ああ、アタシが男だったら、絶対ヒッキーをお嫁さんにもらっているな」

「おい。それは、いわゆるL G B Tの話として受け取るべきなのかい?」

ゆっきーは大きな目をくりくりさせながら、

「あ。そっか。じゃあ、アタシが女なら、ヒッキーをお婿さんに…」

「キミの性別は、何ですか?」

テヘペロする。可愛い。澪のテヘペロに匹敵するほど、かわいい。許す、どんなアホを言っても、生涯それを許さんことをここに誓おう。

「それよりさ、今日はゆっきーの話、ゆっくり聞かせてよ」


     *     *     *     *     *     *


「と言われてもなー、ヒッキー程面白くないで。子供の頃からみんなで遊ぶの苦手でさ、いっつも一人で本読んだり絵を描いたりしてて。中学生になるとそれが漫画、アニメ、ゲームになって。その頃からいっぱい絵を描いててさ、実はアタシ、イラストレーターに成りたかったんだ。」

「そうなの! 見たいな、ゆっきーの描いた絵」

「実は… 今でもちょろっと、描いてたりして…」

「マジで? 見たい、見たい!」

「そお? じゃあ後で、ちょろっとだけ見せてあげる。なんてこんなこと、ワタシが絵を描いていること、旦那も知らなかったりして」

「え… そうなの? 何故?」

「私さ、中高大一貫でさ、それも高校入ってからはあんま学校行かないで結構マジで引きこもっててさ。あの頃は本気でイラストレーターに成るって信じててさ。今思うと笑っちゃうけどね。でもそんな感じだったからリアル友達ゼロ、ネッ友多数、彼氏何それっ? て感じ。大学生活もその延長でやってたら親がブチ切れてー」

ほとんど今と変わらないじゃん、思わず僕は吹き出す。

「うん。それはキレるわ。それで?」

「大学卒業前にお見合い? みたいなのさせられて、それが今の旦那。ね、全然面白くないでしょ」

「いや、ある意味… 現代ではかなーり珍しいのでは? で、旦那さんどんな人なの?」

ゆっきーは立ち上がり、テレビ棚から写真立てを一つ持ってきて僕に見せる。二人で直立不動のポーズの写真だ。どこか新婚旅行なのか、異国情緒あふれた街並みをバックに緊張感いっぱいの二人の硬い顔にちょっと笑ってしまう。

旦那さんはかなり年上のようだ。何年前かは知らないが、この時点で三十歳は超えているに違いない。背は低くゆっきーよりも少し高いほど。顎の張った四角い顔で眼鏡をかけている。

「十歳年上。真面目。堅物。仕事中毒。実際メチャ頭良いし、能力はあると思うんだけどねえ」

「何その上から目線… 仕事は何をしているの?」

「銀行。だから、やたらケチ臭い。」

成る程。見た感じもそうだし、この家が醸し出す雰囲気もそんな感じだ。僕が納得していると、ゆっきーはハーと溜め息をつきながら、

「なんだけど、だからこそ? 漫画とかアニメとかゲームを全否定。彼の中ではそんなものは子供の見るものすること、社会的には全く不要なモノ。昔はそんなもの無かったから良い時代だった、なのに今はー、みたいな感じ。」

「うわ… 昭和の匂いがする…」


ゆっきーは突如身を乗り出し、吠える!

「まあ私だってギリ昭和な訳ですよ。でもね、時代は変化するってーの。進化するのが人間だっつーの。生物は強い個体や賢い個体が生き延びるのではなく、変化に柔軟な対応が出来る種が生き延びるんだっつーの。それがこれっぽっちも解ってないんだよっ!」

「成る程、引き籠りというのもこのストレス社会に対する必要不可欠な生き方であると? ある意味究極の防御姿勢である、と?」

「そうそう! そうなんだよ。ストレス耐性が弱い人間が無理矢理外に出たら、プレッシャーに押し潰されてしまうんだよ。ある意味引き籠りは己を守るための正当な手段であり私みたいなのが生き延びるための最適解なのですよ!」

「成る程、成る程。僕も対人恐怖症を抱えているのであり、そんな僕が生きていくためには僕が無理に人に話しかけるのではなく僕が人に接しなければいいんだ。それは弱さでも逃避でもなく、僕という種の生き延びるための術なんだ。」

「わかるわかる! 無理してコミュニケーション取る必要なんて、今のこのI T化の進んだ社会では全く不要だね。必要な時に必要最小限のコミュニケーション。これでいいんだよ!」

食事はとっくに終わっており、白熱した議論は時の経過や汗塗れの鬱陶しさを忘れさせる。他人には言えない心の思いを互いにぶち撒け合い、僕らは何となく心が軽くなった気分に浸る。


「それはそうと、ゆっきーのイラスト、見せてよ」

議論が一息ついたところで、僕が切り出すと、

「見る? 見ちゃう?」

卓越した家事能力を持つ僕らは、議論しながらも手を休めることは無い。したがって食器の片付けは既に終わっている。

エプロンを外した彼女は、

「じゃあ、こっちおいでー」

と僕を寝室に誘う。てっきり寝室から画集か何かを持ってきてくれると思っていたので、思わず硬直してしまう。寝室、すなわちゆっきーが毎晩寝ている場所。人間が最も無防備となる場所。そして、浴室以外で人が最も生まれたままの姿となるべき場所…

そんな僕の動揺を知らず、彼女はサッと寝室に入っていく。僕は全集中の呼吸で精神の乱れを抑え込み、何とか落ち着いて彼女の寝室に入る。

ベッドが二つ、並んでいる。片方はキッチリと整えられており、片方は枕も寝具もとっ散らかっている。言われるまでもなく、後者がゆっきーのベッドであろう。思わず笑ってしまうと、緊張が少し解けた気がする。

ウォークインクローゼットの奥の方から、彼女は何冊かのスケッチブックを引っ張り出し、ベッドの上に放り投げる。

「うわ、懐かし過ぎる… これ高校時代に描いたやつかも」

ベットの上で彼女は懐かしそうにスケッチブックを開く。僕はそれを上から眺めていると、

「お座り、ここ」

とベッド上に誘われてしまい、またもや心拍数は三桁を超える。恐る恐る彼女のベッドに乗ると彼女が僕にひっついて、これこれ見てごらん、とささやく。

近い! 柔らかい! 温かい! ゆっきーのスケッチブックどころじゃなくなりそうな僕は、会得したばかりの全集中で呼吸と心拍を整え、落ち着いたところで差し出されたその絵をそっと眺め…


思わず絶句した。


これは素人の夢絵日記などではない。恐らく見る人が見れば即座にその才能を看過する筈の、紛れもない『ホンモノ』の絵であった。

僕みたいな素人こそ解る。ホンモノの実力は素人の心を動かすことが出来るのだ。ゴッホ然り、ゴーギャン然り、葛飾北斎然り、岡本太郎然り。

「ねえ、この絵とか、人に見せたことないの? 例えば学祭とかで展示したとか?」

「ない。一切ない。てか、見せない。見せなかった。見せられなかった…」

「どうして…?」

ゆっきーは俯きながら僕の肩に顎を乗せる。

「だって… もし否定されたら… アタシ多分その場で死んでたよ。自分を否定される… 怖いって。見せられないって」

他人による自己否定。これ程恐ろしいものが他にあるだろうか。僕だって怖い、未だに怖い。

「そんな… そっか… じゃあさ、今は? 今なら人に見せられる?」

「だから… 見せてんじゃん。」

「お、おう」

「で。どうかな?」

一直線の視線を僕に発射する。頬が触れんばかりの近くで見ると、ビックリするほど大きな瞳が僕を伺っている。

「良い、と思う。僕はプロじゃないからよくわからないけど。でも、ゆっきーの絵は凄いと思う。ただ上手いだけじゃない、人の心を揺り動かす何かを感じる。正直この絵なんかは技術的に拙さを感じるけど、でも何かが、何かを訴えているのが手に取るように解る。」

彼女が僕に飛びかかる。僕は仰向けになりベッドの上で宙を仰ぐ。彼女は顔を僕の胸に埋め両手をしっかりと僕の首に回す。

程なく啜り泣きの声が聞こえてくる。鼻を啜る音も同時に聞こえてくる。啜り泣きは暫くすると嗚咽に変わり、僕のシャツは彼女の涙と鼻水でビショ濡れになる。

後頭部を優しく撫でる。そっと撫でる。嗚咽は啜り泣きに戻り、やがて静かな鼾が僕の胸を震わせる。


     *     *     *     *     *     *


どれほど時間が経ったのだろう、いつの間にか僕も寝てしまっていて。カーテン越しの外はかなり暗くなって来ている。

彼女が勢いよく起き上がり、

「え… あれ… 今何時…って、ヒッキー、今六時半! 奥さんと食事、何時なの?」

六時に恵比寿現地集合。しまった、やっちまった…

慌てて僕も飛び起き、リビングに置き去りのスマホを拾い上げて画面を見ると


『今夜も外せない会議が入りました。店はキャンセルしておいたから』


深い溜め息が出る。今夜もドタキャンされた哀しさ? 否。

ゆっきーは言いにくそうに、それでもそっと僕に呟く。

「マジで…? あのさ…。あ、いいや何でもない。」

「いやいやいや。そこはハッキリ言おうよ。ゆっきーらしくない…」

「んーー、でも、まあ、夫婦間の話だから、ねえ」

「いやいやいや。気になるって。話しておくれよー」

「何それ、キモ。じゃあさ、言うけど… そのー、奥さんさ。多分それ…」

大きな溜め息を吐く。そして、ポツリと呟く。

「浮気だね。」


ゆっきーは大きな目を更に大きくし、唖然とした表情で口を戦慄かせながら、

「……そうなの?」

「丁度いいや。これ、女房の写真。」

スマホに保存してある妻の写真を彼女に見せる。

「うわっ メッチャ美人… 何これ、女優? モデル? ハア?」

「で、これが半年前のネットの記事。」

スクショしたネットの記事も見せる。その記事には某有名青年実業家と美人過ぎる人妻経営コンサルタントとの熱愛疑惑が、ネチネチと書かれている。お節介にもその夫である僕も描写されていており。可哀想だが、僕には勿体無い程の女なので仕方ない、みたいな感じの記事だ。

よくぞ調べたものだ、妻の経歴はほぼ事実だし、僕との夫婦生活も「見たの? 見てたの?」と感心してしまう程、克明に描かれている。

ゆっきーはその記事を何度も読み直し、やがて呆れ顔で首を振りながら僕にスマホを渡す。


「ヒッキー… アンタ、どうして…?」

「仕方ないよ。社会不適合の僕とずっと居てくれるのだから。ずっと養ってくれているんだから。文句なんて言えないよ。」

「そんな… ねえ、奥さんのこと、愛していないの?」

「そ、それは…」

思わず言葉に詰まってしまう……

「もし本当に奥さんを愛しているのなら、絶対許せないよ。他の男に寝取られたなんて、絶対許せないよ!」

顔を真っ赤にして怒っている。何故か少し嬉しくなってくる。そしてちょっと意地悪な質問を投げかけてみる。

「なら、ゆっきーは? 旦那のこと愛している?」

ゆっきーは息を止め、僕から目を逸らし、首を傾けて、

「それは……」

残酷な天使が通り過ぎる。僕らは目を合わせる。思わず二人して吹き出してしまう。


「ウチの旦那は、まああんな見てくれだし、メチャ忙しいし。浮気なんて有り得ないな。でももし若い子と浮気したら…」

「したら?」

「アタシ、大喜びで出ていくわ!」

「出て行くんかい! 追い出さないんかい!」

「あははー、だってこの家旦那の実家が援助してくれて買ったからさー。さすがに旦那を追い出せないなあ。だから、出てくんはアタシだなー」

「僕も一緒。今のマンション、全額妻の出資だから。だから、妻が何をしようと、僕が出て行くしかない。もし澪がいなければ、多分僕は実家に戻っていただろうな。」

「…そっか…」

「澪がいるから。だから、あの家を出て行けない。澪を守るのは僕だから。」

ゆっきーは納得した様子で頷きながら、

「澪ちゃんは奥さんに懐いてないの?」

「うん。元々子供は要らないし好きじゃないと言っていたし。全く無関心だね。澪も母親のことをあまり好きじゃない。本当は母親に甘えたい年頃だろうに…」

「そう、なんだ…」

「だからさ。この記事が世間に出た時。僕よりも澪が可哀想だった。幼稚園でも噂になり、お母さんが浮気している澪ちゃん、みたいな目でずっと見られてきたから…」

ゆっきーは息を呑み、

「そんな… 酷い、可哀想すぎる…」

僕の手を握りながら、

「ヒッキー、可哀想すぎる…」

ええ? 僕?


二人のお腹が同時に鳴り、時計を見ると七時半。二人でキッチンに向かい、冷蔵庫さんと相談しながら、有り合わせの材料でささっと夕食を作り、食べ終わると八時半。

「ランチの予定だったのに、ディナーまで一緒だったねえ。ヒッキー、そんなにアタシのこと好きなん?」

僕は瞬時にコードレッドになり、

「な、なんでそんなことになるかなあ。でも、二日連続でディナー一緒って、僕ら付き合ってるみたいだねー」

と切り返すと、ゆっきーも一瞬で赤化する。

「そ、そうか… これが噂の家デートってやつかあー。くうー、萌えるわー」

その割には萌えてなさそうなのだが。

「ドラマとかマンガではよく出てくるけど。実際、本当にある出来事とは、知らんかったよ。」

それは僕も、と言いかけた時、スマホが鳴動する。


『こんばんは。今日はみんなで海遊びをしました。澪ちゃんはいっぱい貝を拾っていましたよ』

添付された写真には両手いっぱいに貝を持っている嬉しそうな澪が写っている。

ニヤケながら写真を眺めていると、

「なになに? まさかの奥さんから?」

僕は首を振りながら、

「違うよ。幼稚園の先生が澪の様子を送ってくれるんだ」

そう言いながらスマホをゆっきーに渡す。

「へえー、今どきの幼稚園ってサービス良いのねー ん?」

ゆっきーが眉を顰める。

「ねえヒッキー。この先生って、女の人?」

「そうだよ。美代先生っていう、ちょっとゆっきーに似た感じの若い先生だよ」

眉が更にひしゃげる。

「……ふーん。」

「へ? 何?」

僕をじーーーっと見つめ… いや、睨みながら。

「この先生さあ、他の保護者にも同じことしてるのかなあ?」

それはどうだろう。そんなに暇ではなかろう。恐らく、さっき話した理由で、澪に特別目をかけてくれているのではないだろうか。

「んーーー、どーかなあー」

「と言うと?」

ゆっきーは何故か名探偵の仕草で、

「多分。この先生、ヒッキーに気があるんだよ! うん、間違いない。真実はいつも一つ!」


えええええええ!


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