とおりゃんせ 第二話「黄色い向日葵」
部屋の窓を締め切っているのにもかかわらず、僕の耳に元気な虫たちの会話が大きく聞こえてくる。
「蝉か。」
その元気な蝉たちの会話で僕の意識は次第に、いつもの朝が来たことを知り、少しの間、その会話を目を閉じて聴いていた。
僕の部屋はエアコンで快適温度に設定してあるため、夏の寝苦しい夜は回避できるが、朝のこの元気な蝉たちによって、外の暑さが想像できる。
そろそろ、目覚まし時計が“仕事”をする時間というときに、僕はいつもの場所に置いてある目覚まし時計を布団に入りながら、ひょいっと持ち上げ、“仕事”のスイッチを切り、ただの時計に変えた。
この目覚まし時計よりも早く起きるかどうかが、僕と目覚まし時計の小さな勝負で、この日も僕は勝利した。
昨日の夏祭りで会ったあの不思議な少女を思い出し、実際の出来事だったのか、それとも夢の中での出来事だったのか知りたいがために、僕は布団から飛び起き、自分の部屋を見渡した。
部屋の壁に掛けてあるカレンダーが目に入ってきたが、起きたばかりで、頭がまだはっきりしていない。
その上、夏休みの”あの”曜日の認識が鈍感になる感覚に、僕は昨日が何日で何曜日だったのかさえ、今すぐに答えることはできなかった。
日にちから曜日を特定するのか、曜日から日にちを特定するのか、ヒントは”昨日が何日で何曜日だったか”が今日を特定する上での近道となるだろう。
昨日が特定できないと、余計にあの少女との過ごした時間が、現実だったのか、夢の中だったのか知りたくなる。
無意識にキョロキョロと部屋を見渡し、僕は何を探していたのか。その答えを、もう少しで床に着きそうな元気の無い“赤い風船”が全てを教えてくれた。
僕は寝ぼけ眼で部屋のドアを開け、部屋を出ようとしたとき、熱風が僕を包みこんだ。
「うっ・・・」
部屋から出ると、冷房の効いている自分の部屋と違い、廊下はムッとする暑さだ。
風通しを良くするため、閉め切られていた廊下の窓を全部開け、外からの風が優しく入ってきた。が、少々暖かい風だった。それに付け足し、蝉の大合唱も入り込んできた。
開けっ放しの部屋の向こうには、今にも床に横たわりそうな“赤い風船”が、部屋に入ってきた風と一緒に踊っている。僕はその“赤い風船”を見つめて呟いた。
・・・暑い・・・
でも、これから外に出るのだから、この暑さに慣れなければと、部屋へ戻り、断腸の思いで冷房のスイッチを切り、部屋の窓という窓を全開にした。そして一斉に蝉の合唱が僕の身体に殴りかかってきた。
・・・もう、どうにでもしてくれ・・・
しかし、昨日の夜は暑かった。僕は極力冷房を使用しないようにしていたが、昨日の夜は別格だった。
汗がじわっと吹き出てくる感じがしたので、少し部屋で立ち止まると、こめかみからポタリと汗が流れてきた。人間、不思議と慣れてくるもので、さっきまでの暑さが、諦めも入り、なんだか暑さに慣れ始めているような気がする・・・。
僕は部屋から出て、階段に向かい、一段一段、木の板で作られた階段を下りていき、台所の冷蔵庫から昨日の夏祭りで買ってきた焼きそばとタコ焼きを取り出し、電子レンジで温めた。
「チ~ン」
電子レンジの扉を開けると、ソースの香りと鰹節や青海苔の香りが僕の鼻に入ってきた。キャベツが多い独特の焼きそば、一つ一つタコが入っているか確認しながら食べるタコ焼き、幸せを感じる。
独りで食べる朝食は、今になっても慣れないけど・・・。
僕は、それら朝ごはんを食べ終え、母さんの一週間分の着替えなどを準備しないといけなかった。
タンスから着替えのパジャマや下着を取り出し、バックに整頓して入れた。
・・・いつ、母さんは帰ってこれるのかな・・・
そして、母さんへ届ける荷物の準備が終わり、後はいつもの“向日葵たち”を連れて行くだけ。
縁側の廊下まで歩み寄り、首を左右に向けても向日葵であふれている父さんと母さんの向日葵の庭がある。
父さんが生きていたときに、口下手だった父さんが、「母の喜ぶ顔を見たい」と、ただそれだけで植えた向日葵たち。母さんが向日葵を好きなことを知っていたのか、母さんが父さんの植えた向日葵が好きだったのか、僕にはわからない。
父さんが居ない今も、向日葵たちは夏の青空を見上げ、大勢で太陽を追いかけていた。
今日も暑くなりそうだ・・・。
夏祭りが終了し、昨日までの賑やかさとは打って変わり、いつもの落ち着きを取り戻した、この道・・・。
僕は大学が夏休みに入り、朝と夕に、いつものこの道を通り、母のお見舞いで病院を訪れる。
僕は家から持って来た二輪の“向日葵たち”を両腕で抱え、肩には母さんの着替えの入ったカバンを肩に掛け、いつもの格好でエレベーターを待った。
エレベーターが降りてくるのを、一階一階確認し、自分が居る一階のところにランプが止まったあと、扉が重たく開いた。他の階には目もくれず、母さんの居る最上階へのボタンを押し、エレベーターが動き出した。
今回の検査入院の回数を思い出そうとしている内に、いつもの目的の階に着いてしまう。
エレベーターの扉が開き、僕を運んできてくれたエレベーターと、僕を待っていた床の堺を確認し、足取り重く、一歩を踏み出した。
母さんは今度、いつ家に帰れるのだろう・・・と、その心配から逃れるため、両腕で抱えている“向日葵たち”が行儀良くしているかを確認し、白く長い廊下の一番奥の部屋へ向かった。
その白く長い廊下には歩き慣れたが、病院特有のこの臭いには慣れそうもなかった。
母さんの部屋だ・・・早く母さんと家に帰りたい・・・。
そんな思いで、僕は病室のドアの前に立った。そして、ドアに手を掛けた瞬間、昨日のあの少女が徐に脳裏に浮かび、昨日の不思議な事を話したい衝動で胸がいっぱいになった。
昨日までは、どうやって母さんを元気付けようかとか前準備をして、そしてその結果、いつも母さんに気を使わせていた。
でも、今日は違う、何故か話したい・・・
僕は優しくドアをノックして、いつもと違う軽いドアを静かに開けた。病室の母さんは、ベッドから身を起こし、いつもの笑顔で僕を待っていた。
窓の棚には、水色の花瓶が置いてあり、その中には昨日の朝に挿した黄色い二輪の向日葵が仲良く飾ってあった。
向日葵が仲良く太陽を追いかけている、その後ろ姿が好きだと母は言う。そして、夜になると、しょぼくれる姿が愛おしく感じるという。
僕は、いつも母さんが見ている窓に近づいて、
「母さん、昨日、夏祭りでね・・・」
と、昨日の不思議な出来事を話し始め、下を向いて眠っている向日葵の代わりに、持ってきた今日の“向日葵たち”と入れ替え、その”向日葵たち“の元気な顔を、母が見えるように、くるりと向け、いつもの椅子に座りながら話し続けた。
「不思議な女の子が居てね、一緒に親を探そうと思ったら、金魚すくいとかやってね。」
僕が今日一緒に帰る向日葵を新聞で優しく包みながら、昨日の出来事を話していくと、母さんはクスクスと笑いながら、
「雅彰、なんだか楽しそうだね。」
ベッドの上の母さんは、本当に嬉しそうだった。そんな母さんを見て、僕は嬉しく、心が暖かくなった。
父さんと母さんと3人で夏祭りへ行ったときの思い出を話そうとしたけど、僕は口にしなかった。
母さんが父さんの話をするときは、嬉しそうに見えるけれど、でも、なんだか寂しそう。だから、僕の方から父さんの話をすることは、大人に近づくにつれ、少なくなってきた。
母さんはそんな僕を察して、
「何年前だったかね、父さんと3人で夏祭り、行ったね。」
と、優しい目で僕に話し始めた。
「そうそう、もうじき、お父さんの命日だね。」
「う、うん、そうだね。」
なるべく父さんの話をしないようにしていたのに、母さんは・・・。
「私の代わりにお墓参りへ行ってくれる?」
「もちろん。」
「お寺の和尚様、元気かしらねぇ。」
時折、話し掛けるように、母さんは視線を“向日葵たち”にも向け、そして話した。
「母さん、早く元気になって、父さんに会いに行こうよ。」
母さんは笑顔で頷いた。
「それと、来年は絶対にお祭りに行こうね。」
僕は、早く母さんの病気が治るように祈りを言葉に込めた。
「そうね。なんだか元気になってきたよ。」
と、母さんはベットの上でガッツポーズをした。しかし、パジャマから出た母さんの腕は、白くて細かった・・・。
「雅彰、お祭りの焼きそば、好きだものねぇ。」
今度は僕が頷いた。
「雅彰、家で焼きそば作る時、いつも”キャベツもっと入れて”というものねぇ。」
こんな些細な会話だけど、僕にとっては大切な時間に思えた。すると母さんはコホッコホッと乾いた咳をしたので、母さんの傍らに置いてある時計を見た。
僕は椅子から立ち上がり、母さんの背中を摩った。そのとき、母さんの背中の小ささに少々驚いた。
「ありがとね、雅彰。」
母さんは笑顔で応えた。僕の前では辛い顔をしない母さんだけど、発作や咳が出た時は辛そうな顔をする。
「じゃあ、そろそろ行くね。」
と、まだ話したい気持ちを抑えて、洗濯物をまとめ、代わりの着替えを病室の棚にしまい、帰る準備をし始めた。
「いつも、ありがと。」
と母さんがいつもの優しい顔で、優しい声で言うが、僕は、未だその言葉には、恥ずかしさを感じる。
「じゃあ。」
と、照れがばれないように、「一緒に帰る向日葵たち」を起こさないようにそっと抱え、母さんに微笑みかけて病室のドアの方へと歩き始めた。
そして、僕は振り返り、最後に、こちらを向いている仲の良い“向日葵たち”と母に手を振って、母さんの病室をあとにした。
来た時と同じ、白く長い廊下を歩きながら、今日の母さんの、あの元気な笑顔は、昨日の少女のお陰かなと思い、
「ありがと。」
と、心の中で呟いた。
両手で抱えた「一緒に帰る向日葵たち」は、安心して仲良く眠っているようだった。
まだ夏の暑さが残る夏祭りの最終日だった。
いつもは車でごったがえしている車道が、夏祭りのため、歩行者天国へと姿を変えている。
僕は日課である母さんのお見舞いの帰りで、病院の近くにあるこの道をいつも通っていたが、この変貌には毎年驚かされる。これだけの人はいつも、どこに隠れているのだろう・・・。
あと数時間で太陽は暑さだけを残し、今日の仕事を終えようとしていた。
僕は太陽の嫌がらせから逃れるため、日陰を求め、露店の屋根へと走った。
こんな状況は雨が降っているときと同じだと、屋根の影に入って、フッとため息を付いた後、心の中で思った。
影のお陰で暑さから一時的に逃れ、一段落している僕は、まだ太陽の下で動きを止めない人の流れを、ぼぉ~と眺めていた。
露店の前で子供が母親にねだる風景は、僕が小さくて、まだ母さんが元気だった頃と、なんら変わりはなかった。
変わった事と言えば、僕の背丈が大人になったくらいと、元気だった母が突然倒れ、それ以来、入退院を繰り返し、今は、検査で入院している事くらいであった。
病室の母さんはいつも僕が見舞いに行くと、病人とは思えない元気な顔で僕を迎えてくれる。そして、いつも僕の事を心配し、励ましてくれて、どちらが病人かわからないときも多々ある・・・。
あのころは元気だったのに・・・。
いけない、いけない、今の僕の顔を母さんが見たら・・・。僕は、その思いを断ち切るように人の流れへ意識を戻した。
動いている事が当たり前の人ごみの中、僕の視界に一人立ち止まっている赤い風船と少女が入り込んできた。
風船は大人の頭くらいの位置でフワフワ踊っていた。
その少女は幼稚園生か小学生くらいの背丈で、右手には風船の紐を握り、顔は風船より小さかった。僕はその少女を見て気付いたが、そうか、周りの女性たちは浴衣に身を包んでいたんだ。
「あの子、迷子かなぁ。」
その少女へ向かう人の流れは無く、いつまでも風船は同じところでフワフワと踊っていた。僕は影の中の涼しさに慣れ、自分以外に興味を持ち始めた事に気付き、その少女の動向を眺めていた。
動という人の流れの中で静を守っていた僕と少女と赤い風船。
数分、そんな状況が続き、いつまで続くかと思った瞬間、少女の姿が人ごみに飲まれ見えなくなり、さっきまで同じところでフワフワと踊っていた風船が自由な大空へと逃げて行くように昇って行った。
「あっ・・・」
僕はその風船が逃げて行くのを目で追いかけた。
ハッと我に返り、風船が解き放たれた元の方へと視線を戻したそのとき、その少女と目が合った。
別に悪い事をしている訳ではないのに、僕はその瞬間、こちらに向けられているその少女の視線に、なぜか照れ臭さを感じ、その視線が僕の方へ向けられているのか確認するため、僕は僕以外の視線の先を探した。が、やはり少女の視線の先が僕である事を確信した。
僕は今居る明らかに、“あちら”よりは涼しい影の中に居ればいいのに、その少女へと引き込まれ、影から光への境界線をまたぎ、歩み寄っていた。
その少女を眼下に見下ろせるくらいまで近付いたとき、僕は左ひざを太陽の余熱を受け継いだアスファルトへと足を突き、同じ目線となった少女を目の前へと移した。少女の瞳が僕から離れない。
「どうしたの?迷子?」
僕はごく自然に声を掛けたが、その瞳がそう話し掛けるように仕向けたような気がした。
少女は先ほど自分から離れて行った風船へと視線を向け、僕もその視線を追いかけるよう、自由になった風船へと向けた。
その風船は結構小さくなったが、まだ青空に完全には飲み込まれてはいなかった。
「行っちゃったね。」
と、僕は風船を見送り、存在を見届けながら言った。少女へと向き直ったとき、少女の吸い込まれるような透き通った瞳に僕が写っていた。それは、この暑ささえも忘れさせてくれる。
「お母さんは?」
と、僕はなぜか恥ずかしくなり、僕を見ているその視線を振り解くよう辺りを見回し、助けを求めるように、この少女へと向かってくる“動き”を探した。
しかし、一向にこちらへ向かってくる人の“動き”は無い。
「ここにいたら日射病になっちゃうよ。」
と、僕はさっきまで居た影へ指を指した。
「あそこなら涼しいよ。」
と言い終わる前に、少女は白く小さな手を僕に差し出し、それに答えるように僕もその手を握り、指さした方向へ、少女の歩きに合わせて二人でチョコチョコと歩き出した。
あともう少しでさっきまで居た影に足を踏み入れそうになったとき、不意を突くように少女は向きを変え、僕の手を引っ張りながらある方向へ掛け寄った。
「お母さんでも見つけたのかな?」
ちょっとホッとしたような、寂しいような・・・。
しかし、少女は立ち止まり、その瞬間、何かを覗き込むようにしゃがんだ。明らかに母親が居たからというような感じではなかった。
僕は少女の、その小さな背中に誘われるよう、近づく。
そこにはいくつかの小さく丸まった“背中達”が、何かに一生懸命だから、話し掛けないでと言っているようだった。
僕は、その中に少女を見つけ、その少女が覗き込む先を小さな背中越しから覗き込んだ。
「金魚・・・」
生簀の水面には子供たちの元気な手が飛び交っていた。子供たちのはしゃぐ声とは反面、金魚たちが逃げ周り、悲鳴が聞こえてくるような気がした・・・。
・・・大人になってしまった・・・。
僕も小さいころ金魚をすくう事が楽しく、でも、すくえなく、はしゃいではしゃいで、そして疲れて眠り、父さんの背中で寝て帰ったものだ。
父さんのあの大きな背中は僕の指定席だった。そして、家に着き、起きたときには、すくった覚えが無い金魚が金魚鉢の中にいたものだった。
父さんの思い出は少なく、僕が小さいときに事故で他界し、今は写真を見なければ顔を思い出せないくらいだ。でも、あの大きい背中は覚えている。力強く、でもなぜか安心する、あの大きな背中・・・。
逃げる金魚を目で追いかけ、思い出に浸っていると、僕に何かを訴えている瞳があった。
「あっ、金魚すくいね?おじさん、いくら?」
と、アロハシャツを着た目の前のお店のおじさんにお金を渡した。周りから見れば親戚の子供に振り回されているお兄さんっていう感じだろう。
僕はお金と交換に「すくい棒」と「お皿」を受け取り、昔と変わらない懐かしさに少々嬉しくなり、金魚すくいに必要な二つの神器を少女に渡した。
少女は笑顔で答え、金魚を「救う」という使命感(?)で挑んだ。少女のその小さな背中が動くのを見て、愛しく思え、この光景をしばらく一人占めしたかった。
突然、少女がこちらを向き、少し視線をずらすと、金魚のすくい棒のコーンが取れていた。
「あら・・・。」
僕は心の中から何か燃える闘志が沸いて来るのを感じた。
「おじさん、もう一回。」
と、いつの間にか用意していたお金とその二つの神器を交換した。
そのすくい棒が「浅刺し」か「深刺し」か確認し、何かの確信を得た僕は、 その神器を渡した「おじさん」にニヤリと返した。
少女を傍らに置き、隣の男の子にちょっと場所を空けてもらい、ついでにこの男の子にも講義してあげようかというような勢いだった。
僕はTシャツの袖を捲り、自信を証明したくて、少女に尋ねた。
「どの金魚がいい?」
泳ぎまわる金魚から視線を離さないことが少女にもわかったのか、僕の視界に訴えかけるように小さな腕を伸ばし、小さな指が入ってきた。
「あれだね?」
僕は少女が指を指した金魚を見失わないように、そして静かにお皿とすくい棒を近づけて行った。傍らにいる少女と隣の男の子の期待を一心に集め、その期待感が気持ちよかった。
少女と隣の男の子がゴクッと息を飲んだのが聞こえるようだった。
「裕也、ここにいたのね。」
と、この緊迫した糸を断ち切る声がした。僕は、固まり、視界から金魚を見失った・・・。
「お姉ちゃん。」
隣にいた男の子は自分を呼ぶ声の方へ向き、僕と少女も、その男の子の声を合図に「お姉ちゃん」と呼ばれる方向へ向いた。
隣の男の子に「お姉ちゃん」と呼ばれたのは、同じ大学で同じサークルの恭子さんだった。そして、僕が恋している人だった・・・。まだ、まともに話したことがなく、完全な一方通行の恋、一目惚れだった。
「あれ?雅彰くん・・・?」
浴衣にみを包んだ恭子さんが僕の名前を呼んでくれた事は嬉しいが、小さな背中が並ぶ、その中のちょっと大きな背中が、今の僕の姿だった。
恭子さんの浴衣姿を目に焼き付けたかったけど、僕はこの姿を見られたくなかったので、一度、金魚がいる生簀に顔を向けたが、観念して恭子さんの方へ向き直り、会釈をした。
傍らにいた少女が、この二人のやりとりを見て、僕の恭子さんへの思いを見透かしたのか、僕にぎゅっとしがみついた。少女は恭子さんの方を見て、そのあと僕を見た。
「大丈夫、大丈夫、お兄さんをとらないよ。」
と恭子さんは少女の気持ちがわかったのか、そう言ってなだめた。
・・・ちょっと待って、お兄さん!?・・・・
その言葉で、思い出した、この少女は迷子だったんだっけ・・・。
事情を説明しようかと思い、顔を恭子さんに向けながら立ち上がろうとしたとき、Tシャツの袖を何かに引っ張られ、一度立ち上がろうとした僕の体が、元の小さな背中たちの元に戻された。せっかくの人の恋路を邪魔した張本人は確信犯の小悪魔に見えた。
「ごめんね、雅彰くん。裕也連れて帰らないといけなくって。」
恭子さんは小さな背中の群れに隠れ込んだ「裕也」と呼ばれる隣の男の子の両肩に手を乗せた。その男の子は観念したのか立ち上がりはしたが、視線はまだ、生簀の中の金魚から離れようとしない。
「ちょっと待ってね。」
僕は生簀を見渡し、一番都合の良さそうな金魚をササッとすくい上げた。次のために・・・まだ、小悪魔の約束を果たしていないから。おじさんに、すくった金魚の入った小皿を渡し、生簀の水が入った紐付きのビニールの袋の中に金魚を入れてもらった。そして、僕はその袋を裕也くんに手渡した。
「あ、ありがとう雅彰くん。」
と、恭子さんは言いながら、男の子と同じ視線になるため、かがもうとしたが、着慣れぬ浴衣が邪魔して、ぎこちなかったが、それがやけに色っぽかった。
「裕也君、お兄さんに“ありがとう”は?」
恭子さんが男の子の頭に手を乗せ、男の子の口から感謝の言葉を誘導しようとしていた。
「ありがと。」
男の子は恥ずかしそうに口に出し、恭子さんが笑顔で男の子の頭をなでた。僕は男の子の気持ちが、よくわかるような気がした。本当はまだ居たいよと言いたそうな口だった。
恭子さんは浴衣を気にしながら立ち上がり、会釈をして、男の子の背中を押すように人の流れへ向かった。そして、僕と小悪魔の相対する気持ちで、恭子さんと男の子の背中を見送った。
少女は、いつまでも人の流れに消えた恭子さんを見送っている僕の姿に、少女は僕の袖をツンツンと引っ張り、先ほどの金魚を指さした。
一度、浸かった「すくい棒」のコーンは、あと一回水に浸けたら、ただの棒になってしまうのはあきらかだった。少女は催促し、金魚へ指さす勢いは止まらなかった。ダメ元で僕はすくい棒を水面近くまで近づけた。
と、そのとき、金魚すくい屋のおじさんが、
「青年、最初から諦めていちゃダメだ。」
と、突然、太い声を出し、僕の気持ちを見透かしているようだった。僕は、すくい棒を水面から離し、金魚から一度目を離し、おじさんの顔を見て、うなずいた。僕とおじさんのやりとりを興味深そうに見ていた少女は、もう催促の手を引っ込め、僕に全部を任せた。
「よしっ。」
僕は単純に気持ちを切り替え、もう一度、水が滴り落ちるすくい棒を水面に近づけた。狙っている金魚が僕の前を3、4回通り過ぎ、金魚の呼吸と泳ぐリズムが手にとれるように感じた。
5回目にその金魚が僕の前を通り過ぎるとき、最後の一刀を投じた。タイミングは最高。すくい棒のコーンに金魚が掛かり、出番を待っていた小皿を近づけた。すべてはうまく行ったかと思ったが、コーンが悲鳴をあげ、もろくも水面に上がるときに外れ、僕たちの願いは砕け散った。
「あっ!」
僕と少女は同時に声をあげ、落胆した僕らをよそに、金魚はその場から逃げるよう、金魚の群れに紛れた。
そして、僕と少女は顔を見合わせ、肩を落とした。戦いは終わり、まわりの様子を見ると、さっきまでいた「小さな背中」の主たちは、どこかに消え、僕と少女とおじさんと金魚達しかその場にいなかった。
僕はもう一回やろうとお財布をジーパンのポケットから出そうとしたとき、少女は笑顔でそれを制止した。
「青年の健闘をたたえて」
と、おじさんがの中を覗き込み、一番活きのいい金魚を1、2度失敗し、やっとコップですくった。コップの中を覗くと金魚が二匹入っていた。
「まあいいや、これ、持って行きな。こんな活きのいいヤツはすくえねぇからな。」
と、コップの中に入っている二匹の金魚と水を紐付きビニールへ移した。
「内緒な。」
と、秘密を共有するかのように、僕と少女の目に小声で同意を求めた。僕と少女はうなずき、小声で感謝を告げた。
僕はビニールに入った金魚達を目の前に近づかせ、少女の目の前にもそれを近づけた。僕と少女は顔を見合わせ、互いに笑顔で嬉しさを表現した。
金魚すくい屋から離れるときに一度振り向き、まだこちらを向いて笑顔のおじさんに、僕は会釈し、少女は金魚を持っている方で手を振った。そして、気付いていたら、少女は僕の手を握っていた。
夏の太陽は時間が経つのを忘れさせてしまう。まだ明るいが、時間は夕方から夜の区別し難い時間になっていた。
僕は足早に、しかし、少女の歩幅を気にしながら、迷子のテントへと向かった。その途中、また僕の腕を引っ張る少女が居た。少女の見ている方向を見ると、青や緑や黄色の風船がフワフワ浮いていた。
「風船か・・・。」
しかし、赤い風船が見当たらなかった。そう言えば、風船は飛んで行ってしまったんだっけ。少女と初めて会ったときの赤い風船と同じ色を探したが、見当たらなかった。
「ちょっと、待ってね。今、風船屋のおじさんに赤い風船を作ってもらうから。」
僕は、少女の前にかがんで、そう言い、少女に会ったときの印象である「赤い風船」を少女に持たせたかった。僕は立ち上がり、風船屋のおじさんに「赤い風船」を作ってほしいと伝え、おじさんがガスボンベに赤い風船の「元」を取り付けた。
そのあと、勢いよくシューッと音がして、赤い風船の形が現れた。
「あいよ。」
風船屋のおじさんが僕に、その出来立ての赤い風船を手渡した。僕はお金を払い、少女の方へ向き直り、しゃがんだが、居るはずの少女の姿がどこにも見当たらなかった。
「あれ?」
僕はその場で辺りを見渡し、少女が興味持ちそうな所を行きかけたりもしたが、少女と最後に居た場所から離れることができなかった。赤い風船を握りしめた僕は、まるで親を見失った、迷子の子供のようだった。