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私たちの魂は徒花に非ず  作者: hiyori
プロローグ
5/6

05 桃と椎花(上)

 出てすぐの正面はすべてがガラス張りになっていて、見ると窓外はすでに真っ暗闇に包まれていた。そして左右見渡す限り続く廊下には、二人を除いて他におらず、森閑とした静けさがただよっていた。


 二人はこつこつと乾いた靴音をそれぞれ固有のリズムで響かせながら、その長い廊下を北端のエレベータホールへ向けて歩いて行った。

 そう言えば、桃が昼に来たときは、試験会場を示す誘導案内の紙が教室側の壁という壁に貼られていたが、今は一枚残らずはがされていた。何室続いているのかさえ解らない無数の小教室も、今は一部屋として電気が灯されている気配がなかった。他ノ人ノ面接試験ハトックノ昔ニ終ワッテイマスヨ、エエ、何モ驚クホドノコトデモナイデショウ、ナゼナラ今日ノ試験時間ハオオムネ三十分ヲ予定シテイルト、アナタ宛ニ送ッタ募集要項ニハソウ書カレテイタハズナノデスカラ、ソレナノニ、アナタハ五時間以上モノ延長ヲシタ、コレヲ異常ナコトデハナイカノヨウニ引キ受ケヨウト、今必死ニココロミテイルノハ、イッタイドウシテナンデショウネ、と、そう言われているような気がした桃は、不快な動揺につらぬかれて肩をふるわせた。その振動が、桃の両手であてがわれた女性の腕へと伝播して、彼女をただちに振り向かせた。


「どうかしましたか?」


「あっいえっ、何でもないんです。…すみません」

歩きながら互いを見かわす。二人はいったん言い終わると、それ以上口を開こうとしない。不意の沈黙。こつこつこつこつ…。


 スーツを着た女性と、制服姿の桃は、()()試験委員と受験生という関係ゆえ、特段話すべきことがらもない。けれども、桃は、こちらに首を傾げて微笑む女性に、親しみと興味を抱きつつある。そこで、そのまま十歩ほど歩いたところで、先刻の女性の発言にある引っ掛かりを感じていた桃が、急に思い出したように、


「お姉さんは神津大学の学生さんなんですか?」

と問いかけた。神津大学とは、今二人がいる大学のことである。すると、


「お姉さん⁉」

と女性が驚きながらもどこか喜々とした面持ちで小さく叫んだ。


「あ、あのすみません! なれなれしく呼んじゃいましたか?」


少し怯えた表情を浮かべて桃が言う。


「ううんううん、全然そういうことじゃないの。ただ「お姉さん」だなんて、こんなに可愛い中学生の子から呼ばれたの、はじめてだったから、何だか変に驚いちゃって」

と女性は桃のつややかな黒瞳を見やりながら軽く弁解して、


「そう、私は神津大学三年、砺波椎花(となみしいか)。専攻は主に遺伝子覚醒学で、ここでは生理学研究室に所属しています」

と至極簡単な自己紹介をした。


「椎花……さん。あっ私は―」


「桜田桃さん」


「うえっ⁉」

自分が言うより先に名前を呼ばれて桃は驚く。


「どうして私の名前を―」


「知っているのかって? ふふっ、名簿であなたの名前を見たんです。血中覚醒タンパク質濃度許容限界値にかかわる事前検査リスト。入杜試験の出願書類として提出したのがあるでしょう? たとえ正規ではないにしても、試験委員であるからには、担当日の生徒分はしっかりと目を通さないといけませんからね。…え、全員分覚えるのかって? ううん、そんなことはさすがにできません。ざっと目を通すだけです。そのなかで何人か特徴的な受験生を覚えているにすぎません。…柳田さんはそのなかでもひときわ目立っていましたから……、ね? あっ大丈夫?」


 と椎花は、不意にふらついた桃を支えようと、とっさに彼女の肩に手をまわす。二人は自然と抱きよせるような格好となった。


「は、はい、すみません。ありがとうございます」

と桃は椎花を見あげ礼を言う。


「やっぱり脚、痛む? しばらく休んでからにする?」


「いいえ、大丈夫です。さっきよりはだいぶ楽になりました」


「そう。それならよかったです」


「あ、あのう椎花さん」


「ん、どうしたの、柳田さん?」


「えっと、椎花さんは、どうして、私にこんなに親切にしていただけるんですか?」

と思い切ったように言うと、自分の自由な両手首を見ながら、


「手錠だって、本当は杜則違反ですよね。試験委員であるにしても、私にここまでしていただける義務はないと思うのですが?」


椎花は桃の肩から手を放して、しばらく考え込むように天井を仰ぐと、


「うーん、もちろん、試験委員の一人として、残った最後の受験生を出口まで安全に誘導するって仕事をしているに他ならないんですけれど、それじゃあ答えになっていないですよね。正直なことを言うとね、こんなに親切に、って柳田さんが言うほどのこともしていないつもりなんですよ。逆なんです。他の係の人たちが酷薄すぎるんですよ。まだ年端のいかない受験生に対して、対応があまりにも冷たいんです。思い返してみてください。今日の倫理指数テストで、いったい柳田さんに微笑みかけた人は何人いましたか?」


「それは…」

と桃は言葉を詰まらせる。《確かに、椎花さん以外誰もいなかった…》


「ね? それだけでも、私以外の試験委員がいかに冷たく不愛想であったか、骨身にしみて解るでしょう? おかしいのは彼女たちの方なんです。少なくとも、柳田さんが、こんな筋違いな質問を私にしてしまう程度にはね。それと、手錠に関しても、こんなに異例の長時間面接でぐったりしているのに、すぐにつけるというのはまた酷な話でしょう。とてもじゃないけれど、やりすぎですよ。…あ、もし、柳田さんが杜則違反のことをまだ気にしているのだったら大丈夫ですからね。さっきも言いましたが、大学を出る前にはあらためて両手首に装着してもらいますからね」


 と言って椎花は左腰につけた革製の手錠ケースを桃に指し示した。桃はそれを見て、安堵と緊張が入り混じるような、何とも言えない思いがした。また、椎花が言った「異例」という言葉遣いにも、身の内側が焼けただれるような深甚な引っかかりを覚えた。

 が、今はそれ以上に椎花への関心の方が勝っていた。


「それなら、なぜ椎花さんだけが、―」


「他の試験委員の人とは違うのかって? それは単純です。私が欠員補充されたのは今日の午前中のことで、他の試験委員のように数日間にわたる入念な()()()()を受けることがなかったからです」

と言い、椎花は桃を静かに見つめた。


 その彼女の眼差しは、どこか鋭く、たちどころに相手を射すくめるような、ある種のすごみがこもっていた。桃ははっとして椎花を見つめ返したが、そのときには、すでにその色は失なわれていた。その急激な変容は、桃をひるませただけでなく、二人の間にピリっとした緊張の気配をももたらした。

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