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La Laverie Automatique  作者: 悠鬼由宇 
1/5

Chapitre Un

最近洒落たコインランドリーが近所にできた。


値段はちょっと高めだが、何しろ店内が綺麗だし備え付けのテーブルや椅子が、今までのコインランドリーとは思えない程お洒落なものなのだ。

これまでは毛布や羽毛布団などはクリーニング屋に出していたのだが、何しろ家から徒歩五分、Wi-Fi完備でスマホゲームも問題無し、更にテーブルにはコンセントもあり、こうしてノートパソコンを開いたりできるので、僕は開店当初からのお得意さんだ。

娘の澪を幼稚園に送った後、一通りの家事を終わらせてから、家での洗濯や乾燥が困難なものを開店時に貰ったランドリーバッグに入れて家を出る。

僕は基本昼食を摂らない。朝食と夕食のみである。コンビニで買ったアイスコーヒーを片手にいつものテーブルにつき、家で洗濯してきたジーンズとバスタオルを大型乾燥機に放り込む。


店内にはよく見かける主婦が二人お喋りをしている。時折こちらをチラリと見て二人でクスクス笑っているのが視野に入る。二人共とてもコインランドリーに来る様な服装とは思えない出で立ちである。この先のカフェでよく似合うお洒落な身繕いなのだ。


あの人絶対仕事してないわよねー

その通りです。

ちょっと怪しい感じしない?

決して怪しくありませんが。

下着とか取られちゃうかも…

あんたらの下着に全く興味ねえよ。

折角いい店なのにヤな感じよねー

お前らもな。


乾燥機が止まり席を立つ。乾いたジーンズやバスタオルを瞬時に正確に畳むと、二人の目が点になるのを感じる。ランドリーバッグに入れ、店を出る。外は初夏を思わせる少し蒸し暑い感じだ。来月以降の梅雨の季節には、毎日この店に世話になることだろう。

真っ直ぐ家に帰り、やり残した家事を済ませると一時過ぎ。我が家から徒歩十分の幼稚園のお迎えは三時なので、それまでは僕の時間だ。貴重な貴重な主夫の自由時間である。

もし僕が普通のコミュニケーション能力を有していたのなら、園にママ友でも作り、ランチやお茶を楽しむのだろうな。でも僕は自他共に認める極度のコミュニケーション障害なので、一人家で引き篭もるのを好む。

録り溜めたアニメ、やりかけのゲーム、読みかけの漫画を楽しむ唯一の時間だ。そう。僕はコミュ障で引き篭もりの専業主夫なのです。

今日も録画しておいた四月から始まったやたら血飛沫の飛び交うアニメを呆然と眺め、果たしてこれを五歳の、いや来月六歳になる娘に観せて良いものかどうか激しく悩んでいる。

妻に似て大変賢い娘なので、園で箸箱を咥えて走り回ったりはしないだろうが、カッとなると何を仕出かすかわからない娘なので、あまり刺激物を触れさせない方がいいかな、と観終わった後、削除する。

時計を見ると二時半だ。主夫の自由時間終了。さてと、澪のお迎えに行きますかな。


澪の担任の先生が、真田さんちょっと、と手招きをするので渋々頷いて歩いていく。変な汗が脇と背中をドロリと伝う。

「澪ちゃんなんですが。ちょっと乱暴が過ぎまして、優馬くんを泣かせてしまいました」

僕は頭が真っ白になっていく。

「何だったっけ? いちのかた みなもぎり、とか叫びながら箒で優馬くんを叩いて。何かのマネですかね、仮面ライダー系?」

僕は大爆笑してしまう。いつの間に、澪のやつ…

「笑い事じゃないです! 家でちゃんと指導してくださいよ。」

僕はズドンと落ち込み、小刻みに首を縦に振る。

「まあ、怪我がなかったのが幸いですけど。二度としないように、いいですか!」

すいません、すいませんと呟くが先生には聞こえないだろう。先生は大きな溜め息を吐いて、

「しっかりしてくださいよ、お父さん!」

額からの汗が目に入り、それを拭くと

「え… な、泣かなくても…」

それを見ていた園児たちが、

「あーーー、美代せんせいが、みおちゃんのパパをなかせたあー」

「あーーー、おとながおとなをなかせたー」

ちょっとした騒動になってしまう。遠くから澪がこちらを見つめ、肩をすくめている。


「もー。せんせいにしかられたくらいで、なかないでよ!」

「だ、誰のせいで… それより、澪。優馬くんを箒で叩いたりしちゃダメだろ?」

「あの子がさきにあたしのおしりさわったし。それにー」

「それに?」

「ちゃんとベホマしといたから。」

「ああ、それなら… って、ダメでしょ。ああ、それと、僕の録画したアニメ、勝手に観ただろ?」

「みたよ。それがなにか?」

この開き直り方。母親そっくりではないか。良くも悪くも母親生写しの娘に、

「ダメじゃん、勝手に観たら。観る前に僕に確認してー」

「おもしろいじゃん。あたしねずこがだいすき」

「だろだろ! 原作は作画が終わってんだけどさ、さすがユーフォー! 原作を軽く越えちゃったよねー フタコイもFateも良かったけどー」

「でも、だーれもしらないんだよねえ… このままきえていくのかなあ…」

「いや、絶対バズる! 来年には映画化する! と思う!」

「パパのよそう、だいたいはずれるから。で、きょうのゆうはんなあに?」

「何がいい? ハンバーグ?」

「きゃあーー! ハンバーグ、ハンバーーーグ!」

スピードワゴンかよ? こんな所はお子ちゃまなのです。


「きょうもママ、おそいの?」

澪が僕がハンバーグを焼いている横でポツリと呟く。

「うん。さっき連絡があって、接待で遅くなるって。」

「せったい、って?」

「お仕事が上手くいくように、相手方と食事したりすることだよ」

「ふーん。パパも美代せんせいにせったいしなくちゃ!」

危なくハンバーグがフライパンから自由落下する所だった。

「僕と、美代先生は仕事上の間柄じゃないよ。先生と保護者だよ」

澪は首を傾げ、

「でも、うちはやえざくらようちえんにお金をはらってるんだよね、それでようちえんはわたしにいろいろおしえたりしてるよね、これっておしごとじゃないの?」

うわ… 妻の遺伝子が蛆虫のように顔に湧き出てるわ…

「きも。ひどくない!」

澪はプンプン怒ってリビングに行き、また勝手に人が録り溜めたアニメを吟味しようとしているし。

妻の彩は外資系コンサルティング会社に勤めている高給取りだ。この中古マンションも去年ローンを一括払いしてしまい、僕が働かなくても悠々僕と子供を養っていける。

それだけに毎晩遅くまで仕事や接待に明け暮れており、娘の澪の世話はほぼほぼ僕のワンオペ状態である。

そんな引き篭もり専業主夫、必殺のハンバーグが焼き上がりだ。幼稚園児にしては異様に大人びている澪も、これを一口食べれば。

「きゃあーーー、おいしーーー」

ふふふ。日の呼吸、灼肉栄養。炸裂!


     *     *     *     *     *     *


長年専業主夫をやっていると、季節の変わり目に敏感になる。今年の梅雨は例年よりも大分早い。気象庁は頑なに否定しているが、僕の中では既に梅雨入りである。

先月の予言通り、この数日毎日件のコインランドリー通いである。この辺りが区内有数の高級住宅地であるせいか、僕と同様に毎日ここにやって来る金銭的余裕のある主婦が何人もいる。

洗濯から乾燥まで全自動で一回1200円。まず学生さんには手が出まい。独身のサラリーマンでもこれが週三回だとひと月のスマホ代より高くなるので遠慮するだろう。

故にここを利用する客層と言えば、年収合算で1500万以上の世帯なのではないかな。僕は仕事をしていない、専業主夫。妻の年収が軽く2000万を超えているので、正直この店を贔屓にしていても経済的に何の苦しみもない。

僕はこのコミュ力の弱さ故、彼女達と会話する事は全くないので予想に過ぎないのだが、彼女達の家庭も相当な稼ぎがあるのだろう。


そんな中でも僕以外でこの店の皆勤賞が三人いる。


一人目は以前僕を見てクスクス笑い合っていたうちの一人で、信じられない事に毎日違う服で現れる『クスクス』さん。今日はアバクロの長ティーにスリムジーンズ。スタイルが良いだけにもうちょっと目と目が近ければ主婦の雑誌に登場しそうな雰囲気だ。

本人もそれを自覚しているのだろうか、この眼の微妙な距離感をカバーすべく化粧に相当お金をかけている模様。特に眼から下の努力には頭が下がる。なのでクスクスさんを見るときはなるべく鼻の辺りを意識して眺める様にしている。


二人目は先月末くらいからの常連となったやや年配の感じの人。クスクスさんと違い、三日おきに服をローテーションさせている『ローテ』さん。即ち月曜と木曜、火曜と金曜、水曜と土曜が同じ服であり、ローテさんを見れば今日が何曜日なのか確率二分の一で分かる中々便利な人だ。残念ながら日曜日に彼女を見かける事はない。

本人はその見た目の歳を下げるべく相当な努力をしている様だが結果が伴わず、寧ろ実年齢より老けて見えてしまうという負のスパイラルに陥っている事に気付いていないのが痛い。


三人目は娘の幼稚園と同じママさん。娘のいっこ下のたっくんのお母さん、『たっくんママ』さんだ。顔立ちは中々素敵で芸能人に間違われそうな感じなのだが、残念ながら「大きい」。体重は下手したら僕と同じくらいかも知れない。

僕の好みが細身のスレンダーなのでとても残念なのだが、太めが好きな男性なら一目惚れ間違いなし。そんなたっくんママさんは今日もその立派なヒップをひらひらワンピースで誤魔化し、楽しそうに会話している。


この三人以外にも二日おき、三日おきに訪れる人は多々おり、また二十四時間営業なので僕の与り知らぬ時間帯に常連となっている人も多いだろう。

だがどれだけ多くの人と時間を共にしようが、僕と知り合いになる事はあるまい。何故なら僕がそれを望んでいるから。

この洗濯、乾燥を待つ小一時間は、僕が家以外で唯一息抜きのできる実に貴重な時間なのだ。僕は真性の引き篭もりではない。外に出るのが怖いとか通りすがりの人々の視線が痛い、という訳ではない。

むしろ一人で公園を散歩したり店をチラチラ覗いたりするのが好きだ。これまではそれは夕方の買い物の時間が一人外出の楽しみだったが、このランドリーに通うようになり、昼と夕方の二つの息抜きができるようになり、僕の精神衛生は格段に向上しているのだ。

一人での外出。これなければ、家事育児そして妻のストレスに押し潰され、全裸の上にコートを羽織り街を徘徊しちゃうかも知れない。

それ程、ここでの一人洗濯を待つ時間というのが僕の生き甲斐となっているのだ。この二ヶ月ほど、僕的に本当に幸せな昼間を過ごしてきた、昼顔なんて目じゃない程に。


それが、まさかこんなにも早く崩されるとは思いもよらなかった……


しとしと雨が街を濡らし空気が体中にまとわりついて気持ちが悪い、そんなある日。大いに足元を濡らしながらいつもの時間に店に入ると、珍しく乾燥機がフル稼働だった。残り時間が一番少ない乾燥機に目星を付け、仕方なくその近くのテーブルでスマホゲームを始める。

クスクスさん、たっくんママさんがお喋りに夢中になっている所へローテさんが遅れて店に入って来る。ああ、今日は木曜日か。毎週毎週どうもありがとうございます。心の中で手を合わせると、僕が狙っている乾燥機がその仕事を終える。

僕は立ち上がり、軽く店内を見回すがこの洗濯物の主はいない様子。仕方なく座り直し、主が戻ってきて回収するのを待つ。スマホゲームの主人公のレベルが、待っている間に上がってしまった。早く戻ってきてくれないかな、僕はゲームを一時停止して濡れた街を窓越しに眺める。

流石にそれを取り込んであげたりする程僕は善人でないし、そんなことをしたら逆に翌日から出入り禁になりそうなので自重する。助け合い精神の通じない世知辛い街にホッとしたりする。

十五分くらい経ったであろうか。初めて見かける主婦風の若い女性が、傘を閉じながら店内に入って来る。随分と小柄な感じでちゃんと栄養摂っている? 位に細い。顔も小さく目が垂れている。垂れ目でスレンダー。申し分無し。僕に備わっている十二の必殺の特技のうちの『心眼』で彼女をガン見する。

その彼女が僕の狙っている乾燥機に近付くと、仕上がった洗濯物をイケアの青い袋に荒っぽく放り入れ、あっという間に去っていく。

三人組が顔を寄せ合って何かささやき合い、プッと吹き出している。今日ばかりは僕もその中に入りたい気持ちをグッと抑え、その乾燥機に近付き我が家の洗濯物を入れようと……


そこには赤いショーツが取り残されていた。


こんな場合。

一 拾い上げて忘れ物箱に入れておく

今のこの状況では最悪手だ。きっと三人は目を丸くして僕の行為をガン見し、僕が立ち去った後、話を五割盛りくらいで語り合うだろう。何ならたっくんママさん経由で、幼稚園中に拡散されるかもしれない。それは大袈裟だが、少なくともクスクスさんをゲラゲラさんに改名しなくてはならなくなるだろう。

二 三人に声を掛けて忘れ物を回収して貰う 

そんな事ができるなら、今僕はここでこんなことをしていないだろう。それ位のコミュ力があるなら、もっと違う人生を送っているに違いない。平日昼間に、妻と娘の汚れ物がクルクル回っているのをボーッと眺めている様な人生は送ってはいまい。状況的には最も『案件』にならずに済みそうな洗濯肢なのだが、僕が生まれ変わらない限り選べそうもない選択肢なので却下。

三 このまま気づかないフリをして僕の洗濯物と共に乾燥機を回してしまい、乾燥が終えた時点で状況を確認し適切に行動する 

うん、今はこれが最適解かな。


僕は横目で三人を見つつ、しれっと家で洗ってきたバスタオルやキッチンマットなどの自分の洗濯物を放り込み、カードを挿入して四十分乾燥のパネルをタッチする。乾燥機は合点、と云いながら回転し始める。


テーブルに戻りアイスコーヒーを一口啜りつつ状況を再確認する。あと四十分後に乾燥を終えた時、この三羽のお喋り雀が立ち去っていたら、あの忘れ物箱にそっと入れておけばよい。だがもし一羽でも残っていたらどうしよう…

今日は持ち帰って後日渡すのも一つの手である。だが彼女は今日初めて見たので、後日再会できる確証はどこにもない。一見主婦の様だったが、普段は夕方ここを利用しているのかも知れない、そうすると彼女とは二度と会う事は無いであろう。万が一再会できたとして、「このショーツこの間忘れていましたよ」と渡せるのか僕?

それにショーツを持ち帰ったとして、億が一妻に見つかったらどうなるであろう。恐らくあの冷たい目で僕を見下しつつ、それは何、と呟くだろう。そして翌日の朝、スーツケースを転がしながら会社へ行き二度と帰ってこないであろう。銀行のキャッシュカードとクレジットカードは即日使えなくなり、僕と娘は路頭に迷うだろう。

最近妻の下着の趣味が変わり、黒や赤が増えてきてはいるのだが、サイズ的にこの下着とは合わないし、形状もだいぶ異なっている。今目の前でクルクル回っているショーツは僕が未だかつて見た事のない紐状のモノなのだ。あ、でも似た造りの下着は最近の妻のお気に入りで、洗う時にはネットに入れて傷まないように注意しているなあ。

さておき。となると残雀時の最善手はやはり「放置」であろう。僕の次の使用者に、問題を丸投げさせていただくとしよう。少なくともこの店には女性の下着を収集するのが趣味、という輩はいない気がするし。


そこまで考えて、あの主婦っぽい女性と今クルクル回っている赤いショーツの関連性に思い至る。あの細い腰を、小さなヒップを包んでいた化繊の布切れ…

あ。まずいじゃん、やばいじゃん…

化繊ならこの四十分の乾燥時間で、その存在に相当なダメージを与える筈だ。簡単に言えば、「縮む」であろう。何なら「溶ける」まであるかも知れない!

モノは大切に扱いなさいと祖母に躾けられた僕は慌てて立ち上がり、乾燥機の一時停止パネルをタッチする。気持ちよく回っていた乾燥機は「んだよ、ザケンナよ」と言いながら回転を止め始める。

完全停止してからドアを開け、赤い物体を探す、というか探る。それは直ぐにバスタオルの間から発見され、取り出してみると何とか縮小には至らなかった事が確認される。ホッとしてそのショーツを握り締めたまま扉を閉め、再起動パネルをタッチする。


痛い視線を数本感じる。横目で伺うと三匹の豚が呆然とした顔で僕を直視している。状況の変化だ。今どうする事が最適なのか? 迷う事なく僕はその赤いショーツをフックに掛けていた僕のランドリーバッグにそっと落とし、何事もなかったかのように席に戻り、ノーパソを眺める。

その後豚どものブーブー煩い事。こちらに聞こえないように話しているつもりなのだろうが、「赤いー」とか「奥さんのー」とか「いや、御主人のー」とか…

うるさいな。僕の妻が赤いの履いちゃダメなのか? 僕が赤パン履いたら通報するのか? よっぽど暇な豚どもめ、悔しかったら履いてみろ赤いショーツ。絶対ダンナは気味悪がるからな。因みに僕は妻の下着姿をこの数年見た事がない。ちょっと想像してみて…… 溜息が出た。


その刹那。垂れ目ちゃんが慌てて店に飛び込んでくる。息を弾ませながら僕が使っている乾燥機を一瞥し、目が見開かれる。その目が絶望の色を帯び始め、そして視線を僕に移す。

僕は努めて冷静に立ち上がり、フックに掛けていたランドリーバッグを彼女に開けてみせる。彼女は中を覗くと、蒼ざめた顔が瞬時にショーツと同じ程の真赤に変わり、僕を見上げる。

僕は頷き彼女にバッグを差し出す。彼女は何度も何度も「すみません」を繰り返し、赤いショーツを拾い上げる。屈んだ時に薄い胸元がチラリと見える。気づかれないようにゴクリと唾を飲み込む。

彼女は拾い上げたショーツを手提げに放り込み、僕にバッタの如く何度も頭を下げ店を去っていった。


まるで何事も無かったかのように僕は席に戻りノーパソを開く。キーをタッチする指が震えている。三人のセレ豚はしばし茫然とした後、わざとらしく夏休みの予定なんかの話題を話し始める。乾燥が終わるまで僕の指の震えは治まることはなかった。


この店に通い始めて、最大の事故であった。


     *     *     *     *     *     *


そのうち僕は、コードレスイヤホンを耳にはめ店に行くようになった。何故ならあの後、主にたっくんママさんが僕に話しかけるようになったからだ。夏休みは何処かへ行くの、今夜のおかずは何にするの、澪ちゃんを何時に迎えに行くの、などなど……

黙れよ。ほっとけよ。話しかけるなよ。と言えない僕は、伏し目がちでボソボソと対応する。そして洗濯物の乾燥が上がると即取り出し、軽く頭を下げ店を後にする。

行く時間を今後変えようかと真剣に悩んだのだが、僕の生活リズムは簡単に変えることはできず、それならなるべく彼女達に話しかけられないように防御力を上げよう、そう思ったのだ。

それから店に入るときに彼女達の誰かがいたら、僕は軽く黙礼するようになった。しんどい。そして容易に話しかけられないように、今まで以上にノーパソとスマホゲームに集中する素振りをするようになった。しんどい。それでも何かと話しかけてこようとするので、いつからか寝たふりをするようになった。しんどい。


僕の大切な一人の時間が狭霧山での修行の如し、と思いはじめてからひと月が過ぎ、梅雨は明け夏休みに入る。澪の通うやえざくら幼稚園は、夏休みもプールやら夏祭りやらと何かとイベントが多く、長期間田舎に帰ったり海外に逃げる事もままならない。

基本子供が家に居るので、自然と主婦や主夫の単独の外出は減り、それに従い自分一人の時間は激減する。録り溜めたアニメも中々観れず、スマホゲームの主人公のレベルもちっとも上がらない。

それでも僕はコインランドリーには澪を連れて行き、待ちの間に一緒に漫画を読んだりノーパソで動画を観たりしている。

それまで僕の秘密の部屋、変な石ころはないけれど、だったこの店に澪といると、それはそれでこうして中々楽しい。


三人組が揃うことはめっきりと減り、一人も来ない日も増えてきた七月の終わり。何の前触れもなく垂れ目ちゃんが店に入ってくる。

彼女は僕に気付くとハッとした顔をして、慌てて頭を下げる。

僕も硬い笑みを浮かべ軽く頭を下げる。

髪をショートに切りそれが実によく似合っている。短パンから細くて綺麗な長い脚が僕の目を惹きつけてやまない。

彼女が青いバッグから洗濯物を全自動機に放り込み、カードを入れてパネルをタッチする。バッグをフックに掛けて僕達の隣のテーブルに座る。手提げからスマホを取り出し、指を滑らせ始める。

動画に集中している娘を気遣うフリをして、彼女を全集中で観察する。ショートヘアから出ている形の良い耳。うっすらと産毛に覆われた柔らかそうな頬。二重に垂れながらも美しい流線型を描いている両眼。ツンと尖った鼻。同じくツンと尖った顎……

決して万人受けする美人ではない。一般的評価は中の上、と言ったところだろう。だが僕にとってはストライクゾーンのど真ん中。僕の自慢のシュートがど真ん中に入り御幸にライトスタンドに運ばれた気分だ。涎が出ていないか心配になり口に手をやるとー

「お嬢さん、幼稚園、ですか?」

スマホを弄りながら彼女が不意に声をかけてきた。想定外の出来事に僕は一瞬息が止まる。ひょっとしたら心拍も停止したかも知れない。

「え、ええ」

僕は声にならない声で呟く。

「ね、年長なのです。」

彼女も負けじと小さな声で、

「いいですね、ウチは… その、子供居なくて…」

「ええ、まあ、娘は良いです。」

「……」

「……」


天使が通り過ぎる。それも行列で通り過ぎて行く。彼女も相当コミュ力が低そうである。申し訳なさそうに彼女はスマホを弄りだす。僕もホッとしながら娘の観る動画を覗き込む。

ああ、びっくりした。まさか急に彼女が話しかけてくるとは。あれ程コミュ力弱そうなのに必死で頑張って僕に何とかやっと声をかけたに違いない。

何故声をかけてきたか、そんな理由を思い浮かべる余裕は僕にはなく、あとはひたすら二度と話しかけてきませんように、と思いつく限りの神様に祈っていた。

十分以上過ぎただろうか。もう、大丈夫だろう。もう今後二度と彼女が話しかけてくることも、彼女と会話をすることも無いだろう、そう確信したとき。

「っとおー、はぐれ、キター」

スマホを弄りながら、垂れ目さんが目を輝かし呟くのを聞き逃さなかった。

思わず、彼女を見た。

そして目が合った。

少年、いや少女の目だった。

思わず僕は、

「はぐれ、こんな場所に?」

「ですよね、初めてですよ出てきたの!」

「僕のにも、出てくるかなっ?」

僕もスマホを取り出し、彼女と同じゲームのアプリを立ち上げる。

「えー、やってるんですかあ?」

「やってますよお。そっちレベル幾つ?」

「45かなー。でも全然進まない最近―」

「凄いじゃん、僕まだ43だよ。『盗賊』入れてる?」

「レベル20まで上げて元に戻したよー、スキルはちゃんとゲットしてー」

「きようさプラス、なー」

「それなー」


動画に見入っている娘を放置し、それからずっとゲームの話に盛り上がる。不意に彼女が

「あの、おかしいですよね、こんなおばさんがゲームに夢中って…」

僕は首を振りながら

「僕もさ、妻から子供じゃないのだから、いい加減にしなよって言われてて。でもやめられないんだよなー」

「ですよねえ、私もダンナに内緒なんですよー バレないように一切課金してませんけど。って、課金するようじゃダメですけどね」

「だよね! 課金はダメ、絶対!」

二人で吹き出す。笑うと更に目が垂れて、僕は胸がキュンキュンしてしまう。

「そうだあ、名産品集めってしてます?」

「いや。僕引きこもり専業主夫なもんで、他人と関わるの苦手なので…」

「何それ、おもろ過ぎ。ちなみにID何さんですか?」

「勿論、『ヒッキー』ですよ」

「えーと、あーー、有った有った。ともだち登録しちゃおっと。で、」

「えーと。『ゆっきー』さんね。よろしくねって、僕、実は初めての友だち登録かも。」

「マジですか? どんだけ引き篭もり? ウケるー」

彼女はケラケラ笑う。澪がさすがに何事かとこちらをチラリと眺める。


瞬く間に時は過ぎ、僕らの洗濯は完全に終了していた。僕らはずっと色々なゲームの話題を話し込みながら洗濯物を取り出して畳み、必要ないのにシワを伸ばし、ついていない埃を払い…あとは店を去るだけとなる。

「今日は取り忘れ、無い?」

「あーーー、もーー 忘れてたのにー 恥ずかしいーー」

その困ったような笑顔に僕も顔が綻んでしまう。そして何故だか心臓の鼓動がいつもの倍以上になる。

「そんじゃ、またー」

「はーい。またー」

彼女が何度も僕に手を振りながら店を出た後、動画に夢中の澪の尻を叩き、僕らも店を出る。どうやら彼女の家は僕の家と反対方向の駅の方らしい。傘をさした後ろ姿がやがて蕭々と降る雨に消えていく。

「で。あの人はだれなの?」

ギョッとして澪を見下ろす、そして澪の悪戯っ子のキラキラした目を見て確信する。こいつ動画見てるフリしてずっと聞いていたな。

彼女との経緯を包み隠さず話すと、

「パパがあんなにたのしそうに人とおはなししているの、はじめてみた! なかよくなれるといいね」

娘に道ならぬ恋路を応援されようとは…

帰宅すると尻ポケットのスマホが震える。ゲームアプリを開くと『ゆっきーさんからのメッセージを受信しました』とある。

心臓が口から出そうになる。指の先が汗で濡れている。何度もシャツで拭くのだがそのシャツも濡れていて用を成さない。本気で澪に読んでもらおうかと思ったが、ギリギリの所で踏みとどまり、一時間後に勇気のバッチを握りしめ黄金の鶴嘴を振るい、ようやく開封したのだった。


     *     *     *     *     *     *


夏休み本番は主夫にとって残酷な日々である。朝、出勤の妻と娘に朝食の用意。妻を見送り即座に部屋、浴室、洗面所の掃除。汗まみれの服や寝具の洗濯後、家干し以外の物を携え娘とコインランドリー。

気がつくと昼。娘に昼食を作りその片付け。外に遊びに行きたいとごねられ、区民プールを却下し近くの公園へ。熱中症対策の為一時間おきに十分休憩。作ってきた冷たい麦茶はすぐになくなり、三回目の休憩時には公園に隣接したカフェでアイスクリーム、僕はアイスカフェラテ。帰りに駅近のスーパーで買い物、帰宅後夕食の準備。

五時過ぎに妻から「夕食は要らない」とのラインが来てメニューの変更。食後片付けを済ませてから娘を風呂に入れ、絵本を数冊読んでやり寝かし付けて時計を見ると九時半。

自分の時間なぞ一秒も無かったので、やっとのことでスマホを開く。酒もタバコもやらない僕の息抜きはスマホゲームだ。そしてここ最近はゲームそのものだけでなく、『ゆっきーさん』とのやり取りが何よりの生き甲斐となっている。

毎晩互いの一日を愚痴り合う。どうして今年の夏はこんなに暑いのか。どうして野菜の値段がこんなに高いのか。どうして旦那(女房)はこんなに遅いのか。どうしてはぐれメタルがこんなにも出ないのか。


七月の終わり頃。明日から澪が幼稚園のお泊まり遠足で、二泊三日で伊豆高原に行くので、その準備について愚痴ると、

『なら明日コインランドリーで一緒に心の洗濯しなくては!』

『この薄汚れた心をきれいに! いいね、十一時頃でいいかな?』

『おけ。それまでにレベル上げとけー』

『ムーリー、これから準備して弁当の下拵えをしなければならない…』

そんなやり取りを終え、明日の澪の弁当の準備を終える頃に、日付は明日になる。玄関のドアが開く音がし、しばらくして妻の彩がダイニングに酔い冷めした白い能面のような顔で入ってくる。

「おかえり。澪のお泊まり遠足、今日からだよ」

「そう。ねえ、冷たいお水ちょうだい」

コップに冷蔵庫の冷たいお水を注ぎ、彩に渡すとそれを一気に飲み干し、

「明日(今日)の夜、この間接待で使ったフレンチに行くわよ。六時に予約しておいたから。」

フレンチか… あまり好きではない、気取って食べるのは緊張するからだ。

「うん、わかった。場所は?」

「恵比寿。後で場所送るから。」

そう言うと寝室に入って行く。そして風呂にも入らず寝てしまったようだ。


「じゃあね、行ってくるよ。ママとのデート、がんばってねー」

澪が意地悪な笑顔で僕に向かって笑顔を送る。僕はバスに乗り込む澪に手を振り、どうぞ三日間何事もありませんようにと、十二の必殺の特技のうちの『心祈』を繰り出す。

「真田さん、緊急時の連絡なんですが、お母さんの携帯よりも…?」

ああ、そうだった。入園時の緊急連絡先が彩の携帯番号だったので、今もそのままになっていたのだ。

「えっと、僕の、携帯番号で、お願いしましゅ」

ちょっと噛んでしまう。先生との会話は園ママよりも遥かに緊張してしまう。僕が先生に番号を告げると、ちょっとかけてみますねと自分のスマホで僕の番号をプッシュする。

僕のスマホが鳴動し、見知らぬ番号が表記されている。

「それ、保存しておいてくださいね。これからも何かあればお父さんに連絡しますので。」

頷きながら、受信履歴から住所録に新規登録する。えっと、美代先生の苗字は田中、っと。そう言えば妻以外の女性の連絡先は美代先生が初めてだ。いつもジャージ姿なのと僕の苦手な『先生』なので、正直一度も女性として見たことはなかったが。今日はいつものジャージではなく、白いポロシャツに細身のジーンズ、白のスニーカーだ。あれ知らなかった、美代先生ってこんなに細い人だったんだ。悪くないな、微かにキュンとしながら、澪と美代先生のバスを両手を振りながら見送るのであった。

集まっていたママ達が三々五々に散っていく。そんな中、一人のお母さんが僕の所にそっと歩いてくる。

「真田、さん。あの、関口です、関口優馬の母です」

振り返ると、これまた美代先生にも負けず劣らずスレンダーな髪の長いママさんが、すまなさそうに佇んでいる。

「あ、えっと、この間はうちの澪が、乱暴して、申し訳ありません、でした」

途切れ途切れでなんとか言い切る。手汗がすごいことになっている。

「そのことなんですが。ウチの優馬が先に澪ちゃんのお尻を触ったらしく… 本当に申し訳ありませんでした」

長い髪が地面に着いちゃうって! 程に頭を下げられてしまう。

「澪ちゃんが怒るのは当然ですよね、大事な娘さんのお尻を… なんとお詫びしたらよいか…」

「全然、気にしないで、くださ、い。ね」

僕は二、三度頭を下げ、その場を逃げ出すように立ち去る。無理無理。あんな綺麗なママさんとあれ以上会話するんなんて。

マンションに着きエレベーターに乗ると、脇がぐっしょり濡れて気持ち悪かった。


クーラーをつけっぱなしにして出てきた部屋に戻ると、その涼しさに心底ホッとする。朝から気が動転することが二件も発生し、動悸が止まらない。汗が引いた所で家事に取り掛かっているうちにようやく緊張が収まってくる。

美代先生って、小柄で細くてよく見ると可愛らしかったな。顔も小さくてなんかゆっきーにちょっと雰囲気似ていたな。

優馬ママさんは噂では超いい所のお嬢様だとか。良家出のスレンダー美女って、神様はどれだけ彼女に与えてんの! 不公平だろ! と叫びたくなるほどだ。

掃除をしながらふとリビングの窓を見ると、目尻が垂れ涎を垂らしそうな僕の間抜け顔が写っている、恥ずかしい。

ちょっと気分良く掃除をし、洗濯に取り掛かる前にチラリとスマホを見ると、彩からメッセージが着信している。

『今夜の住所です。遅刻は絶対に禁じます。ドレスコードに注意しなさい。』

僕は大きな溜息を吐き、ブルーな気分となってしまう。嫌だな、面倒臭いな。着ていく服を考えるのが憂鬱だな。脂っこい料理、本当に勘弁なんだよなあ…

イヤイヤ病を発症しつつも家事をこなし、ふと時計を見ると十一時を過ぎている。スマホを見ると、ゆっきーが『家を出ましたよー』とメッセージを送ってきたので、慌てて洗濯物をバッグに詰め、コインランドリーへと向かう。

空はどんよりと曇り、いつ雨が降り出してもおかしくないのだが、スマホで調べると夕方までは雨雲がかかることは無さそうである。ただその蒸し暑さだけが僕の心を湿らせ重くする。


店に入ると、たっくんママさんが独りスマホを弄っている。目が合ったので黙礼して通り過ぎようとすると、

「今日からお泊まり遠足なんですよね、ウチのは来年なんですけど、準備とかやっぱり大変でしたか?」

夏休みに入り店でヘッドフォンをしなくなっていたのが不幸だった。軽く溜息をつきながら適当に答えると、それからダラダラと会話が続いてしまう。

洗濯機に服とバスタオルを放り込みカードを滑らせパネルをタッチし、たっくんママさんからなるべく離れたテーブルに陣取りスマホを開く。

ゆっきーが居なくて良かった。ホッとする一方で時計を見ると十一時半、店には未だ僕とたっくんママさんしか居ない。何か用事でもできたのだろうか。

たっくんママさんは洗濯を終え、その巨体を揺るがしながら軽く会釈をして店を出て行く。その直後、ほぼ擦れ違う感じでゆっきーが入ってくる。


「どーも」

「どーも」

そう言えば会うのはあの時以来で、直接話すのもあれ以来だ。ほぼ毎日ゲーム内で会話はしているのだが、こうして面と向かうと中々言葉が出てこない。彼女も同様でその挙動は相当不審だ、人のことは言えないが…

「雨、大丈夫、かな?」

「夕方までは、多分。」

…全く話が弾まない。彼女はパネルをタッチして洗濯を開始すると、僕の隣の隣のテーブルに着き、徐にスマホを操作し始める。

僕もこれ以上話を続ける自信が無く、スマホを開く。そしてゲームを開く。

『なんか、私達変だよねww 会話チョー続かねー(爆笑)』

『それなー。なんかリアルだと結構キツイわー。それよか、ゆっきー用事でもあったの? 遅かったじゃん』

『それがさー、時間通りに来てたんだけど、よく居るデブが居座っててー 入れんかったww』

『あれな! 娘の園の後輩のママさんなのよ。俺に話しかけて来るウザい奴。思わず「ラリホー」唱えたくなったわ』

『それ「ザキ」の間違えじゃなくて? ww』

『うわ… ゆっきー、酷え… 仲間タヒっても中々教会行かないタイプっしょ? 草』

隣からリアルな笑い声が聞こえて来る。


「ちゃんと行くし。即行くし。」

「ホント? でも世界樹の葉っぱ、ケチるでしょ?」

ゆっきーは吹き出しながら、

「え… なんで知ってんの?」

「実はさ、俺も中々使わないし。そんで溜まる一方―」

突然たっくんママさんが入って来る。僕たちは絶句し硬直する。ママさんは僕たちを交互に見やり絶句する。僕は口を開けたまま会釈する。ゆっきーさんは澄まし顔でスマホを弄りだす。

「えっと… 忘れ物しちゃって… どこかな… あー、あったあった、良かったー。それじゃ澪ちゃんパパ、さよなら…」

引き攣った笑顔で僕に挨拶し店を出て行く。何度も振り返りながらー

『やべ。話聞かれてたか? みおちゃんパパさん ww』

『ゆっきーがデブなんて言うから戻って来ちゃったよーって、その呼び方、草』

『ザオリク唱えたっけ? ww』

『パルプンテやろ 草』

顔を上げると目が合い、僕らは爆笑する。


互いの洗濯が終わり時計を見ると十二時半過ぎである。僕は昼食を食べない派なので、これから家に戻りアニメでも観ようかなんて考えていると、

「ランチ、食べない派なんだよね…」

僕は驚いて

「え、なんで知ってるの?」

彼女はうつむきながら

「こないだメールで言ってたー」

「そっか、書いたかー」

「あの、さ…」

「な…に?」

重度のコミュ障に陥る僕達。

「午後は… 何するの?」

僕は脇汗を感じながら、絞り出すように呟く

「家で、アニメ、観たりとか…」

「そっか。」

「うん。」

「じゃ、また、ね…」

「うん、また、ね…」

彼女が出て行った後、額からの汗を拭いながら深い溜息をついてしまう。


     *     *     *     *     *     *


家に戻り洗濯物をそれぞれの箪笥にしまい、バスタオルを洗面所のクローゼットに放り込むとやる事がなくなり、テレビの前のソファーに体を投げ出す。コントローラーを弄り録画された番組の画面を眺めても、何も観る気がしなくなっていた。

一体、今日のこの僕のテンションの上げ下げは何なのだ… また心をやられちゃったのかも知れない。心療内科に行った方がいいかな、それとも前にもらった薬の余りを飲んでみようかな。

そんなことを考えながら、何となくスマホを開くと無意識のうちにゲームアプリをタップしている。その瞬間、メッセージを受信する!

『今、アニメ何観てるの?』

思わず顔が綻ぶのを感じる。

『鬼滅だよ。メチャハマってんの! サイコー』

『良いよね! 私、義勇さま推し! 一度斬られたいかも!』

『良かった、無惨推しでなくて…って、斬られるんかい!』

なんて事だ。彼女はゲームだけでなく、アニメまで… 妻からは蔑みの目で見られているこの録画リスト。ゆっきーが見たら、何て言ってくれるだろうか…


『そーゆーゆっきーは、何してんの?』

『リビングでゴロゴロしてるーヒッキーがランチ誘ってくれないからヒマ過ぎー』

一瞬で赤面してしまう

『ランチなー。これから朝抜いて、昼と夜に食べよーかなー』

『そーしなよ! そしたら一緒にランチ行けるじゃん!』

『じゃあ早速明日から朝食止めよっと。』

『じゃあ早速明日ランチしようよ!』

心臓が激しく震える

『いーけど。安くて美味しい所知ってる?』

『任せて! 探しとくよん。ふふふ、私ら変だわー。メールだとこんなに色々語れるのにー』

『ホント、それな! 明日のランチ中もスマホ離せないかも ww』

『それシャレにならないって… やば、何とかしないと… 所で夕食の買い物は済んだ?』

『それがー今夜は女房と外食だってさ。行きたくねー』

『えー、何でー、いーじゃん。美味しいもの食べて来なよー 私は後でスーパー逝って来るわーー』

『はーい、成仏してねー チーン ww』


勢いで明日のランチの約束をしてしまったのだが。僕は妻以外の女性とランチなんて、嘗て経験が無い。

既に面倒臭い気持ちがあるのだが、相手がゆっきーである。体と頭は拒否っているのだが、心のウキウキ感が否めない。何となく明日が楽しみになってきている感もある。

僕らのランチ。きっとまともな会話はほぼ無いだろう。二人でニヤニヤしながら、ゲームのメッセージ機能を駆使して楽しくランチを過ごすー想像するだけで、胸の鼓動が鳴り止まない。

もっとゲームの話がしたい。鬼滅について語り合いたい。他にどんなゲームやアニメが好きなのか知りたい。もっとあなたのことが知りたい…


スマホが鳴ったのに気付くと、もう五時前である。しまった、準備しなくty…

『これから会議入っちゃった。遅くなりそう。今夜はキャンセル。』

僕は今日イチのガッツポーズを決める。神様っているんだな。


冷蔵庫を開け、あるもので何を作るか考えている時、再度スマホが鳴る。会議は中止になったから時間通り集合よ、なんて勘弁してくれよ、そう心底願いながらスマホを開く。

『ふっふっふ、今夜の夕飯! ジャジャーン… って、写真添付出来ねえ 涙』

それはそうだ。ゲームのメッセージ機能はそこまで親切ではない。僕はゆっきーの作った夕飯がどうしても見たくなる。となるとー

『ねえラインのID教えてよ! こっちは「MASA」な』

数分後、僕は友達承認をタップする。

送られた写真には、僕の大好物のペペロンチーニ、新鮮野菜のサラダ、オニオンスープが美味しそうに写っている。

『いい匂い! ホント美味しそうじゃないですか!』

『炭次郎かよ匂うんかい ww てか、そっちそろそろ奥さんとディナーじゃね?』

『それがまさかのドタキャン喰らいまして、HPゼロですわー。』

既読が付き、その十分後。

『あれま。それはそれは。余分に作ったからウチに食べに来る?』

思わずスマホを床に落っことした。


クローゼットの前でコンクリート化する。全裸で、呆然と突っ立っている。何を着ていけば… 鏡を見ると、悩みの巨人がちょっと猫背で写っている。

僕は女性一人の部屋に入ったことがない。ましてや夕食をご馳走になったことなぞ想像すらしたことがない。まずは落ち着け。気が動転し思わず全裸になってしまったが、下着は別に今履いていたので問題なかろう、下着をよいしょっと履く。履いてますからー。ポーズを取ると心が寒くなる。

幸いメニューは概知。ペペロンチーニはオリーブオイルと唐辛子、ニンニク。トマトソース系ではないので、白い服でも問題なし。と言うことで、アメリカ在住時代に買った(買ってもらった)ブルックスのボタンダウンシャツにしよう。

ズボン。同様の理由につき、普通にチノパンでいいかな。合わせてみると、デザイナーとかの自由業っよ、ぽくって、まあ良い。

ソックス。一人女性宅に履いていけるソックスとは? その解を知らぬ僕は、悩みに悩む。誰かに相談したい。誰もいない。さあどうする? シャツが白だから、白。そう決心する。

ああ、しまった! 今朝から色々精神状態が変化し、身体中汗臭いではないか! 僕は慌てて全裸になり、風呂場に駆け込みシャワーを浴びる。

シャワーから出ると、全力で歯を磨く。大人用と、念の為澪の使ういちご味歯磨き粉も使用する。髪をドライヤーで乾かし、あああ、順序が滅茶苦茶じゃないか! 歯ブラシを咥えながらドライヤーをあてがう鏡の中の自分に苛立ってしまう。


部屋に戻り、脱ぎ散らかした服をソックスから順番に履いていく。シャツの第二ボタンを締めた時に時計をみると、一時間が経過していた。

慌ててスマホをチェックすると、

『やっぱ、材料がちょいと足りぬので、買い物に出てます! 家を出たらLINE me!』

少しホッとする。

よし! 進撃だあ! と玄関に向かう途中で電話が鳴る。へ? 直電? うわ…

画面を見ると、ゆっきーではなく、やえざくら幼稚園の美代先生から… まさか、澪が優馬くんにまた暴行を?

「はい。真田です。」

緊張しながら呟く。

「やえざくら幼稚園の田中です。今晩は」

僕は唾をゴクリと飲み込んで、

「こ、こんばんみゃあ」

「…えっと、今お電話よろしいですか?」

そう言えば。妻以外の女性と携帯電話で話すのは、保険のオペレーター嬢と以来かも知れない。

「はい、だいじょうび、です」

「…澪ちゃんなんですが、」

脇に変な汗が垂れるのを感じる。スマホを持つ手が発汗する。

「食事で何かアレルギーありました? 健康チェックシートに何も書いてらっしゃらなかったので、どうなのかな、と思いまして。」

はああー。大きく息を吐き出す。良かった、何かしでかした訳ではなさそうだ。すっかり緊張はなくなり、

「ええ。そこに書いた通り、澪にはアレルギーも好き嫌いもありません。何でもよく食べると思いますよ」

すると、電話口が突如静かになる。?

「…あ、そう、でしゅたか、それなら、良かったです、はい…」

? 美代先生が噛んだ? あんなにハキハキした元気な先生が。珍しい。

それから僕と美代先生の間に快盗天使が通り過ぎる。僕は慣れているが、先生は息遣いが荒く、ちょっと困っているようだ。

申し訳ないので、僕の方から

「ご用件はそれだけですか?」

「あ、えええ、そうですね、そうです。アレルギー無かったなら、良かったです。」

「それでは。さようなら。」

「へ? あ、ええ、さようなら?」

僕は安心してスマホをタップする。


靴を履き玄関を出る。ゆっきーに家を出た旨LINEすると、即既読が付き、

『そ言えば、家の位置、送るわ』

しばらくしてゆっきーのマンションの位置情報が送られてくる。それをタップし、誘導開始をタップする。

それにしても、美代先生の途中からのあの慌てっぷりは何だったのだろう。それも大した用事でもないのに、わざわざ直電してくるなんて。

よっぽど暇でやることがなかったのかな。それとも、澪の身の上を考慮し、丁寧に扱ってくれているのかな。

それにしても。やはり電話で人と話すのは、本当に苦手だ。相手がオペレーターであっても、僕のきょどり方は変わらない。これが対面ならば相手の顔さえ見なければもう少し上手く話ができるのだが。

それでも最近ゆっきーと色々話しているので、以前よりかは少しはマシになったと言えよう。彩と結婚する以前から、もっと言えば大学生以来、僕は女性と話すのが大の苦手だ。いや、女性だけではない、他人と話すのが大学生以来本当に苦手だ。高校生位までは割と普通に話せていた気がするのだが、他人との会話をはっきりと苦痛と自覚し始めたのが、大学三年生の頃からだ。

彩と付き合い始めてからは、他の女性と話すことが恐怖となり、できるだけそのような機会を避けて生きてきた。

なので、生まれてきた子供が娘だったのを何度呪い何度悲しんだことだったか。だが娘は別物だった。澪が喋れるようになると、僕の他人との会話の殆どが澪とのものとなっている。そして、澪とのお喋りが僕の生き甲斐となっている。

澪と話すと心が癒される。力をくれる、勇気を与えてくれる。社会の様々な恐ろしい外敵(主に園ママ)から、僕を守ってくれている。それはさながら僕の周りに張り巡らされた、丈夫で高い壁の如し。僕はその壁の内側で一人安心して暮らしていけるのだ。

そんな安穏とした平和をある日突然打ち壊した、ゆっきー。僕は初め、彼女が巨人なのかと怯えていたかも知れない。僕の平穏な澪との生活を破壊されてしまうかも知れない、そう警戒していたかも知れない。

だがそれは間違いだった。ゆっきーは巨人どころか、遥か海の向こうからやってきた、始祖の人だったのだ! 彼女は僕に言葉を教え、勇気を与え、愛を… あれ?

そんな妄想に浸っていると、スマホが鳴動する。

『先程は失礼しました。澪ちゃんは夕食を残さず食べて、とても良い子でしたよ。』

美代先生だ。僕は澪の様子を思い浮かべ思わずニヤけてしまう。みんなと一緒に楽しそうに食事をし、お布団を敷いて枕投げして。

『それは良かったです。先生もお疲れでしょう。お休みなさい』

そう返事をして、今朝の美代先生を思い浮かべる。

細かったなあ。あんなに私服が似合うとは。それにこんなにも澪に目をかけてくれて。そしてこんな僕をこれほど構ってくれて。

元気良くて優しくて面倒見が良くて。なんと素晴らしい先生なのか。しかも中々可愛いし。園の先生の中でも一番人気だと、たっくんママが言っていたな。

スマホが鳴動する。

『早く、こいやコラ! ちなみに今どこ?』

いかんいかん。変な妄想をしていたら、駅を通り越して全然違う道を行ってしまっていた…



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